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2章
(24)鍵者
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レオハニーは多くを語らない。出生も明かさず、年齢も不明。噂ではバルド村の英雄カイゼルと共に戦った狩人の子孫だと言われているが、本人からの明言はない。
それどころか、エトロはレオハニーがなんの目的をもって、上位ドラゴンとの戦いに日々明け暮れているのかすら知らなかった。
自分を弟子にしてくれたのはなぜ?
リョーホをいきなり連れてきて、自分に任せたのはなぜ?
──エラムラにリョーホを連れて行き、ベアルドルフを誘き出せと言い出したのはなぜ?
聞いても答えてくれない。だからエトロはレオハニーに盲目的に従うことにした。レオハニーの機嫌を損ねることより、自分の本心に嘘をついた方が一番だと思ったから。
「なるほど。貴様はレオハニーにとって都合の良い傀儡だったか」
図星を突かれてエトロは狼狽した。だが、今の自分が隙だらけだと咄嗟に気づき、槍を構えてベアルドルフの攻撃に備えた。しかしベアルドルフは武器を構えてすらおらず、哀れみすら感じる隻眼でエトロを見下ろしていた。
「マガツヒを討伐した狩人に送られる、討滅者の証。これが何を意味するか、考えたことはないか」
ベアルドルフの手の中で、鎖の音を立てながら金色の証が垂れ下がる。討滅者の証は、偽物が作成されないよう、中央都市の職人たちが特別な手法で作り上げると聞いたことがある。証の中には討滅者の菌糸が織り込まれ、持ち主でないものがそれを所持すれば大の大人でも泣き叫ぶほどの痛みが走るという。
しかし、エトロはそれ以上のことを知らない。
討滅者の証は狩人の栄誉を誇るための道具であり、憧れの対象でしかない。
ベアルドルフは罅割れた指でつまむように証を持ち上げ、右目の眼帯を隠すようにエトロに見せつけた。
「これは機械仕掛けの世界への通行証。そして、世界の真実を知る鍵である」
「──ッ!」
「中央都市の最深部に、機械仕掛けの世界へと繋がる扉が隠されている。討滅者は王と謁見した後、須らく知識を授けられる。いかにしてドラゴンが誕生し、我々人類の体内に、菌糸が巣食うようになったのか!」
大きな掌で討滅者の証を握りしめながら、ベアルドルフは歯を食いしばり荒々しく息を吐く。
「機械仕掛けの世界はオレに語った。いずれ旧人類が放った白髪の乙女どもが、我ら人類に破滅をもたらさん。新生した大地には、旧人類が再び降臨するだろうとな。レオハニーは扉の先に破滅があるのを分かっていながら、なおも『鍵者』を用いてあの世界を求めているのだ!」
「……そのような世迷言を、私が信じると思ったのか」
エトロは口元に薄く笑みを引いたが、自分が想定していた以上に引き攣っているのを感じた。
初めてリョーホを見た時、彼の身体に菌糸がないのを見てエトロは恐怖した。
体内に菌糸を持たない人間は、ドラゴンの毒素によってあっという間にドラゴン化してしまうはず。なのにリョーホは何日経ってもドラゴン化の兆候がなかった。時々意味の分からない言葉を使うが、それ以外はエトロたちと何も変わらない人間だった。
それが、エトロには余計に恐ろしかった。
常識から外れた異質の存在が、気が付いたら当たり前のように日常に溶け込んでいる。その名状しがたい感覚を、恐怖と言わずしてなんとする。
なにより、一番エトロが引っかかっていたのはリョーホに対するレオハニーの態度だ。
エトロですら見たことのない、柔らかな赤い眼差し。
エトロだから分かってしまう。
あれは同郷の民に向ける親愛だ。
あの二人は、エトロが割り込む余地すらないほど、魂の奥底で深いつながりを持っているのだ。
「貴様も気づいているだろう。あの男こそレオハニーが長年探し求めていた『鍵者』だと」
ベアルドルフの言葉に、エトロの喉がますます干上がった。
ベアルドルフの血筋が持つ紫色の瞳は、魂すら見ることが出来るという。ならばこの男にはリョーホとレオハニーの魂の繋がりがはっきりと見えたことだろう。だからこそエトロは、ベアルドルフから語られる真実を聞きたくなかった。
エトロにとって、レオハニーは母親代わりで、居場所を与えてくれた恩人で、恩師でもあった。レオハニーが傍にいてくれなければ、エトロはとっくの昔に死んでしまった家族の後を追っていただろう。
そんなレオハニーが、エトロより優先すべき相手を見つけてしまった。エトロにはレオハニーしかいないのに、リョーホのせいで、『鍵者』のせいで見捨てられてしまいそうで。
