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5章
(68)赤
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大量の溶岩で急速に沸騰した海水が、巨大なドラゴンごと高々と打ち上げられた。空中でドラゴンの身体が爆発四散し、海水に混じって激しく水面に叩きつけられる。
肌を打つ大粒の雨が止んだ頃、レオハニーは濡れた前髪をかきあげた。
「全身を溶かしても死なないか」
熱気を孕んだ霧の中で、カエルじみた醜い口がパカリと開く。太い喉から不気味に響き出したベートの笑い声に合わせ、八枚の羽根が細かな振動音を立てた。
『うふふ。うふふ。ノクタヴィスとオラガイアでたーっくさん実験したから、あたしもその恩恵に肖ったの。素敵でしょ? 新人類は吐いて捨てるほどいるんだもの! 大量生産、大量消費しなきゃもったいないよね!』
人間とカエル、羽虫を融合させたようなドラゴンが、下劣な哄笑で霧を吹き飛ばす。
カエルとチンパンジー、トンボを融合させたようなドラゴンを、レオハニーは十五年前にも見たことがある。
ノクタヴィスの惨劇。それを引き起こした諸悪の根源だ。
ノクタヴィスが滅びた原因は表向きには伏せられている。商人たちの間で出回っている噂でさえも、謎のドラゴンに滅ぼされたという程度しか伝わっていない。
しかし、救難信号を受け、実際にノクタヴィスの惨劇を目の当たりにしたレオハニーだけは、その正体を察していた。
ノクタヴィスを襲った謎のドラゴンの正体は、実験台にされたNoDの成れの果てだ。旧人類を導くために浦敷博士が世に送り出したNoDは、ゴモリー・リデルゴアに唆された旧人類たちの手で化け物に作り替えられていた。鍵者を生み出そうとする、トゥアハ派の陰謀に巻き込まれて。
「……やはり貴方が嫌いだ。浦敷博士」
レオハニーは硬く目を閉じた後、己に暗い影を落とす巨体を睨みつけた。
ベート・ハーヴァーは、NoDの代わりに大量のネフィリムを糧として変貌を遂げた。新人類の魂を再利用しているからか、NoDの死体をかき集めた時よりも屈強で、腕一つでさえ捻れた巨木のようだ。
「実験の主導者が失敗作に落ちるとは。やはり貴方の品格は、シモン博士たちと全く釣り合っていなかったようだ」
『……ざい……うざい……うざい……うざいうざいうざいうざいうざい! あたしが! 何年! 待ったと! 思ってんの!? やっと博士に会えるって! おしゃれして! 出てくるのを待ってたのに!』
鱗だらけの手足がでたらめに海面を叩きまくる。しまいには尻尾まで振り回し、バケツをひっくり返したような水飛沫を撒き散らした。
レオハニーは淡々とそれを回避しながら考察する。
完全に肉体をドラゴン化させたにも関わらず、ベートは人間の思考を失っていないようだ。
ドラゴン化は魂の変質であり、通常なら自我は残らない。魂を持たないNoDもそれは例外ではないと、ノクタヴィスの惨劇で証明されている。
それでもベートが自我を失わずに済んでいるのはなぜなのか。リョーホもクラトネールへ変化してもなお自我を残していたのだから、何かしらの条件があるはず。それこそが、ベートを不老不死たらしめているのでは?
