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6章
(18)嘘から出た実
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しん、と水を打ったように静広場がまり返る。里を照らしていた月は、いつのまにか山々に隠れていた。
広場を照らす明かりは時計塔から降り注ぐ橙色の街灯ランプのみ。だというのに、ハウラの輪郭は心なしか光を纏っており、闇を感じさせぬ安心感があった。
ロッシュは能面のような顔つきで、エラムラの巫女を見下ろした。コツリと革靴の音を立て、俺たちへ歩み寄る。
「認めるのですね? 自らの手を汚さず、暗殺者を使って私を殺そうとしたと」
「いいえ。殺そうとしたのではありません。真実を明らかにするべく、彼を送ったのです。我がオラガイア同盟の同胞、ミヴァリアの守護狩人を」
民衆にざわめきが戻る。だが、ハウラが片腕を持ち上げると、自然と人々の声は遠ざかっていった。
「エラムラの民よ、わたしはもう一度応えましょう。長きにわたる隣里との戦いは、オラガイア同盟によって終止符を打たれました。禍根は残れど、スキュリアは我らの良き隣人になろうと歩み寄ってくださった。貴方が捕らえたミヴァリアの守護狩人は、その筆頭。エラムラに紛れる悪意ある闇を打ち払うべく、先陣を切って命を賭けてくださった、大切な同胞です」
「そのような御為ごかしが通じるとでも?」
「勿論、言葉だけで終わらせるつもりはありません」
混ぜ返すロッシュを真っ直ぐと見つめ返し、ハウラはくるりとエラムラの民へ振り返った。
「かつてミカルラを害し、スキュリアへ逃れたかの者──ベアルドルフは、レオハニー様と共に同盟の契約書に名を連ねました。その覚悟がいかにして成されたものであるか、ここに証明します!」
ハウラの腕の中でミカルラの記憶本が大きく開かれる。
すると、本は魔法のようにひとりでに宙へ浮かび上がり、放射状にプリズムを振り撒いた。エラムラの中心地から外壁まで、薄氷を砕くような音を立てながら光のヴェールが広がっていく。あまりの眩さに人々は目を閉じ、小さな悲鳴をあげていた。
ようやく光が落ち着いたころ、人々が恐る恐る目を開ける。
夜が消えた。代わりに、半透明の青空と、里を往来する色とりどりの人々の姿があった。
「こ、これは一体……?」
「これは先代巫女、ミカルラ様の記憶。予言書と同じく、古代の技術によって遺されたものです。この映像も、かつて実際にあったこと……」
つい、とハウラの視線が流れる。民衆が釣られてそちらを見ると、ハウラによく似た背の高い女性が、逢魔落としの階段を降りてくるところだった。
「ミカルラ様だ!」
彼女の姿を見て、わっと民衆が湧き立つ。記憶の中の人々も同じような歓声をあげ、ミカルラの元へ駆け寄っていた。
ミカルラの時代を生きていない若者は戸惑っていた。が、記憶の場面が移ろいゆくにつれ、何か琴線に触れるものがあったのだろう。いつしか若者たちも、純粋な好奇心で記憶の海を眺めていた。
幸せな記憶はいつまでも続かない。
ある日、ヨルドの里がスタンピードに見舞われたと報告が入った。
救援依頼を出したヨルドの狩人は、ミカルラに全てを伝えた直後に事切れた。ベアルドルフは遺体を抱き起こし、口を引き結びながらミカルラを振り返る。
その時のベアルドルフは、信じられないものを見たかのようにミカルラを凝視していた。
『……ミカルラ、なぜ、笑っているのだ』
『あら、笑っていたかしら』
同盟里が一刻を争う事態だというのに、ミカルラは微笑んでいた。誰かを安心させるためのものではない、民の世間話を聞いている時のような、日常に溶け込む笑みだった。
『まるでこうなることを知っていたようだな』
探るような口調でベアルドルフは問いかける。それでもミカルラは表情を変えることなく、赤い瞳を不気味に細めるだけだった。
