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4章
(41)継承
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気づけば俺とシャルは互いに手を繋いだまま、真っ白な空間に立っていた。駅のホームがあった痕跡は何一つなく、地平線も空の境界もない。自分たちの身体を見下ろすと足から伸びる影だけでなく衣服に落ちる影すらなく、物質の輪郭が曖昧だった。
俺はぼんやりと目を彷徨わせた後、強い焦燥感に駆られてシャルを振り返った。
「シャル、さっきのやつ見たか!?」
「さっきの? シャルは気づいたらここにいたし。もしかしてこれ、ニヴィの魂の中?」
きょろきょろと周囲を見渡すシャルは、ニヴィの最期を見たと思えないほど普通だった。ならば先ほど見たニヴィの記憶は俺だけにしか見せられていないようだ。器としてニヴィを受け入れた分、より強くニヴィの影響を受けたという事なのだろうか。
俺はニヴィの記憶の残滓を取り戻そうと、胸の上に手を当ててあの時の感覚を取り戻そうとした。すると、どこからともなく鈴の音が聞こえてきて、自然と意識が引っ張られる。俺が振り返った先には、真っ白な空間に溶けるように佇む一人の女性がいた。服装は踊り子の衣装と和服を合成したような華やかさで、エラムラらしい文様が刺繍されている。凛とした後姿はレオハニーとは違った存在感があり、つい魅入ってしまうほど美しかった。
「ニヴィ、だよな?」
俺が声を発すると、シャルもようやく女性の存在に気づいたようだ。シャルの紫色の瞳が、期待するように女性の後姿へ注がれる。
やがて、女性はささやかな布ずれの音を立てながら俺たちの方へ身体を向けた。
「……浦敷博士」
涙を堪えるような寂寥感の滲む声が俺の鼓膜を震わせる。それだけで、長い時間をかけて俺に記憶を見せていたのは彼女だったのだ知れた。流れ込んできた思いや、俺に見せたものすべてを引き継いでもらうために。彼女はもう、自分が生き返ることを諦めていたのだ。
俺はこちらを見て微笑みかけるニヴィに何も言えなかった。彼女が待っていたのは俺ではなく、NoDの生みの親である浦敷博士だ。形だけそっくりな偽物の俺では、どのような言葉を掛けるべきかすら思いつかない。ただ一つ、本音を口にするならば。
「会えてよかった」
たったこれだけで、俺の想いがすべて伝わるとは思っていない。しかしニヴィは何もかも解っているような優しい目で頷き返してくれた。それから、ニヴィの赤い瞳が少し下にズレて紫色の瞳と交わった。
「はじめまして、というのもおかしいけれど……大きくなったのね、シャル」
ニヴィが呼びかけると、シャルはおずおずと前に進み出てから、不安そうな面持ちで俺を見上げた。俺はシャルと繋いでいた手を離すと、大きく頷きながら小さな背中を押した。
シャルは小さくよろけながら数歩前に出ると、両手を彷徨わせながら覚束ない足取りで、少しずつニヴィへ近づいていった。そうしてついに、互いに手を伸ばせば触れ合える距離まで来る。シャルはそこで一旦足を止めた後、もじもじと手を弄りながらあちこちに目を向けた。
「……本物だよね? 父と仲良くしてた方なんだよね? あの時、シャルを守ってくれたよね?」
「……ええ。ハウラの姉で、貴方の御父上の部下だったニヴィよ」
目線を合わせるようにニヴィがしゃがみ、迎え入れるように両手を広げる。シャルはびくりと肩をすくめたが逃げようとしない。ニヴィはシャルが自ら選ぶまで、じっと動かずに待ち続ける。するとシャルは猫のようにきゅうっと目をつぶった後、持ち前の跳躍力で思いっきりニヴィの腕の中に飛び込んでいた。
ニヴィは突然距離を詰めてきたシャルに驚いた声を上げると、幸せそうに目じりを和らげながら朗らかな笑い声を上げた。ニヴィの桃色がかった白い腕がシャルの背に回されると、褐色のシャルの腕もより強くニヴィを抱き寄せる。
「ずっと、会いたかった……本物に会いたかった……!」
「シャル……私も会いたかった。本当に大きくなったのね」
