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3章
(24)愚者
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ラプラスの悪魔。
それは旧人類の間で論じられた仮想概念だ。
溶けるように歪んでいたベートの表情が強張り、感情が抜け落ちる。そして彼女は、古い記憶からラプラスの悪魔の概要を呼び起こした。
「……全ての出来事は、それ以前の出来事によって決められる。だからある時点で全てを知り、解析できる知性が存在したなら、その知性は既に確定した未来を見通すことができるはず。旧人類の生み出した決定論ね」
「ああ。そしてそれは量子力学で否定された。ラプラスの悪魔が実際に視るのは、確定した未来ではなく、起こりうる複数の未来だ」
ドミラスの言葉にベートは息を呑むと、瞳に燃えるような憎しみを滾らせた。かつて聡明な博士だったベート・ハーヴァーは、それだけでドミラスが何を言いたいのかを理解してしまった。
予言書が未来を言い当てるのは、ある意味ではラプラスの悪魔と同じ理論である。予言書には終末の日が刻まれ、そこへ向けて数々の滅びが積み重なる。その一つ一つの滅びは決して止められず、だから終末の日も避けられない。ダアト教の間ではそれが常識だった。
だが、ドミラスがエラムラの滅亡を阻止したことで、その前提は破綻した。予言書が何度も書き換わるのは、無数の予言から一つを絞り切れないから。予言が外れてしまったのは、予言書から書き漏れたもう一つの結果に行きついてしまっただけ。
つまり──。
「断言しよう。予言書とは、最も起こる可能性が高い未来を書き記したものに過ぎん。予測精度が高いがために、予言書に書かれたものこそ実現すると錯覚を生み出しているだけで、確実な未来ではない」
「……!」
ドミラスの結論に、ベートは強く奥歯を噛みしめた。歯に巻き込まれた頬の内が切れて血が流れ出るが、その痛みすら激情を誤魔化せるものではなかった。
予言書の記載が可能性の一つでしかないのなら、ベートがドミラスに敗北する未来もあり得ると言う事。終末の日も、もしかしたら避けられるかもしれないと言う事。そして、ベートがどんなに予言に縋ろうとも、博士と再会できるとは限らないと言う事。
想定できる可能性のすべてが、ベートにとっては許しがたい。そんな未来は存在してはならない。
繰り返しベートは心の中で慟哭するが、それを上書きするようにドミラスの声が重ねられる。
「お前の予言書を読ませてもらったが、ロッシュの予言書と全く内容は同じだった。そして予言書のどこにも、博士がお前と再会できるという話はなかった。お前はおそらく、終末の日に旧人類が復活を遂げれば博士も目覚めると思ったんだろうが」
「……るさい」
「もともと、予言書はドラゴンが跋扈するこの世界で、新人類が生き抜けるように指し示すものだ。予言書に終末の日が書かれているということは、博士から新人類に向けた警告で、博士は新人類が滅びるのを許容していない。ならば終末の日が到来しても、博士は絶対に目覚めはしない」
「……うるさい」
「お前たちが無理やり予言書の未来を実現させても、それは博士の意に反する。お前の行いは全て裏目に出ているぞ」
「ぐ、うぅぅ……」
震える両手を耳に押し当てながら、ベートは獣のような声を絞り出す。
「認めろよ、お前が縋っている予言書の未来はハリボテだ」
「ゥ゛ゥ……ァ……──ッ!」
酷薄なまでに現実を突きつけられ、ベートは口を限界まで開き、声にならない絶叫を上げた。感情に呼応した菌糸が反応し、彼女の全身から白い光が滲みだす。それらは末端から『催眠』の風を生み出し、一塊の暴風となってドミラスへ襲い掛かった。
風で白衣が激しくはためくが、ドミラスは少しも動じることなく、哀れみを持った目でベートを見つめていた。力任せに振るわれる能力は全く甘い香りを伴っておらず、指示も滅茶苦茶で子供の癇癪そのものだった。