ミカルラはすぐにベアルドルフとニヴィを連れ、ヨルドの里へ赴いた。
そして、上位ドラゴンに踏み潰され、ほとんど原型を留めていないヨルドの里を目の当たりにし、ついにミカルラの口から高笑が迸った。
そこから先は、目を覆いたくなるような蹂躙が始まった。
狂気に堕ち、ドラゴンを使役しながら生き残りを殲滅するミカルラ。それを止めるべく、ベアルドルフとニヴィがやるせない怒号を上げ、激闘を繰り広げる。
エラムラの人間は皆、この物語の結末を知っている。顔を覆う者、目に焼き付ける者、呆然とする者。偽物の記憶だと言い張る者もいたが、聞いたこともないニヴィの慟哭にかき消され、まもなく言葉を失っていた。
長く続いた死闘が、ついに終わりを迎える。トドメの一撃は、憎悪と悔恨でドス黒く汚れた『圧壊』の拳だった。
人々に慕われ、里を守り続けた巫女の背中が崩れ落ちる。美しかった姿は血肉で穢れ、死に顔だけが巫女の面影を残していた。
「そんな……ミカルラ様……」
誰かの絶望が、地の底へ転がり落ちていく。
突きつけられた真実に、誰も意味のある言葉を紡げなかった。ハウラが記憶の流れを調節したのか、戦闘は断片的なものだった。それでも十分すぎるほど、真実は伝わったはずだ。
「ノーニャ……貴方は間違っていなかったのね……」
どこからか、涙ぐむ女性の声が聞こえた気がした。俺は反射的に姿を探したが、結局見つけることはできなかった。傍にいるシャルを見下ろしてみるが、聞こえなかったのか、ずっと俺にしがみついて唇を丸めていた。
ふっと光が消え、記憶が消滅する。
凄惨なヨルドの里は、全て本の中へ。真夜中に浮かぶ広場の街灯だけが、エラムラの里を頼りなく照らしていた。
「……この記憶が本物であると、本気で思っているのですか?」
やけに冷めた問いだった。水面に小石を落とすように、エラムラの隅々まで声が響き渡る。ロッシュは自分の声が奇妙な残響を引いていることにも気づかず、淡々と言葉を続けた。
「ミカルラ様の記憶にしては短い。都合の良い部分だけを見せているとも考えられます。そもそもこれが本当だったとして、ベアルドルフの罪は許されるのですか? オラガイア同盟が健全なものであるという証明にすらなりませんよ」
「──都合の良い皮を被っているのはお前の方だ」
誰もいないロッシュの背後から、誰かが冷たく言い放った。
驚愕しながらロッシュが振り返ると、虚空から一人の男が滲み出した。その姿は、ついさっきまで広場で縛られていたミヴァリアの守護狩人だった。顔には大量の血を拭き取った跡があり、目も充血して痛々しい。
「この距離まで来られても気づけないなんて、どうやら本気で菌糸能力が衰えたようだな」
クライヴがニヒルに笑いながら指を払うと、レオハニーとシュレイブが遅れて出現する。突然目の前に現れた最強の討滅者に、民衆はあからさまに後ずさった。
ロッシュもまたレオハニーから数歩距離を取り、指先から鈴を垂らしながらクライヴを睨みつけた。
「貴方……どうやって牢獄から出たのです」
「本物のロッシュ様であれば、脱走なんて許しはしない。貴方ならその意味もよくご存じのはずですがね?」
他ならぬスキュリア陣営からの指摘を受け、ロッシュは口を引き結んだ。
すると、今までハウラの後ろに控えていたレブナが大きく前に出た。
「言い当ててあげる。貴方の脳は、『響音』が無差別に集める無数の音に耐えきれない。できるのはせいぜい、静かな場所で数人分の声を聞き取るぐらい。だから広場では『響音』を発動していなかったんでしょ?」
途端、ロッシュの口元に苛立ちが滲んだ。微かな表情の変化に、エラムラの狩人たちが一人、また一人と目を覚ます。
レブナはなおも止まらない。だんだんと語気を荒げながら、大股でロッシュに詰め寄っていく。
