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3章
(11)帰還
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うつらうつらと船を漕ぐと、印象の薄い色彩が、真っ白なカンバスの中を泳ぎ始める。紫陽花や桜、紅葉を思わせる色の数々が、鳥や犬に姿を変えて楽しげに踊る。
魂の波だ。そう思った途端、曖昧模糊とした景色が鋳型に流し込まれ、霧が晴れるように輪郭が明らかになっていった。
完成した景色は、見たことのないものばかりだった。
見上げるほど高い、銀色の四角い塔がずらりと並ぶ。狭い空には巨大な鳥が滑空し、鼓膜をつんざく様な爆音が響く。白線で区切られた道の上では、カラフルな鉄の箱がグレーの大地を踏みしめていた。
「――!」
誰かの声がして振り返ると、黒い服に身を包んだ青年が、白線の向こうから目の前まで走ってきた。青年の背後では無機質で巨大な建物があり、黒と黄色の縞々の階段が地面に吸い込まれていた。
不意に、けたたましい音が近づいてきた。驚いて顔を上げると、橋の上に節くれた鉄の蛇が通過していった。道行く人は鉄の蛇に全く興味を示しておらず、まるで自分にしか見えていないようだった。
人の雑踏。鉄の生き物の騒音。巨大な鳥の叫び声。立っているだけでも目が回りそうだ。
「――? ――!」
見知らぬ青年が、聞き慣れぬ言語でニコニコと話しかけてくる。なんと答えようか迷っていると、自分の喉から知っている声が飛び出した。
「おせーよ。何してたんだ?」
「――!」
「あほ!」
「――!」
あ、と気づいた時には、歩き出した肉体に魂が置いていかれ、目の前に誰かの背中が現れた。
自分が乗り移っていたのは、もやしのように貧弱そうな黒髪の青年だった。彼もまた、話しかけてきた青年と全く同じ黒服を着ている。
自分の知っている彼は、こんな服を着ていなかった。髪の毛も、もっと長かったような気がする。
じわじわと己の意識がはっきりしてくる間に、黒髪の青年がどんどん離れていく。
急に焦りを覚えて、――は必死に声を張り上げた。
「リョーホ!」
「見えてきたぞ」
はっと目を見開いた瞬間、シャルの視界が一変した。
白い衣服に包まれた背中と、高冠樹海の暗くうねった地面が見える。右頬には柔らかな人の体温を感じ、夢から追いすがってきた孤独感が一気に遠のいた。
どうやらリョーホに背負われたまま眠っていたらしい。シャルは自分の状況を把握すると、気恥ずかしくなってリョーホの背中に額を押し付けた。
「シャルー、起きたかー?」
優しい声がこちらを顧みる。シャルは返事をする代わりに顔を擦り付けた後、肩越しに首を伸ばしてみた。
頂点まで日が登った空の下、深い森に囲われた渓谷の狭間で点々と明かりが灯っている。村の入り口の塔からは鐘の音が響き渡り、正午の訪れを高らかに告げていた。
見たことのない景色。嗅いだことのない匂い。耳を澄ませれば、川のせせらぎが渓谷から聞こえてくる。
「ようこそ! あそこが俺たちの住むバルド村だ!」
自慢げなリョーホの声に、ぞわりと興奮の波が押し寄せる。シャルは我慢できず、リョーホの背から勢いよく飛び降りて渓谷の縁まで駆け出した。
渓谷の壁には、木製の階段が入り組みながら谷底にまで連なっている。見ているだけで吸い込まれそうで、シャルは慌てて一歩下がった。そこからゆっくりと顔を上げれば、どこまでも続く高冠樹海と、白く霞むガルラ山の姿が見える。
これより西に人の安息地はなく、無数のドラゴンが跳梁跋扈する。
ドラゴン狩りの最前線。狩人たちの最果てだ。
・・・―――・・・
「みなさん! おかえりなさい!」
鐘楼の階段を降りてギルドに入るや、受付嬢のアメリアが笑顔で俺たちを出迎えてくれた。俺はシャルを背負い直しながら笑顔を浮かべ、受付の方へと駆け寄った。