でも、努力すればきっとレオハニーは自分を大事にしてくれる。レオハニーが望むものを自分で用意し続ければ、いつかは自分にも本当のことを話してくれるはず──。
「貴様がいくら努力しようとも、レオハニーは決して真実を口にしない」
「……っ黙れ」
「レオハニーが求めているのは貴様ではない。貴様はあいつに利用されているだけだ。貴様にエラムラに行けと命令しておきながら、復讐に手を貸さないのがその証拠だ」
「黙れ! 師匠はそんな人じゃない! 私は師匠を信じている!」
衝動的に叫ぶが、エトロの神経を逆なでするようにベアルドルフの哄笑が上塗りされた。
「一つ教えてやろう。貴様のそれは『信じる』ではない。信じるとは、疑いを持ち、それでもなお対等に背中を預けることだ。対して貴様は、ただ盲目的に付き従っているだけの弱者の思考だ」
エトロは息を吸ったまま、口を閉じることが出来なかった。反駁の意志がいくら腹の中で渦巻こうとも言葉にならない。
思考停止したエトロは、無意識に槍を取り落としていた。
敵前で棒立ちになったしっぺ返しはすぐに訪れた。
「かはっ……!」
鳩尾に深々とベアルドルフの拳がめり込み、内臓が横隔膜を押しつぶすようにせり上がる。エトロは口から透明な液体を吐きながら、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「自力で道を選べぬものが、復讐などと抜かすなよ」
呼吸困難になりながら霞む視界を持ち上げると、虫けらを見るような目がエトロに向けられていた。
たったひと睨みされただけで、エトロは鈍痛も忘れて身を竦ませた。殺意で高ぶっていた闘志が一瞬で鎮静化し、代わりに水底に顔を押し付けられているような哀哭がなだれ込んできた。
勝てない。今の自分では無理だ。持てる力すべてをつぎ込んでもベアルドルフの首に届かない。憎しみが足りなかったのか。努力が足りなかったのか。それとも、最初から才能がなかっただけなのか。
酸欠になった脳が徐々に思考速度を落としていき、エトロの握りしめた掌からも力が抜けていく。喉から出てくるのは、食い殺されるのを待つだけの獲物の吐息だけだ。
やがて視界からも血が抜けて色が消える。
ふと、エトロは黒ずんだ視界の中でハウラが立ち上がるのを見つけた。彼女の白髪はベアルドルフとの戦いのせいでざんばらに切られており、見るも無残な姿になっている。頬から流れた血が肩の衣服を濡らしており、巫女というより戦争中に捨てられた孤児のようだ。
ハウラはボロボロな自分の姿に構いもせず、絢爛たる佇まいでベアルドルフへ双眸を向けた。彼女はまだ諦めていない。出会ったときは泣き虫で、戦い方すら知らなかった箱入り娘が、震える足で戦い続けている。
対して自分の、この体たらくは。
「ま、だだ……」
エトロは腕を胸の下に引き戻して、肘を立てて上半身を持ち上げる。感覚の失せた足を無理やり曲げて腰を上げるが、立ち上がる寸前で膝がずり落ちた。
立てなくてもいい。エトロは腕を伸ばしてその場に座り、右の掌をベアルドルフへ向ける。
「……なんのつもりだ」
ベアルドルフはハウラにつま先を向けたまま、横目でエトロを冷徹に観察していた。獰猛に歪められた口は、これから何が起きるかを物見する気でいる。
馬鹿にしたいならすればいい。
エトロは両目を見開きながら、祈祷場に満ち溢れる冷気に全神経を集中させた。
冷気とエトロの青白い菌糸模様に反応し、夕日が落ちて色あせた祈祷場を仄かに煌めかせる。次いで、長い時間をかけてエトロがため込んだ冷気がベアルドルフの足元に集結し、一挙に牙を剥く。
「二度も友人を、殺させはしない……!」
喘鳴の混じった叫びが祈祷場に響き渡った瞬間、雷鳴じみた大音響を立てて無数の氷柱がベアルドルフに食らい付いた。
ついにベアルドルフの表情が驚愕に染まる。
氷柱はベアルドルフの四肢を噛み砕き、噴き出た血まで一瞬で凍らせる。最後にダメ押しとばかりに一際巨大な氷柱が打ち上げられ、ベアルドルフの胸を串刺しにした。
僅かな光で輝く氷柱と、その先端で浮かび上がったベアルドルフの姿は、凄惨の一言に尽きた。全身くまなく細かな氷針が貫通し、傷口から零れ落ちる血液が皮膚の外で赤い氷柱を形成している。ドラゴンに咀嚼されたような光景に、当事者ですら目を背けたくなる。
エトロは荒く息を吐くと、冷気の消えた床に頭から倒れ込んだ。菌糸を使いすぎたせいで貧血を起こし、長い眩暈のせいで意識が上下に震えているような錯覚に陥る。気を抜いてしまえば眠気に負けてしまいそうだ。
しかし、ここまでやってもベアルドルフは息をしていた。
「よもやここまでとは……だが!」
筋骨隆々とした四肢がぐっと撓んだがと思えば、太い氷柱の表面に罅が入り、やがてあっけなく砕け散った。
