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2章
ある少女の過去 2
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黒髪の少女はノーニャと名乗った。
彼女はエラムラの里で守護狩人になるべく狩人育成学校に通っているらしい。
学校に通う採集狩人は、六人チームで野外活動をするのが決まりだった。
だが、ノーニャのチームメイトはみな先日の襲撃で死んでしまったので、急遽別のチームに編入されることになった。
ノーニャは新しいチームメイトとは上手くいっていないらしい。学校の課外授業が終わった後、ノーニャはよくシャルの家に遊びに来ては世間話をしながら愚痴を吐いていた。そのおかげで、シャルは里の内情をある程度知ることができたし、以前より遥かに言葉を使うのが上手くなった。
「ねーねー、学校でお菓子作り教わってきたんだ。シャルも一緒に食べよう」
「おかし?」
「甘くておいしいんだよ! 家で練習してきたから作ってあげるし!」
ノーニャはしししっと歯の隙間から息を出すような笑い方をして、勝手知ったる表情でキッチンに入っていった。
ダウバリフもノーニャの滞在を認めてくれているので、彼女も家の中のものを自由に使っていいことになっている。それでもノーニャが勝手に倉庫に入って材料を探し始めた時はヒヤッとした。
「の、ノーニャ……勝手に入ったら怒られるし……」
「大丈夫だよシャル! 何か言われても私が何とかしてあげる!」
向日葵のような笑顔でノーニャは断言すると、鼻歌を歌いながら倉庫の棚に手を伸ばした。探しているのはお菓子作りに必要な野鳥の卵らしい。
シャルがドラゴンを狩ってくる代わりに、日用品はすべてダウバリフの役目だ。そのため、ダウバリフが収集したものがどの棚に収められているのかはシャルも知らなかった。
がさごそと豪快に棚の中を探し回るノーニャは楽しそうだ。
今なら怒られないかも、とほんの少し緊張しながら、シャルは常々思っていた疑問を口にしてみることにした。
「ねー、ノーニャ……シャルは、みんなから逃げられる。ノーニャは、なんで逃げないの?」
ノーニャの手が止まった。
ひっとシャルが息を詰めると、ノーニャはこちらを振り返って微笑んだ。
そこには腹立たしさや不快感といったものが少しも混ざっていない。
笑っているはずなのに、なぜか悲しそうに見えた。
「シャルは知らなくていいんだよ」
「でも……シャルも、みんなとしゃべりたい。里で普通に歩いてみたい。学校、行ってみたい」
里の学校は遠目から見たことがあるだけで、中身を実際に見たことはない。
だがノーニャから聞き出したおかげで、教室の中がどんな風になっているかは知っているつもりだ。テーブルがたくさん並んでいてみんなで好きな場所に座り、一番前にある黒板の文字を見て勉強をする。勉強というのが良く分からないが、同い年の子供が集まっているというだけでシャルは十分に興味を惹かれていた。
でも、シャルは里の人間に年齢に関係なく避けられている。
いきなり学校に入れてほしいと言っても、簡単には受け入れてもらえないだろう。だから自分でも鬼門ともいえる嫌われている理由を聞いてみたのだが、ノーニャは曖昧に微笑んで誤魔化した。
「シャルが嫌われてるのは、シャルのせいじゃないし。だから知らない方が幸せだよ」
「シャルは知りたいの!」
ここで引き下がったら二度と知る機会がなくなる気がして、自然とシャルの声は大きくなった。
「ダウ爺に聞いても怒られるし、里の人は話かけても逃げるから、聞けるのノーニャだけ。ノーニャしか頼れない」
たどたどしく思いを伝えると、ノーニャは痛そうに眉を顰めて、そのあと照れくさそうに笑った。
「その言い方ずるいし」
「ノーニャのじょーとー句。シャルにしか頼めないと一緒」
「もー、生意気!」
ノーニャは棚に入れていた手を引っ込めて、シャルを手招きして近くの木箱に座らせた。その隣にノーニャは座り、互いに肩をくっつけ合うように寄りかかった。
「シャルはお父さんのこと知ってる?」
「知らない。会ったことない」
そっか、とノーニャは薄い反応をして、ぶらぶらと木箱の上で両足を揺らした。
横顔をこっそり覗き見ると、難しそうな顔で考え込んでいるのが見える。また困らせてしまっただろうかと不安に思い、つい話しかけたくなる。だがシャルは手を握りしめて自制し、彼女が話し始めるのを大人しく待った。
数秒ほど沈黙した後、ノーニャは躊躇いがちに話し始めた。
「アンタのお父さんはね……先代の巫女様を殺しちゃったの」
「ん……ドラゴンじゃないのに?」
「そうなの。人は人を殺しちゃいけないってシャルも知ってるよね」
「うん」
ドラゴンを初めて殺した時に、ダウバリフからしつこく教わった。少し前までなぜそんな決まりがあるのかと首をかしげていたが、ノーニャとこうして楽しい時間を過ごしていれば、確信をもってダメなことだと言える。
シャルが甘えるようにノーニャの肩に頭を乗せると、肉刺の少ない掌が前髪の辺りを撫でてくれた。ノーニャはむずがゆそうに笑った後、ゆっくりと話を続けた。
「巫女様はエラムラの里で一番偉くて、みんなを守ってくれるすごい人だったの。たった一人しかいない、みんなの大事な人だったんだよ」
「……すごい人、死んだらダメなのに、お父さんが殺したの?」