やがて冷え切った風が二人の上空でごうごうと音を立てて、東の空から分厚い雲を連れてくる。暗雲はあっという間に太陽の光を覆い隠し、黒い地平がさらに黒く沈んでいった。
今にも雨が降り出しそうな湿った空気越しに、ベートの肩が細かく震える。
「ふふ、ふふふ……ベート・ハーヴァー……懐かしくて涙が出そう。その名前、最後に聞いたのはレオハニー以来ね」
かくり、とベートの頭がのけ反り、長髪で隠されていた顔が露わになる。口は綺麗な弧を描いていたが、目元は大きく落ち窪み、ミイラのように皺枯れているように見えた。
別人のように年老いたベートの姿に、ドミラスの背筋に冷たいものが走った。
黒山羊の悪魔の二つ名は、ベートの扱う武器とドラゴンを殺戮する姿からつけられたが、もう一つの理由があった。それは何年たっても年老いることのない、美しい美貌だ。悪魔に魂を売ったのでは、と噂する古参の狩人から命名され、その名は約五十年の歳月を越えて若い狩人にまで伝わっている。
「──それで? 旧人類ですらないあなたが、どうしてあたしの名前を知っているの?」
吐き出された声は別人としか言いようがなかった。艶やかだった声は老獪し、呪いを囁けば簡単に命を奪えてしまいそうだ。
敵の動揺を誘うのが目的だったが、少々踏み込み過ぎたかもしれない。ドミラスは冷えていく指先を強く握りしめ、幽鬼じみたベートに焦点を合わせた。
「……教える義理はないな」
「そう。なら力づくで聞き出すだけね」
ベートは仄暗い笑顔を見せびらかすと、大きく鞭を振り抜いた。蛇のようにしなる先端は複数の糸を捉え、糸と繋がったドミラスごとベートの元へ引きずり込む。
「接近戦をご所望か」
ドミラスは敢えて糸を切る事なく、ベートの懐へ飛び込みながら菌糸模様を瞬かせる。すると、ドミラスの人差し指に複数の糸が収束し、高速で射出された。
弾丸と化した糸はベートの頬を裂き、耳に穴を開けながら背後へ消える。その後も残り九本の指から弾丸が発射されるが、どれもベートの眉間を貫くに至らず、ギリギリのところで全て回避されてしまった。
見切られている。おそらくベートは『催眠』で五感を極限まで引き上げ、正確な弾道を割り出しているのだろう。その証拠に、ドミラスが死角から糸で切り裂こうとしても、超常的な反応速度で避けて見せた。
ベートは至近距離から襲い来る糸の刃を鞭で巻き込み、バレリーナのように身を捻りながら横一閃を放った。ばらばらと糸が空中で千切れ飛び、暗雲の中で一瞬白く光りながら消え失せる。ベートの髪もまた、避け切れなかった糸に切り落とされ淡く毛先を散らしていった。
ほんの一瞬、二人の攻撃が止み、静寂が落ちた。ドミラスが張り巡らせていた糸は全て散り、その反動でベートの鞭も大きく前に伸びきっており、素早く攻撃に転じることが出来ない。互いに無防備であり、二度とない好機であった。
二人はその表情に死を予感させながら、ほぼ同時に強襲した。純粋な殺意が正面衝突し、暗雲に沈む地平に流星のような閃光を解き放つ。刹那に交わされた力比べは僅かにベートに軍配が傾き、ドミラスの糸が遥か上空へはじかれる。
攻撃手段を失ったドミラスの脳天めがけ、ベートは鋭く鞭を振り下ろした。直撃すれば人間の頭蓋を簡単に粉砕する。この距離なら鞭のリーチから逃げ切れまい。唯一助かる方法があるとするならば、腕を犠牲に受け止めるしかない。
案の定、ドミラスは素早く腕を交差させ、糸を何重にも張り巡らせて受け止める体制に入った。
かかった。
ベートは歪な笑みを浮かべ、手首をひねるようにして鞭の軌道を僅かに変えた。
「──!」
ドミラスが息を呑むと同時に、鞭は糸の隙間を掻い潜りドミラスの左腕に固く巻き付いた。棘付きの鞭が容赦なくドミラスの腕の筋肉を引き裂き、張りつめた糸が一気に緩む。さらに鞭を手前に引っ張れば、複雑に張り巡らされていた糸がますます絡み合い、完全に二人の動きが静止した。