「ただいまアメリア! 依頼どうなった?」
「パリュム草ならばっちり届いてますよ! こちらが運搬代行の領収書です!」
「げぇ、やっぱ金取るのかよ」
「安心してください。ロッシュ様が代わりにお支払いしてくれましたから!」
「マジか。絶対お礼しないとなぁ」
アメリアから差し出された領収書を片手で受け取ると、俺の横でやり取りを見ていたアンリが、いかにも裏がありそうな笑顔で囁いた。
「あーあ、順調にロッシュ様に懐柔されてるね」
「怖いこと言うなよ」
まるで俺が高利貸しのヤクザを優しい人だと思い込んでいる馬鹿みたいじゃないか。心配しなくとも線引きはできているはずだ。……多分。
内心で言い訳をしながら、ニヤニヤ笑うアンリを追い払っていると、受付のテーブルからアメリアが身を乗り出した。
「リョーホさん。ずっと気になってたんですけど、その子はどうしたんですか?」
アメリアのキラキラとした視線に真っ向からさらされ、シャルはぴゃっと俺の背中に隠れてしまった。変なところで人見知りである。
俺は後ろ手にシャルを宥めながらアメリアに紹介した。
「シャルっていうんだ。エラムラで仲良くなって、訳あって俺が面倒を見ることになった」
「は、はわわ、リョーホさんが、女の子と同居ですか!?」
「そうだけど……っておい、変なこと考えるなよ!?」
「い、いーえー? 疑ってるわけじゃないんですよ? 年下が趣味って殿方はいますし? 人それぞれですものねー」
「目を見て言ってくれ! 本当に、下心とかないから! 健全だから!」
「ええー? そこまで言うなら信じてあげます」
にぱっと笑うアメリアを見て、俺はようやく揶揄われていたことに気づいた。
「もーやめてくれぇ! 心臓に悪い……!」
「この前のお返しですっ」
ふん、と鼻を鳴らした後、アメリアは落ち着いた雰囲気に戻ってシャルに話しかけた。
「シャルちゃんって言うんですね。わたしはアメリア。このギルドの受付を任されているんです。お仕事の時はよろしくお願いします」
シャルは穴が開くほどアメリアの顔を見つめると、控えめに手を振って返答した。瞬間、アメリアから満開の笑顔が咲き誇った。
バルド村にシャルが馴染めるか不安だったが、第一村人から順調な手応えだ。俺はほっと息を吐きながら、忘れずにシャルの症状を付け加えた。
「シャルは色々あって今は喋れないんだ。少しだけでもいいから気にかけてくれると嬉しい」
「大変だったんですね……あ、読み書きができるなら、こちらで紙と鉛筆を用意しましょうか!」
「助かる」
細かいところまで気が回るアメリアには、本当に頭が上がらない。俺も後で筆記用具を揃えようと心に書き留めつつ、ギルド内を軽く見回した。
俺がエラムラに出かける前、カーヌマがガルラ環洞窟に出かけるという話になっていたが、あれから三日経っているのに目立つ赤いドレッドヘアーが見当たらない。
「アメリア、彼ピッピどうした? まだ帰ってきてないのか?」
「まだ彼氏じゃありません!」
「まだ?」
「あうぅ……意地悪しないでください!」
「リョーホ。セクハラだよ」
「えっ!?」
いきなり背後から刺されたような反応をすると、アメリアがアンリにサムズアップするのが一瞬見えた。俺を弄るためなら全力で裏切ってくるのはやめてほしい。
気を取り直して、アメリアは咳払いをしてから教えてくれた。
「カーくん……じゃなかった、カーヌマなら、まだ帰ってきてませんよ。長距離依頼なら帰る時間が遅れることもよくありますし。ちょうど今、父が三人の迎えに行っているはずです」
「そうか。ハインキーさんが一緒なら大丈夫だろ。早く帰ってくるといいな」
「はい! あ、それとアンリさん」
「はいはい」
「こちらアンリさんの分の運搬代行領収書です」
サッと差し出されたのは、先ほど俺が貰ったものより桁が一つ多い領収書だった。思わず俺はギョッとするが、アンリは平然とそれを受け取った。
