家に帰りたい狩りゲー転移

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1章

(6)異世界の常識

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 ぷちん、とペンチで切れたのは俺の指ではなく、小指の爪のさきっちょだけだった。

「……え?」
「……ふふ」
「何その反応!?」

 ドミラスは何も答えることなく、五ミリもなさそうな薄い爪の破片をペンチで挟んだまま机の上にあるシャーレへと運んでいった。その横ではハンドマネキンが器用にカルテに文字を書き連ねている。

 爪を切るだけで何かわかったとでもいうのか。気になってカルテを覗き込んでみるが、書きなぐられる文字は日本語ではなかった。

「読めない……」
「ほお、それはおかしいな。言葉が通じるのに文字を知らんのか?」
「いやまぁ、違う言語だからさ……」
「言語が違うのに、言葉が通じるなんておかしいだろう。海外から来たリスニング熟練者か? それとも、機械仕掛けの世界から来たのか?」
「機械仕掛け?」

 オウム返しに尋ねると、ドミラスはシャーレの爪にスポイトで一滴ずつ謎の黒い液体をかけながら答えた。

「ここから真っすぐ北にある山を越えた先に、湖に沈んだ遺跡がある。その中に飛び込んでみたら機械仕掛けの世界が広がっていた……と、うちの守護狩人から過去に報告があった」
「どんな世界だ?」
「さぁ、詳しくは覚えていないらしい。俺も実際に湖に入って目にしたが、やはりそこだけ記憶が曖昧だ」

 記憶が曖昧、というのが何とも信用ならない。そもそも、シンビオワールドには機械仕掛けの世界なんて存在しなかった。バルド村だってゲーム内に登場しないから、ゲーム内に登場させる機会がなかっただけかもしれない。

 だが、異世界転移した俺にとっては、ここ以外にも別世界がある可能性に大いに興味をそそられた。

 もしかしたら機械仕掛けの世界とやらは、俺が本来いた地球なのかもしれない。
 そう思った時、気づけばベッドから飛び起きていた。

「なあそれ、本当の話なのか?」
「同じ場所に入った狩人が揃って同じことを言うんだ。俺も何度もあそこに赴いているのだから嘘なわけがないだろう。まぁ、全員がその別の世界とやらを言葉で説明しようとすると、何一つ思い出せなくなるようだが」
「なんだそれ……」

 集団催眠でも食らったのか、それともただの幻覚や夢みたいなものか? そんな感想が顔に出ていたのか、ドミラスは俺の方を見てシニカルに笑い、こう付け足した。

「ちなみに俺は機械仕掛けの世界の研究をしている数少ない人間だ。興味があるならいずれ連れて行ってやろう。まずはその貧弱な腕で武器を持てるようにならねば話にならんがな」
「……言われなくてもそのつもりだ。俺は故郷に帰るためにも、守護狩人にならなきゃならないんだ」

 手を握りしめながら呟く俺に、ドミラスは微笑まし気に目を細めていた。そこで俺はやっと、ドミラスの表情が最初の時より動いていることに気づいた。ドミラスの言う、未知への拒否反応が解消されたからなのか。

 ようやくバルド村の住人に受け入れられたような気がして、俺はほんの少しだけ鼻の辺りがツンとした。相変わらずこの研究室は怪しい緑色のライトで落ち着かないが、かちゃかちゃと実験道具が触れ合う音や、滑らかにカルテをなぞるペンの音は遠い高校の理科実験室を思い起こさせた。

 異世界に来てから長いこと疎外感を抱き続けていた俺は、気づけばぽつりとつぶやいていた。

「俺の故郷にも、こんな部屋があったんだ……」
「ほう? お前も研究者だったのか?」
「違う。俺は学生で、研究者が生み出した結果を先生から教えてもらう側だった。炎色反応が花火の色を作ってるとか、カラメルの作り方とか、そんなことしか覚えてないけどな。ドクターみたいに何かを調べて結果を出すなんてことはできないよ」
「誰もが結果を出せるわけがないだろう。何を悲観しているんだか」
「やっぱ酷くねぇ?」

 突き放すようなドミラスの言葉に別の意味で泣きそうになる。まるで自分の無能さを突きつけられたようだ。相手が怒っているわけでも、貶めるつもりで言ったわけでもないから余計に惨めになる。そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ドミラスは肩をすくめた。

