家に帰りたい狩りゲー転移

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3章

(32)意地

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 暴走状態のヤツカバネは見境なしにブレスを吐き続け、深緑の海を醜い暗礁へと塗り替えていった。空を飛んでいた鳥は軒並み撃ち落とされ、すでに黒ずんでいた地面がより深く抉れては、賎劣なさざ波を立てる。

 嵐に呑まれかけた帆船のように、ゼンは幻影のヤツカバネを操りながら必死の思いで足止めをしていた。巨大な幻影を操るのはかなりの集中力が必要で一歩も動くことが出来ない。できるだけヤツカバネのブレスがこちらに向かないようにしていても、理性を失った獣が狙い通りの場所に攻撃できるわけがなく、ゼンは何度も巻き込まれて死にそうになった。そのたびにシャルやアンリ達がゼンを担いでくれたおかげで、何とか今も持ちこたえることができている。

 こうして足止めをしている間にも、ヤツカバネの体力は着実に減っている。下手に近づくわけにも行かないため、ゼンたちは毒煙でヤツカバネが死に絶えるのを待つことしかできなかった。

 だが、リョーホたちは必ずここに戻ってくる。それまで何人たりとも死なせてはならない。ゼンはそれだけの想いで、先のことを考えず目の前のことに集中した。

 ヤツカバネが逆鱗の咆哮を解き放った時、上空にいたゼンはすべての事象を観測していた。

 リョーホ達は壁を作って咆哮を防ごうと試み、北西の塔にいたレブナたちは、エトロが作り上げた氷の壁に避難していた。そして第一班のアンリ達は、リョーホ達と同じようにバリケードを作りながら、ヤツカバネの暴挙を止めようと弓をつがえていた。ゼンもまた、ヤツカバネの首を捻じ曲げようと鎖鎌を振り上げているところだった。

 その時、リョーホ達の背後からドミラスが飛び出し、高速で『傀儡』の糸による銀色の壁を作り上げた。だが即席で作った壁はヤツカバネの全身を覆うまでに至らず、人間が巻き込まれない最低限の広さしか展開できなかった。

 ゼンは目の前に出現した銀色の壁越しに、ドミラスと目が合ったような気がした。ベートの襲来を予測し、あえて真っ向から勝負を挑んだ男の目は全く死を覚悟していなかった。

 直後に放たれたヤツカバネの咆哮は、壁から漏れたすべての空間を純白の光で塗りつぶした。一番ヤツカバネの近くにいたドミラスは壁の隙間から僅かに頭部を出していたせいで、あっけなくその顔を黒く融解させた。しかしドミラスが落ちてもなお銀色の壁は崩れることなく、すべての狩人を咆哮から守り切った後に落下した。

 第一班は最もヤツカバネから距離を置いていたため、一番被害が少なかった。逆に第二班は距離が近すぎたために何人かが負傷しておりすぐに動けないだろう。第三班はエトロのお陰で守られていたのでほぼ無傷。そのため、ゼンは第三班に第二班の救護を任せ、第一班リーダーのアンリに『幻惑』の導線を繋ぎ、北側のレビク村跡地へヤツカバネを陽動することにした。

 あの場でヤツカバネが暴れ回れば、せっかく助けられたリョーホ達が今度こそ殺されてしまう。そうなったら敵に王手をかけられるのは必至だった。リョーホの能力ならば、たとえヤツカバネに魂を食われたとしても身体を元通りにすることが出来る。食われた魂もヤツカバネを討伐してしまえば必ず助かる。

 ゆえに、リョーホがいなければヤツカバネを討伐することも不可能だ。

 ──早く来い。エラムラの英雄。

 幻影に意識を乗せすぎるあまり、ゼンの人格は水に溶かした絵の具のように薄れ始めていた。『幻惑』の力は強力だが、使いすぎると胡蝶の夢のごとく本体と偽物の境界が曖昧になってしまう。幻影の方に意識が傾き過ぎれば、残った肉体は廃人となるだろう。