鞭の十字の刃はドミラスの胸上で糸にからめとられているが、ベートが少しでも腕を引けば必ず心臓を貫くだろう。反対に、ドミラスが腕に力を込めれば、ベートに絡みついた糸が一瞬で四肢を食いちぎるだろう。
至近距離で睨み合う二人の間で、赤く染まった糸からぽたりと血が滴る。不自然な位置で吊るされた二人の姿は、劇中に放り出されたマリオネットのようだった。
互いに命を握り合った状況の中、ベートは糸の隙間から首を伸ばし、ドミラスの耳元へ口を寄せた。
「いくらあなたでも、この距離なら『催眠』に抗えない。でしょう?」
微笑みかければ、ドミラスの猛禽類じみた瞳が震えた。
『催眠』の能力を使えば、相手の意識を奪うことも、脳の機能を停止させることもできる。この状況に持ち込まれた時点で、ドミラスの敗北はほぼ確定したも同然だ。
やはり予言書は決められた未来にしか辿り着けない。ドミラスがどんなに足掻こうと、ベートの勝利は確定していた。
「眠らせた後は、あなたの記憶を全て見せてもらうね。その後は、あなたの知り合いにけしかけて、殺し合ってもらおうかな」
「……俺を操ろうなんざ百年早い」
「ふふ。試してみよっか」
二人が動いたのはほぼ同時。ドミラスは即座に指を折り曲げてトドメを刺そうとしたが、一瞬早くベートの能力が発動した。
脳が溶けてしまいそうなほどの酷い色香が、強制的にドミラスの体内になだれ込んでいく。途端、糸を操っていた指先から力が抜け、ベートを縛り付けていた糸も緩やかに解け始めた。念のためさらに五秒かけて『催眠』の力を全身に行き渡らせ、呼吸が緩やかに静止していくのを確認する。
「……意外とあっけないね」
その言葉を最後に、ドミラスの瞼が閉じられた。
さあ、次の仕事をしなければ。ベートは腕に絡まったままの糸を振り払おうと、地に伏したドミラスから視線を外した。
ばすん、と鈍い音がベートの左肩から鳴り響き、筒状のものが足元に転がった。
ベートは不思議そうな顔をして筒状のそれを見下ろす。
左腕。赤いネイルが施された白く美しい手だ。
「え……」
遅れて、肩口から頬を濡らすほどの勢いで鮮血が吹き出し、ベートの意識がくらりと傾く。
『催眠』は確実に発動し、竜王すら数分でも操れるほどの濃度を与えたはず。人間の体内に入れば、確実に自我を破壊するレベルだ。
ありえない、まさか、意識があるわけが──。
愕然と目を見開きながら、ベートはよたよたと後ろに下がろうとする。失血で霞む視界が宙を泳ぎ、地面に転がった左腕と、その傍で今まさに立ち上がろうとしている男を見つける。
「うそ……」
「少し斬るのが早かったか」
ぽりぽりと面倒くさそうに頭を掻くドミラスは、明らかに『催眠』から抜け出していた。
「どうして……菌糸能力が効かないなんて、ありえない」
肉体に干渉する菌糸能力には、同じく干渉系の能力でなければ打ち消すことはできないはず。ドミラスの菌糸能力はどう考えても干渉系ではない。
一体どうやって、とベートが視線を彷徨わせれば、ドミラスの首元で歪に光る青い菌糸模様を見つけた。指先にある『傀儡』の菌糸模様と明らかに違うその色合いは、明らかに彼本来の菌糸ではない。同時にそれは、常識的にあり得ない事象そのものであった。
「なに、それ。鍵者でもない人間が、複数の菌糸を持てるわけない……!」
人間の肉体は一つの菌糸にしか適応できない。複数の菌糸が体内にあれば拒否反応を起こし、菌糸同士で縄張り争いを起こしてしまうからだ。その結果、人体は細胞レベルでボロボロに崩れ、骨すら残らず消滅してしまう。複数の菌糸が共存できる肉体の器は、細胞まで菌糸で構成された鍵者でしか許されない禁忌なのだ。
ベートは得体の知れない化け物を前に、かくりと膝から崩れ落ちた。その姿をドミラスは無表情で見下ろしている。下から見上げる形になったベートからは、ドミラスの表情が暗く沈んで判別できない。暗雲を背負う血に塗れた白衣の男は、彼の二つ名の通り死神を思わせた。