「うん」
「じゃあ、シャルが嫌われてるの、お父さんの子供だから?」
「うん……」
いつの間にかノーニャの足は止まっていた。
触れ合っていた肩が離れていき、シャルは不安になって彼女の手を取った。
「みんな知ってたのに、シャルは知らない。なんで教えてくれない? 家族って大事な人だし、でも秘密あるの?」
「……うん。ごめん……ごめんね、シャル」
「なんでノーニャがごめん?」
「謝らないと気が済まないの。シャルは何も知らないし、いい子なのに」
「ノーニャ? 泣かないで……」
「シャル……ごめんね。大好きだよ」
ノーニャは震える声でそう言いながら、あの日と同じようにシャルを抱きしめた。
言葉を理解したおかげで、シャルは以前より物事を区分けできるようになった。そのため、自分が里の人間から避けられているのは、ダウバリフに叱られて倉庫に閉じ込められるのと同じことだと理解できている。
シャルは必死にダウバリフに謝って、出してほしいと懇願して、疲れ果ててやっと暗い倉の中から解放される。
里の人に許してもらうためには、同じように謝らないといけない。父親が犯してしまった罪を代わりに償わないといけない。
「ノーニャ。シャルは、みんなに謝りたい。どうしたら、許してもらえる?」
「……ごめん。私も分からないよ」
「そっか……」
二人の会話はそれっきり途絶え、暗い倉に差し込む日差しが淡々と足元を照らすだけとなった。
教えた通りにやらなければ間違えてしまう。間違えてしまったら、酷い仕打ちが待っている。シャルが冷たい石造りの家で学んだことを守るためには、誰かに教えてもらわなければいけない。
でも、どうやって、誰から教わればいい?
ダウバリフはきっと怒鳴るだけで何も教えてはくれない。
ノーニャにも分からないのだったら、別の大人を頼るしかない。
こんな時に父親がいればいいのに。
シャルは泣いて震えるノーニャを抱きしめ返しながら、自分の目元をそっと撫でた。父にそっくりだと言われる紫色の瞳は、やはり何も答えてはくれなかった。
シャルが真実を知ってから、一年の歳月が流れた。
良く晴れた冬の日に、ノーニャはシャルの家に遊びに来て早々、白い息を吐きながら誘い文句を口にした。
「ねーシャル、次の採集手伝って! シャルにしか頼めないし!」
「でた、じょーとー句! 暇だから付き合ってあげるし!」
もはや二人にとってお馴染みのやり取りを繰り返しながら、二人は暖かなコートに身を包んで外に飛び出した。
相変わらずノーニャとチームメイトは上手くいっていない。
それどころか、以前よりも険悪になっているらしい。
原因はノーニャがほぼ毎日のようにシャルの家に遊びに行っているからだ。ただ、シャルがあれこれと採集技術を教えているおかげで、ノーニャの成績は学校でトップクラスだという。一度だけ彼女の両親と会ったことがあるが、こっそりとクッキーをプレゼントして、娘と仲良くしてくれてありがとうと言ってくれた。
甘いお菓子をくれるノーニャと両親が、シャルは大好きだった。
味気のない野菜と肉を煮込んだだけの料理しか食べてこなかったので、ノーニャが持ってくる家庭の味はシャルの密やかな楽しみだった。
ノーニャの任務を手伝うのもシャルは好きだった。
一人で黙々とドラゴンを殺して家に持って帰るだけの作業より、風にそよぐ草花や色とりどりの岩石と戯れる方が心が浮き立つ。隣でノーニャと笑いながら馬鹿な話をするときが、一番生きている気分になった。
「今日はどこ行くの、ノーニャ」
「東のプロヘナ平原! ユピテルの湿地が近いからちょっと危ないし、護衛してもらいたくて!」
「ごえーならオレのおまかせだし!」
胸をぺしっと叩きながら笑みを浮かべると、ノーニャはジト目になって大きく首を傾げた。
「シャル、そのオレって気に入ったの?」
「うん。黒鬼がオレっていつも言ってるし、なんかかっこいい!」
「えー? シャルはシャルでいいと思うし」
「でもシャルはかっこいいがいいし!? あれ、オレがシャルはかっこいい? うん?」
「オレのほうがかっこいい、でいいんだよ」
「うん! オレのほうが、かっこいい!」
ノーニャと手をつなぎながら家を出て、色味の薄い寒空の下を歩く。
高所に家があるせいで強い北風が身体を冷やしてくるが、もこもこの長いコートを着た二人は鼻先が赤くなっても平気だった。つないだ手はあったかくて、段差を越えるときにどうしても両手を開けなければいけない時以外は、ずっとくっついたままだった。
岩ばかりの荒れた山道から北東に向かうと、遠くに霞むユピテルの湿地が見えてくる。その手前には青い絵の具を敷き詰めたような真っ青な世界が広がっていた。
プロヘナ平原に生息する樹木は、寒ければ寒いほどその葉の色を青くし、逆に夏になると燃え上がるような赤に染まる。ヨルドの里にある海とよく似た深い青が、草原と低木すべての葉を染め上げてさわさわ風に揺れていた。
「今日は結構寒いんだね」
「ノーニャがいればへーき、でしょ?」
「もー、すぐそんなこと言うし……」
ノーニャは鼻だけでなく頬も赤くしながら、シャルを引っ張るように大股で平原の中へ進み出た。膝丈に迫る背の高い草が、長靴と擦れ合うたびに淡く光を纏い出した。
草が光を放つのは、葉の変色を司る菌糸が異種の菌糸に反応しているからだ、とノーニャ経由で先生から聞いた。光ることで何を生み出しているのかはまだ分かっていないらしい。