「事実を言っただけだ。それに炎色反応とカラメルならこちらの世界にもある。よかったな、こちらの世界はお前の世界とそれほど差異がないかも知れないぞ」
「いや……いやいや、俺の世界にドラゴンなんて凶悪な化け物いなかったし、こんな不便じゃないって。大違いだろ。科学のレベルが違いすぎる」

 バルド村の建築技術は確かにすごい。建設機械や加工技術も地球とは劣るのに、洞窟の部屋を正方形になるよう滑らかに仕上げたり、固い岩壁に村を構築してしまう技術は、原始人より遥かに知能が高い。

 それでも、現代の地球と比べればきっと鼻で笑われるようなレベルだろう。バルド村のやっていることは、経済的にメリットがないから誰もやっていないだけで、やろうと思えば再現できてしまう。俺とドミラスでは、見てきた科学の先や世界の姿があまりにも違いすぎているのだ。

 しかし、ドミラスは俺の言葉を一蹴した。

「科学なんてものは、発明する目的が変われば進む先も変わってくる。お前の世界でドラゴンがいないのなら、さぞ平和で便利な生活のために発展したんだろう。だが俺たちの世界はドラゴンを殺すために極められてきた。バルド村の自然の要塞も、守護狩人が使う武器も、この菌糸能力だって科学研究から生まれた最先端の結晶だ」

 それでは結局、科学の発展がドラゴンに阻害されてきただけという話になる。ドラゴンさえいなければ、彼らも地球と同じ生活レベルに達していたとでもいうのか? ゲームの世界の住人で、地球とは違う異世界の人間なのに。
 頭の中で色々とこねくり回し、ようやく俺は勝てそうな手札を集めて反駁した。

「好きに水も使えないし、娯楽もないのに? それで生きてる意味ってあるのか?」
「いずれは村を捨てて移住しなければならないのに、水を引くのは非効率だ。それに娯楽は自分で見つけるものだ。与えられるものじゃない」

 自分とは全く違う考え方に俺は絶句した。
 だが、この世界に生きてきた人間なら当たり前の回答だろう。

 ドミラス達異世界人は、俺と違って生まれた時からこの世界にいて、何年も歴史を紡いできた。長い生活の中であれこれと試行錯誤を重ねたその結果が、今の生活だ。そこへいきなり地球の常識を持ってきて、彼らの生活水準の低さを憐れむのは全くのお門違いである。

 俺は一度頭を冷やして、もう一度科学レベルの違いについて考えてみた。

 もし、ドラゴンがいる世界で、地球と同じようにGPSを作ろうとしたとする。そうしたらロケットを作らなければならないし、発射場も作って、燃料もかき集めて、鉄やマンガンなどを加工しなければならない。そういった細かな作業をしている間、ドラゴンがお行儀よくロケットの完成を待ってくれるはずもない。

 つまり、地球レベルの科学をこの世界に要求するのは無謀なのだ。だからドミラスは科学の進む方向が違うと俺に言った。

 俺は馬鹿だ。この世界のど素人が口出しするものなんて、すべてこの世界の誰かが試した後に無理だと結論付けたに決まっているではないか。専門家ではない人間ほど口出しをする。そんな人間を俺は散々笑ってきたのに、いざ出くわしてみたらこのザマだ。恥ずかしくて死にたくなってくる。

 だからと言って、納得はできなかった。今更地球で幸せだった思い出を無駄だと切り捨てろというのか。この世界は俺の知っているゲームと同じ世界で、地球じゃない。だから現実にはあり得ない世界だ。

 常識と違うから、この世界が受け入れられない。

 理解できない。

「…………ああ、そうか」

 俺は気づかないうちに、異世界人たちを自分とは別の生き物だと思い込んでいたのかもしれない。ドラゴンと戦える超人たちを前にして、自分にはできないと割り切って、画面越しに有名人を眺めていた。

 尊敬はしている。好意もある。味方である。

 しかし、仲間ではない。

 俺はこの世界に恐怖しているんだ。

 ここは現実だ。ゲームや空想といった偽物の世界じゃない。本当にここで生きて、歴史を紡いで、子孫を残してきた人類がいる。目の前にあるものすべてが、彼らが最大限ドラゴンに対抗した努力の成果だ。