「鍵者でなければ複数の菌糸を持つことが許されないのなら、鍵者に成ってしまえばいい。ノクタヴィスで人体実験をしていたお前なら、すぐにその方法を思いつくはずだが」
平然と、荒唐無稽な話を始めたドミラスにベートは数秒ほど思考が停止した。それからノクタヴィスで行われていた人類のドラゴン化実験とその光景を思い出し、白くなった頬をさらに青ざめさせる。
「まさか……」
「その通り。自分の身体でドラゴン化の実験をしたまでだ」
暗雲から、ついに雨が降り始めた。ぽつぽつと、次第に激しく頬を打つ冷たい雨を呆然と受けながら、ベートは心胆から震えあがった。
博士のためならどんなものでも犠牲にするベートだが、自分の命を懸けてまで無茶をすることはない。だから、そのような凶行に身を委ねるという発想がなかった。ましてや、ドラゴン化なんて言語道断である。
ドラゴン化の実験は仲間内から狂人と呼ばれるベートでさえ気分が悪くなる光景だった。完成形がドラゴンに似ているだけならまだいい。大抵の失敗作は、一人の人間の尊厳が徹底的にすりつぶされ、生物と言い難い肉塊になり果てる。あのような姿で生きるぐらいなら、ドラゴンに生きたまま喰われるほうが何倍もマシである。
しかもドラゴン化が進行すると、文字通り細胞が別の生物へと書き換えられるため、筆舌に尽くしがたい激痛が被験者を襲う。白目を剥き、穴という穴から血を噴出させ醜く膨らんでいく被験者を見たら、誰だって自分を次の被験体に立候補できるわけがない。
それをこの男は、おそらく一人でやり切った。
「──あは、あははははは!」
ベートは左肩の痛みを忘れ、身を捩るようにして笑い転げた。ドミラスから怪訝な目を向けられるのがますますおかしくて、笑いすぎて涙が出てきてしまう。
「あーおかしい。あなた、本当は人の姿をした化け物なんじゃないの?」
「その台詞は鏡を見ながら言うといい。俺に言うよりよっぽど手ごたえがあるだろうよ」
「そういう事なら、あなたの血溜まりで代用しようかな」
鼻歌でも歌いそうな調子で混ぜ返した後、ベートはふと西の方角を見上げ、名残惜しそうに肩を落とした。
「ああでも、そろそろ時間切れだね。見て」
そう言って、けばけばしい人差し指が指示した先では、青い信号弾が煙を噴き上げながら大空へ飛び上がっていた。発信源はちょうどリョーホ達が向かった先である。
あの信号弾は、捜索部隊に緊急事態が起きた時、計画を早めて建築部隊と合流するための合図だ。つまり、リョーホ達はヤツカバネと戦闘状態になり、時間稼ぎすらできなくなった証拠である。
猛禽類じみた瞳で信号弾を睨むドミラスに、ベートは子供に言い聞かせるようなゆったりとした口調で告げた。
「本当はね、あなたの命なんて二の次。ヤツカバネにバルド村を滅ぼさせる方がもっとあの子を絶望させられるから」
「何?」
不測の事態に動揺するドミラスへ、ベートはこれ見よがしに笑顔になる。気づけばベートの左肩の出血は止まっており、じわじわと根元の方から白い皮膚が再生を始めていた。
「お前……」
「えへへ。あなたが自分に実験を施したように、あたしも死なない程度に色々弄ってるんだよ」
ベートは右手を地面について立ち上がると、青い信号弾を見上げながら楽しそうに語った。
「あなたの部隊にいる落獣のミッサは、あの信号を見れば真っ先にリョーホ達の助けに向かうでしょう? そうなった時、残された部隊の守りはかなり手薄になるんじゃないかな?」
「何が言いたい」
「だーかーら、合流するために戻ってきたリョーホ達は、仲間の死体と合流することになるの!」
手を叩きながらニコニコ笑うと、ようやくドミラスは表情を強張らせた。
「そうか……ミッサの守りが手薄になったところで建築部隊を全滅させ、血の匂いを使ってヤツカバネをバルド村まで誘導するつもりか」
「そう! 一応言っておくけれど、その建築部隊を殺しに行くのは、あなたの大好きなトトちゃんだよ?」
救済者トトの名を出した途端、ついにドミラスから余裕が消えた。それとほぼ同時に、高冠樹海から顔を出していた建築部隊の塔が、根元から一気に崩壊していくのが見えた。