難なく氷柱から飛び降りたベアルドルフは、傷口に突き刺さったままの氷を指で弾きながら笑みを深めた。
あれほどの攻撃を食らえば、並大抵の人間は激痛でショック死する。そうでなくとも、胸に大穴を開けられているのだから呼吸すらできないはず。それをこの男は、血が凍るほどの冷気をものともせず、平然と歩いている。
「これでも……ダメなのか……!」
エトロは床に這いつくばりながら槍を握りなおそうと腕を動かす。だが指を曲げるのが精いっぱいで、もはや座ることすらできなかった。
また、戦えない。
こんなに弱いのであれば、レオハニーが自分に目をかけてくれないのも当たり前じゃないか。リョーホに嫉妬して一人で訓練を重ね、ドラゴンの討伐数を積み上げても何も変わらなかった。レオハニーからエラムラに向かう許しが出たから、もしかしたら勝てるかもしれないと驕っていたのだ。あまりにも間抜けすぎる。
諦念と、疲労の入り混じった思考を垂れ流していると、エトロの前に誰かが立った。苦労して顔を上げると、右側だけ歪に断ち切られた長い白髪が見えた。
「ハウラ……」
「エトロ、ここまでよく戦ってくれました」
毅然とした友の声に、エトロは何も返すことが出来なかった。来るはずの増援が来ない中で下されたハウラの言葉は、エトロにとって最後通告にも等しいものだった。
ハウラはエトロに僅かに微笑みかけた後、鋭い目つきで仇敵に向き直った。
一歩前に出て、ベアルドルフへ淡々と言葉を紡ぐ。
「本当に、お母様があなたを裏切ったのだとして……それが己の子を敵地に捨て置く理由にはなりません。あなたはこの十二年、たった一人の娘をこの戦争のために裏切り続けたのです」
エラムラの里がシャルを歓迎しなかったのは事実。
しかし、その原因を生み出したのはベアルドルフ自身。
本気で娘を大事に思っているのならば、せめてシャルだけでも連れてスキュリアに逃げるべきだった。そうしなかったのは他でもなく、ベアルドルフの責任である。
ハウラの言葉に対し、ベアルドルフは──目を見開いていた。
図星を突かれたからではない。
意味を理解できていないのだ。
ベアルドルフの紫色の瞳は、やがてじわじわと怒りに染まっていき、唇が激しく戦慄き始める。目の前に立っているのは、己の矜持を傷つけられた男ではない。純粋無垢に動物を殺す子供に怒り狂う大人の姿だった。
「小娘が。この戦争の意味をまだ履き違えているようだな」
一歩、近づくだけで大気が震える。凄まじい畏怖に恐れおののいた冷気が、辛うじて祈祷場に差し込んでいた夕日の赤と共に逃げ出してく。
ベアルドルフの全身は、菌糸の光でどす黒く染まり、人間とは思えぬ気配を漂わせていた。
「……この世の何よりも大事なものを犠牲にした、この意味が本気で解らぬのか。エラムラの巫女よ」
ハウラはベアルドルフの形相に圧倒され、言葉を失っていた。床に伏せたエトロでさえ震えるほどのプレッシャーを真っ向から浴びているのだから、ハウラにとっては気絶してもおかしくない迫力だろう。
それでも、ハウラはゆっくりと肺に酸素を巡らせて短く答えた。
「わたしはただ、あなたを殺したい」
深く、海に沈んでいくような声がすると、夕日が失せた祈祷場はついに漆黒に飲まれた。ベアルドルフを貫いたエトロの氷も闇に沈み、壁と床の境も全く見えなくなる。
「もう一度言いましょう。わたしとあなた、どちらかが死ぬまで安寧は訪れない」
りぃん、と鈴の音が響き渡ると、呼応するようにハウラの全身が月光のごとく光り出した。暗闇の中で唯一光を纏った彼女は壮麗で人間離れしており、今にも消えてしまいそうだった。
突然薄明の塔に激震が走った。梁から目に見えるほどに大量の埃が落ち、あちこちの柱から不吉に軋む音が鳴り響く。
数秒後、風が死んだ。まるで何かに隔絶されたかのような変化に、ベアルドルフは隻眼で闇の中を探る。
「……今度は何をする気だ」
「あなたを薄明の塔に封じ込めます。わたしが死んでしまえば、二度と薄明の塔は開かれることはない。エラムラの狩人たちならきっとこの塔がなくとも皆を守ってくれるはずです」
「貴様、最初から差し違えるつもりだったか……」
闇に溶けた輪郭の中でベアルドルフが低く言う。表情も仕草も見えず、鎧の隙間からにじみ出る毒々しい菌糸だけが、ベアルドルフの存在を証明していた。
「先ほどあなたは言いましたね。『信じる』とは、対等に背中を合わせることだと」
ハウラは淡雪色の菌糸を灯しながら、たおやかに笑った。
「これでわたしは里の皆と対等になれる。疑いあい、石を投げ合うのはもうおしまい。わたしは一足先にあちらへ行きます。あなたが餓死するのを、お母様と共に見守っていますわね」
