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5章
(2)決別
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大聖堂から離れた東区画の広場で、首を失った死体と、その傍に座り込む大男がいた。大男の逆立った小豆色の毛髪は死闘によって血を吸い、額から顎にかけて真っ赤な滝の流れた痕跡が残っていた。すでに額の傷はふさがっているようだが、抉れた腕や鎧は痛々しく、今この瞬間に絶命してしまってもおかしくないほど重傷だった。
自分の血でできた水たまりの上に胡坐をかきながら、ベアルドルフはただじっと首なし死体を見下ろしていた。彼の頭の中では、つい数分前にここを訪れ、トトの首を持っていった男の事が巡っている。その男は、ノンカの里を滅ぼしたものと同じ真っ赤な菌糸を使ってトトの頭部を取り込んだ後、まるで幻覚だったかのように一瞬で姿を消してしまった。
そして、今度は白衣を纏った同一人物がベアルドルフの前に現れた。
「よお。何年振りだ? ベアルドルフ」
眼帯に覆われた右目を引っ掻きながら、ベアルドルフは左目で男を見上げる。トルメンダルクの強風に長時間煽られていたせいで、ドミラスの白衣は裾が食いちぎられたようにボロボロになっていた。
ベアルドルフは頭のてっぺんからつま先までドミラスが幻ではないことを入念に確認した後、頬杖をつきながら疲弊した溜息を吐いた。
「……オレにとっては数分ぶりだ」
「くく、そうかよ」
ドミラスは苦笑しながらベアルドルフの隣に座ると、両足を投げ出しながら地面に両手をついた。
「その様子では、もう未来の俺に会ったみたいだな」
「そういう貴様はアンジュに会えたのか?」
「遠目にな。今は会うべきじゃない」
くたびれた口調でドミラスは天を仰ぎ、そのままずるずると仰向けになった。ベアルドルフは横目でそれを眺めた後、ドミラスの変わり果てた菌糸模様を見て忌々し気に舌打ちをした。
紫色の瞳を代々受け継いできたベアルドルフの家系は、菌糸の正体が魂であると百年以上前から突き止めていた。そのため、人間の肉体が一つの菌糸しか保有できない理由も魂のせいだと早々に気づいていた。
複数の菌糸を持てば、普通の人間は人型を維持できずにドラゴン化してしまう。ノクタヴィスで行われた人体実験でそれは既に証明されていた。
逆に言えば、複数の菌糸を持ってもなお人型を保てるような存在は、NoD以外にありえないということだ。機械仕掛けの世界から魂を受け入れるために作られたNoDは、姿かたちは人間であっても中身は全くの別物だ。NoDの肉体に根を張る菌糸は、魂の思考、習慣を肉体に焼き付けただけのコピーでしかない。どんなに自我があるように見えても、魂は存在しない、ただの動く人形だ。
例えば、ウラシキリョーホが浦敷博士と似た行動や言動を取れるのも、この人ならばこうするだろう、というコピー情報に基づいた肉体の条件反射によるものだ。浦敷博士曰く、NoDの魂の形はガクシュウAIというものに似たようなものであるらしい。
人間に限りなく似ていながら、魂が存在しない。そんなものは人間ではない。故に、ベアルドルフはNoDを化け物と断じ、滅するべく戦い続けてきた。
それがどうだ。かつての友人はあっさりと人間の身体を捨て、NoDの身体に魂を移し替えて化け物に成り果てた。本物の自分が消滅すると理解していながら、この男は自分という存在をコピー品に譲ってしまったのだ。
二十一年前にノンカの里が滅びた時から、ベアルドルフはドミラスが偽物にすり替わっていることに気づいていた。しかし改めて現実を目の当たりにすると腹立たしくて仕方がない。
ノンカの里融解事件の生存者は三名。ベアルドルフと、ロッシュ、そしてノンカの里の長であるマルタだけだった。アンジュを取り逃がし、ベアルドルフが満身創痍になりながらロッシュたちと合流した時、ドミラスはすでに死んでいた。脈が止まっているのをこの手で確認したのだ。
だというのに、その翌日には死体が消え、無傷のドミラスが帰ってきた。血の匂いを漂わせる鎧姿の人間を連れて。
ノンカの里が滅びてからヤツカバネの襲撃が起きるまでの二十一年間は、コピー品のドミラスが本物のフリをして生きてきた。そしてヤツカバネに頭を吹き飛ばされた後、どういうわけか本物の魂が時を超えて戻ってきた。すべて情報収集に長けたデッドハウンドからの報告通りである。
