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5章
(52)仮想世界研究所
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駅から歩いて数分、研大が立ち止まったのは銀行の前だった。
「なんで銀行?」
「銀行は魂と記憶の管理も任されてるんだよ。ここで魂の座標を変えられる──言い換えれば、ワープができるんだ」
「ワープ? マジで?」
「ここは仮想世界だぞ? 人間でもカットアンドペーストは楽勝だ」
さらっと恐ろしいことを言いながら、研大は銀行の中へ入っていった。彼に続いて自動ドアを潜ってみると、内部はごく一般的な大手銀行だった。広々として清潔、そして無機質な待合室があり、受付には笑顔を貼り付けた銀行員が立っている。
「あの女、客もいないのにずっと笑顔だぞ。微動だにもしない」
クライヴが不気味なものでも見るように身を屈めると、研大は平然と彼女たちを指差した。
「あの銀行員は全部人工AIだよ」
「ジンコーエーアイ?」
「やっぱクライヴ君も記憶喪失なのか。人工AIはね、人間の代わりに働いてくれるロボットだよ」
「ちなみにロボットはオラガイアのカラクリみたいなものだ」
俺が補足を入れると、クライヴは銀行員を三度見しながらムンクの叫びになった。
「人間じゃないのか!?」
「ははは! 原始人みたいな驚き方するなぁ。他のサーバーはどうか知らないけど、ここじゃ接客業全般がAIの仕事なんだよ」
さぁこっち、と研大はクライヴに優しく笑いかけながら、待合室を抜けて奥の部屋へと進んだ。その後ろを追いかけながらクライヴは純粋な疑問を口にする。
「なあ、さっきから言ってるサーバーっていうのは、どういう意味だ?」
「ああ。この世界を形作る箱みたいなものだよ。例えば、現実世界では地面がなきゃ落ちちゃうし、生活もままならないだろ? それと同じで、サーバーがないとこの世界は存在できないんだ」
「よく分からんが……かなり危うい世界なんだな」
「そう。サーバーが壊れたら、この世界は消滅するんだよ。跡形もなくね」
エントランスよりも重厚な自動ドアが開かれ、また別の空間が現れる。そこは駅のホームのような長い広場があった。広場の左右には鉄製アーチで囲われたアクアボールがずらりと並んでおり、現代美術館に紛れ込んでしまったかのようだ。
アクアボールの手前には搭乗口らしきステップと操作板があり、ちょうど仮想世界の住人が操作しているところだった。
住人は操作を終えると、徐にステップに乗って、アクアボールの膜にふれた。すると、住人は無抵抗で内側にするりと入ってしまった。
数秒後、アクアボールが淡く輝き、住人の姿が四角いポリゴンに包まれる。輪郭が全てポリゴンで覆われたかと思うと、住人ごと粒子となって消滅した。
「ひ、人が消えた!」
「あれがワープだ。最初は怖いけど慣れれば一瞬だよ。操作は俺がするから、三人はそれぞれ一人づつワープボールの中に入って」
蒼白になるクライヴを尻目に、研大は甲斐甲斐しくワープボールへと誘導した。
俺も若干の不安を感じながら、言われた通りワープボールなるものへ近づく。まずは軽く人差し指で撫でてみる。透明な膜は水面の触感に近く、内側も液体で満たされているらしい。思い切って顔を突っ込むと、吸い込まれるように残りの身体も入ってしまった。
液体の中なのに苦しくない。というより、この世界では呼吸の必要がないのだろう。しかし全身が浮かぶようなこの感覚は、試験管の中を思い出してしまい気分が悪くなった。
「研大、早くしてくれないか……」
「もう少し待って。一斉に送った方が料金も安いから。にしても、記憶がなくても苦手なんて難儀だなぁ」
研大は苦笑しながら手早く操作を終えると、自身もワープボールの中に入って両手を上げた。