 ゼンはできるだけ能力の負担を軽くするべく、群青色の鎖鎌を強く握りしめ力を分散した。だがこれも、おそらく長くは持つまい。

 ふと、鎖鎌の群青色を遮るように、大柄な女性の手が重ねられた。

「ゼン、後はわたしらに任せな。あんたは十分やったよ」
「……幻であれば、いくらでも身代わりになれる……」
「その前にあんたが消えたら意味がないだろう。それ以上やるってんなら締め落とすよ」

 顔が見えないほど視界は霞んでいたが、ただの脅し文句でないことは首を囲う感触が証明していた。

「……言っても無駄だろうが……無茶はするな、ミッサ」
「あいよ」

 返事はしたが、ゼンはすぐに菌糸能力を解かなかった。どうせ仕掛けるのなら、ミッサが奇襲しやすいように暴れてからだ。見切りをつけた途端、限界に思えた意識が一気に持ち直してきて視界がクリアになっていく。

 ミッサは満足げにゼンの肩を叩くと、後方を振り返ってアンリ達へ笑いかけた。

「ゼンのお守りは頼んだよ。若造ども」
「まさか一人で行く気ですか」
「一人の方が気が楽だよ。さっきは散々巻き込んじまったからね」

 アンリの問いかけに苦笑しながら答えた後、ミッサは身を潜めていた茂みから立ち上がった。彼女の見据える先には最後の乱闘を繰り広げる二体のヤツカバネの姿がある。ゼンは幻影だと気づかれないように回避に徹していたが、今はヤツカバネの神経を逆なでするように動き回っている。全身を絶えず酸で溶かされている最中に、同種の竜王に煽られれば周りなど見れないだろう。ゼンが作り出した絶好の機会を逃すまいと、ミッサはショットガンを片手で構えながらヤツカバネに狙いを定めた。

 その時、視界の端に雲を裂くように飛来する光を見た。

「ん……なんだいあれは……」

 氷を纏った流星が、螺旋を纏いながら雨粒ごと大気を燃やしている。相反する氷と炎は互いを相殺することなく、ついにヤツカバネの鰐じみた鼻面に直撃した。雷撃と氷晶が一点に混ざり合い、目も眩むような大爆発が巻き起こる。

「くはっ!」

 ヤツカバネの毒煙すら吹き飛ばすほどの爆風に、ミッサは腕で目を庇いながら笑った。

「リョーホだ!」

 狩人たちが指さす先には、ガラスの上に立っているかのように佇むリョーホとエトロの姿があった。よく見れば、二人の足元にはダイヤモンドダストに酷似した氷の破片が集結しており、それを足場に先ほどの攻撃を打ち込んだらしい。

 遅れて、第二班と第三班が勇ましい声を上げて進軍してきた。

「三班、呼吸を合わせてもう一回!」

 幼さの残るレブナの声が指揮を取るや、先ほどの流星を細かく砕いたようなエレメントの雨が放たれた。ミッサはそれが着弾するのを確認することなく、堪え切れないとばかりに哄笑しながら戦場へ飛び出した。

「あっはっは! ようやく、人間サマの狩りの時間だ!」



 ・・・───・・・



 鼻面を砕かれてヤツカバネが身もだえると同時に、ゼンの幻影が朝露のように霧散する。

 初撃は完璧だった。俺が投擲した『雷光』の槍にレブナたち第一班の遠隔攻撃を纏わせた一撃は、爆撃に匹敵するほどの威力を発揮して俺の度肝を抜いた。化学兵器ではないただの菌糸能力でも、力を寄り合わせれば人外じみた威力を発揮するらしい。