さっと長い袖と共にハウラの両腕が左右に広がる。すると、徐々に薄明の塔の揺れが激しくなり、外側から壁が崩壊し始めた。何十年もの間、一度も止まることのなかった巨大な歯車が壁から押し出され、無数の破片と共に床を転がり、やがて壁と共に押しつぶされていく。
十二年、この時のために薄明の塔に溜め続けてきた『腐食』の力は、祈祷場に黒い檻を作りあげ、ベアルドルフもろとも世界から隔絶する。この檻はハウラの生命力を根こそぎ使い果たした後、永劫の時を過ごすだろう。ハウラと同じ血を持つ者でなければ、決して打ち破ることはできない。
本当なら増援に来たロッシュの部隊がベアルドルフを捕縛し、尋問するつもりだったが、彼は間に合わなかった。ベアルドルフの奇襲が成功した時点でこうなることは予感していたため、ハウラにはもう迷いはなかった。
「エトロ」
「……っ待って、ハウラ」
「わたしの分まで生きて。復讐に巻き込んでごめんなさい。来てくれてありがとう」
「待って。私はまだ……!」
エトロは爪で床を引っ掻くようにハウラに近づこうとした。だがハウラが腕を振るった瞬間、エトロがいる床の一角だけが四角く切られ、下の階へ落ちていく。エトロが完全に祈祷場より下へ落ちるや、黒い檻は厳重にその穴を塞いでしまった。
・・・───・・・
ハウラはエトロが外に避難できたことを何度も確認し、安全な場所で黒鬼を解いた。
ロッシュがスキュリアの狩人たちを殲滅してくれたおかげで、比較的早くエトロを避難させられた。この場に居合わせることが出来なくても、ロッシュは十分に里長としての役目を果たしてくれた。
祈祷場が『腐食』の壁で押し固められ、あちこちから壁がひしゃげる音がする。そのたびに、能力を酷使するハウラから命が削り取られていく。
ハウラは戦慄く様な深呼吸をした後、そっと赤い目をベアルドルフへ向けた。
「……意外です。あなたなら今の一瞬で逃げおおせることもできたでしょうに」
闇の中で僅かに動く気配がする。ベアルドルフはハウラにトドメを刺すわけでもなく、ただそこで胡坐をかいただけだった。
「そのような無粋な真似はすまい。貴様が死ぬのを見届けてから打ち破ってやろう」
「ふふ……本当に、あなたは十二年前と何も変わらない」
母を殺されて以来思い出すことのなかった穏やかな日々が、今になって昨日のことのように明瞭に思い出せる。
ベアルドルフがまだミカルラの下でその武勇を振るっていた頃、ハウラは二人の主従を間近で見てきた。巫女と護衛という異なる地位であっても、ベアルドルフとミカルラは優劣のない友人であり、相棒だった。時に冗談を交わし、時に背中を合わせ、里長の目を盗んで狩りに出かけて、いつも大声で笑っていた。
ハウラはベアルドルフが大好きだった。『腐食』の能力で苦しむハウラを抱きしめてくれたり、シャルが生まれた日も、わざわざハウラを腕に乗せながら「この子と仲良くしてやってくれ」と言ってくれた。
──そして、ハウラは今になってやっと自覚した。
母が死んだときにハウラが泣けなかったのは、ベアルドルフがミカルラを裏切るはずがないと信じていたからだ。
「……ねぇ、どうしてお母様を殺したの? あんなに慕っていたのに」
能力で命を削られ薄れゆく意識の中、ハウラは戦いで荒れ果てた床に座り込みながらベアルドルフへもう一度聞いた。数秒ほど間があって、懐かしい声が答えてくれた。
「慕っていたのは嘘ではない。だからこそ許せなかったのだ。あのお方が──」
光が差し込んだ。断絶されたはずの薄明の塔に、青白い光条が次々に差し込んでくる。さらに光は闇を押しのけるように広がっていき、ついに天井ごと『腐食』の壁を吹き飛ばした。
騒々しい音を立てて祈祷場が再び世界と繋がる。ハウラは呆然と一連の光景を目に焼き付けて、死にかけた脳でようやく理解した。
最悪のタイミングで、望まぬ増援が来てしまったのだと。
「私の楽しみを取らないで。ハウラ」
「お、ねえ……さま……」
ハウラと同じ血を持つ唯一の家族が、白髪をなびかせながら祈祷場へ舞い降りる。月光と星々が煌めく夜空は憎々しいほどに輝いていて、冷たく新鮮な風がハウラの気道に入り込んできた。
能力が消えていく。それと同時に、吹けば飛んでしまいそうな一滴の命がハウラの中から消えるのをやめた。徐々に正しい呼吸を取り戻してくハウラの頬を、ニヴィは愛おし気に撫でながら優しく微笑んだ。
「復讐は一瞬で終わらせてはいけないのよ。すべてを巻き込んで、もっとたくさんの人と一緒に地獄に落とすの。そうすればきっと、お母様も寂しくはないでしょう?」
そう言って笑うニヴィの腕の中には、固く目を閉ざしたシャルが抱えられていた。
それどころか、エトロはレオハニーがなんの目的をもって、上位ドラゴンとの戦いに日々明け暮れているのかすら知らなかった。
自分を弟子にしてくれたのはなぜ?