「明日までに振り込んでおくから」
「承りました! あ、あと、メルク村長から伝言で、帰ってきたら顔を出せと仰ってましたよ!」
「うっわ。分かった行くね」
アンリは鼻先に皺を作った後、くるりとこちらを振り返りながら手を振った。
「というわけで、今日のところは解散」
「おう。おつかれ。アメリアも頑張ってな」
「はい! 皆さんもお疲れ様です!」
と、外へ出ようとしたところで、俺は一緒に村に帰ってきたはずのエトロがいなくなっていることに気づいた。
「あれ、エトロは?」
「ギルド前でもう帰ってたけど」
「あいつ……!」
気まずい気持ちは分かるが、せめて別れ際の挨拶まではしてほしかった。俺はワナワナと拳を握りしめたが、シャルに慰められるように肩を叩かれ、仕方なく脱力した。
「はぁーもー、レオハニーさんになんて説明すりゃいいんだよ」
「なんとかなるでしょ。あの人滅多に帰ってこないし」
「だといいんだけどな……」
俺はアンリに背中を押されるようにしてギルドを出ると、とぼとぼと長い階段を下り始めた。
足下から聞こえる川のせせらぎや、洞窟から漏れ出るキノコライトの灯りを見ていると、ようやく帰ってきた実感が湧き上がってくる。エラムラも明るくて住みやすそうだが、渓谷の静かな大自然の方が俺には性に合っていた。俺の中でハモ、バルド村が第二の故郷になりつつある。そのことに若干の寂しさを覚えているうちに、俺の自宅アパートが階段の下に見えてきた。
俺はくるりと振り返ると、シャルを背中から降ろしてからアンリに軽く頭を下げた。
「今日はありがとな。マジで助かった」
「いいよ。お礼なんて気持ち悪いし。帰ったらシャルちゃん風呂に入れてあげなよ。ご飯も食べさせること。歯磨きは忘れるな。それと服も……」
「一気に言うな! お母さんかよ! 困ったらすぐに聞きに行くから!」
「絶対だぞ。お前の隣のオリフィアさんとか育児に詳しいから、今のうちに挨拶しておきなね! 一人で全部やるなよ!」
アンリはダメ押しにアドバイスを付け加えると、吊り橋の方へと走り去った。
「あいつ、俺より心配性だな……」
そう呟くと、背後のシャルも深く頷いた。
アンリには弟の育児経験があるため、ここまで心配してもらえると心強かった。アドバイスにあった隣人のオフィリアの方も、俺が主催している週一のバーベキューで親睦を深めているので、助っ人をお願いしても大丈夫なはずである。
「鉛筆、紙、ご挨拶に、洋服に……」
必要なものを呪文のように唱えながら、俺は三日ぶりに自宅の鍵を開けた。木製のドアが小さく軋み声をあげながら、内側の景色を露わにする。最初は最低限だった部屋の中も、採集狩人としての収入でちまちま家具を買っていたおかげで、一人暮らしっぽい仕上がりになっている。まさか年下の女の子を部屋に上げると思っていなかったが、出かける前に綺麗にしておいてよかったと心底思う。
「ここが俺の部屋だ。ちょっと狭いけど我慢してくれよ」
説明しながら、俺はシャルを背中から下ろした。シャルは躊躇いがちに一歩だけ部屋に入ると、物珍しそうに部屋中に顔を向けた。
部屋の中央にはテーブルと三つの椅子。右手にはタンスや小物入れ。その隣の棚には、治療薬や爆弾などの調合セットが積み上がっていた。左側には少々硬いベッドと、文字練習用のノートが置かれたサイドテーブルがある。
「シャルのベッドも買わないとな」
俺はもう一つ頭の中にメモしながら、シャルを手招きして椅子に座らせた。
「この部屋は自由に使ってくれ。ベッドとかパジャマとかは今日中に揃えるから心配するなよ。それと、これがスペアの家の鍵。できるだけ締め忘れないようにな」
そう言ったことを細々と話す間、シャルは律儀に頷いていた。相手が喋れないからほぼ俺が喋るしかなく、しかも相手からの質問もないため少し心配になってくる。
そこで俺は一旦立ち上がると、サイドテーブルのノートを持ってきてシャルに手渡した。
