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6章
(20)蒼ざめた馬
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「うああああ゛──ッ!!」
魂を引き裂くような絶叫が迸る。それが自分の喉から発せられているものであると、エトロはしばらく気づけなかった。
初めて会った時から少し伸びた黒髪が、得体の知れない影に飲み込まれる。瑞々しい音を立てながら形がひしゃげ、広がり、煙のように空へ伸び、エトロから遠ざかっていく。
煙の表面は、てらてらと月明かりを反射する鱗がびっしりと生い茂っていた。煙は上に行くほど枝分かれし、長い手足を緩やかに形成する。
すでに夜に沈んだエラムラに、より深い影が差した気がした。煙から生まれた竜は、最後に細長い尾先を地面から引きはがして、とぐろを巻きながら空へと頭をもたげた。
『――――――――――ッ!!!』
音ではなく、衝撃そのものだった。エラムラの中心で爆発した咆哮は、建物を根こそぎなぎ倒し、天空の雲を吹き散らした。竜のそばにいたエトロたちは埃のように宙を舞い、肺に溜まっていた空気が一瞬で押し潰された。
「ぁ──!」
悲鳴を上げたいのに、全く声が出なかった。目にも止まらぬ速さで天地が入れ替わり、遠心力で背骨が折れそうになる。自分がどのような状態で空を待っているか考えたくなかった。
「うぅりゃああああああッ!」
爆風に乗って、幼い絶叫がエトロの耳に届く。刹那、緩やかに身体の回転が止まり、強烈な浮遊感が薄れていった。
「ッぇ゛……!」
猛烈な吐き気が口から飛び出す。ほとんど力の入っていない嘔吐では、大した量を吐き出せなかった。
手を握られた。シャルだ。『重力操作』で浮かされているのだろう。なぶるような突風で身体が流され、二人の身体がぶつかったり離れたりしてしまう。
エトロはぐちゃぐちゃになった顔をそのままに、必死に目をこじ開けた。
幼い頃から親しみ、ほんの少しの憧れを抱いていたエラムラの里。いまやそこは、真っ黒な竜巻が渦巻く地獄の坩堝と化していた。
どこからか雷鳴が轟いた。咆哮に呼ばれた暗雲が、自ら竜巻の糧となるべく集まってきているのだ。
『――――――――ッ!!』
漆黒の竜が嘆いている。パッと視界が白く染まり、つんざくような雷音が巨体に落ちた。
鱗越しに青白い骨が透けて見える。クラトネールを思わせる蛇腹がうねり、四つの手足がシルエットを描きながら夜を泳いでいた。しかし巨体を操る頭部だけは、依然として煙のまま輪郭を失っていた。
災厄の竜、マガツヒ。
伝承によれば、その竜が息をするだけで病が蔓延り、翼が空を叩くだけで気候の律が外れるという。これを滅しなければあらゆる生命が失われるという邪悪な存在。
「……リョーホ」
一緒に里を作ろうと言ってくれた最愛を中心に、終末の日が始まった。
・・・───・・・
荒れ狂う黒い竜巻が、ドリルのように地面を抉る。民の避難は遅々として進まず、飛来した民家でまた大勢の人間が押し潰されていった。
これ以上竜巻の規模が拡大すれば、誰もマガツヒを止められなくなる。歴戦の狩人たちはすでに、命を捨てる覚悟で竜巻の足元へと集っていた。
「く、おおおおおッ!」
ハインキーの『堅牢』が竜巻を受け止め、両腕で押しつぶすように拡大を妨害する。しかし人間たった一人の力では、いくら強力な菌糸能力があろうと完封できるはずもない。
だとしても、人間一人で竜巻を抑え込めるのは奇跡に違いなかった。
「今のうちに逃げろ! 戦える奴だけ残れ!」
必死に指示を飛ばした途端、ハインキーの足が一メートルもずり下がった。誰がどう見ても長くは持つまい。