「あたしたちのロッシュ様は、いくら体調が悪くても絶対に『響音』を切らさなかった。四六時中ずっと、里の人たちを守るために! そうでもしないと、犯罪者やスキュリアの人間に気づけないから。ドラゴンに襲われている民を、助けに行けないから!」
ついにロッシュにぶつかる一歩手前でレブナが足を止めた。胸元に下げた花冠を握りしめ、レブナは赤い瞳を激しく震わせる。
「あたしだって、ずっとロッシュ様に無理をしてほしかったわけじゃない。一人で背負わないで、もっとあたし達を頼って欲しかった。でも、あたしが叱るたびに笑うんだよ?『皆が安心して眠れる世界が僕の夢ですから』って……」
どん、とレブナの拳がロッシュの胸を叩いた。
「あの人はいつも、本気であたしたちを守ろうとしてくれていた! そんな人に、これ以上努力しないでって、言えるわけないじゃん! なのにあんたは……あんたは全力じゃない! 誰かのために尽くしてもいない! 薄っぺらいんだ! 何もかもがッ!」
レブナがそう吐き捨てると、ロッシュに対して抱いていた曖昧な違和感が、急速に形を帯び始めた。
ロッシュは決して民を見下したりはしない。民の不安を煽る前に、真っ先に安心させようと尽力する男だ。
しかし目の前にいるこの男は、言葉の裏で民を見下し、ハウラを貶め、民の意見を分裂させようとした。
中身のないハリボテだ。
この男は、ロッシュではない。
「答えてよ……本物のロッシュ様をどこにやったの!?」
レブナの右腕が閃き、腰に折り畳まれた大鎌が即座に展開される。赤く錬成された刃が、ロッシュの喉に浅く食い込んだ。
もはや誰も、レブナを止めようとはしなかった。
耳が馬鹿になるほどの静寂が、悪意の元凶へとのしかかる。大勢の渦巻く感情に当てられてか、時計塔の街灯が不規則に点滅した。
……くくく。
喉に張り付く低い笑い。ロッシュの喉の、さらに奥に住み着いた悪辣な老人が、肉の内側から声帯を震わせたようだった。
「……まさかここまでエラムラに懐柔されているとは、彼にはとてもがっかりだよ」
紡がれた台詞も、まるで砂のように乾いており、聞いた側から滑り落ちていく。理解したくともできない歯痒さで、無性に腹の中が燻って不愉快だ。いっそ殺したくてたまらない。黙らせなければ気がすまない。
訳もわからぬまま、俺の中で殺意が急成長を遂げていく。
「スキュリアから、この地と巫女を守り切った功績は認めよう。されど、当初の目的を忘れ、安寧に身を委ねるとは片腹痛い」
ずるり、と頭のてっぺんからロッシュの皮が肉ごと剥がれ落ちた。予想外の光景に、レブナは大きくその場から飛び退った。
剥けた皮の内側には、粘性の鮮血を纏った別の男が包まっていた。顔は赤い膜で覆われて見えず、呼吸をするたびに口の辺りがベコベコと凹んでいた。
「ぁ……!」
俺の喉から声にならない悲鳴が搾り出された。
頭が痛い。
砂漠に散らばる俺たちの死体がフラッシュバックする。姿の見えない白い女性が、俺の後ろを指さしている。これは、ベートが見せた誰かの記憶だ。
自分ではない誰かが、必死に俺へ訴えかけてくる。
早く、早くこいつを殺さなければ。
男を視界に入れるだけでも、猛烈な殺意が込み上げる。俺は無意識に太刀を抜いていた。見ればレオハニーも大剣を構え、今にも切り殺しそうな形相をしている。
異変を察知したハウラは、声を裏返しながら守護狩人に指示を飛ばした。
「全員、里の外に避難して! ここは危険です!」
はっとエラムラの狩人が気を取り直した瞬間、包まれていた男が唐突に顔面の膜を剥ぎ取った。麻袋を力任せに引き裂くような音が、手当たり次第に血を撒き散らす。
俺のつま先が赤く濡れた。そして男は、へばりついた鮮血を手のひらで拭い、その顔を露にした。
「あの顔、見たことがあるぞ……初代リデルゴア国王の肖像画と同じだ!」
民の一人が叫ぶや、広場にどよめきが走る。
初代リデルゴア国王。現実世界に残された新人類を結集させ、一代で国を築き上げた豪傑。同時に、ウイルスをばら撒いて現実世界を滅びに導いた、諸悪の根源。
