3 / 4
水面を跳ねる(第3話)
しおりを挟む
母にも祖母にも注意をされ、翌日もその翌日も授業が終わると、少しだけ祭囃子の練習に顔を出して、すぐに帰宅した。
もう何も言われることはなくなって、平穏な日常に戻っていった。
何度も翔子に会いたいと思ったが、母と祖母の声と、そして何よりあの悲しそうな顔が浮かんで、足が動かなかった。自然と森の入り口には近付かないようにしていた。
学校帰りの空は、雲がいつもより早く流れていた。生暖かい風が吹き抜けて気持ち悪い。
先生が台風の接近に伴い、明日は休校になるかもしれないと話していた。祭囃子の練習も中止になって、特にすることもない僕は、自分の部屋で横になりながら読書をして過ごしていた。
「よかったら食べてください。先生のおかげで今年は栗とか梨とかよく実りまして」
「いつもすいません。ただ、私は樹木医としての仕事をしただけですからお気遣いなく」
外で祖母とサワ先生が話しているようだ。
「この前のお礼でもありますから」
「そうですか、ではいただきます。あれからお孫さんはどうですか?」
「おかげさまですっかり落ち着きました。お祭りの練習だってあるのに、あの子は川上まで行って何をしていたのやら」
「まぁまぁ。あ、雨が降ってきましたね。今夜は台風らしいですので、お互い戸締りに気を付けましょう。それではこれで」
トタンの屋根には、まだ雨の音はしなかった。ぱらぱらと降り始めた程度なのだろう。
本を閉じた。寝返りを打って目を瞑る。あの景色が思い浮かんだ。
川の周りには、丸い石が転がっている。その奥には建物があり、ベランダから誰かが出てきた。細くて薄い身体が、僕を見つめている。その白い顔には笑みはなく、うっすらと涙を浮かべているように見えた。
崩れていく顔を隠すように、横殴りの暴風雨が吹き始めた。川の水かさが増していく。
そうして、一緒に水切りをするために集めておいた石が、勢いよく流れる川に飲み込まれた。水かさはさらに増し、翔子の住む建物にまで水が迫っている。
そこで跳ね起きた。
会いたい。
その一心で駆けだした。
「ちょっと出かけてくる」
「こんな天気なのにどこへ行くの」
制止する祖母の動きは遅く、振り切ってそのまま家を飛び出した。
雨はしっかり降っている。すぐに服が濡れて肌に張り付いた。
森の入り口に差し掛かる。足元が土に変わってぬかるんでいた。走りにくい。
何度も足を取られそうになりながら、走り続けた。
「おーい。どこへ行くんだ」
サワ先生の声が後ろの方から聞こえたが、振り返らずに森へ入った。強い風のせいで聞こえなかったことにしよう。
雨でびしょびしょになった顔をぬぐう。
森の中は、木の枝や葉が雨風を防いでくれるようで、視界は保たれていた。濡れたズボンが重たくて走りにくい。
気付けば季節も進み、落ち葉も増えていた。水分をしっかり含んだ土と相まって、滑りやすい。ついに足を取られて、僕はこけてしまった。身体の左側に土なのか泥なのかよくわからないものがついている。
クヌギの木のところで曲がる。こけた時に左手を打ちつけたのか、左の手首が痛い。
手を気にしていると、今度は木の根に躓いて、顔から地面に倒れ込んだ。額から流れているのは、汗なのか雨なのかよくわからなかった。
そうして体を引きずるようにして、何とかいつもの川にたどり着いた。その奥には、おぼろげながら建物も見えた。無事に残っていて安堵した。
隔てる川は茶色く濁っていた。
水量はいつもの倍以上あり、川幅も広くなっている。
川岸に積んでおいた水切り用の石は、いくつか流されていたが、まだ半分くらいは残っていた。しかし、そのすぐそばまで水が迫っていた。
「よかった」
激しく流れる川の音が怖い。
それでも、川にぎりぎりまで近付いて、平らな石を拾っては山の方に投げ込んだ。
とりあえず川から離しておけば流されることはない。
「どうしてまた来てくれたの?」
いくつか投げていたところで、思わぬ声が聞こえて、僕は頭を上げた。
そこには翔子がいた。その表情は、最後に会った時のような悲しいものではなく、笑顔だった。
激しい風雨にさらされているはずなのに濡れていない。向こう側が見えるくらい透き通って、美しい肌だった。
「水切りを教えるって約束したじゃん」
風も強くなって、ぴゅうぴゅうと音を立てている。翔子も何かを言っているようだが、その音にかき消されてよく聞こえない。
「約束覚えていてくれたんだね」
叩き付けるような雨音がさらに大きくなる。
痩せた口元からかすかに聞こえたのは、その一言だけだった。
重低音が腹に響く。地面もかすかに揺れているようだった。
足先に冷たい感触があった。水位が増えてきたのか、靴の先から水が染み込んでくる。
「早くっ、早く元気になれよ!」
川の向こう岸で翔子は弱々しい足を震わせながら懸命に立っていた。
僕は励ますように叫んだ。