その時、竜巻からあぶれた岩石が、弧を描きながらハインキーへと襲いかかった。直撃する寸前、灼熱の散弾銃が岩石の土手っ腹を砕き、さらに後方の瓦礫も破壊していった。
ミッサは散弾銃のリロードをしながら吐き捨てる。
「チッ、瓦礫と竜巻が邪魔でマガツヒに届かないね!」
彼女が睨む視線の先には、ハウラの結界に阻まれながらも、窮屈そうに成長を続ける竜がいた。
「全員、今はマガツヒを引き止めることだけを考えろ! 山を越えさせたら逃げ場がなくなっちまう!」
「んなこと言ったって、これ以上どうすりゃいいんだ!」
狩人たちの嘆きが竜巻にかき消される。
例え空を飛べる菌糸能力持ちでも、あの高さまで追いつくのは至難だ。遠距離からの攻撃も、届く前に地面に落ちてしまうだろう。
竜巻によって、外壁上の砲台は全滅。リョーホの『雷光』の短剣も完全に消滅してしまった。
雷雲と禍々しい竜巻によって、鮮やかに瞬いていた星空は欠片も望めない。光源を失ったエラムラの里は暗澹として、崩壊の一途を辿っていた。
「──これが『因果の揺り返し』を拒み続けた結果。お前たちが選んだ運命だ」
竜巻を背に、一人の男が宙に浮いている。その男だけは物理現象から外れているかのように、血濡れの衣服も微風程度にしかたなびいていなかった。
ゴモリーは下で狼狽えることしかできない狩人たちを睥睨し、心にもない溜息をついた。
「大人しく予言書に従うのなら、エラムラの民を機械仕掛けの世界へ招き入れる。そう約束していたんだが……残念だ。親子揃って、私たちの運命に歯向かうなど」
「……親子って、どういうこと」
「レブナ隊長! まだ動いてはいけません!」
頭部の血を拭いながら、レブナがフラフラと起き上がる。守護狩人に抱き起こされた少女を見て、ゴモリーはやけに若々しい笑顔を浮かべた。
「そのままの意味さ。先代アドラン、そして息子のロッシュは私に取引を持ちかけた。終末の日が避けられないのなら、自分の里だけでも新世界へ迎え入れてほしいとな」
「そんな……そんなこと、ロッシュ様が言うはずない!」
「ああそうだろう。あれは己の醜聞を決して外部に漏らさない狡猾な男だった。ロッシュの本性を知る数少ない人間も、あえて奴の秘密から目を逸らした。故に、エラムラは安寧を保っていたのだ」
「何が言いたい!」
何度か倒れそうになりながら大鎌を展開する。ゴモリーは冷めた目つきでそれを眺めた後、適当な瓦礫へと視線を放った。
「あぁ、レブナ。お前も奴の真実を知る側の人間だったな。では、お前自身は自覚できているかね? エラムラの安寧の歪さを」
ぞわり、と心臓を死人の手で撫でられたような不快感が迫り上がる。
血の気が失せたレブナを尻目に、ゴモリーは淡々と口角を吊り上げた。
「結局はお前も、他の民と同じさ。ロッシュの苦しみを知っていながら見て見ぬフリをしたのは、決して優しさではない。自分がより楽に幸せに生きるための踏み台にするべく、ロッシュ一人に負担を押し付けたかった。そうだろう?」
「ッ違う!」
「違わないさ。お前はロッシュの自己犠牲に甘え続け、死ぬまでその魂を使い潰した。私が彼の魂を救済していなければ、お前はこれからもずっと、彼を足蹴にしながら幸せでいるつもりだったんだろう?」
「違う! 全部お前の妄想だ!」
言いたいことと思考が追いつかない。口の奥で無数の罵詈雑言と弁明が荒れ狂っているが、まとめられるだけの冷静さがなかった。焦れば焦るほど言葉が詰まって何も言えずもどかしい。
「認めてしまえよ。その耳は何のためについているんだ?」
ゴモリーの右手からドロリと真っ赤な繊維が溢れ、ミミズのように地面に落ちる。それは灯ひとつないエラムラの中で煌々と輝き、ゴモリーの輪郭を真下から照らし出した。