「ゴモリー・リデルゴア……!」
魂の奥底から湧き立つ宿怨の声に、男は血の衣を纏いながら冷笑を帯びた。
「Dr.浦敷良甫。ずっとお会いしたかった。新生し損ねた世界で、貴方だけが私の希望の星だった」
生温い憧憬で彩られた笑みは、平々凡々として邪智深く、不気味の谷の傑作だった。
広場を照らす明かりは時計塔から降り注ぐ橙色の街灯ランプのみ。だというのに、ハウラの輪郭は心なしか光を纏っており、闇を感じさせぬ安心感があった。
ロッシュは能面のような顔つきで、エラムラの巫女を見下ろした。コツリと革靴の音を立て、俺たちへ歩み寄る。
「認めるのですね? 自らの手を汚さず、暗殺者を使って私を殺そうとしたと」
「いいえ。殺そうとしたのではありません。真実を明らかにするべく、彼を送ったのです。我がオラガイア同盟の同胞、ミヴァリアの守護狩人を」
民衆にざわめきが戻る。だが、ハウラが片腕を持ち上げると、自然と人々の声は遠ざかっていった。
「エラムラの民よ、わたしはもう一度応えましょう。長きにわたる隣里との戦いは、オラガイア同盟によって終止符を打たれました。禍根は残れど、スキュリアは我らの良き隣人になろうと歩み寄ってくださった。貴方が捕らえたミヴァリアの守護狩人は、その筆頭。エラムラに紛れる悪意ある闇を打ち払うべく、先陣を切って命を賭けてくださった、大切な同胞です」
「そのような御為ごかしが通じるとでも?」
「勿論、言葉だけで終わらせるつもりはありません」
混ぜ返すロッシュを真っ直ぐと見つめ返し、ハウラはくるりとエラムラの民へ振り返った。
「かつてミカルラを害し、スキュリアへ逃れたかの者──ベアルドルフは、レオハニー様と共に同盟の契約書に名を連ねました。その覚悟がいかにして成されたものであるか、ここに証明します!」
ハウラの腕の中でミカルラの記憶本が大きく開かれる。
すると、本は魔法のようにひとりでに宙へ浮かび上がり、放射状にプリズムを振り撒いた。エラムラの中心地から外壁まで、薄氷を砕くような音を立てながら光のヴェールが広がっていく。あまりの眩さに人々は目を閉じ、小さな悲鳴をあげていた。
ようやく光が落ち着いたころ、人々が恐る恐る目を開ける。
夜が消えた。代わりに、半透明の青空と、里を往来する色とりどりの人々の姿があった。
「こ、これは一体……?」
「これは先代巫女、ミカルラ様の記憶。予言書と同じく、古代の技術によって遺されたものです。この映像も、かつて実際にあったこと……」
つい、とハウラの視線が流れる。民衆が釣られてそちらを見ると、ハウラによく似た背の高い女性が、逢魔落としの階段を降りてくるところだった。
「ミカルラ様だ!」
彼女の姿を見て、わっと民衆が湧き立つ。記憶の中の人々も同じような歓声をあげ、ミカルラの元へ駆け寄っていた。
ミカルラの時代を生きていない若者は戸惑っていた。が、記憶の場面が移ろいゆくにつれ、何か琴線に触れるものがあったのだろう。いつしか若者たちも、純粋な好奇心で記憶の海を眺めていた。
幸せな記憶はいつまでも続かない。
ある日、ヨルドの里がスタンピードに見舞われたと報告が入った。
救援依頼を出したヨルドの狩人は、ミカルラに全てを伝えた直後に事切れた。ベアルドルフは遺体を抱き起こし、口を引き結びながらミカルラを振り返る。
その時のベアルドルフは、信じられないものを見たかのようにミカルラを凝視していた。
『……ミカルラ、なぜ、笑っているのだ』
『あら、笑っていたかしら』
同盟里が一刻を争う事態だというのに、ミカルラは微笑んでいた。誰かを安心させるためのものではない、民の世間話を聞いている時のような、日常に溶け込む笑みだった。
『まるでこうなることを知っていたようだな』
探るような口調でベアルドルフは問いかける。それでもミカルラは表情を変えることなく、赤い瞳を不気味に細めるだけだった。
