ライトブルー

ジンギスカン

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2、Suspicion will raise bogies

Suspicion will raise bogies

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 古典Bの授業が終わった。昼休みだ。
 松山は未だ帰って来ず、教師たちによる捜索は続いているようだ。生徒が教室を飛び出した際のマニュアルは定められていると兄が言っていたが、まさかあれ程の人海戦術が行われようとは思ってもいなかった。そして、それ程の人海戦術をもってしても捕えることができず、未だ校内に潜伏している松山もまた恐ろしい奴だ。校門は真っ先に教師たちにより封鎖されたので、校外には出ていないというのが教師たちの見解だ。教師たちは昼休みだというのにご飯も食べず松山を探し回る。担任教師東雲が教室にやって来て、掃除用具入れを開き、「いないなー」とこぼした時はわが目を疑った。まさか松山がこれ程行方をくらませる天才だったとは。恐らく幼少期はかくれんぼに入れてもらえず寂しい日々を過ごしたのであろう、そのはねっかえりがあそこまで性格を歪めてしまったとはなんと哀れなライトブルー、つくづく迷惑な男である。
 教室は失踪した松山の話でもちきりである。身の毛のよだつ恋文、未だ終わらぬ逃走劇、左前髪半分ライトブルー、そして普段の素行の悪さと笑いの種は無数にある。私は人間ができているから、いくら松山が憎かろうが決して人の陰口を言うことはない。黙々と一人でお弁当を食べる。
 しかし、これ程までに計画がうまく行くとは思わなかった。計画当初は完璧すぎて我ながら天才だと思って舞い上がってしまったが、冷静に考えればなんと阿呆な作戦であろうか。いくら本人の筆跡に似せて書いたとはいえ、あそこまできれいに騙されるものなのか不思議で仕方ない。今も浅井と堂島は松山が残していった例のノートに書かれた汚文を見ながら品もなく笑っている。昨今はスマホでやり取りするのが主流だから、そもそも他人の筆跡を見ることは少ない、ましてや松山のようなお馬鹿のノートなど誰が好んでみるであろう、気付かなくても仕方がないのであろう。本当に仕方がないのか、それはもう分からない。現に全員きれいに騙されているので、それでいいのである。
 唯一今回うまくいかなかったことといえば、無論、「ぶひぃーーっ!!」の自制である。なんという失態であったことか、あまりにも鮮やかに作戦が進行されてしまうので、たまらず「ぶひぃーーっ!!」をもらしてしまった。般若心経を唱えようと、憐憫の心を持とうと「ぶひぃーーっ!!」を止めることは遂にできなかった。松山はなんと恐ろしい怪物であったことか。その後も度々松山が脳裏をよぎる度に「ぶひぃーーっ!!」をこぼしてしまい、教師に睨まれた時はもう駄目かと思ったものである。今はクラス全員騙されているが、これ程までに潜伏を決め込む松山がこのまま退散すると考える程私も阿呆ではない。なんやかんや因縁をつけて私が犯人だと主張し始めるだろう。なにせ松山は馬鹿だもの、絶対にやる。
 恐らく「お前は『ぶひぃーーっ!!』て言っていた!よってお前が犯人だ!」なんてふざけた推理をひけらかすのだろう。しかしところがどっこい、この推理がなかなか曲者なのだ。当然「ぶひぃーーっ!!」なんて普段口にする訳がない、むしろ本日初めて口にした。本日初めて自分がそのような笑い方をすると知って急遽頭を抱えた程である。松山は私が散々トイレで「ぶひぃーーっ!!ぶひぃーーっ!!」と言うのを聞いていた。そこらのクラスメイトにとっては「ぶひぃーーっ!!」など、とるに足りない耳障りな音であるが、松山にとっては違う捉え方となり得る。そう、「ぶひぃーーっ!!」の本質が勝利の愉悦であることを悟りかねないのだ。
 だから何だというのだが、馬鹿な松山のことだ、私の「ぶひぃーーっ!!」を一点集中で執拗に攻め立ててくるはずである。そして私は「ぶひぃーーっ!!」に対して未だ弁解の言葉を持たない。「ぶひぃーーっ!!」に対して弁解できない私に周囲は次第に疑念を抱くであろう。そして、この松山の馬鹿推理がもしや的中しているのではという思いを抱いてしまったとしたら……
 考えなければならない。
「ぶひぃーーっ!!」に、新たな意味を与えなければならない。


「椚田先輩っていますか?」
 教室の後部扉の方から私を呼ぶ声がする。女子の声だ。私は後部扉に目を向け、口をぽかんとさせる。そこには、絶対的に可愛い金髪の女子生徒が立っていた。恐らくメイクもしているのだろうが、そんなことはどうでもいい。クラスで相対的に可愛い金谷美奈ですらメイクをしているが、絶対的に可愛い金髪女子生徒を前にしたら月とミドリガメである。
 いやいや、人を見た目で判断してはいけない、ミドリガメにはミドリガメの良さがある。月は、見上げることしかできないが、ミドリガメは存分に愛でることができる。たまに噛みつこうとするのもまたご愛敬。ミドリガメは素晴らしいではないか。クラスで相対的に可愛い金谷美奈も素晴らしいではないか。彼女のおかげで今回の作戦は成功したと言っても過言ではない。
「人類は月に到達した。最早見上げるだけのものではないのだ。」と反論する者よ、黙るのだ。そして全ての女性に謝るのだ。今はそんな話をしているのではない。面食いに苦しむ全ての男性と女性がともに笑って過ごせる明るい未来について論じているのだ!
 全ての女性の尊厳を貶め、愚かな男性を沼に引きずり込むかのように絶対的に可愛い金髪女子生徒が教室を見渡した後、私に目を留める。屈するな!負けてはならぬ!
 絶対的に可愛い金髪女子生徒が私の方に近づいてくる。
 お、おさまれ胸の鼓動よ!
「先輩が、椚田先輩ですか?」絶対的に可愛い金髪女子生徒が口を開く。
 私はなおも口をぽかんとさせている。
 気圧されるな、私。何を絶対的に可愛いだけでマウントを取られているのだ。全国の悩める男女のため、臆する訳にはいかぬ!面食いによる負の連鎖をここで止めるのだ!
「え、うん、そうだよ」
 言葉を返すことができた!やればできるじゃないか椚田司!恐ろしい相手だった!流石月の住人、危うく月の魔術に呑まれるところだった!私は自身を奮い立たせ、眼前の絶対的に可愛い金髪女子生徒を見やる。駄目だ、目が泳ぐ。落ち着け落ち着け!
 そんな私の格闘を知ってか知らずか、絶対的に可愛い金髪女子生徒はなおも追い打ちをかける。
「先輩があの椚田先輩なんですね!度重なる松山先輩のウザ絡みにも屈せず毅然と戦い抜いた!尊敬します!」
 私は再度口をぽかんとさせた。何を言っているんだ、この絶対的に可愛い金髪女子生徒は。頼む、日本語を喋ってくれ、せめて地球の言葉を、月の言葉なんて分かるはずがない。
「あ、突然すみません、私、2年の早瀬涼香と言います。突然押しかけてすみません」そう言い絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒はペロッと舌をだす。
 コ、コールドスプレー!今すぐ鞄に手を突っ込み、コールドスプレーを取り出し全身に振りかけたい!可愛いは正義!可愛いは正義!?ふざけるな!可愛いだけで正義を名乗るなど笑止千万!楊貴妃やクレオパトラの例を忘れたか!「可愛いは正義」と口にしているうちに国は滅びていった!己が身を真に守りたければ「可愛いは正義」等と絶対に口にしてはいけない。
 とりあえず目を、目を置くところを定めねば。この絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒、どこを見ても光り輝いており、直視することができない。当然向かい合って話している訳なのだから、顔を見て対峙しなければならない。視点を遠くに向ければ、何かヤバい奴である、ピントは必ず合わせなければならない。胸元、足元を見て対峙しても、当然ヤバい奴である。全国の面食いに苦しむ男女を救済すべく奮闘するはずが変態という大変不名誉な称号を得てしまう。私は悪くないのに!私は悪くないのに!理不尽すぎる!
「すみません、突然押しかけちゃったから、動揺しちゃいますよね?すみません」
 縦横無尽に目を泳がし続ける私に対するなんてささやかなフォロー、こんな人間が、この世の中に存在しようものとは!
 しかし、ある程度挙動不審になっても大丈夫だよ、という彼女の心遣いのおかげで、私は少し心に落ち着きを取り戻すことができた。私は改めて彼女の顔を見る。うむ、絶対的に可愛い。
「今、学校中で松山先輩のことが噂になってますよね。その中で、椚田先輩の話も聞いて、なんというか、かっこいいな、どんな人なんだろうなって思って、来ちゃいました」そう言って絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒は乙女の顔をする。
 まさか、これは、春が来たのか?
 松山をぶちのめしただけで、こんなにも早く春が訪れるものなのか?
 こんなことならもっと早くに策略に嵌めておけば良かった。
 まさか未来永劫自分とは無縁だと思われたお月様がディープインパクトして来ようものとは。
「先輩」絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒が目を細めて私を見る。
「な、何?」まずい、心臓がうるさい!肝心の言葉を聞き逃すだろ。
「先輩って……」
 安心して、彼女はいません。
「その…」
 胸の高鳴りが最高潮に達する。初めまして、青春!これからよろしくね!
「『ぶひぃーーっ!!』って言うんですか?」