「あれ……ねえシャル、あっちに誰かいるよ?」
「んー?」
触れては光る平原で歩きながら遊んでいると、ノーニャの白い指先が遠くを指し示した。
顔を上げて観察してみると、白く長い髪を風に遊ばせている女性がぽつんと立っていた。服装はこのあたりで見かけるような袖の広いものではなく、エラムラに訪れる狩人たちのような筒袖のものだ。内側には薄い鎧のようなスーツを着込んでおり、無機質な印象を持たせた。
「余所の狩人かな?」
「声掛けてみる?」
こそこそと会話をしていると、白い女性がこちらに気づいてゆっくりと歩み寄ってきた。
シャルはぴゃっと飛び跳ねながらノーニャの後ろに隠れる。
逆にノーニャは笑顔で女性に挨拶した。
「こんにちは! 狩りの途中ですか?」
女性は美しい顔に笑みを浮かべるだけで何も答えない。
みるみる距離が縮まっていくのを見守っているうちに、シャルはふと違和感に気づいた。
「ね、ねえノーニャ。なんであの人の足元、光らないの?」
「あれ?」
プロヘナ平原に入った生き物は、必ず草木を光らせてしまう。
なのに女性が歩いた道は全く光っていなかった。
平原の植物が唯一反応しないのは、菌糸のない石や機械といった無機物だけだ。
「ゆ、幽霊?」
「逃げた方がいいんじゃない?」
互いに手を強く握りながら後ずさると、ようやく女性は足を止めた。
距離は大体十メートル。
シャルが『重力操作』を使ってノーニャを抱えて逃げれば、追いつかれる前にすぐに離脱できる。
「その紫色の目、ベアルドルフの娘かしら」
高く澄み渡った、優しい声だった。
シャルは僅かに警戒を緩めながら小さく頷いた。
「父の、知り合い?」
「ええ。死んでも忘れられない人なの。ずっと貴方に会いたかったわ」
「シャルに……? なんで?」
「シャル! 走って!」
いきなりノーニャに腕を引っ張られ身体の向きが変わった。
遅れて足を動かして、ノーニャの重みを菌糸能力で消しながら抱え上げる。
次いで自身にも能力を発動し、跳躍。
耳元で風が唸り、視界が一気に高い場所へと昇っていく。
腕の中に納まったノーニャの顔を見下ろすと、彼女は真っ青になってシャルのコートにしがみついていた。
「だめだよ、シャルは殺させない。関係ないの! 放っておいてよ!」
「ノーニャ? ノーニャ!?」
錯乱状態に陥った彼女を揺するが、何度呼びかけても帰ってこない。
シャルは近づいてきた地面へ向き直り、二度目の跳躍をしようとした。
だがシャルの着地地点には、なぜかあの白い女性が立っていた。
すれ違いざまに女性の手が伸びる。
血の気を感じぬ指先がシャルに触れる寸前、その手をノーニャが叩き落とした。
女性は無感情にノーニャを一瞥した後、紫色の唇に薄く笑みを浮かべた。
「──残念」
そんなつぶやきがシャルの鼓膜を揺らし、意識の中に深々と杭を打った。
決定的な何かを取り落としてしまったような嫌な予感が脊髄を駆け巡った瞬間。
がくん、と腕の中の重みが一気に増す。
シャルは歯を食いしばりながらノーニャを落とさないように抱え直し、急いで背後を振り返った。
白い女性は跡形もなくその場から消え失せていた。
代わりに晴れていた青空には暗雲が立ち込め、不気味な渦を描いてプロヘナ平原の中央へと降りてきていた。
竜巻の前兆だ。
「ノーニャ、依頼は諦めよう! また明日だよ!」
巨大な竜巻から逃れるべく、シャルはエラムラの里へと走る。だが途中でノーニャから全く返事がないことに気づいて、また視線を彼女の顔へ向けた。
「……ノーニャ?」
顔が、白くなっていた。
頬にうっすらと見えていたノーニャの菌糸模様が黒ずんで、全く瞬いていない。唇も乾燥して皺だらけになり、閉じられた瞼が落ちくぼんでいる。慌てて手で頬に触れてみると、死体の温度がそこにあった。
「ノーニャ!? どうしたの!? 返事して!」
シャルはパニックになりながらノーニャを強く抱きしめ、自分に掛かる負担を無視して全力で菌糸能力を解放した。自分の重力をなくし、エラムラの里で触れたことのある木に重力の起点を作る。
シャルはエラムラに続く山道の一番上まで登り切ると、一気に里の中の木まで落下した。
起点を作った木の周りでは、いきなり椅子が浮かんだり落ち葉が渦巻いたりして騒ぎになっていた。そこへシャルが勢いよく落下して、足底で木の幹に着地する。数百メートルから落下した衝撃を殺しきれず、シャルの足首から奇妙な音がした。
シャルは下唇を噛んで稲妻のような激痛を無視し、人の隙間を駆け抜けてすぐ近くのギルドに駆け込んだ。
「助けて!」
周りから向けられる視線を無視して、シャルはギルドの受付まで走った。
冷たくなったノーニャを抱きしめて、受付の女性にまとまらない言葉をまくし立てる。
「ノーニャが動かないの。ここにお医者さんがいるってノーニャ言ってた。だから、だから、ノーニャ動かして。納品終わってないの。手伝うって約束したの」
ギルド内は騒然となり、すぐに受付の奥から慌ただしく大人が駆けつけてきた。シャルの腕からノーニャが引きはがされ、眼鏡をかけた白衣の男性が口早に指示を出しながらまた奥へと消えていく。その後に続くように大人に抱かれたノーニャも運ばれていく。
ノーニャの白い手が力なく宙で揺れて、ドアに隠されて見えなくなった。
これで助かる? 自分が見ていなくてもノーニャは動く?