 俺はもう地球にいない。

 ここにあるものを受け入れて生きるしかない。ないものねだりに意味はないのだ。

 俺の顔つきが変わったのを見て、ドミラスは仕方なさそうに笑った。

「分かったら、お前の世界と俺たちの世界を比較するのはやめるんだな。この世界でお前ができるのは食べて寝て生きる。その他はどうぞご勝手に、だ」

 投げやりな口調にほんの少しの寂寥感を抱く。だが、あれこれと地球と比較する気はもう起きなかった。これから先どうやって生きていくか、まだまだ不安は残る。それでも、ようやくこのバルド村で生きるという意味を、真の意味で理解できた。今はそれで十分だろう。

 力が抜けた自分の掌を見つめて小さく笑っていると、「ただもう一つ」とドミラスが付け加えた。

「お前の故郷がどんなところかも大変興味がある。貶し合いじゃなく娯楽感覚で語り聞かせてくれるなら、いつでも語れ」
「……っああ。ドクターが暇ならいくらでも話したい!」

 思わず目を輝かせながら話に飛びつくと、ドミラスは日向にいる猫のように目を細めた。

「そりゃどうも、期待してるよ。そして朗報、実験成果が出たぞ。見ろ」

 ドミラスは心なしかうきうきとした足取りで、爪を入れたシャーレを俺の顔の前まで持ってきた。シャーレの中は無色透明な液体で満たされており、俺の小指の爪がなんの変化もなく底に沈んでいた。

「この液体は元々黒いんだが、体内に含まれる菌糸の属性によって色が変化する。火属性なら水色、水ならオレンジ、風ならピンクといった具合だ。色相環のほぼ対極の色が出ると覚えとけ」
「テストに出るみたいな言い方だな」

 俺は半目になりながら苦笑すると、シャーレの中をじっと見つめて首を傾げた。

「これは無色だけど……どうなるんだ?」
「無属性だ。面白いことに、お前の肉体は機械仕掛けの世界を覆ってる湖と同じ成分でできているらしい」
「……つまり?」
「遺跡の湖はどんなドラゴンでも汚染することができない、無菌の水だ。お前はいくらドラゴンに噛まれても、汚染された空気を吸っても、ドラゴンにならない」

 では、ドラゴン化の危険は無いということだ。
 エトロとアンリに命を狙われる理由が消えた。これで心置きなくバルド村に居座ることができる。

 危機を脱したと理解した脳みそが急に息継ぎを始めて、全身の血の巡りが良くなった気がした。

「うっしゃあ!」

 ガッツポーズを決める俺にドミラスは呆れた目を向けながら説明を続けた。

「最後まで聞け。アンリはお前に菌糸がないとほざいていたが、五属溶液が透明になった時点で菌糸を飼ってるのは確定だ」
「え? でも俺の身体にどこにも菌糸の模様が出てないんだけど……」
「全身にまんべんなく菌糸があるってことだ。簡単に言い換えると、お前の細胞自体が菌糸だな」
「うひぃえ、気持ち悪い」
「自分の身体だろうが。まあ前例もない菌糸だ、気持ちは分かる」

 ドミラスはシャーレをテーブルに戻すと、目元に落ちた髪の束をどけながら小さく唸った。

「ふむ、こうなってくるとお前は変異種とも言い難いヘンテコ生物でしかないが……まぁ一応人間の見た目をしているのだ。俺が見つけた新種の菌糸ということにしておこう。その名も『無菌種』」
「ネーミングセンス!」
「まぁ待て。仮のネーミングだ。これからお前の異常性についてじっくりと……」

 ドミラスが不穏なことを言いかけた途中で、開けっ放しだった研究室の外からひょっこりとアンリが顔を出した。

「先生ー、診察終わりました?」
「よく来たアンリ。世紀の大発見だ。お前にはこの俺の助手の栄誉を与えよう」
「いらないです」

 即決で拒否されたドミラスは、眉間に深々としわを刻みながら腕を組んだ。

「お前は……いつになったら研究を手伝ってくれるんだ」
「一生手伝いませんよ。めんどくさそうじゃないですか」

 ついにドミラスはその場に崩れ落ち、子猫のごめん寝のポーズを取って動かなくなった。心なしか肩が震えている気がして、俺はベッドから降りながらアンリにジト目を向けた。

「あーあ、ドクター泣いちゃったよ……」
「いいよ。朝日でも浴びればどうせ勝手に元気になるから」
「アサガオかよ」
「そうだよ」

 好き放題言われても、ドミラスはその体勢のままだ。レオハニーと同じぐらい尊敬できる人だと思ったが、変人ポーズを目の当たりにした後だと、俺の中でドミラスの株が暴落した。
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