「それじゃあ、出発!」
ふわり、と一層浮遊感が強くなり、全身が硬質的な感触に包まれる。電源を落としたように視界が失せ、遅れて嗅覚、聴覚、味覚、触覚が消滅する。
意識の連続性が途絶え、足場を奪われた自己が奈落へ引き摺り込まれる。
「う……わあああっ!」
死に近い感覚に悲鳴を上げた瞬間、俺は放り出された。
地面を転がり、皮膚の擦過を始めとして失われた感覚が蘇っていく。
大きく目を開けて起き上がると、俺は短い芝生が生い茂るグラウンドに座り込んでいた。
「ありゃ、ちょっと座標がずれちゃったな。後で報告しとかないと」
右の方から研大の声がする。そちらを見ると、四階建ての研究所が聳え立っていた。エントランスの手前には研大と、散らばったような距離感でレオハニーとクライヴが立っている。舗装された道から大きく外れたのは俺だけだったようだ。
ワープ先の座標がズレるなんて恐ろしいこともあるものだ。もしズレた先が壁の中だったら一体どうなってしまうのだろう。
俺は砂埃を払いながら道に戻ると、改めて研究所を見上げた。
「ここが浦敷博士の研究所?」
「そうだよ。肉体疲労から解放されたからって、ずっとここに泊まり込んでるんだ」
研大の言葉を半ば聞き流しながら、俺は考え込んだ。
さっき転んだ時、肘や膝に擦り傷ができたのだが、この数秒で痛みも傷も消えてしまった。そしてワープ中は自己喪失にも似た恐怖に苛まれたというのに、呼吸は一切乱れず、冷や汗も出ない。脈も一定のままだった。
疲労もなく、苦痛は最低限、感情に伴う生理現象すらない。あまりにも生物的な無駄が削ぎ落とされた無味無臭の世界だ。仏教にある無の境地に近い。
それともう一つ、俺はどうしても気になることがあった。
「さっきのワープで、俺たち死ななかったか?」
「量子テレポーテーションの議論がしたいのか? 悪いけど俺はそういう小難しい事より機械の設計がしたいよ。哲学は昔っから苦手なの、知ってるだろ?」
相変わらずの返答に俺は憮然とした。
「この数百年でちょっとは考えただろ。こっちの浦敷良甫にも聞かれなかったか?」
「いんや。良甫から一つの考え方を教わったから、俺の中で結論は決まってるよ。『客観的に見て同一なら、分解して再構築した物質は同一のものだ』ってさ」
研大は片頬で笑うと、顎を撫でながら俺の顔をちょっと屈んで覗き込んだ。
「にしても良甫。さっきから随分と自分のことを他人みたいに扱うな?」
「いや、それは──」
もう話してもいいだろう、と俺が口を開いた瞬間、エントランスからばさりと白衣が翻った。
「ちょっと博士!? 自分の記憶でサンプルを取るなって昨日言ったばかりですよね!?」
見知らぬ女性にガッチリと胸ぐらを掴まれ、至近距離から凄まれる。淡いオレンジ色に染まったメガネレンズの向こうには、そばかすで痩せ気味な女性の般若があった。
「藍空! あんたがいてなんで止めないの!」
「み、見つけた時にはこうだったんだよ!」
くわっと吠える女性にすかさず研大が弁明する。女性は荒々しく舌打ちをすると、俺の胸ぐらを掴んだまま研究所の中へと引き摺り込んだ。
「とにかく今回ばかりは許しません! すぐに身体を戻してください! ほら!」
エントランスに入ってすぐ、女性は俺の右手を掴んで開いたり閉じたりを繰り返した。まるで潰れたオーケーサインのようだった。
何か意味のある動作なのだろうが、しばらく待っても何も起きない。
「……あれ、あれ? なんでウィンドウが出てこないの?」
「え、バグ?」
研大が首を傾げると、女性は大きく被りを振った。
「そんなわけないわ。アップデートが終わってかなり経ってるんだから!」
女性はもう一度俺の指を開いてから曲げる。しかし結果は同じだ。それを見ていた研究所の受付員が、カウンターを抜けてこちらに近づいてきた。
「どうしたんですか、ミモナ博士」