正しい事ができたのか? 誰も叱らない、叱られない。ノーニャは助かる?
激しく乱れていく呼吸を意識せぬまま、シャルは狭窄する視界でじっとドアを見つめることしかできない。そこへ優しく肩を叩かれて、シャルは大げさなぐらいに飛び跳ねた。
全身の毛を逆立てながら見上げると、そこには受付に立っていた女性が困ったように屈んで目線を合わせていた。
「貴方は中で、ゆっくりシャワーを浴びてきなさい」
「シャワー……?」
聞いたことのない単語に首をかしげると、女性は一瞬言葉を失った。
それから女性はぎゅっと目をつぶってか細く息を吐くと、シャルの肩を抱くようにしてシャワー室へ歩き始めた。
「一緒においで。使い方を教えてあげるから」
「ノーニャは?」
「大丈夫。貴方はできることをしたわ。だから今は貴方が休まないと」
ゆっくりと語り聞かせられても、シャルは半分も意味を理解できなかった。
休んでもノーニャが帰ってくるわけでもないのに、なぜ休まないといけないのか。だがそれを懇切丁寧に教えてくれる友人はいない。シャルは感情が抜け落ちた表情で頷くしかできなかった。
初めて浴びたシャワーは温かかった。
ノーニャと出会ったあの雨の日。
シャルはそのまま家に帰されて、ダウバリフに乱雑にタオルで拭かれ、暖炉の前に放っておかれただけだった。だが受付の女性は冷え切ったシャルを温めるようにずっとお湯をかけてくれて、上がった後も柔らかいタオルで髪を拭いてくれた。脱いだ服もいつのまにか丁寧に折りたたまれていて、袖を通してみるとさっきまで暖炉に当てていたかのように温かかった。
「あったかい」
なんだか頭が爽やかになった。
髪の根元にあったごわごわが全部消えて身体が軽い。
指とつま先までじんわりと血が巡っている感覚がする。
「ノーニャも早く、シャワー浴びないと」
目が覚めたら、今度は受付の女性のように自分が髪を拭いてあげよう。
そう息巻いていると、隣からほたほたと小さな水滴が落ちる音がした。振り返って見上げると、女性の目から溢れた透明な水が、彼女の頬に筋を作っていた。
「おねーさん、なんで泣いてるの?」
「なんでもないの……ごめんなさい……」
女性は体温を残さないほど軽い手つきでシャルの頭を撫でると、ふわふわの大きなタオルを巻きつけるように抱きしめてくれた。
彼女からはなぜか、ノーニャのような温かさを感じなかった。
ノーニャはその日からずっと、ギルドの奥から出てこなくなった。
数日後にダウバリフと共にギルドを訪れてみると、奥の待合室に通されて、ノーニャの両親と面会することになった。待合室は分厚い壁で囲われており、天井には見たことがないほど大きな照明がぶら下がっていた。真ん中にはテーブルと柔らかそうな椅子が四つ置かれていて、シャルたちとノーニャの両親はテーブルを挟んで向かい合うように座った。
ノーニャの両親は前にあった時より顔にしわが増えており、目に生気がなかった。シャルを見るなり母親は憤り、何かを叫ぼうとして父親に制止された。すると母親は静かに泣き崩れてしまった。
そしてノーニャの父から、シャルは彼女が死んだことを聞かされた。
八方手を尽くしたが、シャルの身体にはよくないことが起きてどうしても治せなかった。おそらくそういった話をしていたと思う。
ダウバリフは二人に深々と頭を下げて謝罪した。シャルもダウバリフから指示される前に同じように謝った。
すると、涙を流しながら母親が顔を上げ、シャルを睨みながら申し訳なさそうに口を開いた。
「貴方のせいじゃないのは分かってるけど、顔も見たくない……お願い、もう私たちに近づかないで」
「娘と仲良くしてくれてありがとう。だからどうか、もう娘以外は連れて行かないでくれ……頼む……」
大好きだった二人から言い渡されたのは、決別だった。
胸が張り裂けそうなのに、痛いと言える人がいない。
無表情で目を伏せるシャルに、ノーニャの父は努めて冷静に、だが理不尽に怒りながら声を絞り出した。
「君のせいじゃないのは分かってる。でも、すまない」
シャルは何も言えなかった。怒られるのが怖かったのではない。どれだけ言葉を尽くしても、許されないことをしたから、言う資格がなかったのだ。
二人が静かに待合室から立ち去った後、シャルは誰もいなくなった二つ分の椅子を見つめた。
「ごめん……なさい……」
自分以外の誰かが謝るときは、決まって良くないことが起きている。
誰かの『ごめんなさい』は、呪いの言葉だ。
彼女はエラムラの里で守護狩人になるべく狩人育成学校に通っているらしい。
学校に通う採集狩人は、六人チームで野外活動をするのが決まりだった。
だが、ノーニャのチームメイトはみな先日の襲撃で死んでしまったので、急遽別のチームに編入されることになった。
ノーニャは新しいチームメイトとは上手くいっていないらしい。学校の課外授業が終わった後、ノーニャはよくシャルの家に遊びに来ては世間話をしながら愚痴を吐いていた。そのおかげで、シャルは里の内情をある程度知ることができたし、以前より遥かに言葉を使うのが上手くなった。