ミカルラはすぐにベアルドルフとニヴィを連れ、ヨルドの里へ赴いた。
そして、上位ドラゴンに踏み潰され、ほとんど原型を留めていないヨルドの里を目の当たりにし、ついにミカルラの口から高笑が迸った。
そこから先は、目を覆いたくなるような蹂躙が始まった。
狂気に堕ち、ドラゴンを使役しながら生き残りを殲滅するミカルラ。それを止めるべく、ベアルドルフとニヴィがやるせない怒号を上げ、激闘を繰り広げる。
エラムラの人間は皆、この物語の結末を知っている。顔を覆う者、目に焼き付ける者、呆然とする者。偽物の記憶だと言い張る者もいたが、聞いたこともないニヴィの慟哭にかき消され、まもなく言葉を失っていた。
長く続いた死闘が、ついに終わりを迎える。トドメの一撃は、憎悪と悔恨でドス黒く汚れた『圧壊』の拳だった。
人々に慕われ、里を守り続けた巫女の背中が崩れ落ちる。美しかった姿は血肉で穢れ、死に顔だけが巫女の面影を残していた。
「そんな……ミカルラ様……」
誰かの絶望が、地の底へ転がり落ちていく。
突きつけられた真実に、誰も意味のある言葉を紡げなかった。ハウラが記憶の流れを調節したのか、戦闘は断片的なものだった。それでも十分すぎるほど、真実は伝わったはずだ。
「ノーニャ……貴方は間違っていなかったのね……」
どこからか、涙ぐむ女性の声が聞こえた気がした。俺は反射的に姿を探したが、結局見つけることはできなかった。傍にいるシャルを見下ろしてみるが、聞こえなかったのか、ずっと俺にしがみついて唇を丸めていた。
ふっと光が消え、記憶が消滅する。
凄惨なヨルドの里は、全て本の中へ。真夜中に浮かぶ広場の街灯だけが、エラムラの里を頼りなく照らしていた。
「……この記憶が本物であると、本気で思っているのですか?」
やけに冷めた問いだった。水面に小石を落とすように、エラムラの隅々まで声が響き渡る。ロッシュは自分の声が奇妙な残響を引いていることにも気づかず、淡々と言葉を続けた。
「ミカルラ様の記憶にしては短い。都合の良い部分だけを見せているとも考えられます。そもそもこれが本当だったとして、ベアルドルフの罪は許されるのですか? オラガイア同盟が健全なものであるという証明にすらなりませんよ」
「──都合の良い皮を被っているのはお前の方だ」
誰もいないロッシュの背後から、誰かが冷たく言い放った。
驚愕しながらロッシュが振り返ると、虚空から一人の男が滲み出した。その姿は、ついさっきまで広場で縛られていたミヴァリアの守護狩人だった。顔には大量の血を拭き取った跡があり、目も充血して痛々しい。
「この距離まで来られても気づけないなんて、どうやら本気で菌糸能力が衰えたようだな」
クライヴがニヒルに笑いながら指を払うと、レオハニーとシュレイブが遅れて出現する。突然目の前に現れた最強の討滅者に、民衆はあからさまに後ずさった。
ロッシュもまたレオハニーから数歩距離を取り、指先から鈴を垂らしながらクライヴを睨みつけた。
「貴方……どうやって牢獄から出たのです」
「本物のロッシュ様であれば、脱走なんて許しはしない。貴方ならその意味もよくご存じのはずですがね?」
他ならぬスキュリア陣営からの指摘を受け、ロッシュは口を引き結んだ。
すると、今までハウラの後ろに控えていたレブナが大きく前に出た。
「言い当ててあげる。貴方の脳は、『響音』が無差別に集める無数の音に耐えきれない。できるのはせいぜい、静かな場所で数人分の声を聞き取るぐらい。だから広場では『響音』を発動していなかったんでしょ?」
途端、ロッシュの口元に苛立ちが滲んだ。微かな表情の変化に、エラムラの狩人たちが一人、また一人と目を覚ます。
レブナはなおも止まらない。だんだんと語気を荒げながら、大股でロッシュに詰め寄っていく。