  *
 前述した通り、私の胸の高鳴りは最高潮に達していた。心臓は激しくバックンバックンと運動していたのである。何に対してそれ程血液を送る必要があったのか知らないけれど、心臓は、そりゃもう大変頑張っていたのである。ところが、

「『ぶひぃーーっ!!』って言うんですか?」

 想像してみてほしい、興奮が最高潮の中、突然冷や水をかけられた時のような感覚。そう、止まるのである、心臓が。
 予想外の質問に脳への血液供給もストップ、お口もぽかん。時間が静止する。彼女は一体何度私の口をぽかんとさせれば気が済むのであろう。人をぽかんとさせる天才である。
「先輩は、『ぶひぃーーっ‼』というのですか?」再度の確認、うん、何を言っているのだ彼女は。
 落ち着け、落ち着くのだ、少しずつでも脳みそに血液を送るのだ。
 何を言っているのだ彼女は
 何を訊いているのだ彼女は
「どうして、君が、それを?」無意識に言葉がこぼれる。
 しかし、そうだ!何故彼女が私の「ぶひぃーーっ!!」を知っている!そんなことまで噂になって流れたのか?まだ昼休みだというのに?そんなことがあるのか?それ程この学校は話題に飢えているのか?
 絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒はにこりと笑う。
「私、なんでも知っているんです」神々しいスマイル、しかしそんなことはどうでもいい程の衝撃を私は受ける。
 なんでも知っている?なんでも知っているだと?そんなことがあり得るのか?でも現に彼女は私が「ぶひぃーーっ!!」と騒ぎ散らかしたことを知っている。
 まさか、エスパーなのか?人の心が読めるのか?
「君は、人の心が読めるのかい?」思ったことがそのまま口に出た。阿呆なのか私は。彼女はしばし目をぱちくりさせた後、にこりと笑って
「秘密です」と返す。この時、私の中で彼女はエスパーだという疑念がほぼ確信に変わりつつあった。これまでのやり取りにおいて相手は何枚も上手であり、私の心は終始彼女の手の平の上で転がされ続け、もはやお団子状態であると感じたことからそのように思い至った。
「どうして?ってことは、本当に『ぶひぃーーっ!!』て言うんですね」
彼女は少し寂しそうな顔をする。その顔は何?何を考えているんだ、この絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒は!
「ちなみに、どんな時に『ぶひぃーーっ!!』って仰るんですか?」
 どんな時に?どんな時にだと?それは、勝利の愉悦に浸った時……
 そこで一つの疑念が浮かび上がる。
 まさか!この絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒!そのエスパーというチート能力で私が松山を陥れた犯人だと既に気付いているのでは?
 先ほどとは違う種類の汗が滴り落ちる。
「どうして、そんなことを知りたがるの?」時間を、時間を稼がなければならない、もし彼女がエスパーで心を読むのなら、下手なことは言えない。嘘をつけばすぐに指摘されてしまう。
「さぁ、どうしてだと思います?」彼女は妖艶に笑う。
 くぅぅぅ!この絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒、確実に私が犯人だと気付いている!
 くしゃみをする時、「ぶひぃーーっ!!」と言ってしまう、そう嘘をつくこともできるが、なにせ相手はエスパーである、そんなものは通用しない。嘘をつくということは、いずれは自分の首を絞める行為となる。必要でない嘘はつくべきではない。かといって、馬鹿正直に答えることもできない。八方塞がりである。

「君は、何が狙いなんだ?」時間を、時間を稼ぐ必要がある。
「狙い、ですか?」絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒が目をパチクリとさせる。想像に反して返答に窮している様子であるが、慢心はしていられない。「椚田先輩が自首することです」なんて言い出しかねない。
 クラス中の視線が集まっていることが分かる。こんな状況でこのような絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒が「犯人は椚田先輩です」なんて一言口にしたら、一瞬で私の作戦は水泡に帰し、私はこの学校で居場所をなくしてしまうだろう。傍から見たら「絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒が何故かクラスのぼっち男子にときめいちゃった」という漫画のような光景に映っているのであろうが、そんな展開、ある訳がない。これはそんな甘酸っぱいものではない。まさに、修羅場である!
「言わなきゃ、駄目ですよね」彼女は頬を赤らめ俯く。はいはい演技演技!そんなものに騙される椚田司ではない! 
「あ、いや、ちょっと待って!」私が犯人だと、言わせる訳にはいかない!
 彼女は顔を上げて、私の顔を見る。
 私も彼女の顔を、目を、しっかりと見る。こちらの誠意を示すためには、目力が必要なのである。
「その…」頑張れ、私。
「はい」絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒がソワソワしだす。何をソワソワしているのか知らないが、私もここで勝負をかけなければならない。これまでの生涯の中で最大級の勇気を振り絞って、口を開く。
「苺パフェは、お好きですか?」

 それは、自身のお財布事情を吟味した上での、情けのない交渉作戦であった。

  *
 放課後である。場所は駅前にあるお洒落な喫茶店。眼前には絶対的に可愛い早瀬涼香と名乗る2年金髪女子生徒(長いので今後は絶対的に可愛い早瀬さんと呼ぶことにする)。
 何から話せば良いのであろう。
 とりあえず、私の懐事情について述べよう。私たちの高校は原則バイト禁止である。よって収入源は月に1度、3千円という親からのお小遣いに限定される。3千円。1日百円。この3千円を一カ月の間に賢く使い、時に節約し、時に散在し、時に涙し、早く働きたいという向上心を育むのである。
 眼前の絶対的に可愛い早瀬さんの眼前には、1杯千五百円の苺パフェ。
「え?先輩は注文しないんですか?なんか私だけ、悪いですよー」と絶対的に可愛い早瀬さんがオーダーの際に抗議してきたが、冗談ではない、冗談ではないのである。1杯千五百円。百円が十五日分。今月は五百円でコールドスプレーも買った。これ以上の出費はままならぬ!
 苺パフェが運ばれて来るや、絶対的に可愛い早瀬さんが目をキラキラさせてはしゃぎだす。「私、ここのパフェ、ずっと食べたいなーって思ってたんです」
 あぁ、私も食べたいなぁと思っていたよ、なんて心の中で嘆いていると目の前にひょいっと小さなスプーンが差し出される。
「一緒に食べましょう、先輩」
 私の頭は再度混乱する。

 絶対的に可愛い早瀬さんから「お前の悪事はお見通しだぞ。このことを暴露されたくなければうふふふふ」という脅迫を昼休みに受けた私は、苺パフェ交渉大作戦を決行することにした。苺パフェ交渉大作戦とは、苺パフェを奢ってあげるから今回のことは内密にね♡という大変情けない作戦のことである。
「苺パフェは、お好きですか?」
 我ながら阿呆な質問をしたと思った。私の中に、女の子はスイーツを与えておけば大丈夫という偏見があったことも否定できない。とにかくあの場で私に考えられる女子に喜ばれるものランキングベスト1が、駅前の苺パフェだったのである。一瞬絶対的に可愛い早瀬さんがきょとんとした時は作戦の失敗を予感したが、彼女の食いつきは意外とよかった。彼女はすぐさま私の手を取り、満面の喜色を浮かべ「苺パフェ!食べたいです!」と宣言した。
 かくして交渉は成立した。放課後彼女は再び教室に姿を現し、そのまま二人仲良く喫茶店に直行という形になった訳であるが。