リョーホをいきなり連れてきて、自分に任せたのはなぜ?
──エラムラにリョーホを連れて行き、ベアルドルフを誘き出せと言い出したのはなぜ?
聞いても答えてくれない。だからエトロはレオハニーに盲目的に従うことにした。レオハニーの機嫌を損ねることより、自分の本心に嘘をついた方が一番だと思ったから。
「なるほど。貴様はレオハニーにとって都合の良い傀儡だったか」
図星を突かれてエトロは狼狽した。だが、今の自分が隙だらけだと咄嗟に気づき、槍を構えてベアルドルフの攻撃に備えた。しかしベアルドルフは武器を構えてすらおらず、哀れみすら感じる隻眼でエトロを見下ろしていた。
「マガツヒを討伐した狩人に送られる、討滅者の証。これが何を意味するか、考えたことはないか」
ベアルドルフの手の中で、鎖の音を立てながら金色の証が垂れ下がる。討滅者の証は、偽物が作成されないよう、中央都市の職人たちが特別な手法で作り上げると聞いたことがある。証の中には討滅者の菌糸が織り込まれ、持ち主でないものがそれを所持すれば大の大人でも泣き叫ぶほどの痛みが走るという。
しかし、エトロはそれ以上のことを知らない。
討滅者の証は狩人の栄誉を誇るための道具であり、憧れの対象でしかない。
ベアルドルフは罅割れた指でつまむように証を持ち上げ、右目の眼帯を隠すようにエトロに見せつけた。
「これは機械仕掛けの世界への通行証。そして、世界の真実を知る鍵である」
「──ッ!」
「中央都市の最深部に、機械仕掛けの世界へと繋がる扉が隠されている。討滅者は王と謁見した後、須らく知識を授けられる。いかにしてドラゴンが誕生し、我々人類の体内に、菌糸が巣食うようになったのか!」
大きな掌で討滅者の証を握りしめながら、ベアルドルフは歯を食いしばり荒々しく息を吐く。
「機械仕掛けの世界はオレに語った。いずれ旧人類が放った白髪の乙女どもが、我ら人類に破滅をもたらさん。新生した大地には、旧人類が再び降臨するだろうとな。レオハニーは扉の先に破滅があるのを分かっていながら、なおも『鍵者』を用いてあの世界を求めているのだ!」
「……そのような世迷言を、私が信じると思ったのか」
エトロは口元に薄く笑みを引いたが、自分が想定していた以上に引き攣っているのを感じた。
初めてリョーホを見た時、彼の身体に菌糸がないのを見てエトロは恐怖した。
体内に菌糸を持たない人間は、ドラゴンの毒素によってあっという間にドラゴン化してしまうはず。なのにリョーホは何日経ってもドラゴン化の兆候がなかった。時々意味の分からない言葉を使うが、それ以外はエトロたちと何も変わらない人間だった。
それが、エトロには余計に恐ろしかった。
常識から外れた異質の存在が、気が付いたら当たり前のように日常に溶け込んでいる。その名状しがたい感覚を、恐怖と言わずしてなんとする。
なにより、一番エトロが引っかかっていたのはリョーホに対するレオハニーの態度だ。
エトロですら見たことのない、柔らかな赤い眼差し。
エトロだから分かってしまう。
あれは同郷の民に向ける親愛だ。
あの二人は、エトロが割り込む余地すらないほど、魂の奥底で深いつながりを持っているのだ。
「貴様も気づいているだろう。あの男こそレオハニーが長年探し求めていた『鍵者』だと」
ベアルドルフの言葉に、エトロの喉がますます干上がった。
ベアルドルフの血筋が持つ紫色の瞳は、魂すら見ることが出来るという。ならばこの男にはリョーホとレオハニーの魂の繋がりがはっきりと見えたことだろう。だからこそエトロは、ベアルドルフから語られる真実を聞きたくなかった。
エトロにとって、レオハニーは母親代わりで、居場所を与えてくれた恩人で、恩師でもあった。レオハニーが傍にいてくれなければ、エトロはとっくの昔に死んでしまった家族の後を追っていただろう。
そんなレオハニーが、エトロより優先すべき相手を見つけてしまった。エトロにはレオハニーしかいないのに、リョーホのせいで、『鍵者』のせいで見捨てられてしまいそうで。
でも、努力すればきっとレオハニーは自分を大事にしてくれる。レオハニーが望むものを自分で用意し続ければ、いつかは自分にも本当のことを話してくれるはず──。
「貴様がいくら努力しようとも、レオハニーは決して真実を口にしない」
「……っ黙れ」
「レオハニーが求めているのは貴様ではない。貴様はあいつに利用されているだけだ。貴様にエラムラに行けと命令しておきながら、復讐に手を貸さないのがその証拠だ」
「黙れ! 師匠はそんな人じゃない! 私は師匠を信じている!」