「あたしたちのロッシュ様は、いくら体調が悪くても絶対に『響音』を切らさなかった。四六時中ずっと、里の人たちを守るために! そうでもしないと、犯罪者やスキュリアの人間に気づけないから。ドラゴンに襲われている民を、助けに行けないから!」
ついにロッシュにぶつかる一歩手前でレブナが足を止めた。胸元に下げた花冠を握りしめ、レブナは赤い瞳を激しく震わせる。
「あたしだって、ずっとロッシュ様に無理をしてほしかったわけじゃない。一人で背負わないで、もっとあたし達を頼って欲しかった。でも、あたしが叱るたびに笑うんだよ?『皆が安心して眠れる世界が僕の夢ですから』って……」
どん、とレブナの拳がロッシュの胸を叩いた。
「あの人はいつも、本気であたしたちを守ろうとしてくれていた! そんな人に、これ以上努力しないでって、言えるわけないじゃん! なのにあんたは……あんたは全力じゃない! 誰かのために尽くしてもいない! 薄っぺらいんだ! 何もかもがッ!」
レブナがそう吐き捨てると、ロッシュに対して抱いていた曖昧な違和感が、急速に形を帯び始めた。
ロッシュは決して民を見下したりはしない。民の不安を煽る前に、真っ先に安心させようと尽力する男だ。
しかし目の前にいるこの男は、言葉の裏で民を見下し、ハウラを貶め、民の意見を分裂させようとした。
中身のないハリボテだ。
この男は、ロッシュではない。
「答えてよ……本物のロッシュ様をどこにやったの!?」
レブナの右腕が閃き、腰に折り畳まれた大鎌が即座に展開される。赤く錬成された刃が、ロッシュの喉に浅く食い込んだ。
もはや誰も、レブナを止めようとはしなかった。
耳が馬鹿になるほどの静寂が、悪意の元凶へとのしかかる。大勢の渦巻く感情に当てられてか、時計塔の街灯が不規則に点滅した。
……くくく。
喉に張り付く低い笑い。ロッシュの喉の、さらに奥に住み着いた悪辣な老人が、肉の内側から声帯を震わせたようだった。
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ずるり、と頭のてっぺんからロッシュの皮が肉ごと剥がれ落ちた。予想外の光景に、レブナは大きくその場から飛び退った。
剥けた皮の内側には、粘性の鮮血を纏った別の男が包まっていた。顔は赤い膜で覆われて見えず、呼吸をするたびに口の辺りがベコベコと凹んでいた。
「ぁ……!」
俺の喉から声にならない悲鳴が搾り出された。
頭が痛い。
砂漠に散らばる俺たちの死体がフラッシュバックする。姿の見えない白い女性が、俺の後ろを指さしている。これは、ベートが見せた誰かの記憶だ。
自分ではない誰かが、必死に俺へ訴えかけてくる。
早く、早くこいつを殺さなければ。
男を視界に入れるだけでも、猛烈な殺意が込み上げる。俺は無意識に太刀を抜いていた。見ればレオハニーも大剣を構え、今にも切り殺しそうな形相をしている。
異変を察知したハウラは、声を裏返しながら守護狩人に指示を飛ばした。
「全員、里の外に避難して! ここは危険です!」
はっとエラムラの狩人が気を取り直した瞬間、包まれていた男が唐突に顔面の膜を剥ぎ取った。麻袋を力任せに引き裂くような音が、手当たり次第に血を撒き散らす。
俺のつま先が赤く濡れた。そして男は、へばりついた鮮血を手のひらで拭い、その顔を露にした。
「あの顔、見たことがあるぞ……初代リデルゴア国王の肖像画と同じだ!」
民の一人が叫ぶや、広場にどよめきが走る。
初代リデルゴア国王。現実世界に残された新人類を結集させ、一代で国を築き上げた豪傑。同時に、ウイルスをばら撒いて現実世界を滅びに導いた、諸悪の根源。
「ゴモリー・リデルゴア……!」
魂の奥底から湧き立つ宿怨の声に、男は血の衣を纏いながら冷笑を帯びた。
「Dr.浦敷良甫。ずっとお会いしたかった。新生し損ねた世界で、貴方だけが私の希望の星だった」
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