それは旧人類の間で論じられた仮想概念だ。
溶けるように歪んでいたベートの表情が強張り、感情が抜け落ちる。そして彼女は、古い記憶からラプラスの悪魔の概要を呼び起こした。
「……全ての出来事は、それ以前の出来事によって決められる。だからある時点で全てを知り、解析できる知性が存在したなら、その知性は既に確定した未来を見通すことができるはず。旧人類の生み出した決定論ね」
「ああ。そしてそれは量子力学で否定された。ラプラスの悪魔が実際に視るのは、確定した未来ではなく、起こりうる複数の未来だ」
ドミラスの言葉にベートは息を呑むと、瞳に燃えるような憎しみを滾らせた。かつて聡明な博士だったベート・ハーヴァーは、それだけでドミラスが何を言いたいのかを理解してしまった。
予言書が未来を言い当てるのは、ある意味ではラプラスの悪魔と同じ理論である。予言書には終末の日が刻まれ、そこへ向けて数々の滅びが積み重なる。その一つ一つの滅びは決して止められず、だから終末の日も避けられない。ダアト教の間ではそれが常識だった。
だが、ドミラスがエラムラの滅亡を阻止したことで、その前提は破綻した。予言書が何度も書き換わるのは、無数の予言から一つを絞り切れないから。予言が外れてしまったのは、予言書から書き漏れたもう一つの結果に行きついてしまっただけ。
つまり──。
「断言しよう。予言書とは、最も起こる可能性が高い未来を書き記したものに過ぎん。予測精度が高いがために、予言書に書かれたものこそ実現すると錯覚を生み出しているだけで、確実な未来ではない」
「……!」
ドミラスの結論に、ベートは強く奥歯を噛みしめた。歯に巻き込まれた頬の内が切れて血が流れ出るが、その痛みすら激情を誤魔化せるものではなかった。
予言書の記載が可能性の一つでしかないのなら、ベートがドミラスに敗北する未来もあり得ると言う事。終末の日も、もしかしたら避けられるかもしれないと言う事。そして、ベートがどんなに予言に縋ろうとも、博士と再会できるとは限らないと言う事。
想定できる可能性のすべてが、ベートにとっては許しがたい。そんな未来は存在してはならない。
繰り返しベートは心の中で慟哭するが、それを上書きするようにドミラスの声が重ねられる。
「お前の予言書を読ませてもらったが、ロッシュの予言書と全く内容は同じだった。そして予言書のどこにも、博士がお前と再会できるという話はなかった。お前はおそらく、終末の日に旧人類が復活を遂げれば博士も目覚めると思ったんだろうが」
「……るさい」
「もともと、予言書はドラゴンが跋扈するこの世界で、新人類が生き抜けるように指し示すものだ。予言書に終末の日が書かれているということは、博士から新人類に向けた警告で、博士は新人類が滅びるのを許容していない。ならば終末の日が到来しても、博士は絶対に目覚めはしない」
「……うるさい」
「お前たちが無理やり予言書の未来を実現させても、それは博士の意に反する。お前の行いは全て裏目に出ているぞ」
「ぐ、うぅぅ……」
震える両手を耳に押し当てながら、ベートは獣のような声を絞り出す。
「認めろよ、お前が縋っている予言書の未来はハリボテだ」
「ゥ゛ゥ……ァ……──ッ!」
酷薄なまでに現実を突きつけられ、ベートは口を限界まで開き、声にならない絶叫を上げた。感情に呼応した菌糸が反応し、彼女の全身から白い光が滲みだす。それらは末端から『催眠』の風を生み出し、一塊の暴風となってドミラスへ襲い掛かった。
風で白衣が激しくはためくが、ドミラスは少しも動じることなく、哀れみを持った目でベートを見つめていた。力任せに振るわれる能力は全く甘い香りを伴っておらず、指示も滅茶苦茶で子供の癇癪そのものだった。
やがて冷え切った風が二人の上空でごうごうと音を立てて、東の空から分厚い雲を連れてくる。暗雲はあっという間に太陽の光を覆い隠し、黒い地平がさらに黒く沈んでいった。