ならば、本物のドミラスがやるべきことは一つのみ。
これから起きる未来を正確に予測してしまい、ベアルドルフは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……貴様はどうあっても、その道を選ぶのだな」
「レオハニーにも同じことを言われた。だがアンジュを救うにはこうするしかない」
「それで貴様が死ぬとしてもか」
「死ぬのは一瞬だけだ。器のスペアがあれば俺は何度でも生き返ることができる。俺の命だけで仲間が救えるなら構わない」
ドミラスが言うや否や、彼の手の甲でアンジュから移植した『星詠』の模様とヤツカバネの『瞋恚』が、互いに絡まり合いながら浮かび上がってくる。
事象の書き換え、そして魂を操る力。予言書よりも正確な未来を求めたこの男は、未来の情報を携えて、魂ごと過去に戻るつもりなのだ。
コピー品のドミラスが、かつてベアルドルフに語っていたことがある。未来は無数の可能性が同時に存在しており、観測するまでどんな未来になるのか知ることはできない。言い換えれば、一度未来を観測してしまえば、その未来は一つの可能性に収束するということだ。
つまりドミラスは、アンジュが生きている未来を観測した魂を過去に持っていくことで、未来を固定するのが目的だったのだ。アンジュを死の運命から外す、ただそれだけのために。
ここから先の未来は予言書でも見通すことができない混沌とした世界となる。それが『星詠』の力を持つトトとドミラスが死ぬせいなのか、浦敷博士がそう手引きしたのかは、ベアルドルフでも分からない。
ただ一点、目の前の友人の末路だけは知っている。
「二十一年後の貴様は化け物だ」
「だろうな。だが、人の道を外れるのは俺だけで済む」
ドミラスは強張った息を長く吐き切ると、勢いをつけて起き上がった。すかさずベアルドルフはドミラスの胸倉をつかみ、大気が震えるほど腹の底から怒鳴りつけた。
「自ら化け物に成り果てる奴があるか!」
「……NoDは化け物ではない。俺たちと同じ人間だ。お前だって薄々理解しているから、エラムラでウラシキリョーホを殺さなかった。違うか?」
「あれはシキとの盟約を守っただけだ!」
「NoDの遺言を守った時点で人間扱いを辞められていない。矛盾しているぞ」
「……喧しい」
「やはり仁義が関わると馬鹿になるな、お前は」
ニヒルな笑みを浮かべながら、ドミラスはベアルドルフの手を引きはがした。間接に糸を括らせておいたおかげで、ベアルドルフの手は容易に離れていく。それでもなおベアルドルフが力を込めたせいで、糸が食い込んだ皮膚から血が滴った。
「それ以上は指が落ちるぞ」
襟の皺を伸ばしながらドミラスは悠然とトトの首なし死体へ歩み寄る。それから右手でトトの手を握ると、そこからトトの死体が赤く融解するように糸状に解けていった。融解はあっという間にトトの全身に伝播し、赤い糸が虫のように蠢きながらドミラスの心臓へ這い上がっていく。
ベアルドルフの紫色の瞳は、その赤い糸の正体を暴いていた。すべての物質を形作り、実体のなかった魂を具現化させる要因となった旧世界の負の遺産――ダアトだ。
赤い糸はドミラスの心臓の上で丸くなると、表面に『星詠』の菌糸模様を浮かべながら脈動を始めた。ドミラスはそれを落とさぬように慎重に両手で包みながら立ち上がる。
「浦敷博士は『機械仕掛けの世界から故郷を守りたいなら、NoDを皆殺しにしろ』と言った。だが、俺にはアンジュもミカルラも殺せなかった。お前だってNoDは化け物だと割り切らなければやってられなかったんだろう。その凶悪な顔で意外と優しい男だからな」
「……一言余計だ」
ベアルドルフは不愉快そうに顔を歪め、手に絡みつくドミラスの糸を解こうとするのは諦めた。代わりに、血で濡れた手が砕けそうなほどに強く拳を握り締める。
「また貴様だけが先に行くか。すべて分かっているような顔をして、無謀な夢のためだけに、何もかもを捨てていくか!」
「拾いに行けるものだけを残しているだけだ。そういうお前も、そろそろ大事な愛娘を拾いに行ってやれ。二十一年前のクソガキからの忠告だ」
ドミラスが言い終えると同時に、彼の全身に張り巡らされたすべての菌糸模様が心臓へと収束し、徐々に強く瞬き始める。
「じゃあな、ベアルドルフ」