「苺の甘酸っぱさと生クリームの優しい深みが全身に沁みわたります!今すっごく幸せです!私パフェって初めて食べるんですよ」
 絶対的に可愛い早瀬さんがきゃぴきゃぴしている。やはり、超絶に可愛い。しかしその可愛さを堪能する余裕が私にはない。というのも、苺パフェだけで彼女が満足するのかという疑問が拭えないからである。ひょっとすると私は交渉術において悪手を打ってしまったのではないか。この苺パフェは交渉材料などではなく、奴隷契約の皮切りなのではないか。今後もっともっと高値のものを要求されたりするのではないか。初っ端から千五百円。詰んだ。これ以上のものなど最早出せない。来月まで残り十日もある。赦して。苺パフェでもう勘弁して。心の中で情けなく懇願する。
「先輩も食べましょうよ、はい、あーん」
 眼前に差し出される苺。果たしてこれは食べてよいものなのか。一口食べるや否や、「先輩もパフェ食べましたよね?」とか言って、なんやかんや交渉を白紙に戻されかねない。私は苺を見つめたまま、顔を左右に高速でフリフリ動かす。
 私が断固として苺を食べようとしないのを見て、彼女は少し視線を落とす。
「すみません、初デートなのに、ちょっと、気持ち悪かったですよね。私も、変なテンションになっちゃってて、すみません」
 誤解がないように言っておくが、別に彼女は気持ち悪くなかった。どちらかというと口をあーんと開き食べさせてもらっている自分を想像する方が余程気持ち悪かった。しかし今彼女なんて言った?私の聞き間違いでなければ「初デート」と口にした。「初」ということは「二回目」「三回目」があることを暗に示している。やはり、絶対的に可愛い早瀬さん。苺パフェごときで満足する女ではなかった。もう出せないと思われるほど私の骨をしゃぶり尽し、奴隷のごとき扱いを強いるつもりなのだろう。なんと恐ろしい女なのだ。
「私、誰かとデートするのも初めてで、先輩が誘ってくれてすごく嬉しかったです。でも、ちょっと舞い上がりすぎちゃいましたね」そう言ってぺろりと舌を出す。
 可愛い!可愛いすぎるが故に危うく騙されるところだった。こんな絶対的に可愛い早瀬さんがデート経験0ということは考えられない。どこに行ってもお姫様で引く手数多、うん、絶対に嘘である。そういって女性経験のない男を誑かすなんて、なんと恐ろしい女よ。そしてその絶対的な可愛さ故に、「もう、どうだっていいやぁ!大人しく騙されて夢を見させてもらいましょう」なんて思考が脳裏をよぎってしまうものだからもう大変である。落ち着くのだ、「可愛い」は正義ではない。可愛いを正義と口にした者から身に破滅をもたらす。断じて「可愛い」は正義ではない
 とは言え、この空気はまずい、お気づきだろうか?先ほどから私は一言も喋っていない。彼女が一人で喋って一人で意気消沈している。演技であろうが、如何せん気まずい。このままでは最悪愛想をつかされて「もういいや、なんかつまらなくなった。椚田司が犯人だって公表する」なんて言われかねない。これは交渉の場、こちらが不利な状況故、まずは相手の機嫌をとらねばならぬ。
 そこで混乱である。彼女は私に何を求めている?私を奴隷にし、優雅な学校生活を送りたいのであろうか?なら何故このような無意味な恋愛ごっこに興じる?分からない、男と女とただ性別が違うだけでこれだけ分からない生き物となるものなのか。深遠である。分からぬなりに、私も恋愛ごっこに付き合うことにした。そうしなければ、明日はない。
 私はスプーンを手に取り、苺パフェのバニラアイスをすくう。そしてそれを絶対的に可愛い早瀬さんに差し向ける。あーん返し。なるほど、確かにこれは、する方も恥ずかしい。する方もされる方も恥ずかしいとは、こんな馬鹿げた行為、全国的に廃止すべきである。あまりの恥ずかしさにスプーンを持つ手はぷるぷる震える。相手があの絶対的に可愛い早瀬さんならなおさらである。
 絶対的に可愛い早瀬さんが視線を上げて、スプーンを見る。私は無言でスプーンをぷるぷるさせている。絶対的に可愛い早瀬さんが「先輩……」と言葉をこぼし、嬉しそうにあーんと口を開ける。控えめに口を開ける様子がまた絶対的に可愛く更にスプーンがぷるぷる震える。
 スプーンをぷるぷるさせながら私は『どうぶつの森』というゲームで魚釣りをしている時のことを思い出した。魚が食いつくのを今か今かと待ち、魚が食いついたタイミングに合わせてボタンを押し、魚を釣り上げるのである。レアな魚ほど、なかなか食いつかない。無論、今回彼女がなかなか食いつけないのは、私のスプーンがあまりにぷるぷる震えるからであり、全面的に非は私にあるのだが、これは恐ろしい展開になったものである。万が一このバニラアイスが手元狂って彼女の鼻の穴にでも入ってみよう、明日の今頃、私は広い広い太平洋の海の底に沈んでいるだろう。そう思うと余計にスプーンがぷるぷる震える。あまりにも私のスプーンがぷるぷる震えるので、いよいよ彼女の目も真剣になる。
 絶対に失敗できない。
私は片手でスマホを操作し、般若心経を検索する。そしてそのまま無我夢中で唱えだす。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多事 照見五蘊皆空度一切苦厄
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくうどいっさいくやく)」
「・・・え?先輩?」彼女は突然の般若心経にきょとんとした顔をする。
「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受相行識 亦復如是
(しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)」
「先輩?ちょっと、え?」流石のエスパーも、心鎮める般若心経を前にしたら無力らしい。
「舎利子 是諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識
(しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう むしきむじゅそうぎょうしき)」
「椚田先輩?どうして急に?お経を?」戸惑いを露にする姿が可愛い。
「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう むげんかい ないしむいしきかい むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん)」
 諮らずも絶対的に可愛い早瀬さんのチート能力、エスパーを無効化することに成功したためか、私はこの瞬間はじめて彼女に対して優位に立てた気がした。心なしか、落ち着いてきたような気がする。今ならいけそうな気がする。絶対的に可愛い早瀬さんが口をぽかんと開けている。きれいな上の歯と下の歯の間が0.75センチ開いている。私はその0.75センチ目掛けてスプーンをねじ込んだ。絶対的に可愛い早瀬さんが、あむぐっ、というよく分からない声を漏らし、目をパチクリとさせている。私は無言で絶対的に可愛い早瀬さんを見つめている。スプーンを口にねじ込まれ、目をパチクリさせているその姿は、やはり絶対的に可愛かった。その絶対的に可愛い顔を見ていると、無事にバニラアイスをあーんしてやることができたのだという安堵が込み上ってきた。私はニコリとほほ笑んだ。そこにはよく分からない達成感があった。しばらく目をパチクリさせていた絶対的に可愛い早瀬さんも次第に表情を和らげ、上品にバニラアイスを舐り取った後、一言「お見事です」と零した。
 私たちは恍惚とした顔でお互いを見つめ合った。

  *
「ゆきちゃん!」
 失踪した松山智成を探し、焼却炉を覗いていた東雲由紀乃は、自身の名を呼ぶ声に振り返る。1年生のクラスの担任をしている西条である。
「ゆきちゃん、松山くん、見つかったらしいよ!」
「ほんとですか?」
「うん、今、生徒指導室にいるよ」
「ありがとうございます!」
 そう言い、由紀乃は生徒指導室へと駆け出した。「大変だね~お疲れ~」と西条が後ろから労いの声をかける。
 1時間目の授業終了後、由紀乃が担任するクラスの男子生徒、松山智成が教室を飛び出した。朝のショートホームルームの時から既に様子がおかしかったが、本人が構って欲しくなさそうにしていたので、様子を見ることにした。あの判断は間違っていたのかと、由紀乃は自分を責めた。
 生徒が教室を飛び出した際の対応は教員採用試験を受ける段階から学んでおり、グレーゾーンと呼ばれている生徒への対応は高等学校においても重要課題であるということから、この学校でも全教員の理解は徹底していた。しかし由紀乃が高校教師になってから4年、実際に生徒が教室を飛び出すといった出来事は今回が初めてであった。そうして多くの教師の助けを得て、放課後となった今、ようやく松山智成を見つけることができたのである。まさかこれ程までの人海戦術が行われようとは想定していなかった。また、これ程までの人海戦術をもってしても放課後まで隠れおおせた松山に由紀乃は驚異のようなものを感じた。おかげさまで由紀乃を含め多くの教師は昼食をとることができなかった。
 午後、3年2組で授業を行った際、由紀乃はこの度の事件の聞き取りをしていた。松山が教室を飛び出した経緯は次のようなものであった。

・朝、金谷美奈の机の中に松山の現代文のノートが入っていた。
・その現代文のノートには金谷美奈に当てられた恋文が記されていた。
・松山はそれを書いたのは自分ではないと主張したが、その筆跡は松山自身のものであるようにみられた。
・その恋文をネタにからかいを受けた。
・からかいを煽動した中心となったのは松山と親しくしていた浅井と堂島、そして金谷と交際をしている古畑亮真である。古畑からのからかいによって松山の怒りはピークに達したようで、松山は古畑に手をあげ、逃走する。

 てっきり由紀乃は左前髪半分ライトブルーがきっかけであろうと考えており、独自に「ライトブルー嘲笑事件」と名付けていたが、どうやら今回の事件にライトブルーは関係しないようである。

 生徒指導室には松山の他に学年主任の東堂と数学を教えている柳沢がいるらしく、扉の奥から「今までどこに隠れていたんだ」「どうして逃げたりなんてしたんだ」「定年退職間際の教師を走らせるな」「そのライトブルーはなんなんだ」等の言葉が飛び交っていた。
「失礼します」由紀乃は生徒指導室の扉を開ける。東堂と柳沢を机ではさんだ奥に松山の姿が見えた。
「松山くん、見つかってよかった」そう言って由紀乃は微笑みを浮かべ、「東堂先生、柳沢先生、ありがとうございます」と後は自分に任せるよう願い出る。