衝動的に叫ぶが、エトロの神経を逆なでするようにベアルドルフの哄笑が上塗りされた。
「一つ教えてやろう。貴様のそれは『信じる』ではない。信じるとは、疑いを持ち、それでもなお対等に背中を預けることだ。対して貴様は、ただ盲目的に付き従っているだけの弱者の思考だ」
エトロは息を吸ったまま、口を閉じることが出来なかった。反駁の意志がいくら腹の中で渦巻こうとも言葉にならない。
思考停止したエトロは、無意識に槍を取り落としていた。
敵前で棒立ちになったしっぺ返しはすぐに訪れた。
「かはっ……!」
鳩尾に深々とベアルドルフの拳がめり込み、内臓が横隔膜を押しつぶすようにせり上がる。エトロは口から透明な液体を吐きながら、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「自力で道を選べぬものが、復讐などと抜かすなよ」
呼吸困難になりながら霞む視界を持ち上げると、虫けらを見るような目がエトロに向けられていた。
たったひと睨みされただけで、エトロは鈍痛も忘れて身を竦ませた。殺意で高ぶっていた闘志が一瞬で鎮静化し、代わりに水底に顔を押し付けられているような哀哭がなだれ込んできた。
勝てない。今の自分では無理だ。持てる力すべてをつぎ込んでもベアルドルフの首に届かない。憎しみが足りなかったのか。努力が足りなかったのか。それとも、最初から才能がなかっただけなのか。
酸欠になった脳が徐々に思考速度を落としていき、エトロの握りしめた掌からも力が抜けていく。喉から出てくるのは、食い殺されるのを待つだけの獲物の吐息だけだ。
やがて視界からも血が抜けて色が消える。
ふと、エトロは黒ずんだ視界の中でハウラが立ち上がるのを見つけた。彼女の白髪はベアルドルフとの戦いのせいでざんばらに切られており、見るも無残な姿になっている。頬から流れた血が肩の衣服を濡らしており、巫女というより戦争中に捨てられた孤児のようだ。
ハウラはボロボロな自分の姿に構いもせず、絢爛たる佇まいでベアルドルフへ双眸を向けた。彼女はまだ諦めていない。出会ったときは泣き虫で、戦い方すら知らなかった箱入り娘が、震える足で戦い続けている。
対して自分の、この体たらくは。
「ま、だだ……」
エトロは腕を胸の下に引き戻して、肘を立てて上半身を持ち上げる。感覚の失せた足を無理やり曲げて腰を上げるが、立ち上がる寸前で膝がずり落ちた。
立てなくてもいい。エトロは腕を伸ばしてその場に座り、右の掌をベアルドルフへ向ける。
「……なんのつもりだ」
ベアルドルフはハウラにつま先を向けたまま、横目でエトロを冷徹に観察していた。獰猛に歪められた口は、これから何が起きるかを物見する気でいる。
馬鹿にしたいならすればいい。
エトロは両目を見開きながら、祈祷場に満ち溢れる冷気に全神経を集中させた。
冷気とエトロの青白い菌糸模様に反応し、夕日が落ちて色あせた祈祷場を仄かに煌めかせる。次いで、長い時間をかけてエトロがため込んだ冷気がベアルドルフの足元に集結し、一挙に牙を剥く。
「二度も友人を、殺させはしない……!」
喘鳴の混じった叫びが祈祷場に響き渡った瞬間、雷鳴じみた大音響を立てて無数の氷柱がベアルドルフに食らい付いた。
ついにベアルドルフの表情が驚愕に染まる。
氷柱はベアルドルフの四肢を噛み砕き、噴き出た血まで一瞬で凍らせる。最後にダメ押しとばかりに一際巨大な氷柱が打ち上げられ、ベアルドルフの胸を串刺しにした。
僅かな光で輝く氷柱と、その先端で浮かび上がったベアルドルフの姿は、凄惨の一言に尽きた。全身くまなく細かな氷針が貫通し、傷口から零れ落ちる血液が皮膚の外で赤い氷柱を形成している。ドラゴンに咀嚼されたような光景に、当事者ですら目を背けたくなる。
エトロは荒く息を吐くと、冷気の消えた床に頭から倒れ込んだ。菌糸を使いすぎたせいで貧血を起こし、長い眩暈のせいで意識が上下に震えているような錯覚に陥る。気を抜いてしまえば眠気に負けてしまいそうだ。
しかし、ここまでやってもベアルドルフは息をしていた。
「よもやここまでとは……だが!」
筋骨隆々とした四肢がぐっと撓んだがと思えば、太い氷柱の表面に罅が入り、やがてあっけなく砕け散った。
難なく氷柱から飛び降りたベアルドルフは、傷口に突き刺さったままの氷を指で弾きながら笑みを深めた。
あれほどの攻撃を食らえば、並大抵の人間は激痛でショック死する。そうでなくとも、胸に大穴を開けられているのだから呼吸すらできないはず。それをこの男は、血が凍るほどの冷気をものともせず、平然と歩いている。