煉獄の悪魔が実在するのなら、きっとこのような顔をしていただろう。
「エラムラの里は確かに平和だ。ドラゴン狩りの最前線とは思えぬほどに。しかし、この里で幸福を享受できたのはエラムラの民だけだ。そこに里長の名は連なっていない。だというのに、その口でよくもまぁ、ロッシュは私たちの里長だと言い張れたものだ」
耳まで裂けた醜悪な笑みが、真上からレブナを、エラムラの人々を覗き込む。
ほんの一拍、脈が飛んだ。
瞬間、ゴモリーの両腕からダアトが決壊し、レブナたちに向けて雪崩れ込んできた。
レブナは咄嗟に避けれたが、近くにいたレブナの部下は反応が遅れてしまった。ぞりゅ、と肉質な音を立てて、腕、脇腹、足首と、順番にダアトに喰らいつかれる。ダアトの侵食は間もなく全身に及び、跡形もなく人が消えた。
「あ……」
腰が抜けてしまうほどの恐怖が一気に噴出した。
先ほどまでは、ロッシュを奪われた憎しみと怒りで精神を保っていられた。それがたった一度の攻撃で、あっという間に均衡が崩れ去った。
相対するだけでとめどなく溢れる恐怖。エラムラの狩人たちが一人、また一人と地面に両膝をついた。そして、はるか後方にいた民衆がパニックに陥った。
「いやあああ! 早くしてよ! ここから出してえええ!」
「ああどうか、我々をお守りください! ミカルラ様! アドラン様!」
「助けて! 誰かぁ!」
人々の喉から迸る恐怖が津波のように押し寄せて、レブナの身体が激しく震えた。
ゴモリーは逃げ惑う人々に嘆息すると、上空を泳ぎ、結界を食い破らんとするマガツヒを見やった。
「誰も彼も、自らで道を切り開けぬ弱者ばかり。やはり人工進化ではその程度よなぁ、浦敷博士」
真っ赤な繊維で塗れたゴモリーの両腕が、赤子を見せびらかすように高々と持ち上げられる。手のひらからだくだくとダアトが溢れ、ゆっくりと着実にエラムラを飲み込み始めた。
すぐ側まで身の危険が迫っているというのに、レブナは動けない。理性的な判断を下せなかった。
だって、勝てるわけがない。
里長も、エラムラの英雄もいないのに、凡人がどうやって化け物に立ち向かえるというのか。ヒトにできることなんてたがか知れているのに、何を思い上がっていたのだろう。
レブナは薄く唇を開いたまま、訪れる死を漫然と眺めた。
ダアトがレブナに触れる寸前。
「わたしが絶対に、エラムラを守る!」
エラムラの畏怖の象徴たる、黒い霧がダアトと真っ向から衝突する。『腐食』で満ち満ちた霧は、ダアトの赤い繊維を粉砕し、ゴモリーの元へと迫り上がった。
初めてゴモリーの表情に驚きが走る。
くっとゴモリーが宙を蹴るも、『腐食』に呑まれた親指から一気に壊死が広がった。
「……鬱陶しい」
ブゥン、と世界が揺らぎ、ゴモリーの足は健全な姿を取り戻す。しかしゴモリーの表情からは笑みが消えていた。
彼が見据える先には、漆黒の巨人が佇んでいた。エラムラの民を背に庇うかのように佇むそれは、巫女が使役する影鬼が巨大化した姿であった。
人々は、影鬼の肩に美しい純白を見つけた。影鬼の首に手を添え、悠然と敵を見据える巫女の背中は月光のようだ。彼女の長い銀髪が、闇に沈んだエラムラを強く照らし出した。
ハウラの拳が大きく振りかぶられる。同時に影鬼も剛腕を引き絞り、竜巻のど真ん中へ鉄拳を叩き込んだ。
砂の中で地雷が爆発したような、くぐもった衝撃が大地を揺らす。
その直後、漆黒の竜巻が甲高い断末魔をあげ、ど真ん中から破裂した。強風の残滓が頰を打ち付け、砂で澱んでいた空気が一気に晴れ渡る。
「竜巻が……消えた……」