 由紀乃は松山の向かいに腰掛け、じっと松山を観察する。
松山はじっと黙ったままで、下を向いている。どのようにして松山がここへ連れて来られたのか、由紀乃は何も知らない。放課後となり、チャンスと飛びだしたところを発見されたのか、このまま逃げおおせることに観念したからなのかそれだけでも聞いておけば良かったと後悔する。
 由紀乃は待つことにした。松山が、自分から口を開くのを。
生徒と話す際、沈黙を恐れてはいけない。目の前の生徒は黙ってこそいるが、その頭はめまぐるしく何かを考えていると思われるからである。恐らく今、自分の抱えている問題を話すか話さないか必死に考えているのだ。そのように考え、由紀乃は視線を遠くに飛ばす。あくまで、「話したくなったら話してね」というスタンス。
 しかし今度は逃がさない。時間が許す限り、付き合おうと決めた。
 
 5分程の時間が流れた。静寂が支配する生徒指導室の中、由紀乃の聴覚は敏感になっていた。
 教室の前を誰かが通り過ぎる音。
 吹奏楽部部員が鳴らすトランペットの音。
 グラウンドで汗を流す野球部の掛け声。
「東雲……」ぽつりと松山がこぼす。
「どうしたの?」由紀乃は努めて穏やかに返す。
「突き飛ばして、ごめん」
 一瞬なんのことかと由紀乃は小首を傾げたが、松山が逃走中に進路をふさぐ自分を突き飛ばしたことを思い出した。
「あぁ、いいよ」由紀乃は笑う。「松山くんも、必死だったんだよね?」
 再び沈黙が訪れる。それでも由紀乃は松山が口を開いたことに喜びを抱いていた。一度口を開いた松山はもう一度話してくれるだろう、なんとなくそう確信し、由紀乃も口を閉じる。
 由紀乃の想像通り、次に口を開いたのも松山だった。
「なんで黙ってるんだよ」
「ううん、別に。待ってるんだよ、松山くんの準備ができるのを」話してもいいって感じたら、話してよ、松山にだけ聞こえる声で、由紀乃はつぶやく。
しばらく沈黙が続いた後、「どこまで知ってる?」と松山がこぼした。
「例の、ノートのこと?」
 松山は一瞬押し黙ったが、すぐに「そうだ」とこぼす。
「松山くんのノートが、金谷さんの机の中に入っていたこと、そのノートには、金谷さんへのメッセージが書かれていた」知っている内容をどこまで話すか躊躇われたが、由紀乃は起こった事実だけを答えることにした。
「読んだのか?」
「読まないよ、ラブレターだって言うしさ、生徒のプライバシーは守らなきゃ。あのノートは今、私の机に置いてあるから、後で渡すね」
 事実、由紀乃は例のノートには目を通していない。生徒の恋文を盗み見することは教師の職責を逸脱し、生徒の信用も失いかねないと感じた。
「俺は書いてねぇ」松山が語気を強めてこぼす。「誰かが、俺を嵌めたんだ」
 なるほどね、と由紀乃は小さな声でこぼす。
「つまり、誰かが松山くんのノートに落書きをして、それを金谷さんの机にいれた、と」
「そうだ」松山は俯きながら、視線だけを由紀乃の方へ飛ばす。まるで、試すように。おびえるように。
 由紀乃は少し考えた。松山の話は本当なのか。嘘なのか。金谷への想いをノートに綴り、伝えるも、玉砕。その恥ずかしさから教室を飛び出し、今こうして嘘をついてごまかそうとしているのでは?その線は捨てきれない。普段の様子から、松山はそういうことをしても不思議ではないように思われた。
 しかし、由紀乃は嘘ではないと、なんとなく感じた。何故なら、松山には嘘をつく者特有の怯えが見られない。別に由紀乃は嘘をつく者を見破るスペシャリストという訳ではない。しかし由紀乃は松山から、嘘が見破られることに対する怯えではなく、何者かに対する強い怒りを感じ取っていた。

 あぁそうだ、松山くんは怒っているんだ。だから、彼の言葉は嘘じゃない。

「辛かったね」
 由紀乃は言葉を探した。
「私は松山くんを信じるよ」
 彼を安心させるための言葉を。味方がいるんだと、伝えるための言葉を。

 いつも大きな声でふざけていて、強がっている少年は、小さな嗚咽をもらした。

  *
 俺は教師という生き物をどこか誤解していたように思える。流行りの音楽や漫画では、子供に夢を見せず没個性を押し付けてくる存在として大人が描かれている。学校という世界しか知らない子供にとって教師というのはその代表である。ただ単に上から目線のガキ大将、そう思っていた。本当にそうだったろうか。「勉強しなさい」という言葉は、俺から夢を奪ったか?「授業と関係のない話はやめなさい」という言葉は、俺から個性を奪ったか?確かに尊敬できない教師もいるけれど、現に友人にも裏切られて孤独となった俺を「信じる」と言ってくれたのは、ずっと敵だと思っていたはずの「教師」だった。
 東雲は真剣に俺の話を聞いてくれた。その上で、犯人捜しはできないが、皆の誤解は必ず解くと約束してくれた。何より、味方がいるということが嬉しかった。
「もっと大人を頼ってよ、それが教師の仕事なんだからさ」
 保健室を出る際、養護教諭はそう言っていた。「頼りないかもしれないけど」と付け加えて笑った。
 正直、まだ怖い。教師が味方についただけでクラスの誤解が解けるかどうか分からない。教師なんて、教室ではマイノリティーだ。東雲は若く明るく生徒にも人気だが、スクールカースト最下層に落ちつつある俺の肩を持つ東雲が、今の人気を保てるのか、定かではない。それでも今は、一人でも味方がいるのなら、頑張ろうと思う。何を頑張るのか、よく分からないけれど。
「それじゃあ、また明日ね、松山くん。他にも何か困ったことがあったら、また相談してね」
「大丈夫だよ、別に」
「そう、じゃあ、また明日、教室に居づらかったら保健室だけとか、そういうのもできるから」
「大丈夫だ、もう逃げねぇ」
「別に保健室登校は逃げじゃないけど、じゃ、教室で待ってるね」
「ああ、じゃあな」
 校門で東雲が俺を見送る。ありがとう、という言葉は、なんだか恥ずかしくて言えなかった。

  *
 駅前の喫茶店で、おかしなものを見た。浅井と堂島がコソコソ身を隠しながら喫茶店の中の様子を伺っている。今朝のこともあり、無視しようとも思ったが、それはそれで気まずい。結局声をかけることにした。
「なにやってんだよお前ら」
 浅井と堂島はビクッと身体を強張らせ、こちらを見る。
「なんだ、智成たんかよ」
「お前いったいどこに隠れてたんだ?先公たちめっちゃ探してたぞ」
 おそらく今一番会いたくないと思っていた二人を前に、早速気分が滅入る。
「何度も言うけど俺はやってないからな」
「わりぃ智成たん、今そんな話まじどうでもいい」
「俺ら今、超スクープとってるから」
 そう言って浅井と堂島は店内に視線を向ける。
「そんな話だと?」こいつらにとって俺はそれほどどうでもいい存在だったのか。やはり今後、この二人との交友関係は考え直すべきだと考えた。
「いったい何を見てるんだ、お前らは」
 そうして店内の様子を見た途端、身体中に衝撃が走った。
 そこには保健室で見た早瀬涼香が、椚田と一緒にいた。一人分のパフェを二人で挟んでいる。椚田がパフェから苺をすくい、早瀬涼香の口元へ運ぶ、早瀬涼香は口をあーんと開けてスプーンをくわえこむ。お互い二人だけの世界に入っている。これはどういうことだ!これはどういうことだ!
「これはどういうことだ!」思わず言葉が漏れていた。
「やめろ智成たん!見つかる!」そう言い、浅井が俺の頭を押さえつける。何がどうなっている!何がどうなっている!
「何がどうなっている!」
「うるせぇって!」堂島が俺の口を塞ぐ。男三人が喫茶店の窓ガラス前の歩道でうずくまるという奇怪な現象が生じた。しかしそんなことはどうでも良かった。何故早瀬涼香が椚田と一緒にいる?二人は面識がなかったのでは?あいつは俺に言った。今度椚田を紹介してくれと。それがどうだ?あれではまるで長年のカップルのようではないか。騙したのか?俺を騙したのか?
「畜生、椚田の奴調子乗りやがって」
「早瀬もなんであんな奴、スクールカースト最下層だぞ?」
 浅井と堂島が何やら呻いている。付き合っているのか?ラブラブなのかあの二人は?思考がまとまらない。
「ちょっと君たち?こんな所で何してるの?」
男を対象にしたナンパか?と思い顔を上げたら、そこには警官が二人立っていた。
「お店の方から電話があってね、店前で変な高校生がうろうろしているって」
 確かに、店前でアルマジロと化す高校生三人、通報されてもおかしくはない。
 浅井と堂島は「やべぇ!」といって逃げ出した。警官の一人が「待ちなさい」と言って二人を追いかける。俺は依然アルマジロで顔だけ警官を見上げる。警官は俺を見るなり「君!なんだそのふざけたライトブルーは?ちょっと署まで来なさい!」と訳の分からない口実を挙げて近づいてくる。やべぇ、俺も逃げるか?本日二度目の鬼ごっこ勃発か?一日のうちに教師と警官の両方から追いかけまわされる経験なんて、大変武勇伝入りものだが、残念ながら、それほどの気力はもう持ち合わせていなかった。俺はアルマジロ状態でその場に留まった。
「中にクラスメイトがいて、それを見ていたんです。すみません」
 俺はアルマジロ状態で嘘偽らず語った。傍から見ていると、まるで土下座している高校生である。
警官は店の中に視線を向け「あぁ」とまるで何かを悟ったかのような声を漏らした。そして警官は俺の肩に手を置き、「青春してるなぁ」と言って去って行った。俺はその背中を「何を言ってるんだあいつ」という思いで見送った。
 俺は店前から少し離れた位置に立ち、思案に耽った。依然として怪しいのは早瀬涼香である。あいつの発言には矛盾する点が多数見受けられる。早瀬涼香の言動を脳内再生していると突如、閃きが走った。
 次の瞬間、俺は笑っていた。
 全てが繋がった。何故早瀬涼香が昨日の時間割を知っていたのか、何故早瀬涼香が椚田と一緒にいるのか。
 なるほど、そうだったのか。
「お前が犯人だったんだな、椚田」

