君は煙のように消えない

七星恋

文字の大きさ
上 下
18 / 24
2章

7

しおりを挟む
「止め方を知らん、ねえ。」
 気がつくとまた山川先生のオフィスに来ていた。今回は特に用事があった訳ではない。なんとなく暇なので顔を出してみた。遊びに来ましたと言うと先生は「こんなところに遊びに来るな。夢の国行け」と悪態を吐きながら、にやついていた。
「なかなか良いことを言うじゃないか。」
今朝の廉との話を一通り聴いた先生はコーヒーを飲みながら感心している。
「確かにええんちゃうか、紗綾。可愛らしい顔してるし、色気もあるがな。胸はないけど。」
「仮にもそれが教授の言葉ですか?」
「山川先生やなくて、山川さん一個人の意見や。」
何を得意気になっているのかさっぱりだが、この人のモラルをドブに捨ててきたような物言いは嫌いじゃない。
「んで、肝心なお前の意見はどうやねん。」
 そう聞かれると返答に困った。確かに紗綾は魅力的な女性だと思う。綺麗で、優しくて、頭が良い。状況に応じた身の振り方を心得ている。
 ただ、やはり元カノの存在が大きすぎる。一年連れ添い、本気で将来を考えた彼女の影は簡単には消えない。紗綾の言動が彼女と被る。紗綾との違いが、より彼女を色濃くする。彼女の影は僕だけでなく、紗綾や他の女性にも付いている。
 迷いに迷った僕は辛うじて「素敵な女性だとは思います。」と答えた。抽象的やなあと先生は笑った。
 まあでもな、と先生が口を開いた。
「実際止め時ってのは難しいもんよ。」
「先生でもですか?」
「おうよ。」
 熱いコーヒーをズズっとすする。二周ほど首を回し脱力した先生がすっと僕の目を見つめる。 
「例えば俺ももう今年で五十五歳や。本来ならあと十年で定年退職。実際のところその辺のサラリーマンよりようけ金もろてるから、早めに退職しても問題はないよ。」
でもな、と先生が続ける。
「やっぱり人間欲が出る。まだ金がほしい。ここまで努力して得たポストを手放したくない。特に日本みたいな年功序列の世界じゃ、闘う牙をなくしてもキャリアという鬣だけでライオン達は生きていける。」
年功序列というある種実力主義とは正反対にあるような社会を弱肉強食である野生の世界に例えるアイロニーがなんとも山川先生らしい。
「かくゆう自分もなんだかんだで手放したくない事が多い。将来への不安とかそんなんではなく、現状への窮乏と言うべきか。もっと良い今が欲しいってゆう気持ちがおっさんになってもやっぱりあるねん。こうゆう現状があるから日本は若手が育ちにくい。ようわかってるけど手前の気持ちに折り合いつけるのは何歳になっても難しいもんや。」
そう言った先生の目にはどこか哀愁が漂っていた。現代社会への憂いと、その社会悪である自分を許したいという気持ちが同居した瞳はやっぱり僕の深淵を覗くように、じっとこちらを見ている。
「だからなあ、別にお前も無理することはない。確かに欲張ってたくさんの物を背負うのは大変や。だから多くの人は大人になる過程で不要な物を落としていく。それは愛やったりもするし、自分の幸せやったりもする。でもなあずっと重いもん背負ってる人間には勝手に筋肉もついてくるもんや。やから、そういう生き方もありなんちゃうか。」
「僕、このまんま行くとすごい健脚なりそうですね。」
「お前に太い足は似合わんな。」
そういって先生は声高らかに笑った。
「あとなあ、こういう言葉もある。終らせてる勇気があるなら、続きを選ぶ恐怖にも勝てる。」
「誰の言葉ですか?」
「BUMP OF CHICKEN。」
意外過ぎてコーヒーを吹いた。娘が教えてくれた、と優しく笑う先生の顔は牙を失くしたライオンというより、どこにでもいる優しい父親だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫には愛人がいたみたいです

杉本凪咲
恋愛
彼女は開口一番に言った。 私の夫の愛人だと。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!

ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、 1年以内に妊娠そして出産。 跡継ぎを産んで女主人以上の 役割を果たしていたし、 円満だと思っていた。 夫の本音を聞くまでは。 そして息子が他人に思えた。 いてもいなくてもいい存在?萎んだ花? 分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。 * 作り話です * 完結保証付き * 暇つぶしにどうぞ

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

処理中です...