どちらからともなく、二人の長い睫毛から涙が零れ落ちる。ニヴィが体温を確かめるように頬を摺り寄せると、シャルはダムが決壊したように大声で咽び泣いた。生まれた時から厳しい祖父しか傍におらず、ベアルドルフが罪を背負ったために、母親に似た存在に触れ合う機会すらなかっただろう。ドミラスからベアルドルフの話を聞いただけで喜ぶほど親の愛に飢えていた少女にとって、出会う前から愛してくれたニヴィは最も母親に近い存在だった。
顔を真っ赤にし、腹の底から感情をぶつけるシャルは産声を上げる赤ちゃんにしか見えなかった。生まれた時から憎しみをぶつけられてきた子供を、ニヴィは祝福するように何度も口づけを落とし、膝の上へと抱え上げた。
俺はその様子を少し離れたところで見守りながら、真っ白な空を見上げて涙を堪えた。いつもの俺なら嫉妬するような場面なのに、今はただ幸せそうな光景に胸を打たれて嫌な思い出や悩みが綺麗に吹き飛んでしまった。このままずっとこの時間が続けば良いと願うが、ニヴィの想いを知ってしまった以上、そう長くは続かないことも察していた。
これまで我慢してきたことを吐き出すように泣きじゃくった後、シャルは鼻をすすりながら手の甲で目を拭った。するとニヴィがシャルの手を止めて、柔らかな袖で優しく目元に当てがった。
「落ち着いた?」
「ん……」
シャルは甘えるように袖に顔を押し付けた後、恥ずかしさが込み上げてきたのかまたニヴィに抱き着いた。
「ねぇニヴィ……これからはずっと一緒にいられるんだよね……一緒にエラムラに帰るんだよね」
「……ごめんね。私はもう帰れない」
「なんで?」
「私の魂はもう人間ではなくなってしまったから。新しい器に入れたとしても、すぐに化け物になってしまう」
「なんで!」
「シャル。世の中には、どうにもならない事が必ず起きるものなの」
「なんで! 化け物でもいい! 生き返れるなら生き返ってよ! シャルが一人になってもいいの!?」
ニヴィの腕を握りしめながらシャルは顔を上げる。だが、その先にあった悲痛な面持ちのニヴィを見て、シャルは赤く染まった顔を白くした。
「シャル……化け物の私は、本物の私じゃないの」
痛みを堪えるように目を強くつぶりながら、ニヴィはシャルの頬を親指で撫でた。
「……ごめんなさい、シャル。私はあの女の魂に抗えなかった。貴方の大事な友達を殺してしまった。エラムラの里も滅茶苦茶にして、大事な妹に酷い事をしてしまった。貴方の未来を守らなければいけなかったのに……本当に、ごめんなさい……!」
罪悪を打ち明ける声は激しく戦慄いており、後に続く言葉は半ば吠えるように絞り出された。白い睫毛に縁取られたニヴィの目から大粒の涙が膨れ、音もなく頬を伝い落ちる。その水滴はニヴィの顎を離れると、シャルのまろみを帯びた頬で淡く弾けた。
「……ニヴィ」
シャルはニヴィの膝から降りると、先ほど自分がしてもらったようにニヴィの涙を拭き始めた。零れる涙を一粒一粒受け止めながら、ゆっくりとシャルは語り掛ける。
「ニヴィはシャルを守ろうとしてくれた。シャルはざいにんの子供だから死ななきゃいけないんだって思ってた。でもニヴィの記憶を見たから、生きてていいのかもしれないって気がした。ニヴィがいれば、シャルはもっと幸せになれるから。ニヴィと、リョーホと、みんなで、一緒に暮らしたい……」
言い終えると同時に頬を拭うと、ニヴィの涙はようやく止まった。それから蕾が綻ぶようにニヴィは笑う。
「貴方は優しい子ね……でも、どうか許さないで。貴方を苦しめた報いを受けさせて頂戴」
「んー、そういうの必要ないし……」
シャルは困ったように腕を組んだ後、あっと声を上げて人差し指をニヴィに向けた。
「じゃあ、ニヴィはオレと友達になって!」
「友達……?」
「守ってもらったから、今度はオレがニヴィを守るし! おんがえしすると友達がふえるって、リョーホも言ってたし! だからニヴィはシャルの友達!」
子供特有の飛躍した発想で、俺とニヴィはぽかんとしてしまった。次いで、俺より一足早く思考が復帰したニヴィはくすくすと口元に手を添えて笑った。
「ええ……貴方と友達になれるなんて、夢みたいね。ハウラに嫉妬されてしまうかも」