  *
 店を出たら、お馬鹿代表松山智成が姿を現した。
「そういうことだったんだな」とよく分からない言葉を発し、ニヤニヤしている。ニヤニヤしてこそいるが、内心かなり怒り心頭に発している様子が伺える。相変わらず左前髪半分ライトブルーは痛々しい。私は絶対的に可愛い早瀬さんを汚物から守るかのように遠ざけ、松山を無視して一歩踏み出す。しかし松山はなおも私たちの眼前に立ちはだかり、「逃げんじゃねぇ」と口にする。こいつは昔から進路妨害が大好きだなぁと思う。
 極力松山と口を利きたくないのだが、絶対的に可愛い早瀬さんを松山と関わらせたくない。仕方なく、私が相手をしてやることにした。
「松山、いったい、何を言っているんだ?邪魔だからどいてくれないか?」
 しかし松山は道を譲ろうとしない。
「お前ら、グルだったんだな」
 なおも松山はよく分からないことを口にした。お前ら?グル?私は周囲をぐるりと見る。ここにいるのは、絶対的に可愛い早瀬さんと私、そしてお馬鹿な松山。
「お前らって、誰と誰?」
「お前と、そこの金髪女だよ」松山は少し苛立ちを見せて答える。だが今の一言で、私も怒った。この男、絶対的に可愛い早瀬さんを金髪女呼ばわりするとか赦されぬ!チンパンジーは圧倒的な月の美しさを前に、身を焦がして尻でも振っているがよろしい。そもそもこのチンパンジー、あの教師たちの包囲網をどのようにくぐり抜けここまで逃げおおせたというのだ。
「話が見えないんだけど?」私も苛立ちを込めて返す。
 話が見えないと言ったが、大体言いたいことは分かった。どうやらこの男は私と絶対的に可愛い早瀬さんが共謀して己を罠に嵌めたと思い込んでいるらしい。流石馬鹿代表、どこでそのような腐った考えを拾って来た。恐らく「ぶひぃーーっ‼」から私が首謀者だと断定し、そして、そんな私が急に絶対的に可愛い早瀬さんと一緒にいるようになったのが、キナ臭くて敵わんのだろう。だからとはいえ、なんという浅知恵よ。
「お前と、そこの金髪女があの気持ち悪いノートを仕掛けたんだろう!」馬鹿丸出しの回答に拍手を送りたい気持ちになった。こいつもこいつなりにいろいろ考えたんだなぁ。
「何を言っているのか分からないんだが?」
「お前がそこの金髪女と共謀して、あの気持ちの悪いノートを仕掛けたんだろう!」それは一回聞いた、それを踏まえた上で何を言っているのか分からないから聞いたのだが、残念、会話が成立しない。
「とりあえず、どうしてそう思ったのか話してくれないか?」恐らく馬鹿推理であろうが、聞かないことには始まらない。
 私の発言を受けて、松山がにやりと笑う。どうやらこの男、大変めでたいことに名探偵気取りで気持ちがやや舞上がっている様子である。松山が大いに自身の馬鹿推理をひけらかそうとした矢先、「すみません、なにやら通行の邪魔になっている様子ですが・・・」と絶対的に可愛い早瀬さんが周囲を気にしながら口をはさむ。
「そうだね、早瀬さん。場所を変えるぞ松山」
 かくして私たちは、多少騒いでも誰の迷惑にもならない場所を求めて、街をさまよい歩いた。