「ねーねー、学校でお菓子作り教わってきたんだ。シャルも一緒に食べよう」
「おかし?」
「甘くておいしいんだよ! 家で練習してきたから作ってあげるし!」
ノーニャはしししっと歯の隙間から息を出すような笑い方をして、勝手知ったる表情でキッチンに入っていった。
ダウバリフもノーニャの滞在を認めてくれているので、彼女も家の中のものを自由に使っていいことになっている。それでもノーニャが勝手に倉庫に入って材料を探し始めた時はヒヤッとした。
「の、ノーニャ……勝手に入ったら怒られるし……」
「大丈夫だよシャル! 何か言われても私が何とかしてあげる!」
向日葵のような笑顔でノーニャは断言すると、鼻歌を歌いながら倉庫の棚に手を伸ばした。探しているのはお菓子作りに必要な野鳥の卵らしい。
シャルがドラゴンを狩ってくる代わりに、日用品はすべてダウバリフの役目だ。そのため、ダウバリフが収集したものがどの棚に収められているのかはシャルも知らなかった。
がさごそと豪快に棚の中を探し回るノーニャは楽しそうだ。
今なら怒られないかも、とほんの少し緊張しながら、シャルは常々思っていた疑問を口にしてみることにした。
「ねー、ノーニャ……シャルは、みんなから逃げられる。ノーニャは、なんで逃げないの?」
ノーニャの手が止まった。
ひっとシャルが息を詰めると、ノーニャはこちらを振り返って微笑んだ。
そこには腹立たしさや不快感といったものが少しも混ざっていない。
笑っているはずなのに、なぜか悲しそうに見えた。
「シャルは知らなくていいんだよ」
「でも……シャルも、みんなとしゃべりたい。里で普通に歩いてみたい。学校、行ってみたい」
里の学校は遠目から見たことがあるだけで、中身を実際に見たことはない。
だがノーニャから聞き出したおかげで、教室の中がどんな風になっているかは知っているつもりだ。テーブルがたくさん並んでいてみんなで好きな場所に座り、一番前にある黒板の文字を見て勉強をする。勉強というのが良く分からないが、同い年の子供が集まっているというだけでシャルは十分に興味を惹かれていた。
でも、シャルは里の人間に年齢に関係なく避けられている。
いきなり学校に入れてほしいと言っても、簡単には受け入れてもらえないだろう。だから自分でも鬼門ともいえる嫌われている理由を聞いてみたのだが、ノーニャは曖昧に微笑んで誤魔化した。
「シャルが嫌われてるのは、シャルのせいじゃないし。だから知らない方が幸せだよ」
「シャルは知りたいの!」
ここで引き下がったら二度と知る機会がなくなる気がして、自然とシャルの声は大きくなった。
「ダウ爺に聞いても怒られるし、里の人は話かけても逃げるから、聞けるのノーニャだけ。ノーニャしか頼れない」
たどたどしく思いを伝えると、ノーニャは痛そうに眉を顰めて、そのあと照れくさそうに笑った。
「その言い方ずるいし」
「ノーニャのじょーとー句。シャルにしか頼めないと一緒」
「もー、生意気!」
ノーニャは棚に入れていた手を引っ込めて、シャルを手招きして近くの木箱に座らせた。その隣にノーニャは座り、互いに肩をくっつけ合うように寄りかかった。
「シャルはお父さんのこと知ってる?」
「知らない。会ったことない」
そっか、とノーニャは薄い反応をして、ぶらぶらと木箱の上で両足を揺らした。
横顔をこっそり覗き見ると、難しそうな顔で考え込んでいるのが見える。また困らせてしまっただろうかと不安に思い、つい話しかけたくなる。だがシャルは手を握りしめて自制し、彼女が話し始めるのを大人しく待った。
数秒ほど沈黙した後、ノーニャは躊躇いがちに話し始めた。
「アンタのお父さんはね……先代の巫女様を殺しちゃったの」
「ん……ドラゴンじゃないのに?」
「そうなの。人は人を殺しちゃいけないってシャルも知ってるよね」
「うん」
ドラゴンを初めて殺した時に、ダウバリフからしつこく教わった。少し前までなぜそんな決まりがあるのかと首をかしげていたが、ノーニャとこうして楽しい時間を過ごしていれば、確信をもってダメなことだと言える。
シャルが甘えるようにノーニャの肩に頭を乗せると、肉刺の少ない掌が前髪の辺りを撫でてくれた。ノーニャはむずがゆそうに笑った後、ゆっくりと話を続けた。
「巫女様はエラムラの里で一番偉くて、みんなを守ってくれるすごい人だったの。たった一人しかいない、みんなの大事な人だったんだよ」
「……すごい人、死んだらダメなのに、お父さんが殺したの?」
「うん」
「じゃあ、シャルが嫌われてるの、お父さんの子供だから?」
「うん……」
いつの間にかノーニャの足は止まっていた。
触れ合っていた肩が離れていき、シャルは不安になって彼女の手を取った。
「みんな知ってたのに、シャルは知らない。なんで教えてくれない? 家族って大事な人だし、でも秘密あるの?」
「……うん。ごめん……ごめんね、シャル」
「なんでノーニャがごめん?」
「謝らないと気が済まないの。シャルは何も知らないし、いい子なのに」
「ノーニャ? 泣かないで……」
「シャル……ごめんね。大好きだよ」