「じゃあニヴィは今からシャルの友達ね! 一生のゆーじょーってやつだし!」
ニシシッと歯を見せてシャルは誇らしげに胸を張る。ニヴィは眩しいものでも見るように目を細めた後、両腕をシャルの脇に入れ、立ち上がりざまに高い高いをした。
「あはは! こんなかわいいお友達ができるなんて夢みたい!」
「きゃー!」
ぐるぐると回りながらはしゃぎ回り、賑やかな笑い声が白い空間を満たしていく。
「本当に、夢みたい」
ニヴィがシャルを下すと、ぱきり、と小さな音が聞こえた。
「ニヴィ?」
不思議そうな顔をして見上げるシャルを撫でて、ニヴィはまた目線を合わせるためにその場にしゃがむ。すると、また何かが割れるような儚い音がした。
「大好きよ、シャル。貴方が生まれる前からずっと、貴方に会いたかった。愛しているわ」
ぱきん。
薄氷を踏むような音と同時に、ニヴィの顔に罅が入る。よく見れば手首や足にも劣化した石像のような罅があり、ニヴィが呼吸をするたびにパラパラと砂が落ちていた。
「ニヴィ! まだ行かないでよ!」
「大丈夫よ、シャルを一人にしない。ずっと傍で見守っているから」
「なんで、やだよ! せっかく友達になったばっかりなのに!」
「ごめんねシャル。でも必ずまた会えるわ。別れの言葉も、きっと必要ない」
ニヴィはシャルの顔を目に焼き付けるように、十秒以上の時間をかけて紫色の瞳を見つめた。それから、数メートル離れた場所にいる俺へと振り返る。
「浦敷博士……いえ、リョーホさん」
「……おう」
返事をすると、ニヴィはくすぐったそうに肩をすくめて立ち上がった。
「もう私は眠ってしまうけれど、いつか貴方が望んだ世界が実現すると信じている。どうかその夢のために、私の力を使って」
胸の上にニヴィの手が当てられると、心臓から根を張るように白い菌糸模様が広がっていった。同時に俺の胸元も輝き、ニヴィと全く同じ菌糸模様を描き始める。
心臓の拍動に合わせ、俺の中で力が渦巻いていくのを感じる。今まで手に入れてきたドラゴンたちの菌糸能力や、俺の中に元から眠っている無属性の菌糸、それらが一つに統一され、自分の身体となじんでいく。どうやら、今まで使いこなせていたつもりの能力は、すべて上辺だけだったようだ。
完全に菌糸能力が俺の魂に馴染むと、まるで繋ぎ止めていたものが無くなったかのように、ニヴィの輪郭が崩壊を始めた。
「今の貴方なら何にだってなれる。二度目の人生を楽しんで、悔いなく生きて」
光の粒子を振りまきながらニヴィの輪郭が薄れ、下から欠けるように零れ落ちていく。俺はその姿に目を背けたくなる気持ちを堪えながら、歪む視界で彼女を真っすぐと見据えた。
「なぁ……どうしてお前たちNoDは、最初から俺に優しくしてくれるんだ?」
ニヴィは赤い瞳を丸く見開き、噛みしめるように瞼を降ろした。
「貴方は何度生まれ変わっても、お人好しのままだったから、かな」
自信がなさそうにはにかむその顔は、妹のハウラとそっくりだった。それからニヴィは自分の気持ちを確かめるように、俺に向けて一言ずつ言葉を紡ぎ出した。
「貴方が浦敷博士のクローンだからじゃない。NoDの私たちはきっと、どんな貴方であっても、その魂である限り──愛おしくて堪らないの」
愛の告白に俺は思わず息を呑む。それは恋愛というよりも、
「そういうの、なんか家族みたいだね」
シャルから発された言葉に、俺とニヴィは顔を見合わせる。家族という言葉だけで、俺とNoD達の間にあった漠然とした関係性がすとんと収まってしまった。その意外性に感心した後、俺とニヴィは吹き出してしまった。
「な、なんで笑うの!」
「いや、なんていうか……」
「その通りだって納得したの。バカにしたわけじゃないのよ」
疑問符を頭上に浮かべるシャルを撫でて、ニヴィはふと口元から笑みを消した。
「ああ、そうだ……例え偽物でも、私は本気で誰かを愛してみたかったのね」
そして、アンジュとは少し色合いの違う赤い瞳でシャルの目を見つめる。その目は誰かの面影を探るように揺らめき、その思いを隠すように瞼の裏に隠されてしまった。
「愛してる……シャルもリョーホも、エラムラの人々も……私は、この世界が大好きよ」
ニヴィは最後に身を屈めて、シャルの額にキスをした。
