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1章
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気づけば紗綾は食堂の喧騒の中で泣いていた。その場の雰囲気にはそぐわない、安堵と憂いという二項対立が作り上げた泣き顔はそれらの矛盾ゆえに美しかった。
「最近どうなの?」
最初に話を切り出したのは紗綾だった。あんかけラーメンというよく分からないメニューの麺を箸で持ち上げながら僕に聴いてきた。
「何が?」
あまりにも唐突で文脈の一端も感じさせない質問に僕は他意なく返した。
「元カノの事。」
そういうと彼女は麺を啜った。
「特に何も。会うことも連絡を取ることもないよ。未練はたらたら。」
別に嘘をつく必要性も、そこから生まれる利益もないため、僕は素直な感情を言語化した。
「そんなもんだよね。」
伏し目がちな紗綾の姿が悲哀に満ちていた。山川先生が僕に対して放った「死んでるみたいな顔」だった。蕎麦を一口啜り、よく噛み、ぐっと喉の奥に押し込む。
「なにかあったの?」
彼女の顔からまた彩度が落ちた。
「私、もうよくわからないんだ。あんなに酷い捨てられ方をしたのに。何でだろう。まだ好きなんだ。」
まだ半分くらいしか食べてないのに、紗綾は盆に箸を置いた。水を少し口に含む。
「バカだよね本当。友達皆がさ、言うんだ。あの男はもう止めときなって。私が彼を嫌いになる理由をたくさんくれるんだよ。それは全部真っ当なものでね、誰からみても正しいの。もちろん私から見てもね。でもね、バカだから。不当な理由で彼を好きなままなんだ。」
僕の心が痛んだのはきっと彼女が僕の心を鏡に写したような姿だったからだろう。容姿も性別も想いを寄せる相手も違えど、恋する自分を情けなく思う気持ちは寸分たがわず同じだった。そんな僕に彼女を否定する権利も肯定する義務もないだろうと、また蕎麦を啜った。彼女の箸は相変わらず置かれたままだった。残り数口分だけ残して僕は自然と口を開いていた。
「いいんじゃないかい別に?」
「え?」
意外な言葉の豆鉄砲を食らったと言わんばかりに紗綾はただ感嘆詞を発した。
「だって恋をしているんだもん。仕方ないよ。確かに今の僕らは端から見たら大バカものさ。よく一途な恋愛って美化して描かれるけどそれは成功するから美化できるのであって、状況を間違えたらただただ時間の浪費、無駄遣い、自傷自爆自殺行為さ。でもそれが恋だろう?僕らはいくら自分を情けないと思っても、誰かを恋しい間はどうにもならないんだよ。だからさ、その人を諦めたり、嫌いになる必要なんてないと思うぜ。そもそも恋の反対に嫌いがある訳じゃないと思うけど。きっと僕らが目指す先は恋しいから愛しいに変わることなんだよ。」
「うーん。恋しいと愛しいって違うものなの?」
紗綾の単純な疑問だった。
「違うものだと思うよ。」
「何が違うの?」
「そうだねえ。」
僕は「あくまで個人的な感覚だけどね、」と前置きした上で脆弱な語彙力を集結させ、この概念を説いてみた。
「たぶん今僕たちの住む時代、場所、それらを含めた文脈において使われる恋という言葉は特定の人やその人との思い出、まだ見ぬ未来の関係性にのみ向けられる特別な愛なんだよ。愛ってゆうのはもっとジェネラルで、慣用的で身の回りのあまねくすべての人、その人たちと過ごす時間、関係性が対象となり得る。恋って言うのはきっとその対象と思いの特別性故に僕たちの視界を奪うんだ。逆に愛はその慣用さ故に僕たちの世界を広げるんだ。僕たちの恋は元を辿れば愛だった。だから僕らは嫌いにはなれなくても、彼彼女を、そして過ごした時間を愛することはできる。その時には僕らはもう他の人とも恋ができるし、もし他にめぼしい人がいなければまた元に戻ればいい。きっとそんなもんだよ。」
「なるほどね。」
少し感心したように僕を見つめる紗綾の目に照れた僕は下を向き、残りの蕎麦を啜った。
「でもさ、どうやって恋から愛に変えるの?」
「それはこれから二人で考えよう。」
蕎麦を飲み込んだ僕は解決策など思い付いていないことを誤魔化すように即答した。
「手伝ってくれるの?」
「心許ないかい?」
「いや、優しいなって。」
「優しい訳じゃないよ。僕は君の悩みを受け止めてやれるほど強くない。でも同時に悩む君を見捨てられるほど器用じゃない。ただそれだけさ。」
ここまで言って何だか恥ずかしくなってきた僕は「報酬は女の子の紹介でいいよ」と冗談を挟んだ。
バカじゃないの、と笑って返した彼女の目には涙が溢れていた。きっとさっきまでの僕もこんな感じだったのだろう。ごめんねと言うから、ありがとうだよって言った。ありがとうと言うから、こちらこそと言った。あんかけラーメンはすっかり冷めていたようで、一口啜ると彼女は不味いと笑った。相変わらずその目の奥には憂鬱の感情が潜んでいたが、そこまでも僕と同じなんだろうなと感じた僕は悲しくなった。
