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ゆでだこ(3)

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 定年を目前に控えた職員の多くは、積極的に有給を消化する。そのため、まとめて有給をとる者もいれば、サイクルでとる者もいた。
 鷲見は後者で、出勤した翌日は午後に休暇をとり、その翌日を終日休暇にしていた。

 飲みに行っているのは、午後から休暇を取っている日だろう。ある程度飲み過ぎても、翌日が休暇であれば遅くまで寝ていられる。
 平日であるから、金曜日や土曜日に比べてお客も少なく、指名が被ることも稀なはずだ。
 鷲見は冬場に必ずニット帽を被る。職場には被ってこないが、よく似合っていると嬢たちから褒められたため、必ず着用していた。

 往路だけは路線バスで岐阜まで行く。少しでも費用を削減するためだ。
 帰りは深夜になるためタクシーを使わざるを得ない。深夜は割増料金もかかってしまう。

 鷲見の乗る路線バスは、職場の前のバス停を通過する。
 正午を告げるチャイムが鳴った。「お先に失礼します」という声が重なるように聞こえる。それから、遠ざかっていく革靴の音が続いて響いた。

 終業間近の五時前を迎え、食堂へ入る。よく奢ってもらった自動販売機でコーヒーを買った。窓際に座る。ここからちょうどバス停が見えるからだ。
 五時七分にこのバス停を通過するはずだ。
 どうして鷲見は、僕を誘わなくなったのだろう。特に失礼なことや不義理なことをした覚えもない。
 最初は職場の先輩と後輩の関係であった。確かに仕事は遅く、完成度も低い。しかし、どこか憎めない。
 いつの間にか年齢を超えた友人のように感じていた。
 五時七分を過ぎてもバスは来なかった。夕方は交通量が増える。混雑していて予定よりも遅れているのだろう。
 四分遅れでバスがやってきた。よろよろとした足取りのバスが、路肩に停まる。高齢者をひとり下ろした。
 座席の後方にニット帽を被った男が携帯電話を触っている。見覚えのある容姿。間違いなく鷲見だ。
 乗客を降ろすと、遅れを取り戻すようにバスは走り去っていった。
 今夜、あの店に行ってみようと思った。


 八時前に岐阜駅へ着いた。行き交う人の多くは家路を急いでいる。
 北口を出て、歩道橋を渡った。金華橋通りを歩く。文化センターや金神社を超えると店のすぐそばに出る。
 開店はしているだろうが、まだ少し早い。嬢によっては九時でも出勤していないこともよくある。金神社まで来て、近くのラーメン屋に入って時間を潰した。
 九時近くになって、店を目指して歩いた。ちょうどいい時間になっただろう。
 新しくできたマンションを過ぎて、百貨店の前を通る。
 歩く人はまばらで、スーツの上にベンチコートを羽織った男性がぽつぽつと等間隔に立っているだけだった。
 露骨に声をかけてくるようなことはない。多分、条例か業界を束ねる組合の規則などで取り決めがあるだろう。
 店の前にいるボーイに話しかけた。

「いらっしゃいませ。ご指名の女の子はいますか?」

 ミオトと告げると、無線機で店内に連絡を入れている。指名状況や空き状況を確認していた。

「お待たせいたしました。準備ができましたので、こちらへどうぞ」

 重そうな扉を開け、店内に案内された。照明の少ない通路を抜ける。ボーイの「お客様ご来店です」の声を聞いて、嬢が一斉に携帯電話の操作をやめて立ち上がって、一礼する。
 ヒールを履いているため、皆の背が高く見えた。この瞬間は、どこか気恥ずかしい。嬢の前を通過して、手前のテーブル席へ案内された。

「ケイタくん、久しぶり」

 白いドレスに身を包んだミオトが現れた。かなり短いスカートからは太ももが露わになっている。座るとその魅力的な空間には小さなハンカチが置かれた。

「来てくれてありがとう」

「最近、忙しくてね。会いに来られてよかったよ」

 懸命に視線を逸らしながら、月並みな挨拶を交わした。
 僕は追加料金のいらないビールを頼み、ミオトにはモスコミュールを注文した。嬢のドリンクは別料金になり、その何割かが嬢の手取りになる。

 簡単な乾杯をして、アルコールを流し込んだ。閑散期の平日夜の指名客ということもあって、頬が朱に染まったミオトは上機嫌だった。

「なかなか来てくれなかったから寂しかったよ。その間にちょっと太っちゃった」

「そう? 痩せたかと思ったよ」

「全然。お正月もいっぱい食べちゃったし」

 むしろ細いくらいの腰まわりをさすってみせた。美しい曲線が腰のあたりで一度細くなって、また広がっていく。男は単純なもので、気付けば笑顔になっている。
 目線は彼女の顔を見ながらも、つい時々下がってしまう。ミオトは、そんなことを十分にわかっていながら笑顔で接客をしていた。

「鷲見ちゃんは来てくれていたよ。また四人でワイワイしたかったのに。遠くの席から楽しそうな姿を眺めていただけだもん」

「ごめん、ごめん。今日はミユちゃんいないの?」

 同僚のミユのことを聞くことで、間接的に鷲見の状況を確認しようと思った。

「どうなんだろう。今日はまだミユさん来てないみたい」

 ミユは夜の仕事の専業である。かなり出勤日数は多いはずだ。

「確かミユちゃんって、昼間は子どもの世話をしているんだよね?」

「うん。ただ、他の女の子から聞いた話なんだけど、結構遊んでいるみたいだよ。いい人でもできたのかな。最近、ゴルフを始めたって言うし。あ、確かに身なりも派手になってきているし」

 ただ、太い客がついたのかもしれないが、本当にいい関係の人がいるのかもしれない。だとすれば、それは鷲見なのだろうか。

 その考えをかき消すように、遠くのほうで「お客様ご来店です」というボーイの声が響いた。
 それから聞き覚えのある女性の笑い声が聞こえた。ミユだ。

「席で待っていて。すぐ着替えてくるから」

「仕方ねぇなぁ」

 もっと聞き覚えのある声が聞こえた。
 ニット帽を被った男性がボーイに案内されている。やはり鷲見だった。
 同伴出勤をしてきたのだろう。同伴とは、出勤する前に夕食や買い物を楽しみ、一緒に店へ来ることである。

「鷲見さん」

 僕は思わず立ち上がった。ばつの悪そうな顔でこちらを見て、とりあえず右手を上げた。
 やはり店には足繁く通っていた。ただ、僕を誘わなかった。誘いたくなかったから、そんな表情になったのだ。

「一緒に飲まなくていいの?」

 僕はそのまま座り直した。ミオトの声に、うんともいいえとも言えない中途半端な返事をした。
 座ると、ちょうどキラキラと光る衝立が目隠しになって、鷲見の顔が見えなくなった。

(その4へ続く)
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