一際赤く心臓が光った瞬間、ぼぐ、と小さな音を立ててドミラスの胸に穴が開く。その後、ふらりと仰向けに倒れ込んで、二度と動くことはなかった。
音もなく広がっていく血だまりを見下ろしながら、ベアルドルフは赤い唾を地面に吐き捨てた。
「……この、馬鹿どもが」
自分の血でできた水たまりの上に胡坐をかきながら、ベアルドルフはただじっと首なし死体を見下ろしていた。彼の頭の中では、つい数分前にここを訪れ、トトの首を持っていった男の事が巡っている。その男は、ノンカの里を滅ぼしたものと同じ真っ赤な菌糸を使ってトトの頭部を取り込んだ後、まるで幻覚だったかのように一瞬で姿を消してしまった。
そして、今度は白衣を纏った同一人物がベアルドルフの前に現れた。
「よお。何年振りだ? ベアルドルフ」
眼帯に覆われた右目を引っ掻きながら、ベアルドルフは左目で男を見上げる。トルメンダルクの強風に長時間煽られていたせいで、ドミラスの白衣は裾が食いちぎられたようにボロボロになっていた。
ベアルドルフは頭のてっぺんからつま先までドミラスが幻ではないことを入念に確認した後、頬杖をつきながら疲弊した溜息を吐いた。
「……オレにとっては数分ぶりだ」
「くく、そうかよ」
ドミラスは苦笑しながらベアルドルフの隣に座ると、両足を投げ出しながら地面に両手をついた。
「その様子では、もう未来の俺に会ったみたいだな」
「そういう貴様はアンジュに会えたのか?」
「遠目にな。今は会うべきじゃない」
くたびれた口調でドミラスは天を仰ぎ、そのままずるずると仰向けになった。ベアルドルフは横目でそれを眺めた後、ドミラスの変わり果てた菌糸模様を見て忌々し気に舌打ちをした。
紫色の瞳を代々受け継いできたベアルドルフの家系は、菌糸の正体が魂であると百年以上前から突き止めていた。そのため、人間の肉体が一つの菌糸しか保有できない理由も魂のせいだと早々に気づいていた。
複数の菌糸を持てば、普通の人間は人型を維持できずにドラゴン化してしまう。ノクタヴィスで行われた人体実験でそれは既に証明されていた。
逆に言えば、複数の菌糸を持ってもなお人型を保てるような存在は、NoD以外にありえないということだ。機械仕掛けの世界から魂を受け入れるために作られたNoDは、姿かたちは人間であっても中身は全くの別物だ。NoDの肉体に根を張る菌糸は、魂の思考、習慣を肉体に焼き付けただけのコピーでしかない。どんなに自我があるように見えても、魂は存在しない、ただの動く人形だ。
例えば、ウラシキリョーホが浦敷博士と似た行動や言動を取れるのも、この人ならばこうするだろう、というコピー情報に基づいた肉体の条件反射によるものだ。浦敷博士曰く、NoDの魂の形はガクシュウAIというものに似たようなものであるらしい。
人間に限りなく似ていながら、魂が存在しない。そんなものは人間ではない。故に、ベアルドルフはNoDを化け物と断じ、滅するべく戦い続けてきた。
それがどうだ。かつての友人はあっさりと人間の身体を捨て、NoDの身体に魂を移し替えて化け物に成り果てた。本物の自分が消滅すると理解していながら、この男は自分という存在をコピー品に譲ってしまったのだ。
二十一年前にノンカの里が滅びた時から、ベアルドルフはドミラスが偽物にすり替わっていることに気づいていた。しかし改めて現実を目の当たりにすると腹立たしくて仕方がない。
ノンカの里融解事件の生存者は三名。ベアルドルフと、ロッシュ、そしてノンカの里の長であるマルタだけだった。アンジュを取り逃がし、ベアルドルフが満身創痍になりながらロッシュたちと合流した時、ドミラスはすでに死んでいた。脈が止まっているのをこの手で確認したのだ。
だというのに、その翌日には死体が消え、無傷のドミラスが帰ってきた。血の匂いを漂わせる鎧姿の人間を連れて。
ノンカの里が滅びてからヤツカバネの襲撃が起きるまでの二十一年間は、コピー品のドミラスが本物のフリをして生きてきた。そしてヤツカバネに頭を吹き飛ばされた後、どういうわけか本物の魂が時を超えて戻ってきた。すべて情報収集に長けたデッドハウンドからの報告通りである。
ならば、本物のドミラスがやるべきことは一つのみ。
これから起きる未来を正確に予測してしまい、ベアルドルフは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……貴様はどうあっても、その道を選ぶのだな」