山の上のほうから轟音が響いても、負けないように何度も叫んだ。
(第3話へ続く)
もう何も言われることはなくなって、平穏な日常に戻っていった。
何度も翔子に会いたいと思ったが、母と祖母の声と、そして何よりあの悲しそうな顔が浮かんで、足が動かなかった。自然と森の入り口には近付かないようにしていた。
学校帰りの空は、雲がいつもより早く流れていた。生暖かい風が吹き抜けて気持ち悪い。
先生が台風の接近に伴い、明日は休校になるかもしれないと話していた。祭囃子の練習も中止になって、特にすることもない僕は、自分の部屋で横になりながら読書をして過ごしていた。
「よかったら食べてください。先生のおかげで今年は栗とか梨とかよく実りまして」
「いつもすいません。ただ、私は樹木医としての仕事をしただけですからお気遣いなく」
外で祖母とサワ先生が話しているようだ。
「この前のお礼でもありますから」
「そうですか、ではいただきます。あれからお孫さんはどうですか?」
「おかげさまですっかり落ち着きました。お祭りの練習だってあるのに、あの子は川上まで行って何をしていたのやら」
「まぁまぁ。あ、雨が降ってきましたね。今夜は台風らしいですので、お互い戸締りに気を付けましょう。それではこれで」
トタンの屋根には、まだ雨の音はしなかった。ぱらぱらと降り始めた程度なのだろう。
本を閉じた。寝返りを打って目を瞑る。あの景色が思い浮かんだ。
川の周りには、丸い石が転がっている。その奥には建物があり、ベランダから誰かが出てきた。細くて薄い身体が、僕を見つめている。その白い顔には笑みはなく、うっすらと涙を浮かべているように見えた。
崩れていく顔を隠すように、横殴りの暴風雨が吹き始めた。川の水かさが増していく。
そうして、一緒に水切りをするために集めておいた石が、勢いよく流れる川に飲み込まれた。水かさはさらに増し、翔子の住む建物にまで水が迫っている。
そこで跳ね起きた。
会いたい。
その一心で駆けだした。
「ちょっと出かけてくる」
「こんな天気なのにどこへ行くの」
制止する祖母の動きは遅く、振り切ってそのまま家を飛び出した。
雨はしっかり降っている。すぐに服が濡れて肌に張り付いた。
森の入り口に差し掛かる。足元が土に変わってぬかるんでいた。走りにくい。
何度も足を取られそうになりながら、走り続けた。
「おーい。どこへ行くんだ」
サワ先生の声が後ろの方から聞こえたが、振り返らずに森へ入った。強い風のせいで聞こえなかったことにしよう。
雨でびしょびしょになった顔をぬぐう。
森の中は、木の枝や葉が雨風を防いでくれるようで、視界は保たれていた。濡れたズボンが重たくて走りにくい。
気付けば季節も進み、落ち葉も増えていた。水分をしっかり含んだ土と相まって、滑りやすい。ついに足を取られて、僕はこけてしまった。身体の左側に土なのか泥なのかよくわからないものがついている。
クヌギの木のところで曲がる。こけた時に左手を打ちつけたのか、左の手首が痛い。
手を気にしていると、今度は木の根に躓いて、顔から地面に倒れ込んだ。額から流れているのは、汗なのか雨なのかよくわからなかった。
そうして体を引きずるようにして、何とかいつもの川にたどり着いた。その奥には、おぼろげながら建物も見えた。無事に残っていて安堵した。
隔てる川は茶色く濁っていた。
水量はいつもの倍以上あり、川幅も広くなっている。
川岸に積んでおいた水切り用の石は、いくつか流されていたが、まだ半分くらいは残っていた。しかし、そのすぐそばまで水が迫っていた。
「よかった」
激しく流れる川の音が怖い。
それでも、川にぎりぎりまで近付いて、平らな石を拾っては山の方に投げ込んだ。
とりあえず川から離しておけば流されることはない。
「どうしてまた来てくれたの?」
いくつか投げていたところで、思わぬ声が聞こえて、僕は頭を上げた。
そこには翔子がいた。その表情は、最後に会った時のような悲しいものではなく、笑顔だった。
激しい風雨にさらされているはずなのに濡れていない。向こう側が見えるくらい透き通って、美しい肌だった。
「水切りを教えるって約束したじゃん」
風も強くなって、ぴゅうぴゅうと音を立てている。翔子も何かを言っているようだが、その音にかき消されてよく聞こえない。
「約束覚えていてくれたんだね」
叩き付けるような雨音がさらに大きくなる。
痩せた口元からかすかに聞こえたのは、その一言だけだった。
重低音が腹に響く。地面もかすかに揺れているようだった。
足先に冷たい感触があった。水位が増えてきたのか、靴の先から水が染み込んでくる。
「早くっ、早く元気になれよ!」
川の向こう岸で翔子は弱々しい足を震わせながら懸命に立っていた。
僕は励ますように叫んだ。
山の上のほうから轟音が響いても、負けないように何度も叫んだ。
(第3話へ続く)