腕を血まみれにしたハインキーの、呆然とした呟きがやけにはっきり響いた。洪水と化していたダアトも、ハウラが張り巡らせた『腐食』の壁によって押し留められている。風力を失い落下する瓦礫も、巨大な影鬼が全て受け止めて、民の上に大きな傘を作っていた。
たった一人で、崩壊が止まった。
すぅ、とハウラの呼吸が静寂を裂く。
「聞け! 皆の者!」
ビリビリと大気が震える。死臭が立ち込める戦場が真っさらな雨で洗われるような声だった。
「例えこの地が滅びようと、民の血が続く限りエラムラは滅びない! 我々の血肉は狩りによって作られた! 連綿と続く先代たちの戦魂が、わたしたちを今日まで生かしてきた!」
怒鳴りつけるような信愛が、人々の胸を打擲する。滞っていた脈拍が段々とペースを取り戻し、米神が轟々と鳴るほどに闘争心が湧き上がる。
人間は、最も歴史を愛する生き物だ。
動物でも死者を弔うことはあれど、墓を作るのは人間だけ。
先祖の犯した過ちに責任を感じるのも、同郷者の偉業を誇らしく思えるのも、人間のみ。
人間は、死人によって生かされていた。
「戦いとは、生き残るためにある!」
偉大な巫女、ミカルラの娘が未来を叫ぶ。絶望に打ちひしがれ、座り込んでしまったエラムラの狩人達が、その目に闘志を宿しながら次々に立ち上がる。現実から目を背け、俯いていた人々の顔が真っ直ぐと空を見据えた。
「戦え! あなた達は狩人の血を引く者! その血に応え、死ぬ気で抗いなさい! 人類史を守り続けた、誇り高き狩人たちよ!」
声高な激励が轟くや、鬨の声が後を追いかけた。
魂を引き裂くような絶叫が迸る。それが自分の喉から発せられているものであると、エトロはしばらく気づけなかった。
初めて会った時から少し伸びた黒髪が、得体の知れない影に飲み込まれる。瑞々しい音を立てながら形がひしゃげ、広がり、煙のように空へ伸び、エトロから遠ざかっていく。
煙の表面は、てらてらと月明かりを反射する鱗がびっしりと生い茂っていた。煙は上に行くほど枝分かれし、長い手足を緩やかに形成する。
すでに夜に沈んだエラムラに、より深い影が差した気がした。煙から生まれた竜は、最後に細長い尾先を地面から引きはがして、とぐろを巻きながら空へと頭をもたげた。
『――――――――――ッ!!!』
音ではなく、衝撃そのものだった。エラムラの中心で爆発した咆哮は、建物を根こそぎなぎ倒し、天空の雲を吹き散らした。竜のそばにいたエトロたちは埃のように宙を舞い、肺に溜まっていた空気が一瞬で押し潰された。
「ぁ──!」
悲鳴を上げたいのに、全く声が出なかった。目にも止まらぬ速さで天地が入れ替わり、遠心力で背骨が折れそうになる。自分がどのような状態で空を待っているか考えたくなかった。
「うぅりゃああああああッ!」
爆風に乗って、幼い絶叫がエトロの耳に届く。刹那、緩やかに身体の回転が止まり、強烈な浮遊感が薄れていった。
「ッぇ゛……!」
猛烈な吐き気が口から飛び出す。ほとんど力の入っていない嘔吐では、大した量を吐き出せなかった。
手を握られた。シャルだ。『重力操作』で浮かされているのだろう。なぶるような突風で身体が流され、二人の身体がぶつかったり離れたりしてしまう。
エトロはぐちゃぐちゃになった顔をそのままに、必死に目をこじ開けた。
幼い頃から親しみ、ほんの少しの憧れを抱いていたエラムラの里。いまやそこは、真っ黒な竜巻が渦巻く地獄の坩堝と化していた。
どこからか雷鳴が轟いた。咆哮に呼ばれた暗雲が、自ら竜巻の糧となるべく集まってきているのだ。
『――――――――ッ!!』
漆黒の竜が嘆いている。パッと視界が白く染まり、つんざくような雷音が巨体に落ちた。
鱗越しに青白い骨が透けて見える。クラトネールを思わせる蛇腹がうねり、四つの手足がシルエットを描きながら夜を泳いでいた。しかし巨体を操る頭部だけは、依然として煙のまま輪郭を失っていた。