「なんか言いたいこととか、聞きたいことがあったらそこに書いてくれ。眠かったら眠いでいいし、お腹減ったでもいいから」
シャルはノートを受け取ると、テーブルの上にそれを広げて早速サラサラと文字を書き始めた。
因みに、このノートはエトロに買ってもらった一品だ。異世界文字が読めない俺に嫌気が刺したのか、ある日突然鉛筆や本と一緒に押し付けてきたのである。しかも最初の三日間はエトロが付きっきりで文字の読み方を教えてくれたので、今では問題なく文字が読めるようになった。
異世界の発音はほぼ日本語と同じで、文字の覚え方も換字式暗号のため、音を覚えればすぐだった。英語もこれぐらい単純であれば、テストで赤点を取らずに済んだのに。
それにしても、エラムラやヨルド、バルドなど、日本語に置き換えられない単語があるのが気になる。ドラゴンの名前だって英語やドイツ語を交えたような造語だが、日本語に置き換えようとすると頭に靄がかかったような感覚になって、どうしても翻訳できないのだ。
もしや異世界転移の特典のおかげで、聞こえる言語が全て日本語に翻訳されているだけなのだろうか。もしそうだとしたら、文字の翻訳機能をつけなかった神様には一言申し上げたい。
そんなことを考えていると、ずいっと俺の前にノートが差し出された。
「書き終わったか」
俺は微笑みながら、シャルの拙い文字に目を滑らせた。
書かれていたのは、意外と綺麗な部屋で驚いたとか、自分も狩りで稼いで頑張るとか、連れてきてくれてありがとうだとか、読んでいるだけで涙腺にくる内容が大半を占めていた。
子供に気を使わせるなんてまだまだだな、と猛省しつつ読み進めていくと、最後の一文にこんなことが書かれていた。
『バルドにはおっきいおふろ、あるってきいた。おふろにはいりたい!』
……風呂って俺が入れていいのか?
魂の波だ。そう思った途端、曖昧模糊とした景色が鋳型に流し込まれ、霧が晴れるように輪郭が明らかになっていった。
完成した景色は、見たことのないものばかりだった。
見上げるほど高い、銀色の四角い塔がずらりと並ぶ。狭い空には巨大な鳥が滑空し、鼓膜をつんざく様な爆音が響く。白線で区切られた道の上では、カラフルな鉄の箱がグレーの大地を踏みしめていた。
「――!」
誰かの声がして振り返ると、黒い服に身を包んだ青年が、白線の向こうから目の前まで走ってきた。青年の背後では無機質で巨大な建物があり、黒と黄色の縞々の階段が地面に吸い込まれていた。
不意に、けたたましい音が近づいてきた。驚いて顔を上げると、橋の上に節くれた鉄の蛇が通過していった。道行く人は鉄の蛇に全く興味を示しておらず、まるで自分にしか見えていないようだった。
人の雑踏。鉄の生き物の騒音。巨大な鳥の叫び声。立っているだけでも目が回りそうだ。
「――? ――!」
見知らぬ青年が、聞き慣れぬ言語でニコニコと話しかけてくる。なんと答えようか迷っていると、自分の喉から知っている声が飛び出した。
「おせーよ。何してたんだ?」
「――!」
「あほ!」
「――!」
あ、と気づいた時には、歩き出した肉体に魂が置いていかれ、目の前に誰かの背中が現れた。
自分が乗り移っていたのは、もやしのように貧弱そうな黒髪の青年だった。彼もまた、話しかけてきた青年と全く同じ黒服を着ている。
自分の知っている彼は、こんな服を着ていなかった。髪の毛も、もっと長かったような気がする。
じわじわと己の意識がはっきりしてくる間に、黒髪の青年がどんどん離れていく。
急に焦りを覚えて、――は必死に声を張り上げた。
「リョーホ!」
「見えてきたぞ」
はっと目を見開いた瞬間、シャルの視界が一変した。
白い衣服に包まれた背中と、高冠樹海の暗くうねった地面が見える。右頬には柔らかな人の体温を感じ、夢から追いすがってきた孤独感が一気に遠のいた。