パキン──。
一際大きな音が響き渡り、白い空間で反響しながら耳鳴りへと変化していく。ニヴィの姿が完全に崩れ去ると同時に、俺たちの姿もまた白く染め上げられていった。
俺はぼんやりと目を彷徨わせた後、強い焦燥感に駆られてシャルを振り返った。
「シャル、さっきのやつ見たか!?」
「さっきの? シャルは気づいたらここにいたし。もしかしてこれ、ニヴィの魂の中?」
きょろきょろと周囲を見渡すシャルは、ニヴィの最期を見たと思えないほど普通だった。ならば先ほど見たニヴィの記憶は俺だけにしか見せられていないようだ。器としてニヴィを受け入れた分、より強くニヴィの影響を受けたという事なのだろうか。
俺はニヴィの記憶の残滓を取り戻そうと、胸の上に手を当ててあの時の感覚を取り戻そうとした。すると、どこからともなく鈴の音が聞こえてきて、自然と意識が引っ張られる。俺が振り返った先には、真っ白な空間に溶けるように佇む一人の女性がいた。服装は踊り子の衣装と和服を合成したような華やかさで、エラムラらしい文様が刺繍されている。凛とした後姿はレオハニーとは違った存在感があり、つい魅入ってしまうほど美しかった。
「ニヴィ、だよな?」
俺が声を発すると、シャルもようやく女性の存在に気づいたようだ。シャルの紫色の瞳が、期待するように女性の後姿へ注がれる。
やがて、女性はささやかな布ずれの音を立てながら俺たちの方へ身体を向けた。
「……浦敷博士」
涙を堪えるような寂寥感の滲む声が俺の鼓膜を震わせる。それだけで、長い時間をかけて俺に記憶を見せていたのは彼女だったのだ知れた。流れ込んできた思いや、俺に見せたものすべてを引き継いでもらうために。彼女はもう、自分が生き返ることを諦めていたのだ。
俺はこちらを見て微笑みかけるニヴィに何も言えなかった。彼女が待っていたのは俺ではなく、NoDの生みの親である浦敷博士だ。形だけそっくりな偽物の俺では、どのような言葉を掛けるべきかすら思いつかない。ただ一つ、本音を口にするならば。
「会えてよかった」
たったこれだけで、俺の想いがすべて伝わるとは思っていない。しかしニヴィは何もかも解っているような優しい目で頷き返してくれた。それから、ニヴィの赤い瞳が少し下にズレて紫色の瞳と交わった。
「はじめまして、というのもおかしいけれど……大きくなったのね、シャル」
ニヴィが呼びかけると、シャルはおずおずと前に進み出てから、不安そうな面持ちで俺を見上げた。俺はシャルと繋いでいた手を離すと、大きく頷きながら小さな背中を押した。
シャルは小さくよろけながら数歩前に出ると、両手を彷徨わせながら覚束ない足取りで、少しずつニヴィへ近づいていった。そうしてついに、互いに手を伸ばせば触れ合える距離まで来る。シャルはそこで一旦足を止めた後、もじもじと手を弄りながらあちこちに目を向けた。
「……本物だよね? 父と仲良くしてた方なんだよね? あの時、シャルを守ってくれたよね?」
「……ええ。ハウラの姉で、貴方の御父上の部下だったニヴィよ」
目線を合わせるようにニヴィがしゃがみ、迎え入れるように両手を広げる。シャルはびくりと肩をすくめたが逃げようとしない。ニヴィはシャルが自ら選ぶまで、じっと動かずに待ち続ける。するとシャルは猫のようにきゅうっと目をつぶった後、持ち前の跳躍力で思いっきりニヴィの腕の中に飛び込んでいた。
ニヴィは突然距離を詰めてきたシャルに驚いた声を上げると、幸せそうに目じりを和らげながら朗らかな笑い声を上げた。ニヴィの桃色がかった白い腕がシャルの背に回されると、褐色のシャルの腕もより強くニヴィを抱き寄せる。
「ずっと、会いたかった……本物に会いたかった……!」
「シャル……私も会いたかった。本当に大きくなったのね」
どちらからともなく、二人の長い睫毛から涙が零れ落ちる。ニヴィが体温を確かめるように頬を摺り寄せると、シャルはダムが決壊したように大声で咽び泣いた。生まれた時から厳しい祖父しか傍におらず、ベアルドルフが罪を背負ったために、母親に似た存在に触れ合う機会すらなかっただろう。ドミラスからベアルドルフの話を聞いただけで喜ぶほど親の愛に飢えていた少女にとって、出会う前から愛してくれたニヴィは最も母親に近い存在だった。