災厄の竜、マガツヒ。
伝承によれば、その竜が息をするだけで病が蔓延り、翼が空を叩くだけで気候の律が外れるという。これを滅しなければあらゆる生命が失われるという邪悪な存在。
「……リョーホ」
一緒に里を作ろうと言ってくれた最愛を中心に、終末の日が始まった。
・・・───・・・
荒れ狂う黒い竜巻が、ドリルのように地面を抉る。民の避難は遅々として進まず、飛来した民家でまた大勢の人間が押し潰されていった。
これ以上竜巻の規模が拡大すれば、誰もマガツヒを止められなくなる。歴戦の狩人たちはすでに、命を捨てる覚悟で竜巻の足元へと集っていた。
「く、おおおおおッ!」
ハインキーの『堅牢』が竜巻を受け止め、両腕で押しつぶすように拡大を妨害する。しかし人間たった一人の力では、いくら強力な菌糸能力があろうと完封できるはずもない。
だとしても、人間一人で竜巻を抑え込めるのは奇跡に違いなかった。
「今のうちに逃げろ! 戦える奴だけ残れ!」
必死に指示を飛ばした途端、ハインキーの足が一メートルもずり下がった。誰がどう見ても長くは持つまい。
その時、竜巻からあぶれた岩石が、弧を描きながらハインキーへと襲いかかった。直撃する寸前、灼熱の散弾銃が岩石の土手っ腹を砕き、さらに後方の瓦礫も破壊していった。
ミッサは散弾銃のリロードをしながら吐き捨てる。
「チッ、瓦礫と竜巻が邪魔でマガツヒに届かないね!」
彼女が睨む視線の先には、ハウラの結界に阻まれながらも、窮屈そうに成長を続ける竜がいた。
「全員、今はマガツヒを引き止めることだけを考えろ! 山を越えさせたら逃げ場がなくなっちまう!」
「んなこと言ったって、これ以上どうすりゃいいんだ!」
狩人たちの嘆きが竜巻にかき消される。
例え空を飛べる菌糸能力持ちでも、あの高さまで追いつくのは至難だ。遠距離からの攻撃も、届く前に地面に落ちてしまうだろう。
竜巻によって、外壁上の砲台は全滅。リョーホの『雷光』の短剣も完全に消滅してしまった。
雷雲と禍々しい竜巻によって、鮮やかに瞬いていた星空は欠片も望めない。光源を失ったエラムラの里は暗澹として、崩壊の一途を辿っていた。
「──これが『因果の揺り返し』を拒み続けた結果。お前たちが選んだ運命だ」
竜巻を背に、一人の男が宙に浮いている。その男だけは物理現象から外れているかのように、血濡れの衣服も微風程度にしかたなびいていなかった。
ゴモリーは下で狼狽えることしかできない狩人たちを睥睨し、心にもない溜息をついた。
「大人しく予言書に従うのなら、エラムラの民を機械仕掛けの世界へ招き入れる。そう約束していたんだが……残念だ。親子揃って、私たちの運命に歯向かうなど」
「……親子って、どういうこと」
「レブナ隊長! まだ動いてはいけません!」
頭部の血を拭いながら、レブナがフラフラと起き上がる。守護狩人に抱き起こされた少女を見て、ゴモリーはやけに若々しい笑顔を浮かべた。
「そのままの意味さ。先代アドラン、そして息子のロッシュは私に取引を持ちかけた。終末の日が避けられないのなら、自分の里だけでも新世界へ迎え入れてほしいとな」
「そんな……そんなこと、ロッシュ様が言うはずない!」
「ああそうだろう。あれは己の醜聞を決して外部に漏らさない狡猾な男だった。ロッシュの本性を知る数少ない人間も、あえて奴の秘密から目を逸らした。故に、エラムラは安寧を保っていたのだ」
「何が言いたい!」
何度か倒れそうになりながら大鎌を展開する。ゴモリーは冷めた目つきでそれを眺めた後、適当な瓦礫へと視線を放った。
「あぁ、レブナ。お前も奴の真実を知る側の人間だったな。では、お前自身は自覚できているかね? エラムラの安寧の歪さを」
