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水面を跳ねる(第3話)
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母にも祖母にも注意をされ、翌日もその翌日も授業が終わると、少しだけ祭囃子の練習に顔を出して、すぐに帰宅した。
もう何も言われることはなくなって、平穏な日常に戻っていった。
何度も翔子に会いたいと思ったが、母と祖母の声と、そして何よりあの悲しそうな顔が浮かんで、足が動かなかった。自然と森の入り口には近付かないようにしていた。
学校帰りの空は、雲がいつもより早く流れていた。生暖かい風が吹き抜けて気持ち悪い。
先生が台風の接近に伴い、明日は休校になるかもしれないと話していた。祭囃子の練習も中止になって、特にすることもない僕は、自分の部屋で横になりながら読書をして過ごしていた。
「よかったら食べてください。先生のおかげで今年は栗とか梨とかよく実りまして」
「いつもすいません。ただ、私は樹木医としての仕事をしただけですからお気遣いなく」
外で祖母とサワ先生が話しているようだ。
「この前のお礼でもありますから」
「そうですか、ではいただきます。あれからお孫さんはどうですか?」
「おかげさまですっかり落ち着きました。お祭りの練習だってあるのに、あの子は川上まで行って何をしていたのやら」
「まぁまぁ。あ、雨が降ってきましたね。今夜は台風らしいですので、お互い戸締りに気を付けましょう。それではこれで」
トタンの屋根には、まだ雨の音はしなかった。ぱらぱらと降り始めた程度なのだろう。
本を閉じた。寝返りを打って目を瞑る。あの景色が思い浮かんだ。
川の周りには、丸い石が転がっている。その奥には建物があり、ベランダから誰かが出てきた。細くて薄い身体が、僕を見つめている。その白い顔には笑みはなく、うっすらと涙を浮かべているように見えた。
崩れていく顔を隠すように、横殴りの暴風雨が吹き始めた。川の水かさが増していく。
そうして、一緒に水切りをするために集めておいた石が、勢いよく流れる川に飲み込まれた。水かさはさらに増し、翔子の住む建物にまで水が迫っている。
そこで跳ね起きた。
会いたい。
その一心で駆けだした。
「ちょっと出かけてくる」
「こんな天気なのにどこへ行くの」
制止する祖母の動きは遅く、振り切ってそのまま家を飛び出した。
雨はしっかり降っている。すぐに服が濡れて肌に張り付いた。
森の入り口に差し掛かる。足元が土に変わってぬかるんでいた。走りにくい。
何度も足を取られそうになりながら、走り続けた。
「おーい。どこへ行くんだ」
サワ先生の声が後ろの方から聞こえたが、振り返らずに森へ入った。強い風のせいで聞こえなかったことにしよう。
雨でびしょびしょになった顔をぬぐう。
森の中は、木の枝や葉が雨風を防いでくれるようで、視界は保たれていた。濡れたズボンが重たくて走りにくい。
気付けば季節も進み、落ち葉も増えていた。水分をしっかり含んだ土と相まって、滑りやすい。ついに足を取られて、僕はこけてしまった。身体の左側に土なのか泥なのかよくわからないものがついている。
クヌギの木のところで曲がる。こけた時に左手を打ちつけたのか、左の手首が痛い。
手を気にしていると、今度は木の根に躓いて、顔から地面に倒れ込んだ。額から流れているのは、汗なのか雨なのかよくわからなかった。
そうして体を引きずるようにして、何とかいつもの川にたどり着いた。その奥には、おぼろげながら建物も見えた。無事に残っていて安堵した。
隔てる川は茶色く濁っていた。
水量はいつもの倍以上あり、川幅も広くなっている。
川岸に積んでおいた水切り用の石は、いくつか流されていたが、まだ半分くらいは残っていた。しかし、そのすぐそばまで水が迫っていた。
「よかった」
激しく流れる川の音が怖い。
それでも、川にぎりぎりまで近付いて、平らな石を拾っては山の方に投げ込んだ。
とりあえず川から離しておけば流されることはない。
「どうしてまた来てくれたの?」
いくつか投げていたところで、思わぬ声が聞こえて、僕は頭を上げた。
そこには翔子がいた。その表情は、最後に会った時のような悲しいものではなく、笑顔だった。
激しい風雨にさらされているはずなのに濡れていない。向こう側が見えるくらい透き通って、美しい肌だった。
「水切りを教えるって約束したじゃん」
風も強くなって、ぴゅうぴゅうと音を立てている。翔子も何かを言っているようだが、その音にかき消されてよく聞こえない。
「約束覚えていてくれたんだね」
叩き付けるような雨音がさらに大きくなる。
痩せた口元からかすかに聞こえたのは、その一言だけだった。
重低音が腹に響く。地面もかすかに揺れているようだった。
足先に冷たい感触があった。水位が増えてきたのか、靴の先から水が染み込んでくる。
「早くっ、早く元気になれよ!」
川の向こう岸で翔子は弱々しい足を震わせながら懸命に立っていた。
