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88.黒翼
しおりを挟むベッドの上で横になった体制のまま転移したから、救護室の空いていたベッドを目標にした。
リュラは様子見のためか今も救護室で寝ていて、院長が椅子に座って付き添っていた。
丸1日意識がなかったならリュラも眠れないんじゃないかと思っていたけど、よく眠っている。ちゃんと気配もあって安心した。
魂が抜けて意識がない状態というのは、睡眠とは別の状態なんだろうか。
「もう来ましたか。人間というのは忙しないですね」
リュラばかり見て考えていたから、いきなり足元のほうからした声に心臓が止まるような思いをする。
気配はなかった。
ゆっくり視線を移すと、リュラの言っていたことがよく分かる。
どんな人物かというよりも、まずその大きな黒い翼に目を奪われたからだ。
僕が横たわるベッドの端に腰をかけていて、声も表情も穏やかだ。
髪は黒いけど、リリスやマリスのように艶やかな黒髪とは違う。光を反射せず呑み込む、闇の色と表現したほうがしっくりくる。
そして翼だけじゃなく、服も瞳も全てが黒かった。服は修道服に似ているけど、見たこともないような細部に凝った造形はタタラの服を思い出させる。
その人物は顔を傾けて、黒い瞳を僕に向けてきた。
「貴方がこの女性の魂に触れたのは気付きましたよ。なのに側には気配が感じられない。こんなことが出来る人間が地上にいるとは思いませんでした」
女性と言われて、つい院長のほうを見る。
院長は声がしたことにも気付いていない。僕にだけ分かるようにしているらしい。
「ああ、少女と言ったほうがいいですね。地上の人間はすぐに変化しますから、使い分けを忘れていました」
見た目は聖者様よりも少し年上くらいだろうか。落ち着いた大人という印象でありながら、どこか気圧されるものを感じる。
「ですが変化が早いからこそ忙しないのでしょう。明日中にはまた来るだろうと思っていましたが、余程心配なのですね」
僕が何も言わなくても、独り言のように続けた。
「これほど近付かなければ気配を見つけられない。その上“神の怒り”を同じ力で打ち消した。だから貴方が何者であるかは、確信しているのですよ。これでも神と共に地上を創ったひとりですから」
創世記には、神は最初に創った十体の天使と共に地上を創造したと記されている。
それならやっぱり、目の前のこの人物はルシウスだ。
「神は、新しい魂が生まれるときには、地上で肉体を持って生まれるように『設計』されたのです。魂にとって地上が故郷であるように」
天界にいる魂でも、本能のように地上に焦がれると聖者様から聞いた。
原初の魂から、人は地上で生まれていたんだろう。
「そうまでして地上に焦がれさせておいて、地獄の最下層にいる魂への救済は後回しにしているのですよ。地上ばかりを優先する今のやり方を、貴方はどう思われますか?」
初めて問いかけられて、反応を観察されているような緊張に息を呑む。
だけど気圧されたままじゃいられない。
「最下層の救済自体は良いことだと思う。だけど魂攫いで地上の魂を使うやり方は勝手過ぎるよ」
「魂攫い…」
ルシウスは僕の言葉を繰り返したけど、聞き返しもせずにすぐに納得する。
「ああ、あれを魂攫いと呼んでいるのですね。なるほど、ただの魂の消滅として片付けるほど天界も節穴ではありませんでしたか」
その言葉にもルシウス自身からも、悪意は感じられない。
自分のしていることが正しいと思っている。
「ルシウスは魂攫いと無関係だって思いたい天使もいるのに…!」
幻妖精たちの様子を思い出すと、ルシウスが平然としていることに苛立ちを感じる。僕はその思いをぶつけたくて、体を起こして目をしっかりと合わせた。
…そのつもりだったけど、何かおかしい。
白目すらない全てが黒い瞳のせいか、視線が合っているような気がしない。
「私に聞かせる意思があったから声は聞こえますが、対話に応じる気があるならば、姿を見せてはくれませんか?」
そう言われて、自分の気配隠蔽はそのままだったことを思い出す。僕が隠れているタタラの気配を見つけたときと、似たような状態なんだろう。
警戒するべき相手に姿を見せていいものか、少し迷う。
「そのままでも構いませんが、タタラが見聞きした情報は伝わっていますから、姿は分かっているのですよ。神の色を受け継いでいるのでしょう」