「レオハニーにも同じことを言われた。だがアンジュを救うにはこうするしかない」
「それで貴様が死ぬとしてもか」
「死ぬのは一瞬だけだ。器のスペアがあれば俺は何度でも生き返ることができる。俺の命だけで仲間が救えるなら構わない」
ドミラスが言うや否や、彼の手の甲でアンジュから移植した『星詠』の模様とヤツカバネの『瞋恚』が、互いに絡まり合いながら浮かび上がってくる。
事象の書き換え、そして魂を操る力。予言書よりも正確な未来を求めたこの男は、未来の情報を携えて、魂ごと過去に戻るつもりなのだ。
コピー品のドミラスが、かつてベアルドルフに語っていたことがある。未来は無数の可能性が同時に存在しており、観測するまでどんな未来になるのか知ることはできない。言い換えれば、一度未来を観測してしまえば、その未来は一つの可能性に収束するということだ。
つまりドミラスは、アンジュが生きている未来を観測した魂を過去に持っていくことで、未来を固定するのが目的だったのだ。アンジュを死の運命から外す、ただそれだけのために。
ここから先の未来は予言書でも見通すことができない混沌とした世界となる。それが『星詠』の力を持つトトとドミラスが死ぬせいなのか、浦敷博士がそう手引きしたのかは、ベアルドルフでも分からない。
ただ一点、目の前の友人の末路だけは知っている。
「二十一年後の貴様は化け物だ」
「だろうな。だが、人の道を外れるのは俺だけで済む」
ドミラスは強張った息を長く吐き切ると、勢いをつけて起き上がった。すかさずベアルドルフはドミラスの胸倉をつかみ、大気が震えるほど腹の底から怒鳴りつけた。
「自ら化け物に成り果てる奴があるか!」
「……NoDは化け物ではない。俺たちと同じ人間だ。お前だって薄々理解しているから、エラムラでウラシキリョーホを殺さなかった。違うか?」
「あれはシキとの盟約を守っただけだ!」
「NoDの遺言を守った時点で人間扱いを辞められていない。矛盾しているぞ」
「……喧しい」
「やはり仁義が関わると馬鹿になるな、お前は」
ニヒルな笑みを浮かべながら、ドミラスはベアルドルフの手を引きはがした。間接に糸を括らせておいたおかげで、ベアルドルフの手は容易に離れていく。それでもなおベアルドルフが力を込めたせいで、糸が食い込んだ皮膚から血が滴った。
「それ以上は指が落ちるぞ」
襟の皺を伸ばしながらドミラスは悠然とトトの首なし死体へ歩み寄る。それから右手でトトの手を握ると、そこからトトの死体が赤く融解するように糸状に解けていった。融解はあっという間にトトの全身に伝播し、赤い糸が虫のように蠢きながらドミラスの心臓へ這い上がっていく。
ベアルドルフの紫色の瞳は、その赤い糸の正体を暴いていた。すべての物質を形作り、実体のなかった魂を具現化させる要因となった旧世界の負の遺産――ダアトだ。
赤い糸はドミラスの心臓の上で丸くなると、表面に『星詠』の菌糸模様を浮かべながら脈動を始めた。ドミラスはそれを落とさぬように慎重に両手で包みながら立ち上がる。
「浦敷博士は『機械仕掛けの世界から故郷を守りたいなら、NoDを皆殺しにしろ』と言った。だが、俺にはアンジュもミカルラも殺せなかった。お前だってNoDは化け物だと割り切らなければやってられなかったんだろう。その凶悪な顔で意外と優しい男だからな」
「……一言余計だ」
ベアルドルフは不愉快そうに顔を歪め、手に絡みつくドミラスの糸を解こうとするのは諦めた。代わりに、血で濡れた手が砕けそうなほどに強く拳を握り締める。
「また貴様だけが先に行くか。すべて分かっているような顔をして、無謀な夢のためだけに、何もかもを捨てていくか!」
「拾いに行けるものだけを残しているだけだ。そういうお前も、そろそろ大事な愛娘を拾いに行ってやれ。二十一年前のクソガキからの忠告だ」
ドミラスが言い終えると同時に、彼の全身に張り巡らされたすべての菌糸模様が心臓へと収束し、徐々に強く瞬き始める。
「じゃあな、ベアルドルフ」
一際赤く心臓が光った瞬間、ぼぐ、と小さな音を立ててドミラスの胸に穴が開く。その後、ふらりと仰向けに倒れ込んで、二度と動くことはなかった。
音もなく広がっていく血だまりを見下ろしながら、ベアルドルフは赤い唾を地面に吐き捨てた。
「……この、馬鹿どもが」
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