ノーニャは震える声でそう言いながら、あの日と同じようにシャルを抱きしめた。
言葉を理解したおかげで、シャルは以前より物事を区分けできるようになった。そのため、自分が里の人間から避けられているのは、ダウバリフに叱られて倉庫に閉じ込められるのと同じことだと理解できている。
シャルは必死にダウバリフに謝って、出してほしいと懇願して、疲れ果ててやっと暗い倉の中から解放される。
里の人に許してもらうためには、同じように謝らないといけない。父親が犯してしまった罪を代わりに償わないといけない。
「ノーニャ。シャルは、みんなに謝りたい。どうしたら、許してもらえる?」
「……ごめん。私も分からないよ」
「そっか……」
二人の会話はそれっきり途絶え、暗い倉に差し込む日差しが淡々と足元を照らすだけとなった。
教えた通りにやらなければ間違えてしまう。間違えてしまったら、酷い仕打ちが待っている。シャルが冷たい石造りの家で学んだことを守るためには、誰かに教えてもらわなければいけない。
でも、どうやって、誰から教わればいい?
ダウバリフはきっと怒鳴るだけで何も教えてはくれない。
ノーニャにも分からないのだったら、別の大人を頼るしかない。
こんな時に父親がいればいいのに。
シャルは泣いて震えるノーニャを抱きしめ返しながら、自分の目元をそっと撫でた。父にそっくりだと言われる紫色の瞳は、やはり何も答えてはくれなかった。
シャルが真実を知ってから、一年の歳月が流れた。
良く晴れた冬の日に、ノーニャはシャルの家に遊びに来て早々、白い息を吐きながら誘い文句を口にした。
「ねーシャル、次の採集手伝って! シャルにしか頼めないし!」
「でた、じょーとー句! 暇だから付き合ってあげるし!」
もはや二人にとってお馴染みのやり取りを繰り返しながら、二人は暖かなコートに身を包んで外に飛び出した。
相変わらずノーニャとチームメイトは上手くいっていない。
それどころか、以前よりも険悪になっているらしい。
原因はノーニャがほぼ毎日のようにシャルの家に遊びに行っているからだ。ただ、シャルがあれこれと採集技術を教えているおかげで、ノーニャの成績は学校でトップクラスだという。一度だけ彼女の両親と会ったことがあるが、こっそりとクッキーをプレゼントして、娘と仲良くしてくれてありがとうと言ってくれた。
甘いお菓子をくれるノーニャと両親が、シャルは大好きだった。
味気のない野菜と肉を煮込んだだけの料理しか食べてこなかったので、ノーニャが持ってくる家庭の味はシャルの密やかな楽しみだった。
ノーニャの任務を手伝うのもシャルは好きだった。
一人で黙々とドラゴンを殺して家に持って帰るだけの作業より、風にそよぐ草花や色とりどりの岩石と戯れる方が心が浮き立つ。隣でノーニャと笑いながら馬鹿な話をするときが、一番生きている気分になった。
「今日はどこ行くの、ノーニャ」
「東のプロヘナ平原! ユピテルの湿地が近いからちょっと危ないし、護衛してもらいたくて!」
「ごえーならオレのおまかせだし!」
胸をぺしっと叩きながら笑みを浮かべると、ノーニャはジト目になって大きく首を傾げた。
「シャル、そのオレって気に入ったの?」
「うん。黒鬼がオレっていつも言ってるし、なんかかっこいい!」
「えー? シャルはシャルでいいと思うし」
「でもシャルはかっこいいがいいし!? あれ、オレがシャルはかっこいい? うん?」
「オレのほうがかっこいい、でいいんだよ」
「うん! オレのほうが、かっこいい!」
ノーニャと手をつなぎながら家を出て、色味の薄い寒空の下を歩く。
高所に家があるせいで強い北風が身体を冷やしてくるが、もこもこの長いコートを着た二人は鼻先が赤くなっても平気だった。つないだ手はあったかくて、段差を越えるときにどうしても両手を開けなければいけない時以外は、ずっとくっついたままだった。
岩ばかりの荒れた山道から北東に向かうと、遠くに霞むユピテルの湿地が見えてくる。その手前には青い絵の具を敷き詰めたような真っ青な世界が広がっていた。
プロヘナ平原に生息する樹木は、寒ければ寒いほどその葉の色を青くし、逆に夏になると燃え上がるような赤に染まる。ヨルドの里にある海とよく似た深い青が、草原と低木すべての葉を染め上げてさわさわ風に揺れていた。
「今日は結構寒いんだね」
「ノーニャがいればへーき、でしょ?」
「もー、すぐそんなこと言うし……」
ノーニャは鼻だけでなく頬も赤くしながら、シャルを引っ張るように大股で平原の中へ進み出た。膝丈に迫る背の高い草が、長靴と擦れ合うたびに淡く光を纏い出した。
草が光を放つのは、葉の変色を司る菌糸が異種の菌糸に反応しているからだ、とノーニャ経由で先生から聞いた。光ることで何を生み出しているのかはまだ分かっていないらしい。
「あれ……ねえシャル、あっちに誰かいるよ?」
「んー?」
触れては光る平原で歩きながら遊んでいると、ノーニャの白い指先が遠くを指し示した。