 おかげでヤツカバネに大打撃を与えられた上、ゼンの幻影が完全に霧散する前にこちらへ意識を引きつけることにも成功した。

 あとは、死に損なったヤツカバネを確実に葬るだけだ。

 ヤツカバネの憤怒の矛先がこちらに向くのを肌で感じながら、俺は右手に握りしめた氷の太刀を軽く振るった。その太刀は、ほとんど壊れかけていたエトロの愛槍を『雷光』で補強した、作り物ではない本物の武器だ。エトロの氷属性が備わったおかげで土属性に弱い『雷光』に補正が入り、これまで以上にヤツカバネに刃が通りやすくなっているはずだ。

 一方のエトロは、愛槍を失った代わりに俺の上着を羽織ることで一時的に『雷光』の力を借り、空中の移動手段を手に入れていた。

 俺の肉体に元から存在している『無菌種』は、すべての菌糸能力と調和できる。ならば反対に、自分以外の人間にも取得した菌糸を分け与えることができてもおかしくない。その試みは見事に成功し、エトロは俺の上着を通して『無菌種』の力を発動している。

 そして、先ほど投擲した『雷光』の槍も然り、俺の菌糸能力で生み出されたものは、他の菌糸能力の属性を相殺させることなくまとめることが出来るらしい。仲間たちの治療のためにナイフを媒介にして能力範囲を広げた時に思いついたのだが、こうも上手くハマると苦笑いしたくなる。

 俺たちの下では、レブナたちの集中砲火に紛れてアークとカーヌマ達がぬかるんだ地面を激走している。対するヤツカバネも爆炎をものともせずに突進してきた。
 
「来るぞ。上着落とすなよ」
「分かっている」

 エトロは顰めっ面になりながら上着に袖を通すと、『雷光』の力を駆使して空を駆け抜けた。水を得た魚のようにヤツカバネに接近し、急降下しながらブレスを回避するエトロの姿に俺は舌を巻く。空中移動など初めてで、ましてや『雷光』の急激な加速を操るのは至難なはずだが、エトロはたった数分練習しただけで完璧に使いこなしているようだ。

「せぇいッ!」

 高く澄み渡った裂帛を上げ、エトロは毒煙を巻き込むように氷塊を打ち込んだ。軽自動車一台分はありそうな氷塊は、毒煙で多少小さくなりながらもヤツカバネの胸部に直撃し、毒煙の中から苦痛の悲鳴が上がった。さらにエトロの氷は主人の手元を離れても形を変えられる特性がある。ヤツカバネに打ち込まれた氷の弾丸は、毒煙を貫くほど巨大な槍で内側から破壊した。

「ギャルルルル……ッ!」

 ヤツカバネは泡立った声を上げた直後、喘鳴混じりのブレスを吐きまくった。限界まで水圧を上げたホースのように無軌に暴れ狂うブレスは、俺やアークたちのすぐそばを掠め、胴体からはみ出した氷の槍まであっという間に融解させてしまった。あと一歩立ち位置がズレていたら俺は即死していたかもしれない。

 俺は冷や汗を掻きながら素早く戦場を見渡すが、幸い被害者はいないようで誰からも合図は出ていなかった。幸運すぎる結果に俺は心の底からホッとする。

 暴走状態のヤツカバネを大人数で囲うのはハイリスクなのでできればやりたくなかったが、短期決戦の為ならやむを得ない。誰も死なせたくないのなら、次のブレスが来る前に殺しきってしまえばいいだけだ。

 俺は一旦高度を上げると、ヤツカバネの顔面へ向けて頭から飛び降りた。

 ヤツカバネの輪郭は毒煙のせいでほとんど隠れており、唯一把握できるのは青く光るヤツカバネの目元だけだ。首から後ろは背中から噴き出した毒煙のせいで胴体部が完全に隠されており、直接心臓を狙うのは不可能だろう。