「これでも……ダメなのか……!」
エトロは床に這いつくばりながら槍を握りなおそうと腕を動かす。だが指を曲げるのが精いっぱいで、もはや座ることすらできなかった。
また、戦えない。
こんなに弱いのであれば、レオハニーが自分に目をかけてくれないのも当たり前じゃないか。リョーホに嫉妬して一人で訓練を重ね、ドラゴンの討伐数を積み上げても何も変わらなかった。レオハニーからエラムラに向かう許しが出たから、もしかしたら勝てるかもしれないと驕っていたのだ。あまりにも間抜けすぎる。
諦念と、疲労の入り混じった思考を垂れ流していると、エトロの前に誰かが立った。苦労して顔を上げると、右側だけ歪に断ち切られた長い白髪が見えた。
「ハウラ……」
「エトロ、ここまでよく戦ってくれました」
毅然とした友の声に、エトロは何も返すことが出来なかった。来るはずの増援が来ない中で下されたハウラの言葉は、エトロにとって最後通告にも等しいものだった。
ハウラはエトロに僅かに微笑みかけた後、鋭い目つきで仇敵に向き直った。
一歩前に出て、ベアルドルフへ淡々と言葉を紡ぐ。
「本当に、お母様があなたを裏切ったのだとして……それが己の子を敵地に捨て置く理由にはなりません。あなたはこの十二年、たった一人の娘をこの戦争のために裏切り続けたのです」
エラムラの里がシャルを歓迎しなかったのは事実。
しかし、その原因を生み出したのはベアルドルフ自身。
本気で娘を大事に思っているのならば、せめてシャルだけでも連れてスキュリアに逃げるべきだった。そうしなかったのは他でもなく、ベアルドルフの責任である。
ハウラの言葉に対し、ベアルドルフは──目を見開いていた。
図星を突かれたからではない。
意味を理解できていないのだ。
ベアルドルフの紫色の瞳は、やがてじわじわと怒りに染まっていき、唇が激しく戦慄き始める。目の前に立っているのは、己の矜持を傷つけられた男ではない。純粋無垢に動物を殺す子供に怒り狂う大人の姿だった。
「小娘が。この戦争の意味をまだ履き違えているようだな」
一歩、近づくだけで大気が震える。凄まじい畏怖に恐れおののいた冷気が、辛うじて祈祷場に差し込んでいた夕日の赤と共に逃げ出してく。
ベアルドルフの全身は、菌糸の光でどす黒く染まり、人間とは思えぬ気配を漂わせていた。
「……この世の何よりも大事なものを犠牲にした、この意味が本気で解らぬのか。エラムラの巫女よ」
ハウラはベアルドルフの形相に圧倒され、言葉を失っていた。床に伏せたエトロでさえ震えるほどのプレッシャーを真っ向から浴びているのだから、ハウラにとっては気絶してもおかしくない迫力だろう。
それでも、ハウラはゆっくりと肺に酸素を巡らせて短く答えた。
「わたしはただ、あなたを殺したい」
深く、海に沈んでいくような声がすると、夕日が失せた祈祷場はついに漆黒に飲まれた。ベアルドルフを貫いたエトロの氷も闇に沈み、壁と床の境も全く見えなくなる。
「もう一度言いましょう。わたしとあなた、どちらかが死ぬまで安寧は訪れない」
りぃん、と鈴の音が響き渡ると、呼応するようにハウラの全身が月光のごとく光り出した。暗闇の中で唯一光を纏った彼女は壮麗で人間離れしており、今にも消えてしまいそうだった。
突然薄明の塔に激震が走った。梁から目に見えるほどに大量の埃が落ち、あちこちの柱から不吉に軋む音が鳴り響く。
数秒後、風が死んだ。まるで何かに隔絶されたかのような変化に、ベアルドルフは隻眼で闇の中を探る。
「……今度は何をする気だ」
「あなたを薄明の塔に封じ込めます。わたしが死んでしまえば、二度と薄明の塔は開かれることはない。エラムラの狩人たちならきっとこの塔がなくとも皆を守ってくれるはずです」
「貴様、最初から差し違えるつもりだったか……」
闇に溶けた輪郭の中でベアルドルフが低く言う。表情も仕草も見えず、鎧の隙間からにじみ出る毒々しい菌糸だけが、ベアルドルフの存在を証明していた。
「先ほどあなたは言いましたね。『信じる』とは、対等に背中を合わせることだと」
ハウラは淡雪色の菌糸を灯しながら、たおやかに笑った。
「これでわたしは里の皆と対等になれる。疑いあい、石を投げ合うのはもうおしまい。わたしは一足先にあちらへ行きます。あなたが餓死するのを、お母様と共に見守っていますわね」
さっと長い袖と共にハウラの両腕が左右に広がる。すると、徐々に薄明の塔の揺れが激しくなり、外側から壁が崩壊し始めた。何十年もの間、一度も止まることのなかった巨大な歯車が壁から押し出され、無数の破片と共に床を転がり、やがて壁と共に押しつぶされていく。