「ウィンドウが開かないのよ。ちょっとサーバーで確認してもらえる? 浦敷博士のデータに問題があるのかも」
「──その子にウィンドウは存在しない。魂はともかく、データが管理サーバーに記録されていないからね」
エントランスの上、吹き抜けの二階から声が降ってくる。見上げると、ガラスの柵で囲われた二階から、こちらを見下ろす『俺』がいた。
服装は、ミモナ博士と呼ばれた白衣の女性とほとんど同じだ。シンプルなシャツとズボンに白衣を着て、背格好は今の俺より大人らしい。肉体は鍛えていないためもやし体型のままだったが、落ち窪んだ目元は戦場帰りの兵士のようだった。
浦敷博士の登場を予想できていたレオハニーとクライヴは、警戒心に満ちた目つきで彼を睨みつけている。対して、俺の周りを囲んでいた人々は酷く狼狽していた。
「……は、博士が、二人!?」
「わあ! じゃあこっちの良甫は自我データのコピーだったのか!? 普通に受け答えするから人間かと思った!」
驚きで爆笑しながら、研大は俺の背中を叩きまくる。鈍い痛みが走るたびに、研大の袖から薬品の匂いがした。
「痛いって、やめろバカ!」
「これも思考回路から自動生成された返答なのか? やっぱ良甫も生物じゃなくて工学に入るべきだったろ!」
研大の興奮に収集がつかなくなってきたころ、浦敷博士は覇気のない笑みを浮かべながら虚空へと呼びかけた。
「マザー。この街全域に記憶処理を頼む」
『承知しました。浦敷博士』
女性の機械音声が応答した直後、窓の外にヴェールが降り、人々を音もなく飲み込んでいく。人々はヴェールを見上げながら困惑していたが、それが消えると同時に、何事もなかったかのように行動を再開した。
「これで君たち三人の記憶を持つ人間は、このサーバーからいなくなった。この研究所内の人間を除いてね」
淡々と説明しながら、革靴の足音が階段を伝い降りてくる。動作や声質は、俺のようで俺じゃない。自分が動く姿なんて滅多に見ない分、客観的に見る『俺』が他人に思えるのか。それとも、本当に俺と浦敷博士が他人だからなのか。
ともかく、浦敷博士が動いている姿を見ているだけで、心臓の表面からムカデじみた生理的嫌悪感が這いずり出てきた。
革靴が止まり、よく磨かれた床に白衣が反射する。こちらを見つめる真っ黒な瞳には、生物的な光が宿っていた。
「初めまして。私は浦敷良甫。そこにいる彼のオリジナルであり、生みの親だ」
研大と、ミモナ博士が俺から離れる。危険人物に対する反応だった。
入れ替わるように、レオハニーとクライヴが俺の隣に立つ。彼らからは薬品の匂いはせず、代わりに潮の香りがかすかに漂った。
はっと形だけの息を吐き、俺は浦敷博士へ問いかける。
「俺たちにメッセージを送ったのはお前なのか?」
「その通り。ヨルドの海底遺跡を起動し、君たちがここに来れるように手配したのも私だ。古い友人に君たちの言語を教えてもらったのだが、うまく伝わったかな?」
「怪しすぎて宣戦布告と勘違いされかけたぞ」
「はは、そうか……想定より、事態は深刻だな」
途端に表情を引き締める浦敷博士に、俺も自然と剣呑になる。そして、会話の終わりを察したレオハニーが、爛々とした目つきで浦敷博士へとにじり寄った。
「この世界について、詳しく聞かせてもらいましょう。浦敷博士」
浦敷良甫は一瞬だけ瞳孔を開くと、寂しそうに頬を緩めた。
「もちろんだよ、レオナ。君が来るのを心待ちにしていたんだから。肉体と、友を置いていってしまった日から、ずっと」
浦敷博士は白衣を翻し、親指と四つ指で虚空を開くように手を広げる。すると、指先からウィンドウが開かれ、キロキロと木管のような音色が奏でられた。
ぶぅん、と機械的な音が俺たちの足元から響く。いつのまにか、目の前の床に発光する線が引かれていた。線はそのまま透明な壁を這い上がるように直上すると、透明な扉を描き出した。気づけば浦敷博士の目の前にも同じような扉が浮かんでいる。