他人事のように思考を巡らせながら、レオハニーは大剣を構える。
「人間を辞めても、お前では私に勝てない。浦敷博士の元には行かせない」
『あぁぁァもう! どうして邪魔するの!? 家族が幸せになろうとしているのにどうして止めるのよォ!』
カエル特有の迫り出した眼球を真っ赤に染めて、ベートは八枚の羽根を震わせた。
貧弱な羽根とは不釣り合いな巨体が、打ち上げ花火の如く真上へ飛ぶ。ヘリコプターじみた強風が、軽石の足場を大きくぐらつかせた。
飛んで行った先を目で追えば、高所から高速で突っ込んでくるベートがいた。空中で大きく前転しながら、巨大な尾でこちらを叩き潰さんとしてくいる。
レオハニーは回避せず、膝と腰が水平になる程深く身構えた。
「不老不死のよしみだ。永遠の殺し方を共に模索しよう。研究者の端くれらしくね」
瞬間、レオハニーの大剣に、溶岩とは明らかに違う赤い光が灯る。それは繊維のようなオーラを放ち、ボコボコと剣先の海水を沸騰させた。
腰を軸に据え、溶岩を激らせた大剣を全速力で振るう。
豆腐を切るような手応えが両刃を滑った。目前で尾が真っ二つに裂け、レオハニーを避けるように左右へ千切れ飛ぶ。
遅れて、バランスを崩したベートが海面へ墜落した。
『ガアアアアア!』
左右に分たれた身体がバラバラにもがき苦しんでいる。先ほどのように、即座に傷が修復されることはない。
ベートはすぐに身体の異変に気がつき、迫り出した眼球を無軌道に回転させた。
『なんで……身体が戻らない……!?』
「ダアトで貴方の断面を融解させ、貴方の自我データとドラゴンが切り離されるよう再構築した」
『再構築……!? 違う……ダアトにこんな力はない! 生物の性質を変えるだなんて不可能だよ!』
断言するベートの物言いに、レオハニーは静かに目を見開いた。
レオハニーの体内では、常にダアトが生成され続けている。彼女の扱う溶岩もまた、物質を融解させる性質に特化したダアトの亜種と言っていい。
それは、レオハニーをNoDの肉体に押し込んだ張本人も当然知っているはずなのに。
何もかもが消え去ったノンカの里や、鍵者とは程遠いネフィリムたちを思い出し、ああ、とレオハニーは嘆息する。
「そうか。どうして貴方がいつまでも鍵者を生み出せなかったのか、ようやく納得したよ。貴方がシモン博士から盗み出したのは、劣化したダアトのコピーだったようだ」
『コピー、ですって!?』
五百年前、ベートはレオハニーの魂を実験台にして、NoDのプロトタイプへの魂の定着実験を行った。実験が成功し、安全に肉体を手に入れられると判明するや、ベートはダアトでレオハニーの身体を複製したのだ。
そうしてベートは、まんまとNoDの肉体ごとダアトを盗み出した。だが、複製したNoDの身体には何かしらの欠落があったのだろう。そのせいでベートたちのダアトは劣化コピーになってしまったようだ。
これまでのトゥアハ派の動きから推察するに、彼女たちのダアトは物質を融解することしかできないらしい。ネフィリムの製法も、人間の菌糸から耐性を排除しているだけ。ノンカの里は単に、ダアトの最大出力を調査するために使い潰されただけだ。
まるで拳銃を握った子供だ。大人の真似事で好き放題暴れて、自分の力ではないのになんでもできると豪語する。行いの残酷さも知らないまま。
怒りで視界の端が赤く染まれば染まるほど、レオハニーの頭の中は冷え切っていった。鮮血で濁る海水を足場越しににじり、二分されたベートを冷淡に眺める。
「努力もせず、成果だけを盗んだ貴方では、模造と本物の区別すらつけられないのも当然かな」
『う、ぐぅ……!』
ベートから悔しげな声が上がり、断面から粘液を被った肉の塊が零れ落ちた。それはゆっくりと人の形を取り戻し、全裸の女性を形作る。