今にも雨が降り出しそうな湿った空気越しに、ベートの肩が細かく震える。
「ふふ、ふふふ……ベート・ハーヴァー……懐かしくて涙が出そう。その名前、最後に聞いたのはレオハニー以来ね」
かくり、とベートの頭がのけ反り、長髪で隠されていた顔が露わになる。口は綺麗な弧を描いていたが、目元は大きく落ち窪み、ミイラのように皺枯れているように見えた。
別人のように年老いたベートの姿に、ドミラスの背筋に冷たいものが走った。
黒山羊の悪魔の二つ名は、ベートの扱う武器とドラゴンを殺戮する姿からつけられたが、もう一つの理由があった。それは何年たっても年老いることのない、美しい美貌だ。悪魔に魂を売ったのでは、と噂する古参の狩人から命名され、その名は約五十年の歳月を越えて若い狩人にまで伝わっている。
「──それで? 旧人類ですらないあなたが、どうしてあたしの名前を知っているの?」
吐き出された声は別人としか言いようがなかった。艶やかだった声は老獪し、呪いを囁けば簡単に命を奪えてしまいそうだ。
敵の動揺を誘うのが目的だったが、少々踏み込み過ぎたかもしれない。ドミラスは冷えていく指先を強く握りしめ、幽鬼じみたベートに焦点を合わせた。
「……教える義理はないな」
「そう。なら力づくで聞き出すだけね」
ベートは仄暗い笑顔を見せびらかすと、大きく鞭を振り抜いた。蛇のようにしなる先端は複数の糸を捉え、糸と繋がったドミラスごとベートの元へ引きずり込む。
「接近戦をご所望か」
ドミラスは敢えて糸を切る事なく、ベートの懐へ飛び込みながら菌糸模様を瞬かせる。すると、ドミラスの人差し指に複数の糸が収束し、高速で射出された。
弾丸と化した糸はベートの頬を裂き、耳に穴を開けながら背後へ消える。その後も残り九本の指から弾丸が発射されるが、どれもベートの眉間を貫くに至らず、ギリギリのところで全て回避されてしまった。
見切られている。おそらくベートは『催眠』で五感を極限まで引き上げ、正確な弾道を割り出しているのだろう。その証拠に、ドミラスが死角から糸で切り裂こうとしても、超常的な反応速度で避けて見せた。
ベートは至近距離から襲い来る糸の刃を鞭で巻き込み、バレリーナのように身を捻りながら横一閃を放った。ばらばらと糸が空中で千切れ飛び、暗雲の中で一瞬白く光りながら消え失せる。ベートの髪もまた、避け切れなかった糸に切り落とされ淡く毛先を散らしていった。
ほんの一瞬、二人の攻撃が止み、静寂が落ちた。ドミラスが張り巡らせていた糸は全て散り、その反動でベートの鞭も大きく前に伸びきっており、素早く攻撃に転じることが出来ない。互いに無防備であり、二度とない好機であった。
二人はその表情に死を予感させながら、ほぼ同時に強襲した。純粋な殺意が正面衝突し、暗雲に沈む地平に流星のような閃光を解き放つ。刹那に交わされた力比べは僅かにベートに軍配が傾き、ドミラスの糸が遥か上空へはじかれる。
攻撃手段を失ったドミラスの脳天めがけ、ベートは鋭く鞭を振り下ろした。直撃すれば人間の頭蓋を簡単に粉砕する。この距離なら鞭のリーチから逃げ切れまい。唯一助かる方法があるとするならば、腕を犠牲に受け止めるしかない。
案の定、ドミラスは素早く腕を交差させ、糸を何重にも張り巡らせて受け止める体制に入った。
かかった。
ベートは歪な笑みを浮かべ、手首をひねるようにして鞭の軌道を僅かに変えた。
「──!」
ドミラスが息を呑むと同時に、鞭は糸の隙間を掻い潜りドミラスの左腕に固く巻き付いた。棘付きの鞭が容赦なくドミラスの腕の筋肉を引き裂き、張りつめた糸が一気に緩む。さらに鞭を手前に引っ張れば、複雑に張り巡らされていた糸がますます絡み合い、完全に二人の動きが静止した。
鞭の十字の刃はドミラスの胸上で糸にからめとられているが、ベートが少しでも腕を引けば必ず心臓を貫くだろう。反対に、ドミラスが腕に力を込めれば、ベートに絡みついた糸が一瞬で四肢を食いちぎるだろう。