扉はしばし静止した後、一人でにノブを回し、内側を曝け出した。その先には、CGで貼り付けたかのように全く別の景色が広がっていた。全面ガラス張りで都市を一望できるオフィスだ。
「私室に直接ゲートを繋いだ。進みなさい」
浦敷博士は端的な指示を出し、そのまま扉を潜って消えてしまった。
「行こう。リョーホ」
レオハニーに促され、俺は大股で扉の向こうへと踏み入った。
「なんで銀行?」
「銀行は魂と記憶の管理も任されてるんだよ。ここで魂の座標を変えられる──言い換えれば、ワープができるんだ」
「ワープ? マジで?」
「ここは仮想世界だぞ? 人間でもカットアンドペーストは楽勝だ」
さらっと恐ろしいことを言いながら、研大は銀行の中へ入っていった。彼に続いて自動ドアを潜ってみると、内部はごく一般的な大手銀行だった。広々として清潔、そして無機質な待合室があり、受付には笑顔を貼り付けた銀行員が立っている。
「あの女、客もいないのにずっと笑顔だぞ。微動だにもしない」
クライヴが不気味なものでも見るように身を屈めると、研大は平然と彼女たちを指差した。
「あの銀行員は全部人工AIだよ」
「ジンコーエーアイ?」
「やっぱクライヴ君も記憶喪失なのか。人工AIはね、人間の代わりに働いてくれるロボットだよ」
「ちなみにロボットはオラガイアのカラクリみたいなものだ」
俺が補足を入れると、クライヴは銀行員を三度見しながらムンクの叫びになった。
「人間じゃないのか!?」
「ははは! 原始人みたいな驚き方するなぁ。他のサーバーはどうか知らないけど、ここじゃ接客業全般がAIの仕事なんだよ」
さぁこっち、と研大はクライヴに優しく笑いかけながら、待合室を抜けて奥の部屋へと進んだ。その後ろを追いかけながらクライヴは純粋な疑問を口にする。
「なあ、さっきから言ってるサーバーっていうのは、どういう意味だ?」
「ああ。この世界を形作る箱みたいなものだよ。例えば、現実世界では地面がなきゃ落ちちゃうし、生活もままならないだろ? それと同じで、サーバーがないとこの世界は存在できないんだ」
「よく分からんが……かなり危うい世界なんだな」
「そう。サーバーが壊れたら、この世界は消滅するんだよ。跡形もなくね」
エントランスよりも重厚な自動ドアが開かれ、また別の空間が現れる。そこは駅のホームのような長い広場があった。広場の左右には鉄製アーチで囲われたアクアボールがずらりと並んでおり、現代美術館に紛れ込んでしまったかのようだ。
アクアボールの手前には搭乗口らしきステップと操作板があり、ちょうど仮想世界の住人が操作しているところだった。
住人は操作を終えると、徐にステップに乗って、アクアボールの膜にふれた。すると、住人は無抵抗で内側にするりと入ってしまった。
数秒後、アクアボールが淡く輝き、住人の姿が四角いポリゴンに包まれる。輪郭が全てポリゴンで覆われたかと思うと、住人ごと粒子となって消滅した。
「ひ、人が消えた!」
「あれがワープだ。最初は怖いけど慣れれば一瞬だよ。操作は俺がするから、三人はそれぞれ一人づつワープボールの中に入って」
蒼白になるクライヴを尻目に、研大は甲斐甲斐しくワープボールへと誘導した。
俺も若干の不安を感じながら、言われた通りワープボールなるものへ近づく。まずは軽く人差し指で撫でてみる。透明な膜は水面の触感に近く、内側も液体で満たされているらしい。思い切って顔を突っ込むと、吸い込まれるように残りの身体も入ってしまった。
液体の中なのに苦しくない。というより、この世界では呼吸の必要がないのだろう。しかし全身が浮かぶようなこの感覚は、試験管の中を思い出してしまい気分が悪くなった。
「研大、早くしてくれないか……」
「もう少し待って。一斉に送った方が料金も安いから。にしても、記憶がなくても苦手なんて難儀だなぁ」