どうやらリョーホに背負われたまま眠っていたらしい。シャルは自分の状況を把握すると、気恥ずかしくなってリョーホの背中に額を押し付けた。
「シャルー、起きたかー?」
優しい声がこちらを顧みる。シャルは返事をする代わりに顔を擦り付けた後、肩越しに首を伸ばしてみた。
頂点まで日が登った空の下、深い森に囲われた渓谷の狭間で点々と明かりが灯っている。村の入り口の塔からは鐘の音が響き渡り、正午の訪れを高らかに告げていた。
見たことのない景色。嗅いだことのない匂い。耳を澄ませれば、川のせせらぎが渓谷から聞こえてくる。
「ようこそ! あそこが俺たちの住むバルド村だ!」
自慢げなリョーホの声に、ぞわりと興奮の波が押し寄せる。シャルは我慢できず、リョーホの背から勢いよく飛び降りて渓谷の縁まで駆け出した。
渓谷の壁には、木製の階段が入り組みながら谷底にまで連なっている。見ているだけで吸い込まれそうで、シャルは慌てて一歩下がった。そこからゆっくりと顔を上げれば、どこまでも続く高冠樹海と、白く霞むガルラ山の姿が見える。
これより西に人の安息地はなく、無数のドラゴンが跳梁跋扈する。
ドラゴン狩りの最前線。狩人たちの最果てだ。
・・・―――・・・
「みなさん! おかえりなさい!」
鐘楼の階段を降りてギルドに入るや、受付嬢のアメリアが笑顔で俺たちを出迎えてくれた。俺はシャルを背負い直しながら笑顔を浮かべ、受付の方へと駆け寄った。
「ただいまアメリア! 依頼どうなった?」
「パリュム草ならばっちり届いてますよ! こちらが運搬代行の領収書です!」
「げぇ、やっぱ金取るのかよ」
「安心してください。ロッシュ様が代わりにお支払いしてくれましたから!」
「マジか。絶対お礼しないとなぁ」
アメリアから差し出された領収書を片手で受け取ると、俺の横でやり取りを見ていたアンリが、いかにも裏がありそうな笑顔で囁いた。
「あーあ、順調にロッシュ様に懐柔されてるね」
「怖いこと言うなよ」
まるで俺が高利貸しのヤクザを優しい人だと思い込んでいる馬鹿みたいじゃないか。心配しなくとも線引きはできているはずだ。……多分。
内心で言い訳をしながら、ニヤニヤ笑うアンリを追い払っていると、受付のテーブルからアメリアが身を乗り出した。
「リョーホさん。ずっと気になってたんですけど、その子はどうしたんですか?」
アメリアのキラキラとした視線に真っ向からさらされ、シャルはぴゃっと俺の背中に隠れてしまった。変なところで人見知りである。
俺は後ろ手にシャルを宥めながらアメリアに紹介した。
「シャルっていうんだ。エラムラで仲良くなって、訳あって俺が面倒を見ることになった」
「は、はわわ、リョーホさんが、女の子と同居ですか!?」
「そうだけど……っておい、変なこと考えるなよ!?」
「い、いーえー? 疑ってるわけじゃないんですよ? 年下が趣味って殿方はいますし? 人それぞれですものねー」
「目を見て言ってくれ! 本当に、下心とかないから! 健全だから!」
「ええー? そこまで言うなら信じてあげます」
にぱっと笑うアメリアを見て、俺はようやく揶揄われていたことに気づいた。
「もーやめてくれぇ! 心臓に悪い……!」
「この前のお返しですっ」
ふん、と鼻を鳴らした後、アメリアは落ち着いた雰囲気に戻ってシャルに話しかけた。
「シャルちゃんって言うんですね。わたしはアメリア。このギルドの受付を任されているんです。お仕事の時はよろしくお願いします」
シャルは穴が開くほどアメリアの顔を見つめると、控えめに手を振って返答した。瞬間、アメリアから満開の笑顔が咲き誇った。
バルド村にシャルが馴染めるか不安だったが、第一村人から順調な手応えだ。俺はほっと息を吐きながら、忘れずにシャルの症状を付け加えた。
「シャルは色々あって今は喋れないんだ。少しだけでもいいから気にかけてくれると嬉しい」
「大変だったんですね……あ、読み書きができるなら、こちらで紙と鉛筆を用意しましょうか!」