「破壊と、創造……ああ、神にも等しい力じゃない。本当なら、それはあたしの物だったのに! その力さえあれば、もっと早く新世界を作ってあげられたのに!」
劣勢に追い込まれていると思えぬほど、ベートは生き生きと目を輝かせた。
「本当はこんなことしたくなかったの。でも、レオナが悪いんだから」
ベートは四つん這いのまま腰を上げると、人間とは思えぬ速度でレオハニーに飛びかかった。
素早く大剣で切り捨てる。しかし、ベートは胴体が千切れるのも厭わず、レオハニーの顔面へと手を伸ばした。
至近距離で、赤紫の霧が勢いよく排出された。予想外のことで咄嗟に顔を背けるが、霧の一部を吸引してしまった。
『催眠』か。いや違う。
「……!」
皮膚の表面にヒビが入るような激痛が走り、足がふらついた。見下ろせば、指の爪が真っ黒に染まり、指紋がみるみる逆立っていくのが見えた。
ドラゴン毒素だ。すぐにダアトで変質した部分を再構築しようとするが、思い通りにダアトを動かせない。金縛りにあったように、身体の自由が奪われていく。
「菌糸ってね、ある一定の条件下で、ドラゴン毒素に惰弱性を見せるのよ。ドラゴン討伐にも属性相性があるようにね」
ベートの魔女のような爪がレオハニーの胸をつつく。
「あなたの身体は溶岩を生み出せる代わりに、体外の水に触れると菌糸の結合が緩んでしまう。特にNoDは、魂のない素体に無理矢理菌糸を適合させているから、効果は絶大なの」
爪がくるりと向きを変え、俯いたレオハニーの顎を持ち上げた。頭から血を被った女性の顔が、悪魔のように微笑みかけてくる。
「雨に振られる程度ならちょっとダルい程度かな。でも、あなたはこの短時間で大量の海水を浴びてしまった。さぁ問題! 菌糸の結合が緩んでいるときに、高密度のドラゴン毒素をぶつけたらどぉなっちゃうかな?」
身体のあちこちから、薄氷を割るような音が聞こえてくる。皮膚が逆立つのを感じながら、レオハニーは歯を食いしばった。
何も答えないレオハニーに、ベートはストンと表情を消した。そして一歩下がり、つま先で勢いよくレオハニーの顎を蹴り上げた。
「あはは、すぐに効果が出なくて焦っちゃったなぁ。氷の一族の菌糸がこの辺りに根付いているせいかな? 死んでも邪魔してくるなんてホント厄介ね」
仰向けに倒れたレオハニーの頭を踏みつけながら、ベートがゆっくりと覗き込んでくる。
「今のあなたは仮想世界に逃げるしかなかった私たちと同じ。進化し損ねた旧人類。世界に生きることを許されなかった、可哀想な被害者」
ベートのつま先が毒々しい赤い光に包まれ、ダアトがじわじわとレオハニーの頬を濡らした。硫酸を顔にぶちまけられたような、激しい痛みと屈辱が頭部を侵す。
「ッ!」
意地でも悲鳴を噛み殺した。身体の自由を奪われているのを一時だけ感謝した。でなければ、恥も外聞もなく転がりまわっていただろうから。
「苦しいでしょ? でも生きていたいでしょ? でもレオナは新世界に連れて行ってあげない。私は生きていたいという権利すら奪われて、無理やりポッドに入れられちゃったのに、貴方は適合して現実世界に残れたんだから」
溶けた右目から生暖かい液体が溢れた。ベートは愉快そうにその様を眺めた後、足を退けてそっと耳打ちした。
「今ならお母さんが楽に死なせてあげるよ? レオナ」
足蹴にされていた顔の右半分が燃えるように熱い。聴覚もほとんど機能しておらず、全身がびっしょりと脂汗で冷え切っていた。
満身創痍。絶体絶命。そんな言葉が頭を過ぎる。
しかしレオハニーは、込み上げてくる笑いを止められなかった。
「……なに笑ってんの?」
「……貴方は五百年の歳月で、自分のことすら忘れてしまったのかな」
「何が言いたいの」
「貴方は無理やりポッドに入れられたと言っていたが、違う。私は確かに見たよ。進んで自らポッドに入り、現実世界に置いて行かれる私を嘲笑った貴方を」