 だから、毒煙を一時的にでも吹き飛ばす高威力の攻撃をぶつけるしかない。

「レブナ!」
「あいあいさー!」

 俺が太刀を霞に持ち替えた瞬間、レブナたちから援護射撃が放たれ、先の流星のように菌糸能力が収束していく。

「うおおおおおおおおお!」

 毒煙を吐き飛ばすように声を張り上げ、全身を捩じるように太刀を突き出す。刀身に抑え込まれていた複数の菌糸能力は、レーザーじみた斬波となってヤツカバネに襲い掛かる。だが、いくら的が大きくとも動き回る頭部のど真ん中を打ち抜くことは叶わず、顎から首の側面までを斜めに切り裂くだけに終わった。しかし触れた部分から連続的に爆発が起き、数秒だけ毒煙が晴れる。

 その隙を逃さず、煙に触れないぎりぎりまで距離を詰めていたアークたちが、果敢にヤツカバネの足へ飛び掛かった。

「粘るなよ! 一撃だけ入れろ!」
「おおおおお!」

 野太い声が潮騒のように空まで響き、砂山を削るがごとくヤツカバネの右前足が削り取られていく。ヤツカバネと同じ高さから見下ろすと狩人の姿は米粒サイズにしか見えないが、彼らが振りまく菌糸模様の輝きは毒煙越しでも星空のように瞬いていた。

 ものの数秒で右の前足が飴細工のように砕け散り、ヤツカバネのバランスが大きく崩れる。そこへ畳みかけるように、樹海に紛れて待機していたアンリ達から豪速の矢雨が横なぎに襲い掛かった。

「二本目!」

 アンリの宣言通り、矢はヤツカバネの足の根元に食らい付き、砕けた右前足を貫通しながら後続の二本目を砕いた。さらに紫色の閃光がジグザグに落下する足の合間を縫ったと思えば、二本目の足もシャルの鉄拳で蟹足のようにもぎ取られた。

 右側の足半数を千切られたヤツカバネは、後ろ足で地面を掻くようにしながら左側の四つ足を折り曲げた。

「ヒュルルルルアアアアアア゛──ッ!!」

 突然、女性オペラにノイズを走らせたような絶叫が迸った。そして、今までと比べ物にならないほどの毒煙がヤツカバネの皮膚から押し出され、ひと吸いで肺がやられそうな硫黄の匂いが充満した。角膜が海水を浴びたような激痛に襲われ、俺は目頭から涙を流しながら大きく距離を取る。煙が出る前にアークたちが退避するのを確認したが、逃げ切れたかどうかは定かでない。

 頭が割れそうなほどに痛む眼球を『雷光』で治療し続け、無理やり瞼をこじ開ける。涙で潤んだ視界を滑らせると、目の前の毒煙の中で青い眼光がギラリと光るのが見えた。薄っすらと見えるヤツカバネの輪郭は、噛みつき攻撃の前兆を見せていた。

「やば!」

 早口で呟きながら俺は咄嗟に氷の太刀を構え、迎撃態勢に入る。しかし後ろに身体がのけ反っているせいで、カウンターを狙うのは難しい。回避でぎりぎり間に合うか──。

「とっととくたばりな、死に損ないが!」

 下からミッサの声が聞こえたかと思うと、毒煙が煌々とした爆炎に塗り替えられ、噴火のような大爆発が起きた。爆風に吹き飛ばされた俺はヤツカバネの燃える咢から遠ざかり『雷光』で勢いを殺しながら地面にスライディングする。急いで手をついて起き上がると、山火事を体現したかのように燃え上がるヤツカバネが見える。

 輪郭が炎に照らされるや、攻めあぐねていたアークたち第二班が、息を吹き返したように左側へ回り込んだ。

「行け行け行け! 全部の足をもいでやれ!」
「一班も続け!」

 おそらくこれが最後のチャンスだ。狩人たちは総力を挙げて攻めかかり、燃え上がるヤツカバネの破片が火の粉となって飛び散っていく。

「最後に、もう一発食らええええ!」

 アークの不可視の斬撃が足の接合部を捉えた瞬間、炎で脆くなっていた左側の足がガガンボのようにもげていき、芋虫となった胴体が重々しく地面に墜落した。ほとんどの足を失ってもなおヤツカバネはまだ生きており、長い首を鞭のようにしならせながら、なおもブレスを吐こうと裂けんばかりに口を広げる。