「助かる」
細かいところまで気が回るアメリアには、本当に頭が上がらない。俺も後で筆記用具を揃えようと心に書き留めつつ、ギルド内を軽く見回した。
俺がエラムラに出かける前、カーヌマがガルラ環洞窟に出かけるという話になっていたが、あれから三日経っているのに目立つ赤いドレッドヘアーが見当たらない。
「アメリア、彼ピッピどうした? まだ帰ってきてないのか?」
「まだ彼氏じゃありません!」
「まだ?」
「あうぅ……意地悪しないでください!」
「リョーホ。セクハラだよ」
「えっ!?」
いきなり背後から刺されたような反応をすると、アメリアがアンリにサムズアップするのが一瞬見えた。俺を弄るためなら全力で裏切ってくるのはやめてほしい。
気を取り直して、アメリアは咳払いをしてから教えてくれた。
「カーくん……じゃなかった、カーヌマなら、まだ帰ってきてませんよ。長距離依頼なら帰る時間が遅れることもよくありますし。ちょうど今、父が三人の迎えに行っているはずです」
「そうか。ハインキーさんが一緒なら大丈夫だろ。早く帰ってくるといいな」
「はい! あ、それとアンリさん」
「はいはい」
「こちらアンリさんの分の運搬代行領収書です」
サッと差し出されたのは、先ほど俺が貰ったものより桁が一つ多い領収書だった。思わず俺はギョッとするが、アンリは平然とそれを受け取った。
「明日までに振り込んでおくから」
「承りました! あ、あと、メルク村長から伝言で、帰ってきたら顔を出せと仰ってましたよ!」
「うっわ。分かった行くね」
アンリは鼻先に皺を作った後、くるりとこちらを振り返りながら手を振った。
「というわけで、今日のところは解散」
「おう。おつかれ。アメリアも頑張ってな」
「はい! 皆さんもお疲れ様です!」
と、外へ出ようとしたところで、俺は一緒に村に帰ってきたはずのエトロがいなくなっていることに気づいた。
「あれ、エトロは?」
「ギルド前でもう帰ってたけど」
「あいつ……!」
気まずい気持ちは分かるが、せめて別れ際の挨拶まではしてほしかった。俺はワナワナと拳を握りしめたが、シャルに慰められるように肩を叩かれ、仕方なく脱力した。
「はぁーもー、レオハニーさんになんて説明すりゃいいんだよ」
「なんとかなるでしょ。あの人滅多に帰ってこないし」
「だといいんだけどな……」
俺はアンリに背中を押されるようにしてギルドを出ると、とぼとぼと長い階段を下り始めた。
足下から聞こえる川のせせらぎや、洞窟から漏れ出るキノコライトの灯りを見ていると、ようやく帰ってきた実感が湧き上がってくる。エラムラも明るくて住みやすそうだが、渓谷の静かな大自然の方が俺には性に合っていた。俺の中でハモ、バルド村が第二の故郷になりつつある。そのことに若干の寂しさを覚えているうちに、俺の自宅アパートが階段の下に見えてきた。
俺はくるりと振り返ると、シャルを背中から降ろしてからアンリに軽く頭を下げた。
「今日はありがとな。マジで助かった」
「いいよ。お礼なんて気持ち悪いし。帰ったらシャルちゃん風呂に入れてあげなよ。ご飯も食べさせること。歯磨きは忘れるな。それと服も……」
「一気に言うな! お母さんかよ! 困ったらすぐに聞きに行くから!」
「絶対だぞ。お前の隣のオリフィアさんとか育児に詳しいから、今のうちに挨拶しておきなね! 一人で全部やるなよ!」
アンリはダメ押しにアドバイスを付け加えると、吊り橋の方へと走り去った。
「あいつ、俺より心配性だな……」
そう呟くと、背後のシャルも深く頷いた。
アンリには弟の育児経験があるため、ここまで心配してもらえると心強かった。アドバイスにあった隣人のオフィリアの方も、俺が主催している週一のバーベキューで親睦を深めているので、助っ人をお願いしても大丈夫なはずである。
「鉛筆、紙、ご挨拶に、洋服に……」