顔を真っ赤にし、腹の底から感情をぶつけるシャルは産声を上げる赤ちゃんにしか見えなかった。生まれた時から憎しみをぶつけられてきた子供を、ニヴィは祝福するように何度も口づけを落とし、膝の上へと抱え上げた。
俺はその様子を少し離れたところで見守りながら、真っ白な空を見上げて涙を堪えた。いつもの俺なら嫉妬するような場面なのに、今はただ幸せそうな光景に胸を打たれて嫌な思い出や悩みが綺麗に吹き飛んでしまった。このままずっとこの時間が続けば良いと願うが、ニヴィの想いを知ってしまった以上、そう長くは続かないことも察していた。
これまで我慢してきたことを吐き出すように泣きじゃくった後、シャルは鼻をすすりながら手の甲で目を拭った。するとニヴィがシャルの手を止めて、柔らかな袖で優しく目元に当てがった。
「落ち着いた?」
「ん……」
シャルは甘えるように袖に顔を押し付けた後、恥ずかしさが込み上げてきたのかまたニヴィに抱き着いた。
「ねぇニヴィ……これからはずっと一緒にいられるんだよね……一緒にエラムラに帰るんだよね」
「……ごめんね。私はもう帰れない」
「なんで?」
「私の魂はもう人間ではなくなってしまったから。新しい器に入れたとしても、すぐに化け物になってしまう」
「なんで!」
「シャル。世の中には、どうにもならない事が必ず起きるものなの」
「なんで! 化け物でもいい! 生き返れるなら生き返ってよ! シャルが一人になってもいいの!?」
ニヴィの腕を握りしめながらシャルは顔を上げる。だが、その先にあった悲痛な面持ちのニヴィを見て、シャルは赤く染まった顔を白くした。
「シャル……化け物の私は、本物の私じゃないの」
痛みを堪えるように目を強くつぶりながら、ニヴィはシャルの頬を親指で撫でた。
「……ごめんなさい、シャル。私はあの女の魂に抗えなかった。貴方の大事な友達を殺してしまった。エラムラの里も滅茶苦茶にして、大事な妹に酷い事をしてしまった。貴方の未来を守らなければいけなかったのに……本当に、ごめんなさい……!」
罪悪を打ち明ける声は激しく戦慄いており、後に続く言葉は半ば吠えるように絞り出された。白い睫毛に縁取られたニヴィの目から大粒の涙が膨れ、音もなく頬を伝い落ちる。その水滴はニヴィの顎を離れると、シャルのまろみを帯びた頬で淡く弾けた。
「……ニヴィ」
シャルはニヴィの膝から降りると、先ほど自分がしてもらったようにニヴィの涙を拭き始めた。零れる涙を一粒一粒受け止めながら、ゆっくりとシャルは語り掛ける。
「ニヴィはシャルを守ろうとしてくれた。シャルはざいにんの子供だから死ななきゃいけないんだって思ってた。でもニヴィの記憶を見たから、生きてていいのかもしれないって気がした。ニヴィがいれば、シャルはもっと幸せになれるから。ニヴィと、リョーホと、みんなで、一緒に暮らしたい……」
言い終えると同時に頬を拭うと、ニヴィの涙はようやく止まった。それから蕾が綻ぶようにニヴィは笑う。
「貴方は優しい子ね……でも、どうか許さないで。貴方を苦しめた報いを受けさせて頂戴」
「んー、そういうの必要ないし……」
シャルは困ったように腕を組んだ後、あっと声を上げて人差し指をニヴィに向けた。
「じゃあ、ニヴィはオレと友達になって!」
「友達……?」
「守ってもらったから、今度はオレがニヴィを守るし! おんがえしすると友達がふえるって、リョーホも言ってたし! だからニヴィはシャルの友達!」
子供特有の飛躍した発想で、俺とニヴィはぽかんとしてしまった。次いで、俺より一足早く思考が復帰したニヴィはくすくすと口元に手を添えて笑った。
「ええ……貴方と友達になれるなんて、夢みたいね。ハウラに嫉妬されてしまうかも」
「じゃあニヴィは今からシャルの友達ね! 一生のゆーじょーってやつだし!」
ニシシッと歯を見せてシャルは誇らしげに胸を張る。ニヴィは眩しいものでも見るように目を細めた後、両腕をシャルの脇に入れ、立ち上がりざまに高い高いをした。
「あはは! こんなかわいいお友達ができるなんて夢みたい!」
「きゃー!」