至近距離で睨み合う二人の間で、赤く染まった糸からぽたりと血が滴る。不自然な位置で吊るされた二人の姿は、劇中に放り出されたマリオネットのようだった。
互いに命を握り合った状況の中、ベートは糸の隙間から首を伸ばし、ドミラスの耳元へ口を寄せた。
「いくらあなたでも、この距離なら『催眠』に抗えない。でしょう?」
微笑みかければ、ドミラスの猛禽類じみた瞳が震えた。
『催眠』の能力を使えば、相手の意識を奪うことも、脳の機能を停止させることもできる。この状況に持ち込まれた時点で、ドミラスの敗北はほぼ確定したも同然だ。
やはり予言書は決められた未来にしか辿り着けない。ドミラスがどんなに足掻こうと、ベートの勝利は確定していた。
「眠らせた後は、あなたの記憶を全て見せてもらうね。その後は、あなたの知り合いにけしかけて、殺し合ってもらおうかな」
「……俺を操ろうなんざ百年早い」
「ふふ。試してみよっか」
二人が動いたのはほぼ同時。ドミラスは即座に指を折り曲げてトドメを刺そうとしたが、一瞬早くベートの能力が発動した。
脳が溶けてしまいそうなほどの酷い色香が、強制的にドミラスの体内になだれ込んでいく。途端、糸を操っていた指先から力が抜け、ベートを縛り付けていた糸も緩やかに解け始めた。念のためさらに五秒かけて『催眠』の力を全身に行き渡らせ、呼吸が緩やかに静止していくのを確認する。
「……意外とあっけないね」
その言葉を最後に、ドミラスの瞼が閉じられた。
さあ、次の仕事をしなければ。ベートは腕に絡まったままの糸を振り払おうと、地に伏したドミラスから視線を外した。
ばすん、と鈍い音がベートの左肩から鳴り響き、筒状のものが足元に転がった。
ベートは不思議そうな顔をして筒状のそれを見下ろす。
左腕。赤いネイルが施された白く美しい手だ。
「え……」
遅れて、肩口から頬を濡らすほどの勢いで鮮血が吹き出し、ベートの意識がくらりと傾く。
『催眠』は確実に発動し、竜王すら数分でも操れるほどの濃度を与えたはず。人間の体内に入れば、確実に自我を破壊するレベルだ。
ありえない、まさか、意識があるわけが──。
愕然と目を見開きながら、ベートはよたよたと後ろに下がろうとする。失血で霞む視界が宙を泳ぎ、地面に転がった左腕と、その傍で今まさに立ち上がろうとしている男を見つける。
「うそ……」
「少し斬るのが早かったか」
ぽりぽりと面倒くさそうに頭を掻くドミラスは、明らかに『催眠』から抜け出していた。
「どうして……菌糸能力が効かないなんて、ありえない」
肉体に干渉する菌糸能力には、同じく干渉系の能力でなければ打ち消すことはできないはず。ドミラスの菌糸能力はどう考えても干渉系ではない。
一体どうやって、とベートが視線を彷徨わせれば、ドミラスの首元で歪に光る青い菌糸模様を見つけた。指先にある『傀儡』の菌糸模様と明らかに違うその色合いは、明らかに彼本来の菌糸ではない。同時にそれは、常識的にあり得ない事象そのものであった。
「なに、それ。鍵者でもない人間が、複数の菌糸を持てるわけない……!」
人間の肉体は一つの菌糸にしか適応できない。複数の菌糸が体内にあれば拒否反応を起こし、菌糸同士で縄張り争いを起こしてしまうからだ。その結果、人体は細胞レベルでボロボロに崩れ、骨すら残らず消滅してしまう。複数の菌糸が共存できる肉体の器は、細胞まで菌糸で構成された鍵者でしか許されない禁忌なのだ。
ベートは得体の知れない化け物を前に、かくりと膝から崩れ落ちた。その姿をドミラスは無表情で見下ろしている。下から見上げる形になったベートからは、ドミラスの表情が暗く沈んで判別できない。暗雲を背負う血に塗れた白衣の男は、彼の二つ名の通り死神を思わせた。
「鍵者でなければ複数の菌糸を持つことが許されないのなら、鍵者に成ってしまえばいい。ノクタヴィスで人体実験をしていたお前なら、すぐにその方法を思いつくはずだが」