顔を上げて観察してみると、白く長い髪を風に遊ばせている女性がぽつんと立っていた。服装はこのあたりで見かけるような袖の広いものではなく、エラムラに訪れる狩人たちのような筒袖のものだ。内側には薄い鎧のようなスーツを着込んでおり、無機質な印象を持たせた。
「余所の狩人かな?」
「声掛けてみる?」
こそこそと会話をしていると、白い女性がこちらに気づいてゆっくりと歩み寄ってきた。
シャルはぴゃっと飛び跳ねながらノーニャの後ろに隠れる。
逆にノーニャは笑顔で女性に挨拶した。
「こんにちは! 狩りの途中ですか?」
女性は美しい顔に笑みを浮かべるだけで何も答えない。
みるみる距離が縮まっていくのを見守っているうちに、シャルはふと違和感に気づいた。
「ね、ねえノーニャ。なんであの人の足元、光らないの?」
「あれ?」
プロヘナ平原に入った生き物は、必ず草木を光らせてしまう。
なのに女性が歩いた道は全く光っていなかった。
平原の植物が唯一反応しないのは、菌糸のない石や機械といった無機物だけだ。
「ゆ、幽霊?」
「逃げた方がいいんじゃない?」
互いに手を強く握りながら後ずさると、ようやく女性は足を止めた。
距離は大体十メートル。
シャルが『重力操作』を使ってノーニャを抱えて逃げれば、追いつかれる前にすぐに離脱できる。
「その紫色の目、ベアルドルフの娘かしら」
高く澄み渡った、優しい声だった。
シャルは僅かに警戒を緩めながら小さく頷いた。
「父の、知り合い?」
「ええ。死んでも忘れられない人なの。ずっと貴方に会いたかったわ」
「シャルに……? なんで?」
「シャル! 走って!」
いきなりノーニャに腕を引っ張られ身体の向きが変わった。
遅れて足を動かして、ノーニャの重みを菌糸能力で消しながら抱え上げる。
次いで自身にも能力を発動し、跳躍。
耳元で風が唸り、視界が一気に高い場所へと昇っていく。
腕の中に納まったノーニャの顔を見下ろすと、彼女は真っ青になってシャルのコートにしがみついていた。
「だめだよ、シャルは殺させない。関係ないの! 放っておいてよ!」
「ノーニャ? ノーニャ!?」
錯乱状態に陥った彼女を揺するが、何度呼びかけても帰ってこない。
シャルは近づいてきた地面へ向き直り、二度目の跳躍をしようとした。
だがシャルの着地地点には、なぜかあの白い女性が立っていた。
すれ違いざまに女性の手が伸びる。
血の気を感じぬ指先がシャルに触れる寸前、その手をノーニャが叩き落とした。
女性は無感情にノーニャを一瞥した後、紫色の唇に薄く笑みを浮かべた。
「──残念」
そんなつぶやきがシャルの鼓膜を揺らし、意識の中に深々と杭を打った。
決定的な何かを取り落としてしまったような嫌な予感が脊髄を駆け巡った瞬間。
がくん、と腕の中の重みが一気に増す。
シャルは歯を食いしばりながらノーニャを落とさないように抱え直し、急いで背後を振り返った。
白い女性は跡形もなくその場から消え失せていた。
代わりに晴れていた青空には暗雲が立ち込め、不気味な渦を描いてプロヘナ平原の中央へと降りてきていた。
竜巻の前兆だ。
「ノーニャ、依頼は諦めよう! また明日だよ!」
巨大な竜巻から逃れるべく、シャルはエラムラの里へと走る。だが途中でノーニャから全く返事がないことに気づいて、また視線を彼女の顔へ向けた。
「……ノーニャ?」
顔が、白くなっていた。
頬にうっすらと見えていたノーニャの菌糸模様が黒ずんで、全く瞬いていない。唇も乾燥して皺だらけになり、閉じられた瞼が落ちくぼんでいる。慌てて手で頬に触れてみると、死体の温度がそこにあった。
「ノーニャ!? どうしたの!? 返事して!」
シャルはパニックになりながらノーニャを強く抱きしめ、自分に掛かる負担を無視して全力で菌糸能力を解放した。自分の重力をなくし、エラムラの里で触れたことのある木に重力の起点を作る。
シャルはエラムラに続く山道の一番上まで登り切ると、一気に里の中の木まで落下した。
起点を作った木の周りでは、いきなり椅子が浮かんだり落ち葉が渦巻いたりして騒ぎになっていた。そこへシャルが勢いよく落下して、足底で木の幹に着地する。数百メートルから落下した衝撃を殺しきれず、シャルの足首から奇妙な音がした。
シャルは下唇を噛んで稲妻のような激痛を無視し、人の隙間を駆け抜けてすぐ近くのギルドに駆け込んだ。
「助けて!」
周りから向けられる視線を無視して、シャルはギルドの受付まで走った。
冷たくなったノーニャを抱きしめて、受付の女性にまとまらない言葉をまくし立てる。
「ノーニャが動かないの。ここにお医者さんがいるってノーニャ言ってた。だから、だから、ノーニャ動かして。納品終わってないの。手伝うって約束したの」
ギルド内は騒然となり、すぐに受付の奥から慌ただしく大人が駆けつけてきた。シャルの腕からノーニャが引きはがされ、眼鏡をかけた白衣の男性が口早に指示を出しながらまた奥へと消えていく。その後に続くように大人に抱かれたノーニャも運ばれていく。
ノーニャの白い手が力なく宙で揺れて、ドアに隠されて見えなくなった。
これで助かる? 自分が見ていなくてもノーニャは動く?