  *
 誰の迷惑にもならない場所を探し続けること30分、ドラえもんのアニメでよく見たような空き地を発見した。道中何度か松山の推理を歩きながらでも話すよう促したが、松山は断固として首を縦に振らなかった。名探偵気取りの彼は歩きながら名推理を披露することを良しとしなかった。彼はドラえもんのアニメでよく見るような空き地を見つけるなり、そこを決闘の地として選んだ。日は既に暮れかかっている。
 松山は積み上げられた土管の上に乗り、私と絶対的に可愛い早瀬さんを見下ろした。
「覚悟はいいか、椚田、金髪女」松山は不敵な笑みを浮かべている。
「手短に頼む」どうせ的外れな言いがかりだ。
 松山は言葉をためて私を憐れむような目で見た。
「椚田、俺は残念だ、まさかお前が犯人だったなんて」
 私は沈黙で応える。白を切るのは簡単だが、私が与える情報量は少ない方がいい。どの発言がまわりまわって自分の首を絞めるか分からない。言葉は丁寧に選ばなければならない。まずは松山の馬鹿推理を聞き出さねばならない。
「正直、俺は少し反省していたんだ。今までの俺は、馬鹿だった。」
 安心しろ、現在進行形で馬鹿だぞ。私は心の中でツッコミを入れた。となりで絶対的に可愛い早瀬さんがくすりと笑う。しまった、エスパーで今のツッコミを聞かれてしまったようだ。
「俺は悪いと思っていたんだよ、でもな、こうなったら話は別だ、やっぱり俺はお前を赦さねえ!」
話が全く見えないが、急に松山が大きな声を出すもんだから、道行く人が驚いてこちらをちらちら見てきた。私はすこぶる帰りたいと思ったが、ここで松山の推理を悉く跳ね返し彼の心を折ることは、残り少ない高校生活において大変有意義である。私はなおも沈黙で返す。
「黙ってるってことは、俺の推理が正しいと認めるということだな?」松山がドヤ顔をする。いや、お前はまだ何一つとして推理を披露していないだろ。さっきから「お前が犯人だ!」としか言われていない。それで負けを認める犯人はどの推理小説を探してもいないだろう。もしそんな推理小説があれば私はただただ世界の広さと表現の自由に驚嘆する。
「じゃあどうしてそういう推理に至ったのか教えてくれ」このまま沈黙を続ければ、私が知る限り史上初の「お前が犯人だ!」で完結する読者ぶち切れ必至の推理小説ができあがってしまう。恐ろしい男だ、松山智成。
「椚田、お前は俺のことを恨んでるよな?」
「まぁ、好きなわけがないよな」
「それが理由だ」またしてもドヤ顔。なんだと!
「まさか、それだけじゃないよな?」
 松山を陥れたいという動機を持つ人間の筆頭候補に私がいることは認めよう。それは認めよう、しかしそれはただ、きわめて怪しいと言えるだけのことで証拠が何もない。証拠がないのなら私は幾重にでも言い逃れるぞ?まさかその程度の推理で私に決闘を挑んだのか。
 松山はフフフと笑う。
「そんな訳ねぇだろ、もう一つ、決定的な理由があるんだよ」
「決定的な理由?」
「あぁ、それが、お前だ!」松山は絶対的に可愛い早瀬さんを指さす。
「え?私ですか?」絶対的に可愛い早瀬さんは突然飛んできた流れ弾に大変驚いた様子である。当然の反応である、今回の件、彼女は全くの無関係なのだ。とんだとばっちりである。
「どうしてそういう考えに至ったのか、筋道立てて教えてください」彼女は少し呆れた口調で答えた。
 松山はその質問を待っていたとばかりに微笑んだ。
「お前、随分と椚田とラブラブじゃないか」松山は勝利を確信したかのような笑みを浮かべる。しかし、私は彼が何を言いたいのかまるで分からない。
「べっ!別にラブラブではありません!私たちはただ一緒にパフェを食べただけです!」絶対的に可愛い早瀬さんは顔を赤らめて反論する。
 いやいや何を今さら、あれは傍から見ていればごまかしようがないほどラブラブであった。そしてあーんという行為があれほど恥ずかしい行為であるとは知らなかった。相手が絶対的に可愛い早瀬さんでなければ、何かの拷問かと錯覚するほどであった。一方的に食べさせる側に回ったのでなんとか持ち堪えたが、もし万が一こちらがあーんする側だったら、恥ずかしさのあまり脳は正常な機能を失っていただろう。
「は?ラブラブじゃないのにあーんなんてするはずがねぇだろ」馬鹿な松山からの至極真っ当な切り返し。
「あれは、人生初のデートだったので、舞い上がってしまって」
「見え透いた嘘をつくんじゃねぇ!」全くである。
「嘘じゃありません!」
「じゃあそれを証明できるのかよ、その顔面で『私はまだ男と付き合ったことがないんですぅ』ってよぉ!」
「それは、証明できませんが、てかそんなこと、今は関係ないじゃないですか!仮に私と椚田先輩がラブラブだったからといって、それが何故、私と椚田先輩が犯人だということになるんですか!」
 松山は下卑た笑いを浮かべる。
「お前は保健室で俺になんて言ったか覚えてるか?椚田を紹介してくれっていったんだぞ?あれぇ?おかしいなぁ?紹介してくれってことは、お前たちは面識がなかったってことだろ?じゃあなんでこんなにラブラブなのかな?おかしいなぁ?あ、何もおかしいことはないか、お前たちは以前から付き合ってて、二人で共謀して俺を嵌めたんだろう!」松山が自信満々に語る推理を私と絶対的に可愛い早瀬さんは呆れながら聞いていた。なんという馬鹿推理。
 絶対的に可愛い早瀬さんが「あの~」と反論の許可を求める。
「私たち、今日はじめてお会いしたんですけど、ね?先輩?」
「う、うん、昼休みに彼女が急に訪ねてきたんだ」
「じゃあなんでそんなにラブラブなんだ!」松山は声を大きくして叫ぶ。そんなこと知らん、演技だからだろ。
「だから、別に、まだそういう間柄ではありませんし、そもそも愛に時間は関係ありません」絶対的に可愛い早瀬さんがロマンチックな返答をする。
「ロマンチックな返答ご苦労、しかしお前らが今日はじめて会ったことを証明できる人間がどこにいる?」松山と少しでも同じ感性を持ってしまったことを嘆かわしく思う。
「3年2組の皆さんなら証明できるのでは?私が『椚田先輩ってどなたですか~』と探している姿を見ているはずです」
「そんなもの、演技をすればいくらでも騙せる」
 絶対的に可愛い早瀬さんが返す言葉を失う。確かにそうだ。二人がはじめて会ったのがいつかなんて、証明のしようがない。まぁ、だからなんだという話ではあるが。私と面識がないと言った彼女が、実は私と付き合っていた、それがどう今回の事件と繋がるのか、凡庸な私には皆目見当がつかない。
「お前が言ったんだぞ?金髪女、アリバイがなければ無実は証明できないってよぉ!」
 絶対的に可愛い早瀬さんは大変悔しそうな顔をした。
「くぅっ!馬鹿推理な癖に、ムカつきます!」
 私は彼女の発言に激しく同意した。
「お前はそもそもおかしかったんだ」訳の分からない論争で優位に立ったと錯覚した松山は追い打ちをかけるべく話を続ける。どうやら松山は絶対的に可愛い早瀬さんと面識があるらしい。私は少しでも彼女についての情報が欲しかったため黙って話を聞くことにした。
「お前は俺のアリバイを聞くとき、『昨日の放課後は何をしていたんですか?』って聞いたよな?」
「聞きましたが、それがなんなんですか?さっきから話が見えません」
「おかしいなぁ!これはおかしいなぁ!」松山はどこか嬉しそうである。こんなにも絶対的に可愛い早瀬さんをいじめて楽しもうなどとは、変態である。
「なにがおかしいんですか」絶対的に可愛い早瀬さんは不快を露にする。
「いやいやこれはおかしいよ、おかしすぎる」
「だから、何がおかしいんですか」
 松山は絶対的に可愛い早瀬さんを見てにたりと笑う。
「お前はどうして、犯行時刻が昨日の放課後だって断定できたんだ?」
 絶対的に可愛い早瀬さんはしばし唖然とする。
「どうしてって……」
「お前は『今朝、金谷美奈の机に俺のノートが入っていた』ということしか知らなかったはずだ!それなのになんで、昨日の放課後だって言い切れる?」
「それは、今朝入ってたのなら昨日の放課後に仕掛けられたって考えるのが普通じゃないですか!とんだ言いがかりです」
「そうかなぁ?犯人は今朝早くに登校して仕掛けることもできるぞ、ずっと前からノートは金谷の机の中に入れられてあって、今日たまたま金谷がそれに気付いたと考えることもできる。当然、移動教室等人目が薄くなる隙をついて金谷の机にノートを入れたと考えることもできる。昨日の放課後に犯行時刻を決めつけるのはちょっと無理があると思うけどなぁ」
「それは!」
「おかしいよなぁ!どうして犯行時刻を昨日の放課後と言い切れるのかなぁ?あぁ、そりゃ言い切れるか、共犯だもんな、そりゃ知ってて当然だよなぁ!」
「濡れ衣です!それこそいささか暴論にすぎます!」
「だったらどうして犯行時刻を決めつけることができたのか、納得できるように説明しろよ」
「だから、今朝机にノートが入っていたと聞いたら、昨日の放課後に仕掛けられたと思うのが普通でしょう!」
「さぁどうかなぁ、それはちょっと無理があると思うけどなぁ」
 松山は勝利を確信したようにニヤニヤ笑う。
 なるほど、松山の言い分は分かった。要するに、

①私とは面識がないと言っていたにも関わらず彼女が私とラブラブしている点。
②彼女が少ない情報源から犯行時刻を「昨日の放課後」と決めつけてしまった点。

 以上2点から彼女が怪しいというのが松山の言い分である。まさに、馬鹿推理である。本人は②における犯人しか知り得ない情報を供述する、いわゆる「秘密の暴露」こそが、今回の推理の肝だと思ってドヤ顔をしているが、どうだろう、犯人でなくても5人に3人は犯行時刻を「昨日の放課後」だと思い込んでしまうと思われるのは、まさに私が犯人だからであろうか?しかし現に今回の事件とは全く無関係の絶対的に可愛い早瀬さんが犯行時刻は「昨日の放課後」と思ってしまったのだから、松山の論拠②は脆弱がすぎる。①も、当然論外である。
何故松山はこれだけの馬鹿推理でこれ程までに勝ち誇れるのか、謎である。
 やってしまうんだ早瀬さん、君が犯人ではないということは君が一番よく知っているはずだ。むしろ君はエスパーというチート能力を使って、私が犯人だということも知っているだろう。いかようにも言い逃れできるはずだ。苺パフェの契約を忘れず私が犯人だということさえ隠しつつ完膚なきまでに反論してやってくれ。
しかし、絶対的に可愛い早瀬さんは黙りこくったまま何も言い返そうとしない。そればかりか彼女はおもむろに私の手を握り、「馬鹿推理なのに、すみません。何を言えば彼が納得するのか分かりません」と大変呆気なく白旗を挙げてしまった。

