【完結】姫神子と王子

桐生千種

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第2章 氷帝紅炎

第2話 彼の名前

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 彼は安心したように微笑んで、ふわりと抱きしめてきた。

「よかった」

 今度は身体は震えない。

「クッ、クク……ッ、クハッ!」

 苦しむような、なにかを耐えるような声。

「アハハハハハッ!!」

 ついに耐えられなくなったみたいで、お腹を抱えて笑い出した。

「す、すげぇもん見ちゃった……っ! あの氷利が……っ! 『キライになった?』とかっ! すげぇ弱気! サクすげぇよ! こんな氷利初めて見たっ!」

 なにがおかしいのかわからないけど、とりあえず、そろそろその辺にしておかないと呼吸困難にでもなってしまいそう。

「あの」
「ダメ」

 紅炎に声をかけようとしたら、彼に立ち塞がれて、言葉も止められた。

「桜ノは俺以外の男に話しかけないで。見るのもダメ」

 そう言うと、彼は紅炎のところまで行って首根っこを掴んだ。

「歩け。さっさと出て行け」

 彼は紅炎を引きずるように、扉の外まで運ぼうとしている。

「歩く歩く! 引きずんなって! ちゃんと出てくから!」

 彼の手から逃れた紅炎は、そのまま扉に……は、向かわなかった。
 私の目の前にまで来て、立ち止まる。

「じゃあな! アイツに嫌気が差したらいつでも俺んトコに来な! サクなら大歓迎!」

 ニコニコと笑ってそう言うと、不意に顔を近づけてくる。

「すぐに俺の姫にしてやる」

 耳元で、そんなことを囁かれた。
 けど……。

「さっさと失せろっ!!」

 彼のその言葉と同時に、紅炎の姿が消えた。
 そして。

「ってぇ!」

 なにか硬いものがぶつかるような鈍くて派手な音と、紅炎の痛がるような声が扉の向こう側から聞こえた。

「桜ノ」

 扉のほうに気を取られていたら、急に彼に呼ばれて、それと同時に景色も回った。
 気が付くと、身体ごと反転させられていて、目の前には彼の顔。

「どうしてアイツを気にするの」

 彼の口から出たのはそんなひと言で、私にはわけがわからない。
 けど、なぜかはわからないけど、彼が怒っているのはたしか。

「桜ノに会えない間、俺はずっと桜ノのことを考えてたのに。早く会いたくて、会いたくて……。なのにやっと会えた桜ノは、俺よりアイツを気にするのか」

 じっと見つめられて、彼の機嫌が悪いのはわかっているけど……。
 わかっている、はず、なんだけど……。

 心臓がドキドキと波打って、彼から逃げられなくなっている。

 そんな私に、彼が告げた言葉はたったのひと言。

「許さないよ」

 それから彼の、「お仕置き」が始まってしまった。

「桜ノは耳が弱いよね」
「……っ!?」

 抱きすくめられて、しっかりろ捕らえられて、逃げられない。
 クスクスと、楽しそうに笑う彼の声が耳元で響く。
 わざとらしく、息を吹きかけてくる。

「桜ノはアイツの名前、聞いたの?」
「……く、くえ」
「呼ばせないよ」
「っ!?」

 彼が聞いてきたはずなのに、答えさせてはくれなかった。

 方耳に感じる、生暖かい感触。
 ヌルリとした、異様な感触。
 彼に、耳を食まれた。

 さらにそのまま喋られて、背筋がゾクゾクする。

「桜ノは俺のモノ。アイツの名前じゃなくて、俺の名前を呼んで」
「……っ」
「はら、早く」

 急かされて、けど、答えることができない。
 身体が熱くて、ゾクゾクして、クラクラする……。

「ねえ、桜ノは誰のモノ?」

 彼の指で、唇をなぞられて、本気で頭がオカシクなりそう……。

「ほら、氷利だよ? ヒョウリ。呼んで?」

 彼の声は、もう、なにかの暗示のようで……。

「ひょ……り……」

 うわごとのように、彼に誘われるまま、呟いた。

「そう。もっと呼んで」
「ひょう、り……」
「もっと」
「ひょうり……ひょうり……」

 何度も何度も、彼の名前を口にした。
 自分じゃ数えられないくらい。

 けど……。

 たしかに彼の名前を口にしているのは私なのに、なぜかそんな感覚がなかった。

 まるで、自分の口じゃないみたいに、自分の身体じゃないみたいに、なにも感じなかった。

 いつもはドキドキして、口にすることのできない彼の名前をただただ言い続けた。

「ひょうりひょうりひょうりひょうりひょうりひょうり」

 何度口にしても、なにも感じない。

「やめて桜ノ」

 突然彼にそう言われ、それと同時に強く、強く、抱きしめられた。

「ごめん。俺が悪かった。だから、もうやめて」

 彼の言葉を理解して、それと同時に今の状況も理解した。
 ついでに、今まで自分が呟いていた言葉も。

「……っ!?」

 白い霧の中から抜け出したみたいに、急にドキドキし始めて、彼の名前を平気で口にしていた自分が信じられない。

 体温が一気に上がって、動くこともままならない。

「ごめんね、桜ノ」

 彼が私の頬に手を添えて、顔を覗き込んでくるけれど、どうして彼が謝っているのかわからない。

「気持ちのない言葉は、虚しいだけだ。自分が惨めになる」

 よく、意味が理解できないけれど、彼はひどく後悔しているように見えた。

「桜ノが、自分の意思で俺の名前を呼んでくれないと、意味がない。それまで、待ってる」

 彼は、消えてしまいそうな笑みを浮かべた。
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