十二年、この時のために薄明の塔に溜め続けてきた『腐食』の力は、祈祷場に黒い檻を作りあげ、ベアルドルフもろとも世界から隔絶する。この檻はハウラの生命力を根こそぎ使い果たした後、永劫の時を過ごすだろう。ハウラと同じ血を持つ者でなければ、決して打ち破ることはできない。
本当なら増援に来たロッシュの部隊がベアルドルフを捕縛し、尋問するつもりだったが、彼は間に合わなかった。ベアルドルフの奇襲が成功した時点でこうなることは予感していたため、ハウラにはもう迷いはなかった。
「エトロ」
「……っ待って、ハウラ」
「わたしの分まで生きて。復讐に巻き込んでごめんなさい。来てくれてありがとう」
「待って。私はまだ……!」
エトロは爪で床を引っ掻くようにハウラに近づこうとした。だがハウラが腕を振るった瞬間、エトロがいる床の一角だけが四角く切られ、下の階へ落ちていく。エトロが完全に祈祷場より下へ落ちるや、黒い檻は厳重にその穴を塞いでしまった。
・・・───・・・
ハウラはエトロが外に避難できたことを何度も確認し、安全な場所で黒鬼を解いた。
ロッシュがスキュリアの狩人たちを殲滅してくれたおかげで、比較的早くエトロを避難させられた。この場に居合わせることが出来なくても、ロッシュは十分に里長としての役目を果たしてくれた。
祈祷場が『腐食』の壁で押し固められ、あちこちから壁がひしゃげる音がする。そのたびに、能力を酷使するハウラから命が削り取られていく。
ハウラは戦慄く様な深呼吸をした後、そっと赤い目をベアルドルフへ向けた。
「……意外です。あなたなら今の一瞬で逃げおおせることもできたでしょうに」
闇の中で僅かに動く気配がする。ベアルドルフはハウラにトドメを刺すわけでもなく、ただそこで胡坐をかいただけだった。
「そのような無粋な真似はすまい。貴様が死ぬのを見届けてから打ち破ってやろう」
「ふふ……本当に、あなたは十二年前と何も変わらない」
母を殺されて以来思い出すことのなかった穏やかな日々が、今になって昨日のことのように明瞭に思い出せる。
ベアルドルフがまだミカルラの下でその武勇を振るっていた頃、ハウラは二人の主従を間近で見てきた。巫女と護衛という異なる地位であっても、ベアルドルフとミカルラは優劣のない友人であり、相棒だった。時に冗談を交わし、時に背中を合わせ、里長の目を盗んで狩りに出かけて、いつも大声で笑っていた。
ハウラはベアルドルフが大好きだった。『腐食』の能力で苦しむハウラを抱きしめてくれたり、シャルが生まれた日も、わざわざハウラを腕に乗せながら「この子と仲良くしてやってくれ」と言ってくれた。
──そして、ハウラは今になってやっと自覚した。
母が死んだときにハウラが泣けなかったのは、ベアルドルフがミカルラを裏切るはずがないと信じていたからだ。
「……ねぇ、どうしてお母様を殺したの? あんなに慕っていたのに」
能力で命を削られ薄れゆく意識の中、ハウラは戦いで荒れ果てた床に座り込みながらベアルドルフへもう一度聞いた。数秒ほど間があって、懐かしい声が答えてくれた。
「慕っていたのは嘘ではない。だからこそ許せなかったのだ。あのお方が──」
光が差し込んだ。断絶されたはずの薄明の塔に、青白い光条が次々に差し込んでくる。さらに光は闇を押しのけるように広がっていき、ついに天井ごと『腐食』の壁を吹き飛ばした。
騒々しい音を立てて祈祷場が再び世界と繋がる。ハウラは呆然と一連の光景を目に焼き付けて、死にかけた脳でようやく理解した。
最悪のタイミングで、望まぬ増援が来てしまったのだと。
「私の楽しみを取らないで。ハウラ」
「お、ねえ……さま……」
ハウラと同じ血を持つ唯一の家族が、白髪をなびかせながら祈祷場へ舞い降りる。月光と星々が煌めく夜空は憎々しいほどに輝いていて、冷たく新鮮な風がハウラの気道に入り込んできた。
能力が消えていく。それと同時に、吹けば飛んでしまいそうな一滴の命がハウラの中から消えるのをやめた。徐々に正しい呼吸を取り戻してくハウラの頬を、ニヴィは愛おし気に撫でながら優しく微笑んだ。
「復讐は一瞬で終わらせてはいけないのよ。すべてを巻き込んで、もっとたくさんの人と一緒に地獄に落とすの。そうすればきっと、お母様も寂しくはないでしょう?」
そう言って笑うニヴィの腕の中には、固く目を閉ざしたシャルが抱えられていた。
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