「最近どうなの?」
最初に話を切り出したのは紗綾だった。あんかけラーメンというよく分からないメニューの麺を箸で持ち上げながら僕に聴いてきた。
「何が?」
あまりにも唐突で文脈の一端も感じさせない質問に僕は他意なく返した。
「元カノの事。」
そういうと彼女は麺を啜った。
「特に何も。会うことも連絡を取ることもないよ。未練はたらたら。」
別に嘘をつく必要性も、そこから生まれる利益もないため、僕は素直な感情を言語化した。
「そんなもんだよね。」
伏し目がちな紗綾の姿が悲哀に満ちていた。山川先生が僕に対して放った「死んでるみたいな顔」だった。蕎麦を一口啜り、よく噛み、ぐっと喉の奥に押し込む。
「なにかあったの?」
彼女の顔からまた彩度が落ちた。
「私、もうよくわからないんだ。あんなに酷い捨てられ方をしたのに。何でだろう。まだ好きなんだ。」
まだ半分くらいしか食べてないのに、紗綾は盆に箸を置いた。水を少し口に含む。
「バカだよね本当。友達皆がさ、言うんだ。あの男はもう止めときなって。私が彼を嫌いになる理由をたくさんくれるんだよ。それは全部真っ当なものでね、誰からみても正しいの。もちろん私から見てもね。でもね、バカだから。不当な理由で彼を好きなままなんだ。」
僕の心が痛んだのはきっと彼女が僕の心を鏡に写したような姿だったからだろう。容姿も性別も想いを寄せる相手も違えど、恋する自分を情けなく思う気持ちは寸分たがわず同じだった。そんな僕に彼女を否定する権利も肯定する義務もないだろうと、また蕎麦を啜った。彼女の箸は相変わらず置かれたままだった。残り数口分だけ残して僕は自然と口を開いていた。
「いいんじゃないかい別に?」
「え?」
意外な言葉の豆鉄砲を食らったと言わんばかりに紗綾はただ感嘆詞を発した。
「だって恋をしているんだもん。仕方ないよ。確かに今の僕らは端から見たら大バカものさ。よく一途な恋愛って美化して描かれるけどそれは成功するから美化できるのであって、状況を間違えたらただただ時間の浪費、無駄遣い、自傷自爆自殺行為さ。でもそれが恋だろう?僕らはいくら自分を情けないと思っても、誰かを恋しい間はどうにもならないんだよ。だからさ、その人を諦めたり、嫌いになる必要なんてないと思うぜ。そもそも恋の反対に嫌いがある訳じゃないと思うけど。きっと僕らが目指す先は恋しいから愛しいに変わることなんだよ。」
「うーん。恋しいと愛しいって違うものなの?」
紗綾の単純な疑問だった。
「違うものだと思うよ。」
「何が違うの?」
「そうだねえ。」
僕は「あくまで個人的な感覚だけどね、」と前置きした上で脆弱な語彙力を集結させ、この概念を説いてみた。
「たぶん今僕たちの住む時代、場所、それらを含めた文脈において使われる恋という言葉は特定の人やその人との思い出、まだ見ぬ未来の関係性にのみ向けられる特別な愛なんだよ。愛ってゆうのはもっとジェネラルで、慣用的で身の回りのあまねくすべての人、その人たちと過ごす時間、関係性が対象となり得る。恋って言うのはきっとその対象と思いの特別性故に僕たちの視界を奪うんだ。逆に愛はその慣用さ故に僕たちの世界を広げるんだ。僕たちの恋は元を辿れば愛だった。だから僕らは嫌いにはなれなくても、彼彼女を、そして過ごした時間を愛することはできる。その時には僕らはもう他の人とも恋ができるし、もし他にめぼしい人がいなければまた元に戻ればいい。きっとそんなもんだよ。」
「なるほどね。」
少し感心したように僕を見つめる紗綾の目に照れた僕は下を向き、残りの蕎麦を啜った。
「でもさ、どうやって恋から愛に変えるの?」
「それはこれから二人で考えよう。」
蕎麦を飲み込んだ僕は解決策など思い付いていないことを誤魔化すように即答した。
「手伝ってくれるの?」
「心許ないかい?」
「いや、優しいなって。」
「優しい訳じゃないよ。僕は君の悩みを受け止めてやれるほど強くない。でも同時に悩む君を見捨てられるほど器用じゃない。ただそれだけさ。」
ここまで言って何だか恥ずかしくなってきた僕は「報酬は女の子の紹介でいいよ」と冗談を挟んだ。
バカじゃないの、と笑って返した彼女の目には涙が溢れていた。きっとさっきまでの僕もこんな感じだったのだろう。ごめんねと言うから、ありがとうだよって言った。ありがとうと言うから、こちらこそと言った。あんかけラーメンはすっかり冷めていたようで、一口啜ると彼女は不味いと笑った。相変わらずその目の奥には憂鬱の感情が潜んでいたが、そこまでも僕と同じなんだろうなと感じた僕は悲しくなった。
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