ぐるぐると回りながらはしゃぎ回り、賑やかな笑い声が白い空間を満たしていく。
「本当に、夢みたい」
ニヴィがシャルを下すと、ぱきり、と小さな音が聞こえた。
「ニヴィ?」
不思議そうな顔をして見上げるシャルを撫でて、ニヴィはまた目線を合わせるためにその場にしゃがむ。すると、また何かが割れるような儚い音がした。
「大好きよ、シャル。貴方が生まれる前からずっと、貴方に会いたかった。愛しているわ」
ぱきん。
薄氷を踏むような音と同時に、ニヴィの顔に罅が入る。よく見れば手首や足にも劣化した石像のような罅があり、ニヴィが呼吸をするたびにパラパラと砂が落ちていた。
「ニヴィ! まだ行かないでよ!」
「大丈夫よ、シャルを一人にしない。ずっと傍で見守っているから」
「なんで、やだよ! せっかく友達になったばっかりなのに!」
「ごめんねシャル。でも必ずまた会えるわ。別れの言葉も、きっと必要ない」
ニヴィはシャルの顔を目に焼き付けるように、十秒以上の時間をかけて紫色の瞳を見つめた。それから、数メートル離れた場所にいる俺へと振り返る。
「浦敷博士……いえ、リョーホさん」
「……おう」
返事をすると、ニヴィはくすぐったそうに肩をすくめて立ち上がった。
「もう私は眠ってしまうけれど、いつか貴方が望んだ世界が実現すると信じている。どうかその夢のために、私の力を使って」
胸の上にニヴィの手が当てられると、心臓から根を張るように白い菌糸模様が広がっていった。同時に俺の胸元も輝き、ニヴィと全く同じ菌糸模様を描き始める。
心臓の拍動に合わせ、俺の中で力が渦巻いていくのを感じる。今まで手に入れてきたドラゴンたちの菌糸能力や、俺の中に元から眠っている無属性の菌糸、それらが一つに統一され、自分の身体となじんでいく。どうやら、今まで使いこなせていたつもりの能力は、すべて上辺だけだったようだ。
完全に菌糸能力が俺の魂に馴染むと、まるで繋ぎ止めていたものが無くなったかのように、ニヴィの輪郭が崩壊を始めた。
「今の貴方なら何にだってなれる。二度目の人生を楽しんで、悔いなく生きて」
光の粒子を振りまきながらニヴィの輪郭が薄れ、下から欠けるように零れ落ちていく。俺はその姿に目を背けたくなる気持ちを堪えながら、歪む視界で彼女を真っすぐと見据えた。
「なぁ……どうしてお前たちNoDは、最初から俺に優しくしてくれるんだ?」
ニヴィは赤い瞳を丸く見開き、噛みしめるように瞼を降ろした。
「貴方は何度生まれ変わっても、お人好しのままだったから、かな」
自信がなさそうにはにかむその顔は、妹のハウラとそっくりだった。それからニヴィは自分の気持ちを確かめるように、俺に向けて一言ずつ言葉を紡ぎ出した。
「貴方が浦敷博士のクローンだからじゃない。NoDの私たちはきっと、どんな貴方であっても、その魂である限り──愛おしくて堪らないの」
愛の告白に俺は思わず息を呑む。それは恋愛というよりも、
「そういうの、なんか家族みたいだね」
シャルから発された言葉に、俺とニヴィは顔を見合わせる。家族という言葉だけで、俺とNoD達の間にあった漠然とした関係性がすとんと収まってしまった。その意外性に感心した後、俺とニヴィは吹き出してしまった。
「な、なんで笑うの!」
「いや、なんていうか……」
「その通りだって納得したの。バカにしたわけじゃないのよ」
疑問符を頭上に浮かべるシャルを撫でて、ニヴィはふと口元から笑みを消した。
「ああ、そうだ……例え偽物でも、私は本気で誰かを愛してみたかったのね」
そして、アンジュとは少し色合いの違う赤い瞳でシャルの目を見つめる。その目は誰かの面影を探るように揺らめき、その思いを隠すように瞼の裏に隠されてしまった。
「愛してる……シャルもリョーホも、エラムラの人々も……私は、この世界が大好きよ」
ニヴィは最後に身を屈めて、シャルの額にキスをした。
パキン──。
一際大きな音が響き渡り、白い空間で反響しながら耳鳴りへと変化していく。ニヴィの姿が完全に崩れ去ると同時に、俺たちの姿もまた白く染め上げられていった。
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