姿を知られているなら、今さら隠れても仕方ない。
対話をするというのなら、確かに姿を見せるべきだろう。
ただ、悪意を感じられないからといって信用も出来ない。僕はルシウスに対しての気配隠蔽を解くと同時に、嘘が分かる“審判”という魔法も使った。
「…聖者は、外見からも人目を惹くように彫刻的な美しさを持っていますが、あなたは人間として温かみのある美しさですね。その色も、神に愛されているのでしょう」
子どもとして可愛いと言われたことはあっても、美しいなんて言われたことはない。
そして今、審判のせいで相手が嘘を言っていないのも分かるから、むず痒い気持ちにもなる。
「天使は、神とは違う色で創られました。だから神具を賜ることになったとき、私たち十大天使が『神の色を身に着けたい』とねだったのです。私の神具は、私が変異してから腐蝕して崩れ落ちてしまいましたが」
そう言いながら、何の装飾具もない腕をさする。
審判の魔法は、その名の通り天界の審判で使われているものだろう。言葉の真偽だけじゃなく、それに関わる罪も分かる。
何があったかまでは分からない。だけど今のルシウスの言葉には、確かに「人の魂を消滅させた」という罪が含まれていた。
やっぱりそんな罪を犯した相手に、油断をしてはいけない。
「どうしてリュ…彼女を狙った?」
無駄かもしれないけど、出来るだけ名前も知られないよう問い質す。
「私からもお聞きしたい。貴方が最後に確認された場所からは距離があるはずなのに、何故気付いたのか」
首を傾げながら、リュラのほうをじっと見つめる。
「元からの知己にしても、気配を探れなければ気付けるものではないでしょう。頻繁に会っていたなら血縁者でしょうか」
僕の反応も見ながら、本当に考え込んでいる。
聖者様が、僕の関係者だから狙われたわけじゃないと言ったのは当たっていたようだ。
それなら、正直に答えないほうがいいだろう。
「それよりも、生きている人間の魂を狙ったことだよ」
相手も審判の魔法を使っているかもしれない。
嘘は吐かないように、話をすり替えてみる。
それを見透かした上でなのか、ルシウスは微かに口角を上げて僕に応じた。
「神への信仰篤いこの国で、寿命を迎えていないような若者ばかりが次々と命を落としたら、信仰が揺らぐと思いませんか?」
ルシウスも嘘は吐いていない。
だけど質問に質問で返された形だから、単にはぐらかされたとも思える。
「それにしても、加護とは厄介なことをしましたね」
厄介と言いつつ、困っている様子もない。
「狙われたんだから、守るよ」
「守る? あれで?」
視線をまた僕へと戻し、嘲笑するような声を投げられる。
「人間は異物を排除するものでしょう。神具もない彼女の周囲で加護が発動すれば、むしろ異端審問にかけられる可能性など考えなかったのですか? 適当な理由をつけて加護を公表したとしても、この平凡そうな彼女が何故と、妬みの対象にもなり得るのに」
騒ぎになるだろうとは、思っていた。
だけど騒ぎのその先までは、考えが及んでいなかった。
「浄化で他人の悪意からの影響を防げたとしても、平穏ではいられないでしょう。酷なことをするのですね」
「…そう言って、守護を解かせるつもり?」
いっそ悪意を感じられたら良かったのに。言っていることはその通りだ。
「守りたければ守っていればいいのですよ。その代わりに他の人間がどうなるか分かりませんが」
完全に脅しだけれど、どうなるか分からないという言葉に引っ掛かった。
「世界がどうなるか分からないっていうのは…?」
神の頼みだからじゃなく僕自身が、相手を拘束してでも聞かなければと思った。
だけど魂縛を使おうとして、それは効かないと感じる。
「さすがに本体で地上に長居すれば、天界にも気付かれますからね」
僕の反応を敏く察知して、何をしようとしたのか分かっているとでも言いたげだ。
目の前にいるのは、僕が身代わりに置いて来たのと同じ幻影体だった。だけど僕が使う幻影体は、こんなに自由に会話は出来ないはずなのに、目の前の幻影体はどうなっているのか分からない。
「あなたは見た目通りの若さなのでしょう。いくら神に近い力を持っていても、魔法の応用や複数の魔法を掛け合わせることも出来ないようであれば、私を出し抜くなど無理ですよ」
せせら笑うような言葉に、圧倒的に経験が足りないことを嫌でも思い知らされた。
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