激痛でおかしくなってしまったのか、思考はやたらクリアだった。自他共に認める口下手だったというのに、人格が変わってしまったと思うほど舌がよく回る。
「別れ際に笑顔を見せただけだと思いたかった。私を悲しませたくないからそうしたのだと思った。けれど、貴方は本心から私を嘲笑った。戦争孤児の汚れた私を憐れむ大人たちのように」
残った左目でベートを見つめ返すと、彼女は目尻が裂けそうなほど目を剥いて、へたり込むように後ずさった。
レオハニーの身体は相変わらず麻痺したままだ。ドラゴン化も進んでおり、NoDでなければ生き絶えているほど重傷だ。恐れる理由はどこにもない。
それでもベートの目には明らかな恐怖が住み着いていた。レオハニーが幼い頃からずっと見ていた、未知を嫌厭し、戸惑う大きな闇だ。
闇の奥に語りかけるように、レオハニーは続ける。
「私は最後まで貴方を信じたかったよ。死を待つしかなかった私に、貴方は家を用意してくれたから」
命の恩人が、他人の命を蔑ろにするような外道ではないと信じたかった。自分もサンプルの一つでしかなかったと思いたくなかった。自分を裏切ったのはベートではなく浦敷博士なのだと、長い歳月をかけて責任を押し付けた。そうすることで、ベートに騙された惨めな自分を覆い隠したかった。
名を与えられたレオナ・ハーヴァーは、ベートの中では特別なのだという幻想に縋りたかった。
だが、それも今日までだ。
「……認めよう。貴方の生き方は間違っている。他者を踏みつけにしなければ生きられない貴方は、淘汰されるべき敵だ」
心臓へ意識を集中させ、活力を失いつつあったダアトの炉に火を放つ。すると、先ほどまでの金縛りが嘘のように、全神経が再起動を果たした。
ゆっくりと起き上がり、ドラゴン化した皮膚を手のひらで撫でる。逆だった鱗はダアトの繊維で縫合され、滑らかな肌へ。融解した顔に触れれば、視界こそ欠けたままだが、ぴたりと出血が止まった。
右の眼窩に冷たい潮風が流れ込む。再生したばかりの皮膚が乾燥して引き攣ったが、今はそれすら心地よかった。
ベートは大きく身を震わせながら、何度も何度も後ずさった。
「拾ってもらった恩を忘れたの? 今日まで見逃してあげたのに、貴方まで私を悪者扱いするのね?」
逃げようとするベートを、悠然とした足取りで追いかける。
死にかけるほどの重傷を負って、ようやく実感した。ドラゴン化しても揺らがなかった己の心に触れて、人間を知った。
最強の討滅者とは、人の範疇を超えた化け物だ。神の領域であるダアトでなければ殺せない何かだ。人であることを諦めきれなかったレオナ・ハーヴァーはもういない。
レオハニーは軽石の足場を降り、さも当たり前のように水面を歩いた。風で波打つ水面は、レオハニーの通る道のみ静まり返り、鏡のように滑らかな表面を映し出した。
菌糸能力とは一線を画す超常現象を前に、ベートは恐れ慄いた。彼女もまた素足で水面に立っているが、荒れる波に足首を絡め取られ、何度も転倒する。
「あ……ああ……! 来ないで、来ないで!」
歩みを止めぬまま、レオハニーは目を細めた。
「人は皆孤独だ。私が私だけであるように、貴方もまた貴方だけ。複製された自我データであっても、どんなに外見が似ていたとしても、所詮は他人だ」
何度も転び、海水に濡れたせいで、ベートの身体を覆う血が剥げ落ちていた。露わになった肌は青ざめ、唇も死人のように色褪せている。
顔に髪を張り付かせたベートを、レオハニーは無表情で見下ろした。
「ひとつ聞きたい。ベート・ハーヴァー。仮想世界が設立された時の人類は、菌糸も、ダアトの研究も始めていなかった。ならば旧人類の魂は、本当に仮想世界へ抽出されたのか?」
過呼吸気味だったベートの呼吸が止まった。戦慄いていた唇が大きく開かれ、開きすぎた瞳孔が虹彩を飲み込む。