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
いつかその球を(3話完結/卒業間近!ライバルに勝つには)
ぬいの
児童書・童話
野球少年たちが、卒業直前のドッジボール大会に全力を尽くす話です。
同じチームの剛速球投手が違うクラスで、ライバルとして立ちはだかります。
果たしてどうやって攻略するか——。
短い作品ですし、専門用語はほぼありません。ぜひお気楽にご一読ください。
箱庭の少女と永遠の夜
藍沢紗夜
児童書・童話
夜だけが、その少女の世界の全てだった。
その少女は、日が沈み空が紺碧に染まっていく頃に目を覚ます。孤独な少女はその箱庭で、草花や星月を愛で暮らしていた。歌い、祈りを捧げながら。しかし夜を愛した少女は、夜には愛されていなかった……。
すべての孤独な夜に贈る、一人の少女と夜のおはなし。
ノベルアップ+、カクヨムでも公開しています。
どろんこたろう
ケンタシノリ
児童書・童話
子どもにめぐまれなかったお父さんとお母さんは、畑のどろをつかってどろ人形を作りました。すると、そのどろ人形がげんきな男の子としてうごき出しました。どろんこたろうと名づけたその男の子は、その小さな体で畑しごとを1人でこなしてくれるので、お父さんとお母さんも大よろこびです。
※幼児から小学校低学年向けに書いた創作昔ばなしです。
※このお話で使われている漢字は、小学2年生までに習う漢字のみを使用しています。
千尋の杜
深水千世
児童書・童話
千尋が祖父の家の近くにある神社で出会ったのは自分と同じ名を持つ少女チヒロだった。
束の間のやりとりで2人は心を通わせたかに見えたが……。
一夏の縁が千尋の心に残したものとは。
鎌倉西小学校ミステリー倶楽部
澤田慎梧
児童書・童話
【「鎌倉猫ヶ丘小ミステリー倶楽部」に改題して、アルファポリスきずな文庫より好評発売中!】
https://kizuna.alphapolis.co.jp/book/11230
【「第1回きずな児童書大賞」にて、「謎解きユニーク探偵賞」を受賞】
市立「鎌倉西小学校」には不思議な部活がある。その名も「ミステリー倶楽部」。なんでも、「学校の怪談」の正体を、鮮やかに解明してくれるのだとか……。
学校の中で怪奇現象を目撃したら、ぜひとも「ミステリー倶楽部」に相談することをオススメする。
案外、つまらない勘違いが原因かもしれないから。
……本物の「お化け」や「妖怪」が出てくる前に、相談しに行こう。
※本作品は小学校高学年以上を想定しています。作中の漢字には、ふりがなが多く振ってあります。
※本作品はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
※本作品は、三人の主人公を描いた連作短編です。誰を主軸にするかで、ジャンルが少し変化します。
※カクヨムさんにも投稿しています(初出:2020年8月1日)
クール天狗の溺愛事情
緋村燐
児童書・童話
サトリの子孫である美紗都は
中学の入学を期にあやかしの里・北妖に戻って来た。
一歳から人間の街で暮らしていたからうまく馴染めるか不安があったけれど……。
でも、素敵な出会いが待っていた。
黒い髪と同じ色の翼をもったカラス天狗。
普段クールだという彼は美紗都だけには甘くて……。
*・゜゚・*:.。..。.:*☆*:.。. .。.:*・゜゚・*
「可愛いな……」
*滝柳 風雅*
守りの力を持つカラス天狗
。.:*☆*:.。
「お前今から俺の第一嫁候補な」
*日宮 煉*
最強の火鬼
。.:*☆*:.。
「風雅の邪魔はしたくないけど、簡単に諦めたくもないなぁ」
*山里 那岐*
神の使いの白狐
\\ドキドキワクワクなあやかし現代ファンタジー!//
野いちご様
ベリーズカフェ様
魔法のiらんど様
エブリスタ様
にも掲載しています。
星座の作り方
月島鏡
児童書・童話
「君、自分で星座作ったりしてみない⁉︎」
それは、星が光る夜のお伽話。
天文学者を目指す少年シエルと、星の女神ライラの物語。
ライラと出会い、願いの意味を、大切なものを知り、シエルが自分の道を歩き出すまでのお話。
自分の願いにだけは、絶対に嘘を吐かないで
クリスマスまでに帰らなきゃ! -トナカイの冒険-
藤井咲
児童書・童話
一年中夏のハロー島でバカンス中のトナカイのルー。
すると、漁師さんが慌てた様子で駆け寄ってきます。
なんとルーの雪島は既にクリスマスが目前だったのです!
10日間で自分の島に戻らなければならないルーは、無事雪島にたどり着けるのでしょうか?
そして、クリスマスに間に合うのでしょうか?
旅の途中で様々な動物たちと出会い、ルーは世界の大きさを知ることになります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる