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31.審判
しおりを挟む声はダンのものだった。
だけど、いつもより低い重厚な声で、それがあちこちに反響しているように聞こえるから、一瞬誰の声なのか分からなかった。人間が発声したとすら思えない。
「今、俺の口が勝手に…」
本人は自分の口を手で押えて、この場で一番驚いた顔をしている。
「…神託だ」
聖者様が眉をひそめた。
マリスは大鎌を手元に戻す。
「神が直々に審判を下されましたよ。あなたは病める魂として、癒しを受けることになります」
その言葉に、メリアは呆然と天を仰ぐ。
「狂信者…? 病める魂…? わたくしが、狂っているとおっしゃるのですか」
あれほど狂気に溢れていたのに、まるで自覚がなかったらしい。
でも狂うとは、そういうことなんだろう。
「甘くないか」
聖者様は不満げだ。ルルビィさんの体を奪われそうになったのだから、気持ちは分かる。
「聖者本来の役目は果たせませんでしたが、あのとき“神の怒り”が打たれたことで、聖教会上層部の綱紀粛正にはなったのです。そのことを考慮されたのかもしれません」
「それを功績とするのか。相変わらず胸クソ悪い考え方だな」
それは多分、聖者様の死が効果的だったという考えを僕が受け入れられないのと同じだ。
「わたくしは神に尽くそうとしたのに。たくさんたくさん、神の元に清らかな乙女を送るために。短剣が刃こぼれしないように、骨を避けて太い血管を狙って…でも、脂で段々切れ味が悪くなるから……」
笑いながら、涙を流しながら、メリアは天を仰ぎ続けた。
「だけど死の間際に悟ったのです。ほかの女では代わりにならないのだと。だってそうでしょう、あのとき特別だと言われたのはわたくしなのだから。なのにどうして…どうしてどうしてどうして!!」
激しくかぶりを振り出したメリアに、リリスが慌てて鎖を引き直す。
「マリス! 暴れそうですわ!!」
「やはり切り離さないといけませんか」
大鎌を構え直そうとするマリスの前に、僕は足を進めた。
過去に教会で修道女たちにしたことや、ルルビィさんの体を自分の物にしようとしたこと。許せないこともあるけど、僕が今一番感じているのは同情みたいなものだと思う。
「神に直接聞けばいいよ」
どうして特別だという理由をちゃんと説明しなかったのか。
どうして「狂信者」なんて言葉を使って、メリアの狂気にとどめを刺すような神託をしたのか。
僕だって聞きたい。
「病める魂は、神の御許に行くんだよね。そこで直接聞けばいい」
メリアは首だけを動かして、僕に顔を向ける。
「そうよ…そうだわ、きっとわたくしを早く呼び寄せるためにそのような方便を使われたのですね」
どこまでも自分の都合のいいように受け止めている。
でも、こうすることで心が完全に壊れることを防いでいるのかもしれない。
「わたくしのような高位の魂が入っても、この若い肉体ならまだ――」
「余計なことを言わせるな!」
突然、聖者様がメリアの言葉を遮るように声を上げた。
マリスがハッとしたように僕を見て、メリアに向かって再び大鎌を振りかざす。
だけど僕はそれで、聖者様が止めようとした言葉をなんとなく分かってしまった。
僕が地上の位階とかけ離れた魂を持って生まれたら、普通の肉体では心配だと神が言ったのだから。
「いいよ、大丈夫」
手を上げてマリスを制止する。
血塗れの聖女を庇うような形になるのは、なんだか変な気分だ。
「…そんなわずかな時間も待てないほどに、わたくしを望んでくださるのですね」
メリアのほうは、周囲の動きに関係なく話し続けていたらしい。
そして満足したのか、ゆっくりと立ち上がるようにルルビィさんの体から離れていく。
それと同時にルルビィさんが崩れ落ちそうなるのを見て、僕は慌てて重力魔法を解いた。
聖者様は素早くその体を受け止める。
ルルビィさんは、手を着いたところに尖った石でもあったのか、手のひらに血がにじんでいた。
「ごめん、ルルビィさん! すぐ治癒するから」
「いい、俺がやる」
別に直接触れなくても治癒はできるはずなのに、聖者様はルルビィさんの手をしっかりと握って治癒をかけ始める。
この独占欲で、どの口が婚約破棄なんて言い出したんだろう。
「全身にかけてくださいよ。重力魔法をかけ続けてましたから」
「分かった」
そして全身に治癒魔法がかけられたのに、ルルビィさんはまだ意識があるのかよく分からない虚ろな目をしていた。
「半日ほどもほかの魂に体の主導権を奪われていたのですから、麻痺のようなものでしょう。感覚が戻ったら、むしろ体をしっかり動かしたほうが良いと思います」
いつの間にか大鎌を消して手首に腕輪の戻ったマリスが、しっかりとリリスの側に寄り添って、その体に腕を回すように一緒に鎖を握っている。
「それでライルさん、私どもはいつまでこの姿でいられるのでしょう。このまま天界にメリアを連れて行っても大丈夫でしょうか」
「…あれ、お前がやったのか?」
聖者様から、またとんでもないことを、とでも言いたげな視線が向けられる。
「えっと、それは――」
説明をしようと口を開いた、そのとき。
「ぁー…」
微かに、声のようなものが聞こえた。
「何か声がしませんでした?」
「いや?」
「別に?」
聖者様とダンは気付かなかったらしい。
「聞こえた気はするわよ」
サリアはダンの後ろに隠れたまま答える。
まだメリアがそこにいるから、顔を出せないみたいだ。
「蝿…いえ、蚊です」
表情を変えないまま、マリスが天を仰いだ。
「虫じゃないと思うけど」
「年若い人間にしか聞こえにくい音域の比喩ですよ」
そう言って、マリスはリリスを抱き寄せるようにして一歩下がる。
「様ぁー!!」
今度はかなりはっきり聞こえたかと思うと、リリスがさっきまでいた場所の間近に何かが落下した。
地面に激突したんじゃないかという勢いだったけど、それは空中でピタリと止まっている。
「リリス様ぁ!!」
天使だ。
女の子のような高い声だけど、見た目は僕より少し年上くらいで、少年と言われればそうかもしれないと思える。
中性的なその姿は、僕の知っている十大天使以外の天使画にイメージが一番近い。
「あら、クリス! あなたが魂を迎えに来ましたの?」
「天使に戻られたのですね、良かったぁ!! もう忙しくて死にそうです!!」
空中に浮かんだまま、リリスに勢い良く抱き着く。
「クリス様。天使は過労で消滅しません。横着せずに転移でおいでください」
マリスが対抗するようにリリスを強く抱き締めると、クリスと呼ばれた天使は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
「マリス様、私に様付けなどおやめください!」
「私どもは今、正位の天使ではありません。あなたは第135位の天使なのですから当然でしょう」
クリスはリリスの翼に隠れるようにしながら、マリスを見上げる。
「マリス様のそういうところは、お変わりないのですね」
「そこが素敵ですの!」
リリスは幸せそうに、マリスの肩に頭をのせる。
仕事さえちゃんとしていれば、今もずっとこうしていられただろうに。
「ではクリス様。早急に引継ぎをお願いします」
そんな反省が活きているのかは分からないけど、マリスが急かす。
リリスとの天使姿での再会を、早く満喫したいんだろう。
でも、神託が下されて天使がメリアの魂を迎えに来たということは、多分神は今の状況を把握している。
「もっとリリス様とお話ししたかったのに…」
そう言いながらクリスが左腕を上げると、その手首の腕輪から鳥カゴみたいなものが現れた。
天使の装飾具は、いろいろと道具になるらしい。
「もう抵抗の意志はないようですから、このままでも連れて行けそうですわよ?」
リリスが鎖を解くと、メリアの姿が光の球のようになってカゴの中に吸い込まれた。
「100年も逃げおおせていたのですから、念のためです! ただ連れて行くだけならもっと下位の天使でも…」
「あああ!」
クリスが話し終える前に、悲鳴が上がった。
引継ぎを終えた途端、リリスとマリスが幻妖精の姿に戻っている。
…やっぱり神は、見ていたらしい。
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