「……ダメだよ。そんな価値観、絶対に認めない」
糸で引っ張られたように、不自然にベートが立ち上がる。
「自我データは本人なの。本人が死んでいても本人なの。でないとあたしたちは、生きてるのがおかしいの!? 」
ベートは自分の左手を掴むと、腕の根本から力任せに引きちぎった。それは不気味な音を立てながらドラゴン化し、無数の棘に覆われた鞭へ変形する。
「認めちゃいけないんだよ! 自分で絶滅するなんてバカなんだよ! 私たちは本物! 生きてる! 幽霊じゃない! 生きる権利があるの!」
「……否定はしないよ」
悲鳴のような風切り音をあげて、鞭がレオハニーの皮膚へ叩きつけられる。血飛沫が舞い、骨が砕ける音がした。
レオハニーは痛みに眉を顰めながら、血まみれの腕で鞭を絡め取った。力任せに引っ張り、強制的に間合いへ入れる。
「あ──」
ダアトを纏った灼熱の大剣から火の粉が上がる。切り裂かれた毛髪が宙を舞い、あっという間に燃え尽きていった。
肌を打つ大粒の雨が止んだ頃、レオハニーは濡れた前髪をかきあげた。
「全身を溶かしても死なないか」
熱気を孕んだ霧の中で、カエルじみた醜い口がパカリと開く。太い喉から不気味に響き出したベートの笑い声に合わせ、八枚の羽根が細かな振動音を立てた。
『うふふ。うふふ。ノクタヴィスとオラガイアでたーっくさん実験したから、あたしもその恩恵に肖ったの。素敵でしょ? 新人類は吐いて捨てるほどいるんだもの! 大量生産、大量消費しなきゃもったいないよね!』
人間とカエル、羽虫を融合させたようなドラゴンが、下劣な哄笑で霧を吹き飛ばす。
カエルとチンパンジー、トンボを融合させたようなドラゴンを、レオハニーは十五年前にも見たことがある。
ノクタヴィスの惨劇。それを引き起こした諸悪の根源だ。
ノクタヴィスが滅びた原因は表向きには伏せられている。商人たちの間で出回っている噂でさえも、謎のドラゴンに滅ぼされたという程度しか伝わっていない。
しかし、救難信号を受け、実際にノクタヴィスの惨劇を目の当たりにしたレオハニーだけは、その正体を察していた。
ノクタヴィスを襲った謎のドラゴンの正体は、実験台にされたNoDの成れの果てだ。旧人類を導くために浦敷博士が世に送り出したNoDは、ゴモリー・リデルゴアに唆された旧人類たちの手で化け物に作り替えられていた。鍵者を生み出そうとする、トゥアハ派の陰謀に巻き込まれて。
「……やはり貴方が嫌いだ。浦敷博士」
レオハニーは硬く目を閉じた後、己に暗い影を落とす巨体を睨みつけた。
ベート・ハーヴァーは、NoDの代わりに大量のネフィリムを糧として変貌を遂げた。新人類の魂を再利用しているからか、NoDの死体をかき集めた時よりも屈強で、腕一つでさえ捻れた巨木のようだ。
「実験の主導者が失敗作に落ちるとは。やはり貴方の品格は、シモン博士たちと全く釣り合っていなかったようだ」
『……ざい……うざい……うざい……うざいうざいうざいうざいうざい! あたしが! 何年! 待ったと! 思ってんの!? やっと博士に会えるって! おしゃれして! 出てくるのを待ってたのに!』
鱗だらけの手足がでたらめに海面を叩きまくる。しまいには尻尾まで振り回し、バケツをひっくり返したような水飛沫を撒き散らした。
レオハニーは淡々とそれを回避しながら考察する。
完全に肉体をドラゴン化させたにも関わらず、ベートは人間の思考を失っていないようだ。
ドラゴン化は魂の変質であり、通常なら自我は残らない。魂を持たないNoDもそれは例外ではないと、ノクタヴィスの惨劇で証明されている。
それでもベートが自我を失わずに済んでいるのはなぜなのか。リョーホもクラトネールへ変化してもなお自我を残していたのだから、何かしらの条件があるはず。それこそが、ベートを不老不死たらしめているのでは?