「不味い、あの距離だと皆逃げられない!」

 ともかくヤツカバネの口を塞ごうと『雷光』の菌糸を光らせた時、冷然としたミッサの声が聞こえた。

「んなところで寝そべられちゃあ、心臓が見えないだろうが。盆暗ドラゴンめ」

 その頭部へ向けて、一筋の紅の弾丸が火を噴いた。巨人の正拳突きを食らったようにヤツカバネの頭部がのけ反り、うつ伏せになっていた胸部が柱のように佇立する。

 炎と酸で焼けただれた胸の奥。割れ残った魂凝結晶と、重々しく拍動する心臓が、エトロがつけた傷の隙間から見え隠れする。俺はそれを視認して、即座にヤツカバネの心臓へ疾駆した。氷の太刀を左手に、右手は柄を押すようにして傷口から直接心臓を狙う。

 だが、竜王はただでやられるほど矜持を捨て去ったわけではなかったようだ。

 ヤツカバネは首の筋肉が千切れるような音を立てながら頭部を引き戻すと、俺に向けて真上からブレスを放った。俺の行く手を遮り、さらに地面を抉りながら接近するブレスに思わず目をつぶる。しかし、到達する寸前にエトロの氷塊がブレスを阻み、『重力操作』の光を纏わせてそのままヤツカバネの頭部を殴りつけた。

「私が道を作る。やれ!」

 エトロの激励に背中を押され、俺は地面に膝が付きそうなぐらいに重心を低くし、両足から爆発的エネルギーを解放した。一直線に稲妻のごとく空を駆ける。

 心臓まで残り五メートル。

 刹那、炎で鎮静化していたはずの毒煙が傷口から噴出した。近くにいた俺はなすすべもなく毒霧に呑まれ、目や鼻、口からあらゆる苦悶を煮詰めたような激痛が体内になだれ込んでくる。

「リョーホ!」

 くぐもった聴覚から微かにエトロの声を聞いた。太刀を握っていたはずの俺の左腕は真っ黒になり、見ている傍から崩れ去ろうとしている。『雷光』で辛うじて人の形を保てているが、やがて均衡が崩れて骨の芯まで毒が侵食していくのが分かる。

 『雷光』の再生力でも間に合わない。魂が文字通り食いつくされようとしている。だが俺の目の前には煌々と勝利の鍵が示されているのだ。
 
「止……まるかよっ……クソがああああ!」

 毒煙で太刀先が融解するたびに『雷光』再生させ、推進力を少しでも得る為に全身から『紅炎』を吹き上げる。エトロの愛槍から拵えた氷の太刀はどす黒い煙の中でも清廉と煌めき、俺を守ろうとするかのように氷の粒子をまき散らしながら毒煙を切り裂いていった。

 氷の白いヴェールと毒の黒が激しく衝突し、大気圏に突入したかのように太刀先から膜が広がる。後方で尾を引く氷の残滓がカラカラと音を立てながら溶けていき、太刀の限界を予感させる。

 心臓まで、あと一メートル。

 あと一歩が限りなく遠く、くまなく削られた身体が重く魂に圧し掛かる。

「もう……少し……ッ!」

 血が出るほどに歯を食いしばり、目が焼けただれるのもいとわず心臓を睨みつける。

 散々戦い、大勢が傷ついた。それでもなおヤツカバネは生きることに貪欲で、俺の魂すら食らおうとしている。俺も生き汚い自覚はあるが、誰かを傷つけてまで自分の欲を満たそうとは思わない。もし俺のせいで誰かが辛い思いをしたのなら、その責任から絶対に逃げたくはない。一人で思い詰めて、ベアルドルフを殺そうとしたエトロの本心を聞いてから、その思いはずっと俺の奥深くに根差している。