  *
 時刻は18時過ぎ、日は沈み、松山の表情は見えなくなった。先ほど近隣の方から「こんな時間に大声を出すな」とお叱りを受けたので複雑な顔をしているに違いない。流石の松山もお叱りを受けた直後に先ほどと同様のテンションで私たちを煽り倒したりはしない。再開の言葉を切り出そうにも切り出せず、もぞもぞしている様子である。耳をすませば「なんだよ、くそ」と小声でボヤいているのが聞こえる。
 一方絶対的に可愛い早瀬さんも反論の言葉が思い浮かばないようで傍らで俯いている。流石の彼女もラブラブ指摘を受けたばかりなので、私の制服の袖を掴んでは離してを繰り返す挙動不審ぶりを発揮している。恐らく、何らかの意図があっての演技なのだろうが。かくして双方ともに黙りこくってしまったので不思議な沈黙が漂っていた。
 私は彼女が反論しない理由を考えた。松山の推理は穴しかないように思われる。しかし彼女は早々に諦めてしまった。何故だろう。私はその理由として彼女のエスパーが関係しているのではないかと思いついた。そう、絶対的に可愛い早瀬さんには絶対的なチート能力「エスパー」がある。これまで超能力の類を一切信じてこなかった私だが、どこまでもどこまでも私を手玉に取るその実力から彼女のエスパーを信じざるを得なくなった。普通の人間に、この私が弄ばれるなど、あり得ないのだ。間違いない、彼女にはエスパーがある。彼女はそのエスパーで松山の脳内を見てしまったのだ。そして、そもそもこの男とは会話が成立し得ないことを悟られたのだ。
 こんな形で早瀬さんの口を封じてしまうとは、恐ろしい男だ、松山智成。
 このままでは朝まで不毛な時間を過ごしてしまう、それは私の望まぬところである。ここは私が口を開くしかない。
「松山」
 名前を呼ばれた松山は、不毛な沈黙が破られたことに安堵するように応える。
「どうした、負けを認めるか?」どこまでも自分勝手に考える奴である。
「確かに僕が今日初めて早瀬さんと会ったことは証明できない。しかし同様にお前も僕と早瀬さんが昔から繋がりを持っていたことを証明できない、違うか?」
 松山はしばらく黙り、「まぁ、それは、そうだけど」とごにょごにょ言う。
「要するにお前のそれは疑惑でしかない。疑惑で人を断罪することは余程の暴君でない限りできない」
松山は「わけの分からないことを言うな!」と大きな声を出した。あ、やっぱり、会話が成立しないのか。
 先ほどお叱りを受けた隣の家のおじいさんが「こら!何べん言うたら分かるんじゃ!騒ぐんじゃったら他所へ行ってやれ!」と今度は箒を持ってやって来た。大変お怒りになっている。松山はすぐに大きな声を出すから困る。
怒ったおじいさんは私と絶対的に可愛い早瀬さんのもとへやってきたが、絶対的に可愛い早瀬さんを視中に収めるなり、「なんじゃ、修羅場か?」と声を低くしてつぶやいた。まぁ、修羅場ではある。対おじいさんの。
「どういう状況じゃ」何故話に入ってくる?じいさん。
「そいつが俺を罠に嵌めたんだ!」松山が大きな声で私を指さす。
「何?本当か?どういうことじゃ!」それはあんただ、じいさんよ。
「あ、違うんです。言いがかりなんです」絶対的に可愛い早瀬さんがフォローに入る。おじいさんは絶対的に可愛い早瀬さんを見て何かを納得したように、「なるほど、ハニートラップか」とつぶやいた。何を言っているんだ、じいさん。
「わしも若い時は随分と無茶をしたが、いつの時代になっても人は変わらんのぉ」
 それからおじいさんは誰も聞いていない自身の武勇伝について語り出し、最近の若い者は発育が良いだの、寒くなると膝が痛くなるだのと関係のない話に至るまで自由にしゃべり続けた。松山が何度か「あの、すみません」「俺たち大事な話をしていて」等会話の主導権を握り、あわよくばおじいさんの退席を願おうと奮闘していたが、一向に止まない一人語りに遂には屈し、聞き専に徹した。
 19時過ぎ頃、一通りしゃべって満足したのか、おじいさんは私たちに、「しっかりと話し合って解決しろ」と言ったきり、会話の主導権を私たちに返した。そのまま帰るかと思われたのだが、おじいさんは何故かその場に留まった。

  *
 何故だか一人傍観者が増えたが、時刻は19時を回っている。明日も学校だ。いつまでもこんな不毛な時間を過ごすわけにはいかない。
「松山、お前が早瀬さんのことを疑っているのは分かった、しかしそれは疑惑でしかない。早瀬さんが犯行時刻を『昨日の放課後』と特定したことも、単にそれが一番自然だと思っただけなのかもしれない。なにより、お前が言う通り犯行時刻は早朝という線も捨てきれない、もしそうだったのなら、彼女が犯行時刻を特定したことにはならない、よってこれも単なる疑惑止まりだ。」
「何を言っているのかさっぱり分からんぞ」分からないのなら黙っていてくれ、おじいさん。
「お前はそう言ってすぐ回りくどい説明をして話をはぐらかそうとするよな」私の理路整然としていたはずの反論は、内容が理解できないという理由で返された。松山の馬鹿さ加減を読み誤っていた。絶対的に可愛い早瀬さんが早々と反論を諦めたのも頷ける。
「分かった、じゃあ早瀬さんが疑わしいとしよう、しかしそれがどうして僕が犯人だということに繋がるのか分からないな」この手の言い返しは絶対的に可愛い早瀬さんを見捨てて保身に走っているようで使いたくなかったのだが、止むを得ない。
「僕と早瀬さんが親しい仲にあることと犯人であるということは別問題じゃないか?」
「いやいやお前が犯人だよ、椚田」
「僕がお前に恨みを抱いているからか?」まぁ、動機はそれだが、それは証拠にならない。
クククと松山が大仰に笑う。
「お前、今朝、何回『ぶひぃーーっ!!』って言ったんだ?」

  *
 やはり、その点を突いてくるか。
 私は唾を飲み込み反論の言葉を探す。「事件発覚日、普段とらない行動をとっている奴がいる、怪しい」というのが松山の論である。結局は疑惑止まりなのだが、目の付け所は悔しいことに正しい。
「俺はお前と3年間同じクラスにいるが、お前が『ぶひぃーーっ!!』って言うのを初めて聞いた。だが不思議なことにお前は今日トイレの中で、また、俺がクラス中から馬鹿にされている最中にも『ぶひぃーーっ!!』と言った。何故だ?何故今日に限ってお前は『ぶひぃーーっ!!』って言うんだ?くしゃみか?くしゃみを我慢して『ぶひぃーーっ!!』と言ったのか?だが3年間同じクラスにいてお前はくしゃみをしたこはあったが、『ぶひぃーーっ!!』と言ったことはない。つまり、くしゃみではない!くしゃみじゃないなら、人はいつ『ぶひぃーーっ!!』というんだ?」
 私は黙って反論の言葉を考える。どんな時に「ぶひぃーーっ!!」と言うかって?言わねぇよ、普通は。そしてどうやら悲しいことに私は普通ではなかったらしい。
「俺は一つの可能性を考えた。お前は『笑いを吹き出す』時に『ぶひぃーーっ!!』と言うのではないか。そうしたら全部納得がいく。まずお前はトイレの中で自身の計画を振り返る、そして俺が慌てふためく様子を思い浮かべ『ぶひぃーーっ!!』と吹き出してしまった。きっとお前はその時笑いを堪えておく必要性を感じたんだ。トイレから出た際、俺に『ぶひぃーーっ!!』を聞かれたお前は余計にその必要性を感じた。だからお前は急に覚えてもいない般若心経を検索し唱えだした。結果は『ぶひぃーーっ!!』を我慢できずこうして俺に今問い詰められているわけだがな!この豚野郎!」
 私は自身の額に汗の粒が大量に浮かんでいることに気付いた。なんて恐ろしい男だ松山智成!馬鹿な癖にほぼ正確に私の思考をトレースして『ぶひぃーーっ!!』の核心にまで迫って来てしまった。まさかこんな馬鹿推理一つで私の犯行は露見してしまうのか?犯行の手口もアリバイ工作の謎も何一つ解明されていないのに、負けを認めなければならないのか?
「どうなんだ?椚田、反論の機会を与えてやるよ、ただし今すぐにだ。お前はどうして今日に限って『ぶひぃーーっ‼』なんて妙な言葉を発したんだ?繰り返す。どうして今日に限って『ぶひぃーーっ!!』なんて妙な言葉を発したんだ?今すぐ答えろ!自分の言動だ、答えられない訳がねぇだろ!さぁ!」
 しばし沈黙が訪れる。
 答えられる訳がない。

「ターイムオーバァー!」松山が意気揚々と勝利を宣言する。
「なんじゃ、よく分からんがお前、『ぶひぃーーっ!!』って言ったのか?」おじいさんは好奇の目を私に向ける。
「先輩…」絶対的に可愛い早瀬さんは心配するような目で私を見る。全く、「ぶひぃーーっ!!」を抑えられなかっただけでここまで劣勢に立たされるとは想像だにしなかった。非常に厄介な問題である。「ぶひぃーーっ!!」の厄介な点は主に次の3つである。

①「ぶひぃーーっ!!」と口にする状況を説明しなければならない。
②これまで「ぶひぃーーっ!!」と口にしてこなかった理由を説明しなければならない。
③今後①で設定した状況下では「ぶひぃーーっ!!」と口にしなければならない。