必要なものを呪文のように唱えながら、俺は三日ぶりに自宅の鍵を開けた。木製のドアが小さく軋み声をあげながら、内側の景色を露わにする。最初は最低限だった部屋の中も、採集狩人としての収入でちまちま家具を買っていたおかげで、一人暮らしっぽい仕上がりになっている。まさか年下の女の子を部屋に上げると思っていなかったが、出かける前に綺麗にしておいてよかったと心底思う。
「ここが俺の部屋だ。ちょっと狭いけど我慢してくれよ」
説明しながら、俺はシャルを背中から下ろした。シャルは躊躇いがちに一歩だけ部屋に入ると、物珍しそうに部屋中に顔を向けた。
部屋の中央にはテーブルと三つの椅子。右手にはタンスや小物入れ。その隣の棚には、治療薬や爆弾などの調合セットが積み上がっていた。左側には少々硬いベッドと、文字練習用のノートが置かれたサイドテーブルがある。
「シャルのベッドも買わないとな」
俺はもう一つ頭の中にメモしながら、シャルを手招きして椅子に座らせた。
「この部屋は自由に使ってくれ。ベッドとかパジャマとかは今日中に揃えるから心配するなよ。それと、これがスペアの家の鍵。できるだけ締め忘れないようにな」
そう言ったことを細々と話す間、シャルは律儀に頷いていた。相手が喋れないからほぼ俺が喋るしかなく、しかも相手からの質問もないため少し心配になってくる。
そこで俺は一旦立ち上がると、サイドテーブルのノートを持ってきてシャルに手渡した。
「なんか言いたいこととか、聞きたいことがあったらそこに書いてくれ。眠かったら眠いでいいし、お腹減ったでもいいから」
シャルはノートを受け取ると、テーブルの上にそれを広げて早速サラサラと文字を書き始めた。
因みに、このノートはエトロに買ってもらった一品だ。異世界文字が読めない俺に嫌気が刺したのか、ある日突然鉛筆や本と一緒に押し付けてきたのである。しかも最初の三日間はエトロが付きっきりで文字の読み方を教えてくれたので、今では問題なく文字が読めるようになった。
異世界の発音はほぼ日本語と同じで、文字の覚え方も換字式暗号のため、音を覚えればすぐだった。英語もこれぐらい単純であれば、テストで赤点を取らずに済んだのに。
それにしても、エラムラやヨルド、バルドなど、日本語に置き換えられない単語があるのが気になる。ドラゴンの名前だって英語やドイツ語を交えたような造語だが、日本語に置き換えようとすると頭に靄がかかったような感覚になって、どうしても翻訳できないのだ。
もしや異世界転移の特典のおかげで、聞こえる言語が全て日本語に翻訳されているだけなのだろうか。もしそうだとしたら、文字の翻訳機能をつけなかった神様には一言申し上げたい。
そんなことを考えていると、ずいっと俺の前にノートが差し出された。
「書き終わったか」
俺は微笑みながら、シャルの拙い文字に目を滑らせた。
書かれていたのは、意外と綺麗な部屋で驚いたとか、自分も狩りで稼いで頑張るとか、連れてきてくれてありがとうだとか、読んでいるだけで涙腺にくる内容が大半を占めていた。
子供に気を使わせるなんてまだまだだな、と猛省しつつ読み進めていくと、最後の一文にこんなことが書かれていた。
『バルドにはおっきいおふろ、あるってきいた。おふろにはいりたい!』
……風呂って俺が入れていいのか?
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これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
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魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
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