 アメリアや、仲間の狩人たちのためにハインキーを救う。俺が巻き込んでしまったから、ドミラスの魂も救い出す。魂を食われて死ぬのは酷く恐ろしいが、自分の信念を捻じ曲げてまで生き残りたくはない。

 そういう点では、俺とヤツカバネは決して相容れることはできない。ただ暴食と強欲に忠実なヤツカバネに相対してしまったからには、俺がこの手で殺さなければならない。戦いに巻き込まれただとか、仕方がなかったという言い訳もなしに、俺自身の矜持を持って生き物を殺すのだ。

 だから、あと一歩ぐらいどうにかしろ。
 まだ意識はある。身体の感覚もある。動けないなんて甘えだ。


 ──動け!


 どん、と俺の背中に強風がぶち当たる。微かに視界の端を撫でたのは、エランの短剣と同じ淡緑色の光だ。さらにその光に混じって雪が降り注ぎ、勢いを失っていた氷の太刀に輝きが戻り始める。

 一歩。

 泥に嵌っていた足が持ち上がり、刃が煙を抜ける。僅かにできた隙間に身体をねじ込み、全身全霊で太刀を前に押し出す。

 進むたびに手のひらが摩擦でずる剥け、強風に血が攫われ頬に落ちる。足はほとんど骨だけになり、重心を前に動かすたびに折れそうになる。俺の姿はきっとゾンビのようで、ヤツカバネと並ぶほどに醜いだろう。残った魂も、シャルの瞳で見れば小指一つ分しかないかもしれない。

 それでも、俺はまだ生きている。

 「うおお……おおおおおああああああああああああ!」

  遂に剣先が傷口の隙間を抜け、魂凝結晶からはみ出た心臓に到達し――。

 パリン、という儚げな音が、黒い吹雪の向こう側で鳴り響いた。

「───!」

 太刀から放たれていた青白い光が途絶え、周囲が真っ黒になる。息ができないほど静止した世界に、俺は一人取り残されたまま呆然と闇を眺めた。

 直後、俺の目の前で色とりどりのオーロラが噴水のように弾け、黒い吹雪をあっという間に薙ぎ払っていった。オーロラは細かな粒でできたカーテンのように螺旋を描き、俺の頭上を掠めて空へ高く舞い上がる。その光が雷雲の向こう側へ吸い込まれた瞬間、ぱぁっと雲が四散し、花火のように美しい光の粒子が降り注いだ。

 鳥肌が立つほど美しい光景だった。晴れの夕空に降る光る雪は幻想的で、妖精からの贈り物と言われても信じてしまいそうだ。光のユキが肌に触れると、不思議と冷え切っていた身体が内側から温められ、痛みや苦しみがゆっくりと吸い取られていくような気がした。
 
 オーロラの花火はやがて雫のようにポツポツと塊を作ると、何かを目指すように四方八方へ飛び去っていった。嵐は去り、先ほどまで豪雨だったと思えないほどに澄み渡ったオレンジ色の空が残るのみ。地面にはヤツカバネの遺体すら残っておらず、黒く汚れたはずの地平はすでに草が生い茂っていた。

 静穏な空を唖然として見上げたまま、俺は大きく息を吸い込み、小さな声を零した。

「や……やった……」

 それを皮切りに、あちこちからすうっと空気が消費され、わぁ! と弾けるような大喝采が巻き起こった。ぐるりと回りを見渡せば、涙を流しながら仲間と抱き合ったり、拍手したり、滅茶苦茶な踊りを披露する狩人たちの姿が見える。最初に顔合わせをした時はベテラン狩人の威厳たっぷりだったというのに、これでは小学生の誕生日と同じ有様だ。