ぞわり、と心臓を死人の手で撫でられたような不快感が迫り上がる。
血の気が失せたレブナを尻目に、ゴモリーは淡々と口角を吊り上げた。
「結局はお前も、他の民と同じさ。ロッシュの苦しみを知っていながら見て見ぬフリをしたのは、決して優しさではない。自分がより楽に幸せに生きるための踏み台にするべく、ロッシュ一人に負担を押し付けたかった。そうだろう?」
「ッ違う!」
「違わないさ。お前はロッシュの自己犠牲に甘え続け、死ぬまでその魂を使い潰した。私が彼の魂を救済していなければ、お前はこれからもずっと、彼を足蹴にしながら幸せでいるつもりだったんだろう?」
「違う! 全部お前の妄想だ!」
言いたいことと思考が追いつかない。口の奥で無数の罵詈雑言と弁明が荒れ狂っているが、まとめられるだけの冷静さがなかった。焦れば焦るほど言葉が詰まって何も言えずもどかしい。
「認めてしまえよ。その耳は何のためについているんだ?」
ゴモリーの右手からドロリと真っ赤な繊維が溢れ、ミミズのように地面に落ちる。それは灯ひとつないエラムラの中で煌々と輝き、ゴモリーの輪郭を真下から照らし出した。
煉獄の悪魔が実在するのなら、きっとこのような顔をしていただろう。
「エラムラの里は確かに平和だ。ドラゴン狩りの最前線とは思えぬほどに。しかし、この里で幸福を享受できたのはエラムラの民だけだ。そこに里長の名は連なっていない。だというのに、その口でよくもまぁ、ロッシュは私たちの里長だと言い張れたものだ」
耳まで裂けた醜悪な笑みが、真上からレブナを、エラムラの人々を覗き込む。
ほんの一拍、脈が飛んだ。
瞬間、ゴモリーの両腕からダアトが決壊し、レブナたちに向けて雪崩れ込んできた。
レブナは咄嗟に避けれたが、近くにいたレブナの部下は反応が遅れてしまった。ぞりゅ、と肉質な音を立てて、腕、脇腹、足首と、順番にダアトに喰らいつかれる。ダアトの侵食は間もなく全身に及び、跡形もなく人が消えた。
「あ……」
腰が抜けてしまうほどの恐怖が一気に噴出した。
先ほどまでは、ロッシュを奪われた憎しみと怒りで精神を保っていられた。それがたった一度の攻撃で、あっという間に均衡が崩れ去った。
相対するだけでとめどなく溢れる恐怖。エラムラの狩人たちが一人、また一人と地面に両膝をついた。そして、はるか後方にいた民衆がパニックに陥った。
「いやあああ! 早くしてよ! ここから出してえええ!」
「ああどうか、我々をお守りください! ミカルラ様! アドラン様!」
「助けて! 誰かぁ!」
人々の喉から迸る恐怖が津波のように押し寄せて、レブナの身体が激しく震えた。
ゴモリーは逃げ惑う人々に嘆息すると、上空を泳ぎ、結界を食い破らんとするマガツヒを見やった。
「誰も彼も、自らで道を切り開けぬ弱者ばかり。やはり人工進化ではその程度よなぁ、浦敷博士」
真っ赤な繊維で塗れたゴモリーの両腕が、赤子を見せびらかすように高々と持ち上げられる。手のひらからだくだくとダアトが溢れ、ゆっくりと着実にエラムラを飲み込み始めた。
すぐ側まで身の危険が迫っているというのに、レブナは動けない。理性的な判断を下せなかった。
だって、勝てるわけがない。
里長も、エラムラの英雄もいないのに、凡人がどうやって化け物に立ち向かえるというのか。ヒトにできることなんてたがか知れているのに、何を思い上がっていたのだろう。
レブナは薄く唇を開いたまま、訪れる死を漫然と眺めた。
ダアトがレブナに触れる寸前。
「わたしが絶対に、エラムラを守る!」
エラムラの畏怖の象徴たる、黒い霧がダアトと真っ向から衝突する。『腐食』で満ち満ちた霧は、ダアトの赤い繊維を粉砕し、ゴモリーの元へと迫り上がった。