研大は苦笑しながら手早く操作を終えると、自身もワープボールの中に入って両手を上げた。
「それじゃあ、出発!」
ふわり、と一層浮遊感が強くなり、全身が硬質的な感触に包まれる。電源を落としたように視界が失せ、遅れて嗅覚、聴覚、味覚、触覚が消滅する。
意識の連続性が途絶え、足場を奪われた自己が奈落へ引き摺り込まれる。
「う……わあああっ!」
死に近い感覚に悲鳴を上げた瞬間、俺は放り出された。
地面を転がり、皮膚の擦過を始めとして失われた感覚が蘇っていく。
大きく目を開けて起き上がると、俺は短い芝生が生い茂るグラウンドに座り込んでいた。
「ありゃ、ちょっと座標がずれちゃったな。後で報告しとかないと」
右の方から研大の声がする。そちらを見ると、四階建ての研究所が聳え立っていた。エントランスの手前には研大と、散らばったような距離感でレオハニーとクライヴが立っている。舗装された道から大きく外れたのは俺だけだったようだ。
ワープ先の座標がズレるなんて恐ろしいこともあるものだ。もしズレた先が壁の中だったら一体どうなってしまうのだろう。
俺は砂埃を払いながら道に戻ると、改めて研究所を見上げた。
「ここが浦敷博士の研究所?」
「そうだよ。肉体疲労から解放されたからって、ずっとここに泊まり込んでるんだ」
研大の言葉を半ば聞き流しながら、俺は考え込んだ。
さっき転んだ時、肘や膝に擦り傷ができたのだが、この数秒で痛みも傷も消えてしまった。そしてワープ中は自己喪失にも似た恐怖に苛まれたというのに、呼吸は一切乱れず、冷や汗も出ない。脈も一定のままだった。
疲労もなく、苦痛は最低限、感情に伴う生理現象すらない。あまりにも生物的な無駄が削ぎ落とされた無味無臭の世界だ。仏教にある無の境地に近い。
それともう一つ、俺はどうしても気になることがあった。
「さっきのワープで、俺たち死ななかったか?」
「量子テレポーテーションの議論がしたいのか? 悪いけど俺はそういう小難しい事より機械の設計がしたいよ。哲学は昔っから苦手なの、知ってるだろ?」
相変わらずの返答に俺は憮然とした。
「この数百年でちょっとは考えただろ。こっちの浦敷良甫にも聞かれなかったか?」
「いんや。良甫から一つの考え方を教わったから、俺の中で結論は決まってるよ。『客観的に見て同一なら、分解して再構築した物質は同一のものだ』ってさ」
研大は片頬で笑うと、顎を撫でながら俺の顔をちょっと屈んで覗き込んだ。
「にしても良甫。さっきから随分と自分のことを他人みたいに扱うな?」
「いや、それは──」
もう話してもいいだろう、と俺が口を開いた瞬間、エントランスからばさりと白衣が翻った。
「ちょっと博士!? 自分の記憶でサンプルを取るなって昨日言ったばかりですよね!?」
見知らぬ女性にガッチリと胸ぐらを掴まれ、至近距離から凄まれる。淡いオレンジ色に染まったメガネレンズの向こうには、そばかすで痩せ気味な女性の般若があった。
「藍空! あんたがいてなんで止めないの!」
「み、見つけた時にはこうだったんだよ!」
くわっと吠える女性にすかさず研大が弁明する。女性は荒々しく舌打ちをすると、俺の胸ぐらを掴んだまま研究所の中へと引き摺り込んだ。
「とにかく今回ばかりは許しません! すぐに身体を戻してください! ほら!」
エントランスに入ってすぐ、女性は俺の右手を掴んで開いたり閉じたりを繰り返した。まるで潰れたオーケーサインのようだった。
何か意味のある動作なのだろうが、しばらく待っても何も起きない。
「……あれ、あれ? なんでウィンドウが出てこないの?」
「え、バグ?」
研大が首を傾げると、女性は大きく被りを振った。
「そんなわけないわ。アップデートが終わってかなり経ってるんだから!」
女性はもう一度俺の指を開いてから曲げる。しかし結果は同じだ。それを見ていた研究所の受付員が、カウンターを抜けてこちらに近づいてきた。