他人事のように思考を巡らせながら、レオハニーは大剣を構える。
「人間を辞めても、お前では私に勝てない。浦敷博士の元には行かせない」
『あぁぁァもう! どうして邪魔するの!? 家族が幸せになろうとしているのにどうして止めるのよォ!』
カエル特有の迫り出した眼球を真っ赤に染めて、ベートは八枚の羽根を震わせた。
貧弱な羽根とは不釣り合いな巨体が、打ち上げ花火の如く真上へ飛ぶ。ヘリコプターじみた強風が、軽石の足場を大きくぐらつかせた。
飛んで行った先を目で追えば、高所から高速で突っ込んでくるベートがいた。空中で大きく前転しながら、巨大な尾でこちらを叩き潰さんとしてくいる。
レオハニーは回避せず、膝と腰が水平になる程深く身構えた。
「不老不死のよしみだ。永遠の殺し方を共に模索しよう。研究者の端くれらしくね」
瞬間、レオハニーの大剣に、溶岩とは明らかに違う赤い光が灯る。それは繊維のようなオーラを放ち、ボコボコと剣先の海水を沸騰させた。
腰を軸に据え、溶岩を激らせた大剣を全速力で振るう。
豆腐を切るような手応えが両刃を滑った。目前で尾が真っ二つに裂け、レオハニーを避けるように左右へ千切れ飛ぶ。
遅れて、バランスを崩したベートが海面へ墜落した。
『ガアアアアア!』
左右に分たれた身体がバラバラにもがき苦しんでいる。先ほどのように、即座に傷が修復されることはない。
ベートはすぐに身体の異変に気がつき、迫り出した眼球を無軌道に回転させた。
『なんで……身体が戻らない……!?』
「ダアトで貴方の断面を融解させ、貴方の自我データとドラゴンが切り離されるよう再構築した」
『再構築……!? 違う……ダアトにこんな力はない! 生物の性質を変えるだなんて不可能だよ!』
断言するベートの物言いに、レオハニーは静かに目を見開いた。
レオハニーの体内では、常にダアトが生成され続けている。彼女の扱う溶岩もまた、物質を融解させる性質に特化したダアトの亜種と言っていい。
それは、レオハニーをNoDの肉体に押し込んだ張本人も当然知っているはずなのに。
何もかもが消え去ったノンカの里や、鍵者とは程遠いネフィリムたちを思い出し、ああ、とレオハニーは嘆息する。
「そうか。どうして貴方がいつまでも鍵者を生み出せなかったのか、ようやく納得したよ。貴方がシモン博士から盗み出したのは、劣化したダアトのコピーだったようだ」
『コピー、ですって!?』
五百年前、ベートはレオハニーの魂を実験台にして、NoDのプロトタイプへの魂の定着実験を行った。実験が成功し、安全に肉体を手に入れられると判明するや、ベートはダアトでレオハニーの身体を複製したのだ。
そうしてベートは、まんまとNoDの肉体ごとダアトを盗み出した。だが、複製したNoDの身体には何かしらの欠落があったのだろう。そのせいでベートたちのダアトは劣化コピーになってしまったようだ。
これまでのトゥアハ派の動きから推察するに、彼女たちのダアトは物質を融解することしかできないらしい。ネフィリムの製法も、人間の菌糸から耐性を排除しているだけ。ノンカの里は単に、ダアトの最大出力を調査するために使い潰されただけだ。
まるで拳銃を握った子供だ。大人の真似事で好き放題暴れて、自分の力ではないのになんでもできると豪語する。行いの残酷さも知らないまま。
怒りで視界の端が赤く染まれば染まるほど、レオハニーの頭の中は冷え切っていった。鮮血で濁る海水を足場越しににじり、二分されたベートを冷淡に眺める。
「努力もせず、成果だけを盗んだ貴方では、模造と本物の区別すらつけられないのも当然かな」
『う、ぐぅ……!』
ベートから悔しげな声が上がり、断面から粘液を被った肉の塊が零れ落ちた。それはゆっくりと人の形を取り戻し、全裸の女性を形作る。
「破壊と、創造……ああ、神にも等しい力じゃない。本当なら、それはあたしの物だったのに! その力さえあれば、もっと早く新世界を作ってあげられたのに!」
劣勢に追い込まれていると思えぬほど、ベートは生き生きと目を輝かせた。
「本当はこんなことしたくなかったの。でも、レオナが悪いんだから」
ベートは四つん這いのまま腰を上げると、人間とは思えぬ速度でレオハニーに飛びかかった。