初めてゴモリーの表情に驚きが走る。
くっとゴモリーが宙を蹴るも、『腐食』に呑まれた親指から一気に壊死が広がった。
「……鬱陶しい」
ブゥン、と世界が揺らぎ、ゴモリーの足は健全な姿を取り戻す。しかしゴモリーの表情からは笑みが消えていた。
彼が見据える先には、漆黒の巨人が佇んでいた。エラムラの民を背に庇うかのように佇むそれは、巫女が使役する影鬼が巨大化した姿であった。
人々は、影鬼の肩に美しい純白を見つけた。影鬼の首に手を添え、悠然と敵を見据える巫女の背中は月光のようだ。彼女の長い銀髪が、闇に沈んだエラムラを強く照らし出した。
ハウラの拳が大きく振りかぶられる。同時に影鬼も剛腕を引き絞り、竜巻のど真ん中へ鉄拳を叩き込んだ。
砂の中で地雷が爆発したような、くぐもった衝撃が大地を揺らす。
その直後、漆黒の竜巻が甲高い断末魔をあげ、ど真ん中から破裂した。強風の残滓が頰を打ち付け、砂で澱んでいた空気が一気に晴れ渡る。
「竜巻が……消えた……」
腕を血まみれにしたハインキーの、呆然とした呟きがやけにはっきり響いた。洪水と化していたダアトも、ハウラが張り巡らせた『腐食』の壁によって押し留められている。風力を失い落下する瓦礫も、巨大な影鬼が全て受け止めて、民の上に大きな傘を作っていた。
たった一人で、崩壊が止まった。
すぅ、とハウラの呼吸が静寂を裂く。
「聞け! 皆の者!」
ビリビリと大気が震える。死臭が立ち込める戦場が真っさらな雨で洗われるような声だった。
「例えこの地が滅びようと、民の血が続く限りエラムラは滅びない! 我々の血肉は狩りによって作られた! 連綿と続く先代たちの戦魂が、わたしたちを今日まで生かしてきた!」
怒鳴りつけるような信愛が、人々の胸を打擲する。滞っていた脈拍が段々とペースを取り戻し、米神が轟々と鳴るほどに闘争心が湧き上がる。
人間は、最も歴史を愛する生き物だ。
動物でも死者を弔うことはあれど、墓を作るのは人間だけ。
先祖の犯した過ちに責任を感じるのも、同郷者の偉業を誇らしく思えるのも、人間のみ。
人間は、死人によって生かされていた。
「戦いとは、生き残るためにある!」
偉大な巫女、ミカルラの娘が未来を叫ぶ。絶望に打ちひしがれ、座り込んでしまったエラムラの狩人達が、その目に闘志を宿しながら次々に立ち上がる。現実から目を背け、俯いていた人々の顔が真っ直ぐと空を見据えた。
「戦え! あなた達は狩人の血を引く者! その血に応え、死ぬ気で抗いなさい! 人類史を守り続けた、誇り高き狩人たちよ!」
声高な激励が轟くや、鬨の声が後を追いかけた。
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貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
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※表紙は作成者様からお借りしてます。
※他サイト様に掲載しております。
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異世界に召喚された影山武(タケル)は、素敵な冒険が始まる予感がしていた。ところが、闇属性だからと草原へ強制転移されてしまう。
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(再確認や編集作業で一旦投稿を中断することもあります)
※一話3,000字〜4,000字となっています。
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