「どうしたんですか、ミモナ博士」
「ウィンドウが開かないのよ。ちょっとサーバーで確認してもらえる? 浦敷博士のデータに問題があるのかも」
「──その子にウィンドウは存在しない。魂はともかく、データが管理サーバーに記録されていないからね」
エントランスの上、吹き抜けの二階から声が降ってくる。見上げると、ガラスの柵で囲われた二階から、こちらを見下ろす『俺』がいた。
服装は、ミモナ博士と呼ばれた白衣の女性とほとんど同じだ。シンプルなシャツとズボンに白衣を着て、背格好は今の俺より大人らしい。肉体は鍛えていないためもやし体型のままだったが、落ち窪んだ目元は戦場帰りの兵士のようだった。
浦敷博士の登場を予想できていたレオハニーとクライヴは、警戒心に満ちた目つきで彼を睨みつけている。対して、俺の周りを囲んでいた人々は酷く狼狽していた。
「……は、博士が、二人!?」
「わあ! じゃあこっちの良甫は自我データのコピーだったのか!? 普通に受け答えするから人間かと思った!」
驚きで爆笑しながら、研大は俺の背中を叩きまくる。鈍い痛みが走るたびに、研大の袖から薬品の匂いがした。
「痛いって、やめろバカ!」
「これも思考回路から自動生成された返答なのか? やっぱ良甫も生物じゃなくて工学に入るべきだったろ!」
研大の興奮に収集がつかなくなってきたころ、浦敷博士は覇気のない笑みを浮かべながら虚空へと呼びかけた。
「マザー。この街全域に記憶処理を頼む」
『承知しました。浦敷博士』
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「これで君たち三人の記憶を持つ人間は、このサーバーからいなくなった。この研究所内の人間を除いてね」
淡々と説明しながら、革靴の足音が階段を伝い降りてくる。動作や声質は、俺のようで俺じゃない。自分が動く姿なんて滅多に見ない分、客観的に見る『俺』が他人に思えるのか。それとも、本当に俺と浦敷博士が他人だからなのか。
ともかく、浦敷博士が動いている姿を見ているだけで、心臓の表面からムカデじみた生理的嫌悪感が這いずり出てきた。
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はっと形だけの息を吐き、俺は浦敷博士へ問いかける。
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「怪しすぎて宣戦布告と勘違いされかけたぞ」
「はは、そうか……想定より、事態は深刻だな」
途端に表情を引き締める浦敷博士に、俺も自然と剣呑になる。そして、会話の終わりを察したレオハニーが、爛々とした目つきで浦敷博士へとにじり寄った。
「この世界について、詳しく聞かせてもらいましょう。浦敷博士」
浦敷良甫は一瞬だけ瞳孔を開くと、寂しそうに頬を緩めた。
「もちろんだよ、レオナ。君が来るのを心待ちにしていたんだから。肉体と、友を置いていってしまった日から、ずっと」
浦敷博士は白衣を翻し、親指と四つ指で虚空を開くように手を広げる。すると、指先からウィンドウが開かれ、キロキロと木管のような音色が奏でられた。
ぶぅん、と機械的な音が俺たちの足元から響く。いつのまにか、目の前の床に発光する線が引かれていた。線はそのまま透明な壁を這い上がるように直上すると、透明な扉を描き出した。気づけば浦敷博士の目の前にも同じような扉が浮かんでいる。
扉はしばし静止した後、一人でにノブを回し、内側を曝け出した。その先には、CGで貼り付けたかのように全く別の景色が広がっていた。全面ガラス張りで都市を一望できるオフィスだ。
「私室に直接ゲートを繋いだ。進みなさい」
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