素早く大剣で切り捨てる。しかし、ベートは胴体が千切れるのも厭わず、レオハニーの顔面へと手を伸ばした。
至近距離で、赤紫の霧が勢いよく排出された。予想外のことで咄嗟に顔を背けるが、霧の一部を吸引してしまった。
『催眠』か。いや違う。
「……!」
皮膚の表面にヒビが入るような激痛が走り、足がふらついた。見下ろせば、指の爪が真っ黒に染まり、指紋がみるみる逆立っていくのが見えた。
ドラゴン毒素だ。すぐにダアトで変質した部分を再構築しようとするが、思い通りにダアトを動かせない。金縛りにあったように、身体の自由が奪われていく。
「菌糸ってね、ある一定の条件下で、ドラゴン毒素に惰弱性を見せるのよ。ドラゴン討伐にも属性相性があるようにね」
ベートの魔女のような爪がレオハニーの胸をつつく。
「あなたの身体は溶岩を生み出せる代わりに、体外の水に触れると菌糸の結合が緩んでしまう。特にNoDは、魂のない素体に無理矢理菌糸を適合させているから、効果は絶大なの」
爪がくるりと向きを変え、俯いたレオハニーの顎を持ち上げた。頭から血を被った女性の顔が、悪魔のように微笑みかけてくる。
「雨に振られる程度ならちょっとダルい程度かな。でも、あなたはこの短時間で大量の海水を浴びてしまった。さぁ問題! 菌糸の結合が緩んでいるときに、高密度のドラゴン毒素をぶつけたらどぉなっちゃうかな?」
身体のあちこちから、薄氷を割るような音が聞こえてくる。皮膚が逆立つのを感じながら、レオハニーは歯を食いしばった。
何も答えないレオハニーに、ベートはストンと表情を消した。そして一歩下がり、つま先で勢いよくレオハニーの顎を蹴り上げた。
「あはは、すぐに効果が出なくて焦っちゃったなぁ。氷の一族の菌糸がこの辺りに根付いているせいかな? 死んでも邪魔してくるなんてホント厄介ね」
仰向けに倒れたレオハニーの頭を踏みつけながら、ベートがゆっくりと覗き込んでくる。
「今のあなたは仮想世界に逃げるしかなかった私たちと同じ。進化し損ねた旧人類。世界に生きることを許されなかった、可哀想な被害者」
ベートのつま先が毒々しい赤い光に包まれ、ダアトがじわじわとレオハニーの頬を濡らした。硫酸を顔にぶちまけられたような、激しい痛みと屈辱が頭部を侵す。
「ッ!」
意地でも悲鳴を噛み殺した。身体の自由を奪われているのを一時だけ感謝した。でなければ、恥も外聞もなく転がりまわっていただろうから。
「苦しいでしょ? でも生きていたいでしょ? でもレオナは新世界に連れて行ってあげない。私は生きていたいという権利すら奪われて、無理やりポッドに入れられちゃったのに、貴方は適合して現実世界に残れたんだから」
溶けた右目から生暖かい液体が溢れた。ベートは愉快そうにその様を眺めた後、足を退けてそっと耳打ちした。
「今ならお母さんが楽に死なせてあげるよ? レオナ」
足蹴にされていた顔の右半分が燃えるように熱い。聴覚もほとんど機能しておらず、全身がびっしょりと脂汗で冷え切っていた。
満身創痍。絶体絶命。そんな言葉が頭を過ぎる。
しかしレオハニーは、込み上げてくる笑いを止められなかった。
「……なに笑ってんの?」
「……貴方は五百年の歳月で、自分のことすら忘れてしまったのかな」
「何が言いたいの」
「貴方は無理やりポッドに入れられたと言っていたが、違う。私は確かに見たよ。進んで自らポッドに入り、現実世界に置いて行かれる私を嘲笑った貴方を」
激痛でおかしくなってしまったのか、思考はやたらクリアだった。自他共に認める口下手だったというのに、人格が変わってしまったと思うほど舌がよく回る。
「別れ際に笑顔を見せただけだと思いたかった。私を悲しませたくないからそうしたのだと思った。けれど、貴方は本心から私を嘲笑った。戦争孤児の汚れた私を憐れむ大人たちのように」
残った左目でベートを見つめ返すと、彼女は目尻が裂けそうなほど目を剥いて、へたり込むように後ずさった。
レオハニーの身体は相変わらず麻痺したままだ。ドラゴン化も進んでおり、NoDでなければ生き絶えているほど重傷だ。恐れる理由はどこにもない。