僕は励ますように叫んだ。
山の上のほうから轟音が響いても、負けないように何度も叫んだ。
(第3話へ続く)
もう何も言われることはなくなって、平穏な日常に戻っていった。
何度も翔子に会いたいと思ったが、母と祖母の声と、そして何よりあの悲しそうな顔が浮かんで、足が動かなかった。自然と森の入り口には近付かないようにしていた。
学校帰りの空は、雲がいつもより早く流れていた。生暖かい風が吹き抜けて気持ち悪い。
先生が台風の接近に伴い、明日は休校になるかもしれないと話していた。祭囃子の練習も中止になって、特にすることもない僕は、自分の部屋で横になりながら読書をして過ごしていた。
「よかったら食べてください。先生のおかげで今年は栗とか梨とかよく実りまして」
「いつもすいません。ただ、私は樹木医としての仕事をしただけですからお気遣いなく」
外で祖母とサワ先生が話しているようだ。
「この前のお礼でもありますから」
「そうですか、ではいただきます。あれからお孫さんはどうですか?」
「おかげさまですっかり落ち着きました。お祭りの練習だってあるのに、あの子は川上まで行って何をしていたのやら」
「まぁまぁ。あ、雨が降ってきましたね。今夜は台風らしいですので、お互い戸締りに気を付けましょう。それではこれで」
トタンの屋根には、まだ雨の音はしなかった。ぱらぱらと降り始めた程度なのだろう。
本を閉じた。寝返りを打って目を瞑る。あの景色が思い浮かんだ。
川の周りには、丸い石が転がっている。その奥には建物があり、ベランダから誰かが出てきた。細くて薄い身体が、僕を見つめている。その白い顔には笑みはなく、うっすらと涙を浮かべているように見えた。
崩れていく顔を隠すように、横殴りの暴風雨が吹き始めた。川の水かさが増していく。
そうして、一緒に水切りをするために集めておいた石が、勢いよく流れる川に飲み込まれた。水かさはさらに増し、翔子の住む建物にまで水が迫っている。
そこで跳ね起きた。
会いたい。
その一心で駆けだした。
「ちょっと出かけてくる」
「こんな天気なのにどこへ行くの」
制止する祖母の動きは遅く、振り切ってそのまま家を飛び出した。
雨はしっかり降っている。すぐに服が濡れて肌に張り付いた。
森の入り口に差し掛かる。足元が土に変わってぬかるんでいた。走りにくい。
何度も足を取られそうになりながら、走り続けた。
「おーい。どこへ行くんだ」
サワ先生の声が後ろの方から聞こえたが、振り返らずに森へ入った。強い風のせいで聞こえなかったことにしよう。
雨でびしょびしょになった顔をぬぐう。
森の中は、木の枝や葉が雨風を防いでくれるようで、視界は保たれていた。濡れたズボンが重たくて走りにくい。
気付けば季節も進み、落ち葉も増えていた。水分をしっかり含んだ土と相まって、滑りやすい。ついに足を取られて、僕はこけてしまった。身体の左側に土なのか泥なのかよくわからないものがついている。
クヌギの木のところで曲がる。こけた時に左手を打ちつけたのか、左の手首が痛い。
手を気にしていると、今度は木の根に躓いて、顔から地面に倒れ込んだ。額から流れているのは、汗なのか雨なのかよくわからなかった。
そうして体を引きずるようにして、何とかいつもの川にたどり着いた。その奥には、おぼろげながら建物も見えた。無事に残っていて安堵した。
隔てる川は茶色く濁っていた。
水量はいつもの倍以上あり、川幅も広くなっている。
川岸に積んでおいた水切り用の石は、いくつか流されていたが、まだ半分くらいは残っていた。しかし、そのすぐそばまで水が迫っていた。
「よかった」
激しく流れる川の音が怖い。
それでも、川にぎりぎりまで近付いて、平らな石を拾っては山の方に投げ込んだ。
とりあえず川から離しておけば流されることはない。
「どうしてまた来てくれたの?」
いくつか投げていたところで、思わぬ声が聞こえて、僕は頭を上げた。
そこには翔子がいた。その表情は、最後に会った時のような悲しいものではなく、笑顔だった。
激しい風雨にさらされているはずなのに濡れていない。向こう側が見えるくらい透き通って、美しい肌だった。
「水切りを教えるって約束したじゃん」
風も強くなって、ぴゅうぴゅうと音を立てている。翔子も何かを言っているようだが、その音にかき消されてよく聞こえない。
「約束覚えていてくれたんだね」
叩き付けるような雨音がさらに大きくなる。
痩せた口元からかすかに聞こえたのは、その一言だけだった。
重低音が腹に響く。地面もかすかに揺れているようだった。
足先に冷たい感触があった。水位が増えてきたのか、靴の先から水が染み込んでくる。
「早くっ、早く元気になれよ!」
川の向こう岸で翔子は弱々しい足を震わせながら懸命に立っていた。
僕は励ますように叫んだ。
山の上のほうから轟音が響いても、負けないように何度も叫んだ。
(第3話へ続く)
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