 下手な嘘はつけない。下手な嘘をつけば、それはすぐさま敗北へと繋がる。①の問題の厄介さは妥当性、そもそも人間の遺伝子には「ぶひぃーーっ!!」と口走るようには記されていない。私たちが「ぶひぃーーっ!!」と口走ることは反遺伝的であり、意図的でなければならない。しかし、私たちが生きる社会でさえ「ぶひぃーーっ!!」と口走るようには設計されていない。「ぶひぃーーっ!!」と口走ることは遺伝的にも社会的でもないため不自然極まりないのである。
 しかし私は、恐らく遺伝的なのであろう、「ぶひぃーーっ!!」と口走ってしまった。遺伝的であり生理的であることからそこには原因と再現性がある。笑いを堪えようとして吹き出してしまうことがその原因であろう。
 ここまで考えて自身の失敗に気付く。そのまま答えれば良かった。「笑いを堪えようとして吹き出してしまった」と。思い返せばぼっちの高校生活、ぼっちとは言え、笑うことはあるし吹き出すこともある。しかし、笑いを堪えて吹き出すという場面はなかったのではないか。
 この理由をそのまま使えばトイレでの「ぶひぃーーっ!!」は「SNSを見ていたら面白い投稿があった。ぼっちの身分でありながらトイレ個室で笑い声を挙げることを躊躇ったが抑えることができなかった」と弁明することができる。
 教室での「ぶひぃーーっ!!」も「気に食わない松山が追い詰められている様子が可笑しかった」と弁明できる、自然だ。
 しかし、松山が設けた早すぎるタイムリミットはとうに過ぎてしまった。この程度の釈明が咄嗟にできないこと、それはそれで怪しい。もうこの言い訳は使えない。
「沈黙がお前の答えだよな?椚田、お前があのいかれた文章を書いて金谷の机に入れたんだろ!」
「違う!言いがかりだ!」汗が滝のように流れる。ふざけた馬鹿推理に、いかれた馬鹿推理に負ける!元来私たちが人を非難するのに証拠なんていらない。それっぽい憶測と不審な点があれば人は人を攻撃する。冤罪かどうか考えることなくテレビで報道された容疑者を私たちは「最低だ」と断罪する。攻撃するだけなら証拠はいらない。単なる松山の憶測、「ぶひぃーーっ!!」を弁明できない私の不審な点、攻撃を受けるに十分である。
「先輩が、やったんですか?」絶対的に可愛い早瀬さんが震える声で尋ねる。
 彼女はエスパーで私が犯人だと知っているはずである。それ故、苺パフェで買収したのだ。正確にはまだまだ搾り取られそうではあるが、今の彼女の質問の意図が分からない。ここでやったと認めれば私と彼女の隷属関係は白紙になる。彼女はそれを危惧しているのであろうか。もしくはこんな所で負けるなと、まだ道はあると言いたいのであろうか。まだ道が・・・。
 その時、電光のよう閃きが脳裏をよぎった。狭く細いが確かに、活路が見えた。
  *
 はぁ~と長い溜息を吐き出す。
「どうした、観念したか?」松山が余裕を含んだ声で降伏を促がす。
 だが、負ける訳にはいかない。
「いや、お前の妄想も、めんどくさいなって思って」
「妄想?じゃあ説明してくれよ、あの『ぶひぃーーっ!!』はなんなんだよ」
 本当に、めんどくさい男だ、松山智成という男は。

「いやだ」
「は?」松山は拍子抜けした声をだす。
「言いたくない」
「は?言いたくないじゃ通じないだろう」
「お前に言えるのは次の3つだ。①トイレでの『ぶひぃーーっ!!』と教室での『ぶひぃーーっ!!』を混同するな②お前に話す義理はない③僕は犯人ではない」
 私の作戦は、「弁明できないのではなく、弁明しないのだ」と主張し通すことである。正直作戦とは言えないが、これしか道はない。
「トイレでの『ぶひぃーーっ!!』と教室での『ぶひぃーーっ!!』を混同するな?どういうことだ!」
「わしも分からんぞ!分かるように話せ!」
「さぁな、自分で考えな」
「お前!誰に向かって口を聞いとるんじゃ!」非常に厄介なじいさんだ。
 この作戦の目的は、今の優劣関係をフラットにすること、劣勢な状況で切り札を出しても逆に怪しまれるだけである。本当は優勢な状況で用いてこそ、相手を仕留める一撃となる。
「トイレの『ぶひぃーーっ!!』と教室での『ぶひぃーーっ!!』は同じではない?そもそも『ぶひぃーーっ!!』ってなんなんだ?」松山がぶつくさとつぶやいている。狙い通り、沼に嵌った。実際にはトイレでの「ぶひぃーーっ!!」も教室での「ぶひぃーーっ!!」も同種である。しかしその真偽を松山が確かめる術はない。松山は不必要にも仮説の再構築を強いられる。そしてそれはカモフラージュであり、本来の狙いは②の話す義理はないという主張を通すことにある。あいつが①の沼に嵌っている間に私は②の姿勢を盤石なものとする。私が言いたくないと主張するのはさも当然の権利であるかのように錯覚させる。
 かくして、「君にこの謎が解けるかな?この謎が解けたら本当のことを話してあげよう」という謎の立場逆転現象が生じた。そして松山は既に謎の解明に至ったものの、偽りのヒントに惑わされたため、決して終わることのない回廊に迷い込んでしまった。
 一応トイレでの「ぶひぃーーっ!!」はSNSで推しのスクープ報道を知ってしまったため、教室ではたまたま女子のスカートの中が見えてしまった云々とオタクチックな言い訳を考えはした。これなら言いたくないと主張し通すのも最もであり、絶対的に可愛い早瀬さんにはエスパーであるから誤解されない。ギリギリ有効な弁明である。実際に女子のスカートの中を見ても「ぶひぃーーっ!!」などと口走るやつはいないだろうが、それは確かめ得ない。
 自身の中で弁明の構築が完成したが、これは表には出さない。松山が沼に嵌っている間に論点をずらす。攻めるなら今だ。

「いろいろ考えてくれているようだが松山、そもそも根本的なことを話しておかなければいけないようだ」
「は?なんだよ?」
「いつ犯行が行われたのか知らないが、僕にはアリバイがある」

  *
「アリバイだと?」松山が不審がる様子で応える。
「そうだ、僕は昨日の放課後、美術部の打ち上げに参加していた。美術部の奴らが証人だ」
「美術部の、打ち上げ?あ、いや待て!なんで犯行時刻が昨日の放課後って断定できるんだよ!やっぱりお前が犯人なんだろ!」
「昨日は現代文の授業があった。細工されたのは現代文のノートだろ?昨日以前に細工されたならどうしてお前が気付かない」
「昨日が無理でも、朝ならどうだ!朝なら可能だ!」
「朝に細工する場合、朝一番に登校する必要がある。僕がトイレにいる時、鞄を持っていたのを松山も見ただろ?僕は別に朝一番に登校した訳でもない。多分朝一番に登校し、教室の鍵を開けたのは木村君じゃないかな?彼に聞けば分かるよ」
「朝一番に登校し、そのまま細工する!そして鍵を返してトイレで時間が経つのを待つ。これなら犯行は可能だ!トイレ内に鞄を持ち込んでいる理由も説明がつく!」
「それじゃあ職員室の先生に聞けば分かるさ。生徒が勝手に鍵を持っていくことはできない。必ず先生に渡してもらう必要がある。」
「くそ!何か抜け道があるはずだ!」
「じゃあその抜け道がなんなのか頑張って探してくれ」
 松山はしばし考える。どうやら論点のすり替えに成功したらしい。なんとか「ぶひぃーーっ‼」の詰問から逃れることができた。そして今は私の領域、馬鹿な松山には、私のアリバイ工作は見破れない。
「美術部の打ち上げは何時から何時までやったんだ?」
「放課後になってから18時まで、その後はカラオケで二次会だ。僕もそこに参加している」厳しい出費だったが、アリバイ工作のため涙を呑んだ。
「それを証明できるのは誰だ?一人で打ち上げをして一人でカラオケに行ったというオチはないか」
「4組の田村君もその場にいたよ。」人を馬鹿にするのも大概にしやがれ。
「打ち上げ中はずっとその場にいたのか?」
「トイレとかで10分程席を外すことはあったかな」
「そこだ!そこでお前はダッシュで教室に行き、俺のノートにあの文章を書いて金谷の机に入れたんだ!」
「あの文章、結構な分量あったよな?ダッシュで走って教室に行って、相当な分量をお前の筆跡を真似て書く、流石に10分じゃ無理だろう」
「だがお前はやった!やってのけた!」
「やってねえよ、人を怪物みたいに言うな」
「何かカラクリがあるはずだ!そうだ!文章は前もって書かれていて、お前はダッシュで教室に行き俺の机からノートを取り出して金谷の机にノートを入れた!」
「お前はそれまであの文章に気付かなかったのか?」
「気付かなかったのだから仕方ねぇ!」
「仕方ないで片づけるな!そんな不確かな理由で人を疑うな!そもそも前もって文章が書かれていたのなら、わざわざ一度危険を冒してまでお前の机にノートを入れる意味がない。そのまま金谷さんの机に入れるだろ。」
「くっっ」松山が言い淀む。
 そろそろ潮時だ。
「そういうお前はどうなんだよ」
「何がだ?」
「お前は、アリバイがあるのか?」
 松山が返答に窮している。どうやら、ないらしい。
「お前さ、自分のことは棚上げして、人にいちゃもんつけて、ほんと自分勝手だよな」
「なんだと!」松山が土管から飛び降りる。暗さもあってか、距離感を見誤った松山は尻もちをつく。「ちくしょう」とこぼした松山はひどく哀れであった。
「今回のことで、少しは学習していると思ったんだけど、期待した僕が阿呆だったな」
「・・・なんのことだ」
「いや、いいよ、そういうのは自分で気づくべきもんだ」
「なんだよ、はっきり言えよ!」
「そうだな、お前の推理で一つだけ、間違っていないことがあるんだ」
「なんだと」
 私は尻もちをついている松山の元へ近づき、見下ろす。この言葉をこいつにぶつける日を、どれだけ待ち侘びたことか。
「僕はお前が嫌いだ。お前はもう少し、人の気持ちを考えた方がいい」
 松山の目が大きく見開かれる。
 松山は何か言いかけたが、それ以上何かを言い返すことはなかった。

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