正しい事ができたのか? 誰も叱らない、叱られない。ノーニャは助かる?
激しく乱れていく呼吸を意識せぬまま、シャルは狭窄する視界でじっとドアを見つめることしかできない。そこへ優しく肩を叩かれて、シャルは大げさなぐらいに飛び跳ねた。
全身の毛を逆立てながら見上げると、そこには受付に立っていた女性が困ったように屈んで目線を合わせていた。
「貴方は中で、ゆっくりシャワーを浴びてきなさい」
「シャワー……?」
聞いたことのない単語に首をかしげると、女性は一瞬言葉を失った。
それから女性はぎゅっと目をつぶってか細く息を吐くと、シャルの肩を抱くようにしてシャワー室へ歩き始めた。
「一緒においで。使い方を教えてあげるから」
「ノーニャは?」
「大丈夫。貴方はできることをしたわ。だから今は貴方が休まないと」
ゆっくりと語り聞かせられても、シャルは半分も意味を理解できなかった。
休んでもノーニャが帰ってくるわけでもないのに、なぜ休まないといけないのか。だがそれを懇切丁寧に教えてくれる友人はいない。シャルは感情が抜け落ちた表情で頷くしかできなかった。
初めて浴びたシャワーは温かかった。
ノーニャと出会ったあの雨の日。
シャルはそのまま家に帰されて、ダウバリフに乱雑にタオルで拭かれ、暖炉の前に放っておかれただけだった。だが受付の女性は冷え切ったシャルを温めるようにずっとお湯をかけてくれて、上がった後も柔らかいタオルで髪を拭いてくれた。脱いだ服もいつのまにか丁寧に折りたたまれていて、袖を通してみるとさっきまで暖炉に当てていたかのように温かかった。
「あったかい」
なんだか頭が爽やかになった。
髪の根元にあったごわごわが全部消えて身体が軽い。
指とつま先までじんわりと血が巡っている感覚がする。
「ノーニャも早く、シャワー浴びないと」
目が覚めたら、今度は受付の女性のように自分が髪を拭いてあげよう。
そう息巻いていると、隣からほたほたと小さな水滴が落ちる音がした。振り返って見上げると、女性の目から溢れた透明な水が、彼女の頬に筋を作っていた。
「おねーさん、なんで泣いてるの?」
「なんでもないの……ごめんなさい……」
女性は体温を残さないほど軽い手つきでシャルの頭を撫でると、ふわふわの大きなタオルを巻きつけるように抱きしめてくれた。
彼女からはなぜか、ノーニャのような温かさを感じなかった。
ノーニャはその日からずっと、ギルドの奥から出てこなくなった。
数日後にダウバリフと共にギルドを訪れてみると、奥の待合室に通されて、ノーニャの両親と面会することになった。待合室は分厚い壁で囲われており、天井には見たことがないほど大きな照明がぶら下がっていた。真ん中にはテーブルと柔らかそうな椅子が四つ置かれていて、シャルたちとノーニャの両親はテーブルを挟んで向かい合うように座った。
ノーニャの両親は前にあった時より顔にしわが増えており、目に生気がなかった。シャルを見るなり母親は憤り、何かを叫ぼうとして父親に制止された。すると母親は静かに泣き崩れてしまった。
そしてノーニャの父から、シャルは彼女が死んだことを聞かされた。
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すると、涙を流しながら母親が顔を上げ、シャルを睨みながら申し訳なさそうに口を開いた。
「貴方のせいじゃないのは分かってるけど、顔も見たくない……お願い、もう私たちに近づかないで」
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胸が張り裂けそうなのに、痛いと言える人がいない。
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「君のせいじゃないのは分かってる。でも、すまない」
シャルは何も言えなかった。怒られるのが怖かったのではない。どれだけ言葉を尽くしても、許されないことをしたから、言う資格がなかったのだ。
二人が静かに待合室から立ち去った後、シャルは誰もいなくなった二つ分の椅子を見つめた。
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自分以外の誰かが謝るときは、決まって良くないことが起きている。
誰かの『ごめんなさい』は、呪いの言葉だ。
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