それでもベートの目には明らかな恐怖が住み着いていた。レオハニーが幼い頃からずっと見ていた、未知を嫌厭し、戸惑う大きな闇だ。
闇の奥に語りかけるように、レオハニーは続ける。
「私は最後まで貴方を信じたかったよ。死を待つしかなかった私に、貴方は家を用意してくれたから」
命の恩人が、他人の命を蔑ろにするような外道ではないと信じたかった。自分もサンプルの一つでしかなかったと思いたくなかった。自分を裏切ったのはベートではなく浦敷博士なのだと、長い歳月をかけて責任を押し付けた。そうすることで、ベートに騙された惨めな自分を覆い隠したかった。
名を与えられたレオナ・ハーヴァーは、ベートの中では特別なのだという幻想に縋りたかった。
だが、それも今日までだ。
「……認めよう。貴方の生き方は間違っている。他者を踏みつけにしなければ生きられない貴方は、淘汰されるべき敵だ」
心臓へ意識を集中させ、活力を失いつつあったダアトの炉に火を放つ。すると、先ほどまでの金縛りが嘘のように、全神経が再起動を果たした。
ゆっくりと起き上がり、ドラゴン化した皮膚を手のひらで撫でる。逆だった鱗はダアトの繊維で縫合され、滑らかな肌へ。融解した顔に触れれば、視界こそ欠けたままだが、ぴたりと出血が止まった。
右の眼窩に冷たい潮風が流れ込む。再生したばかりの皮膚が乾燥して引き攣ったが、今はそれすら心地よかった。
ベートは大きく身を震わせながら、何度も何度も後ずさった。
「拾ってもらった恩を忘れたの? 今日まで見逃してあげたのに、貴方まで私を悪者扱いするのね?」
逃げようとするベートを、悠然とした足取りで追いかける。
死にかけるほどの重傷を負って、ようやく実感した。ドラゴン化しても揺らがなかった己の心に触れて、人間を知った。
最強の討滅者とは、人の範疇を超えた化け物だ。神の領域であるダアトでなければ殺せない何かだ。人であることを諦めきれなかったレオナ・ハーヴァーはもういない。
レオハニーは軽石の足場を降り、さも当たり前のように水面を歩いた。風で波打つ水面は、レオハニーの通る道のみ静まり返り、鏡のように滑らかな表面を映し出した。
菌糸能力とは一線を画す超常現象を前に、ベートは恐れ慄いた。彼女もまた素足で水面に立っているが、荒れる波に足首を絡め取られ、何度も転倒する。
「あ……ああ……! 来ないで、来ないで!」
歩みを止めぬまま、レオハニーは目を細めた。
「人は皆孤独だ。私が私だけであるように、貴方もまた貴方だけ。複製された自我データであっても、どんなに外見が似ていたとしても、所詮は他人だ」
何度も転び、海水に濡れたせいで、ベートの身体を覆う血が剥げ落ちていた。露わになった肌は青ざめ、唇も死人のように色褪せている。
顔に髪を張り付かせたベートを、レオハニーは無表情で見下ろした。
「ひとつ聞きたい。ベート・ハーヴァー。仮想世界が設立された時の人類は、菌糸も、ダアトの研究も始めていなかった。ならば旧人類の魂は、本当に仮想世界へ抽出されたのか?」
過呼吸気味だったベートの呼吸が止まった。戦慄いていた唇が大きく開かれ、開きすぎた瞳孔が虹彩を飲み込む。
「……ダメだよ。そんな価値観、絶対に認めない」
糸で引っ張られたように、不自然にベートが立ち上がる。
「自我データは本人なの。本人が死んでいても本人なの。でないとあたしたちは、生きてるのがおかしいの!? 」
ベートは自分の左手を掴むと、腕の根本から力任せに引きちぎった。それは不気味な音を立てながらドラゴン化し、無数の棘に覆われた鞭へ変形する。
「認めちゃいけないんだよ! 自分で絶滅するなんてバカなんだよ! 私たちは本物! 生きてる! 幽霊じゃない! 生きる権利があるの!」
「……否定はしないよ」
悲鳴のような風切り音をあげて、鞭がレオハニーの皮膚へ叩きつけられる。血飛沫が舞い、骨が砕ける音がした。
レオハニーは痛みに眉を顰めながら、血まみれの腕で鞭を絡め取った。力任せに引っ張り、強制的に間合いへ入れる。
「あ──」
ダアトを纏った灼熱の大剣から火の粉が上がる。切り裂かれた毛髪が宙を舞い、あっという間に燃え尽きていった。
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