 俺は彼らの姿に釣られるように笑った後、両腕を広げてぱったりと後ろに倒れた。

 清涼な空気を緩慢に貪り、全身の血の巡りや、食われた右足に感覚があるのを確認する。心臓は動いており、どこも痛くない。今すぐ眠ってしまいそうな疲労感と、どうしようもない達成感で興奮して情緒がジェットコースターだ。

 終わった。勝った。みんな生き残った。
 達成感を一つずつ噛みしめて、あくびをするように絶叫する。

「うおおおおおおおおお!」

 俺のバカみたいな叫びは他の狩人に伝播して、子供の真似っこのようにあちこちで勝鬨が上がった。

 太刀を持ったままの左手を顔の前で翳してみると、紫色の菌糸が脈打ちながら太刀を伝い、俺の腕へと流れ込んでいくのが見える。ヤツカバネの菌糸は水晶のような煌めきを伴いながら心臓の上を通り過ぎ、俺の首を遡り、やがて視界が藤色に染まった。

 痛みはないが、意識だけ胎児に戻っていくような不思議な感覚に襲われる。黙って身体が作り替えられていくのを待っていると、空っぽだった箱に柔らかなものが詰め込まれるような、嬉しいのか苦しいのかよく分からない感情が湧き出てきた。

 もう一度深呼吸をして、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 すると、いつの間にかアンリとエトロが、心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。

「生きてる……?」

 エトロの心細げな声に、俺は思わず笑ってしまった。

「生きてるよ。勝手に殺すな」

 エトロは真っ青な目を細かく震わせながら俺の右手を取ると、それを額に押し当てるようにして抱きしめた。

「ちょぉ、エトロさん?」
「馬鹿だろお前……自分から毒煙に突っ込む奴があるか……」
「ははは……目の前に急所があったら、殴りたくなるもんだろ。狩人って」
「相打ち覚悟で殴りに行くのはお前だけだ」
「ごもっとも」

 言われずとも、エトロが言いたいことは分かる。あの時、俺が太刀でトドメを刺さなくとも、遠距離から攻撃できる他の狩人に任せればよかった。頭では分かっていたが、気づけば地面を蹴っていた。理由をこじつけるなら責任感や復讐心もあっただろうが、一番は狩人としての闘争心を押さえられなかっただけだろう。

 今なら周りを巻き込んでまで暴走するミッサの気持ちが痛いほど分かる。人間より遥かに巨大で理不尽なドラゴンと戦うと、理性をかなぐり捨ててでも戦いたくなる魔力に引き込まれる。生存本能の枷が外れた結果、ただただ勝利への飽くなき思いに突き動かれた結果なのだろう。感覚的には、小さな子供がアメコミヒーローに憧れるようなものか。

 俺は夕焼けをぼんやりと眺めた後、だらけきった声で首から力を抜いた。

「はぁー、しばらく狩りに出かけたくねーわ」
「満足そうでなによりだよ。こっちはヒヤヒヤさせられっぱなしだったのにね?」

 ぴきぴきと米神に血管を漲らせるアンリに、俺は乾いた笑いを漏らした。それから氷の太刀を地面に置いて、空いた左手で拳を作りアンリに突き出す。

「最後、背中押してくれてありがとな」
「……ふん」

 ごつん、と力強く合わさった拳を離し、俺は勢いよく起き上がる。

「じゃ、帰ろう。ハインキーさんも、レビク村の人も待ってるから」
「……ああ、そうだな」

 エトロが微笑みながら立ち上がり、遅れてアンリも俺の腕を引っ張りながら腰を上げる。実は腰が抜けていたのでアンリの気遣いはかなり助かった。

 高冠樹海が消え、見渡す限りの草原となったレビク村跡地に夕日が差し込む。生えたばかりの草原に涼しい風が吹き込んで、さらさらと葉の擦れ合う音が荒んだ鼓膜を癒していく。

 竜王ヤツカバネの討伐は、総勢二十名、死者ゼロ人という異例の結果で、華々しく終わりを迎えた。
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