平然と、荒唐無稽な話を始めたドミラスにベートは数秒ほど思考が停止した。それからノクタヴィスで行われていた人類のドラゴン化実験とその光景を思い出し、白くなった頬をさらに青ざめさせる。
「まさか……」
「その通り。自分の身体でドラゴン化の実験をしたまでだ」
暗雲から、ついに雨が降り始めた。ぽつぽつと、次第に激しく頬を打つ冷たい雨を呆然と受けながら、ベートは心胆から震えあがった。
博士のためならどんなものでも犠牲にするベートだが、自分の命を懸けてまで無茶をすることはない。だから、そのような凶行に身を委ねるという発想がなかった。ましてや、ドラゴン化なんて言語道断である。
ドラゴン化の実験は仲間内から狂人と呼ばれるベートでさえ気分が悪くなる光景だった。完成形がドラゴンに似ているだけならまだいい。大抵の失敗作は、一人の人間の尊厳が徹底的にすりつぶされ、生物と言い難い肉塊になり果てる。あのような姿で生きるぐらいなら、ドラゴンに生きたまま喰われるほうが何倍もマシである。
しかもドラゴン化が進行すると、文字通り細胞が別の生物へと書き換えられるため、筆舌に尽くしがたい激痛が被験者を襲う。白目を剥き、穴という穴から血を噴出させ醜く膨らんでいく被験者を見たら、誰だって自分を次の被験体に立候補できるわけがない。
それをこの男は、おそらく一人でやり切った。
「──あは、あははははは!」
ベートは左肩の痛みを忘れ、身を捩るようにして笑い転げた。ドミラスから怪訝な目を向けられるのがますますおかしくて、笑いすぎて涙が出てきてしまう。
「あーおかしい。あなた、本当は人の姿をした化け物なんじゃないの?」
「その台詞は鏡を見ながら言うといい。俺に言うよりよっぽど手ごたえがあるだろうよ」
「そういう事なら、あなたの血溜まりで代用しようかな」
鼻歌でも歌いそうな調子で混ぜ返した後、ベートはふと西の方角を見上げ、名残惜しそうに肩を落とした。
「ああでも、そろそろ時間切れだね。見て」
そう言って、けばけばしい人差し指が指示した先では、青い信号弾が煙を噴き上げながら大空へ飛び上がっていた。発信源はちょうどリョーホ達が向かった先である。
あの信号弾は、捜索部隊に緊急事態が起きた時、計画を早めて建築部隊と合流するための合図だ。つまり、リョーホ達はヤツカバネと戦闘状態になり、時間稼ぎすらできなくなった証拠である。
猛禽類じみた瞳で信号弾を睨むドミラスに、ベートは子供に言い聞かせるようなゆったりとした口調で告げた。
「本当はね、あなたの命なんて二の次。ヤツカバネにバルド村を滅ぼさせる方がもっとあの子を絶望させられるから」
「何?」
不測の事態に動揺するドミラスへ、ベートはこれ見よがしに笑顔になる。気づけばベートの左肩の出血は止まっており、じわじわと根元の方から白い皮膚が再生を始めていた。
「お前……」
「えへへ。あなたが自分に実験を施したように、あたしも死なない程度に色々弄ってるんだよ」
ベートは右手を地面について立ち上がると、青い信号弾を見上げながら楽しそうに語った。
「あなたの部隊にいる落獣のミッサは、あの信号を見れば真っ先にリョーホ達の助けに向かうでしょう? そうなった時、残された部隊の守りはかなり手薄になるんじゃないかな?」
「何が言いたい」
「だーかーら、合流するために戻ってきたリョーホ達は、仲間の死体と合流することになるの!」
手を叩きながらニコニコ笑うと、ようやくドミラスは表情を強張らせた。
「そうか……ミッサの守りが手薄になったところで建築部隊を全滅させ、血の匂いを使ってヤツカバネをバルド村まで誘導するつもりか」
「そう! 一応言っておくけれど、その建築部隊を殺しに行くのは、あなたの大好きなトトちゃんだよ?」
救済者トトの名を出した途端、ついにドミラスから余裕が消えた。それとほぼ同時に、高冠樹海から顔を出していた建築部隊の塔が、根元から一気に崩壊していくのが見えた。
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