蛭蛾

坂本雅

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 早朝、神社を彷彿とさせる長い階段を登りきり、美術専門学校の自動ドアを通った園崎は受付向かいの壁に貼られた巨大なポスターに目を向けた。
 まつげの一本一本まで精緻に描かれた長髪の女性が色とりどりの花束を手に抱え、こちらに向かって柔らかく微笑んでいる。背景には抜けるような青空が広がっていた。
 『再開』というタイトルが付けられたその絵は県展の大賞に輝いた作品で、去年から飾られ続けている。花飾り付きのプレートには作者の名前も刻まれていた。
 三鼓翻(みつづみひるが)。園崎と同学年の女学生で、専攻を同じくするクラスメイトである。ポスターの見物を止めて二階の教室に入ると、本人が授業用のホワイトボードにほど近い窓側の席に座ってスマートフォンを操作していた。
 ホームルームまでかなり時間に余裕があるため、他に人はいない。園崎は学校からほど近いアパートで一人暮らしをしているのだが、どういうわけか、三鼓は彼より常に早く登校する。
 彼女の家もこの付近にあるのだろうかと考えつつも、特に尋ねはしなかった。それほど親しいわけではないのだ。
「おはよう、三鼓」
 出来る限りにこやかに片手を挙げて挨拶すると、胸の辺りまで伸びた黒髪のワンレングスがかすかに揺れる。焦げ茶色で切れ長の目がじとりと睨みつけてきた。
 スマートフォンの電源ボタンを押してロックし、ぞんざいに机上に置いてみせる。
「……おはよう」
 いかにも面倒くさそうな溜息混じりの返事だが、毎度のことなので慣れていた。掘り下げるでもなく、園崎は最後列にある自分の席に着く。
 机からコラージュの素材として使うファッション誌を出して眺めながら、ときおり三鼓の様子を伺った。
 青い縦縞のカットシャツに飾り気のない黒のパンツとスニーカー。机の横のフックには茶のショルダーバッグ。会社の事務員のようなシンプルな出で立ちが彼女の定番だ。
 けれど同じシンプルでも、親の仕送りで細々と生活し安価なモノトーンの服しか持っていない園崎とは服装の質が違っている。
 園崎の背が低いゆえの、十センチという身長差も格差を際立たせていた。
 まだ着れるからといって高校時代のものを流用せず、少しは買い換えるべきかと考えを巡らせていると。
「はぁ……」
 黙って廊下側の窓を見ていた三鼓が突然スマートフォンをパンツのポケットに入れ、バッグを肩に提げて立ち上がった。
 そのまま真っ直ぐドアへ向かおうとするので、園崎は思わず声をかけた。
「もうすぐ皆が来るし、授業も始まるよ?」
 忠告は無視されるのが常だったが、その日は違った。三鼓が足を止めて振り返る。
「どうでもいい」
 バッサリと切り捨てられたものの、安易に頷く気にはなれない。
 県展で大賞を取った後から、三鼓はたびたび授業をさぼるようになった。最初から参加しないのではなく、朝には正しく教室に来て、クラスメイトが集まり出す時間帯に忽然と姿を消す。
 丸一日不在の日はなく午後の授業には顔を見せるが、出席率の低下はやがて就職にも影響をおよぼすだろう。
「俺より早く来てるのに、出席率低いなんて勿体ない」
「シアンには関係ないでしょ」
「いや、クラスメイトだし、無関係じゃ……えっ?」
 聞き慣れてはいるが、意外性のある単語を耳にして園崎は目を丸くする。
 園崎紫安(そのさきしあん)。自分の名だ。光の三原色のうちの一つ、水色に近い青緑色を意味するが、漢字の当て方を見るに両親はおそらく語感だけで命名している。三鼓が苗字はともかく下の名前まで覚えているとは考えていなかった。
「あ……」
 園崎の驚いている顔を見て、三鼓は己の間違いに気付いたようだった。小さく息を呑み、決まり悪そうにそっぽを向く。
「紫なのに、シアン。言い回ってる奴がいるから、覚えただけ」
 呆気にとられている間に、彼女は教室を出て行ってしまった。
『さあちゃんが居なくなったの、シアンのせいだからね』
 小学校の頃の嫌な思い出が何故か頭をよぎったが、ぞろぞろと教室に入ってきた同級生達のざわめきによって霧散した。
 園崎の頭の端にはいつも三鼓の姿がある。男女の恋愛というよりは憧憬に近い。賞を取る前から、三鼓の絵の上手さは学校中で有名だった。
 写真と見まごうほど正確な写実画からカートゥーン調のカットイラストまで画風が幅広く、色彩センスも優れており、おまけに異様なほど手が早い。課題提出日ぎりぎりまで暇を潰し、当日になって完全に着色を終えた完成品を提出して度肝を抜くなど日常茶飯事になっている。
 三鼓の特異性と才気に引きつけられたのは園崎だけではない。入学早々に取り巻きが現れた。先輩、後輩、同級生。立場を問わず人が集まった。
 才能の持ち主と親密になって周りに自慢し、彼女が称賛を受ける時、自分も鼻を高くする。そんなふうにしたいのだという態度が透けて見えていた。
 もっと上手く思惑を隠してくれていたら、傍目からも嫌な気持ちにはならないのに。
 園崎の冷ややかな視線を知ってか知らずか、三鼓は取り巻きをまるで相手にしなかった。
 視界に入っておらず興味が沸かない。うるさいとは言わないが、相手にしない。四六時中そういう態度を崩さなかったので、三鼓はやがて高慢な女と陰で呼ばれて孤立した。
 義務教育期間や高校の閉鎖的で陰湿ないじめではなく、大人の無視というものだ。
 しかし三鼓は人がいようといまいと変わらずに授業をこなし、誰を誘うでもなく一人で昼食を食べていた。
 人付き合いのわずらわしさを避け、ただただ芸術を重視する姿は孤高と呼ぶにふさわしかった。
 園崎は三鼓に憧れるからこそ挨拶程度しかせず、彼女と適切な距離を取ろうとしていた。それなのに名前を覚えられていたのは、衝撃的だった。

 初めて授業以外で二言以上会話した日から三日後。園崎は朝から続く雨降りで薄暗い放課後の教室に残っていた。
 講師から居残りを促されたのではなく、許可を貰った上での自主的な行動だ。デザイン画の素描をイメージが沸いているうちに描き上げておきたかった。
 図書館から借りた文庫本サイズの昆虫図鑑と抽象画の巨匠の画集を見比べるように広げ、模写しながら創作を織り交ぜていく作業は生活感のにじむ自宅ではやりづらい。
 思いついたら止まらない園崎が残るのは珍しくなかったが、今日は少し様子が違った。
 三鼓もまだ席に座っていて、園崎のように資料を見るでもなく手帳を開き、黙々と何かを描いていた。距離が遠すぎて内容までは分からない。
 いつも終業のベルが鳴り次第、教室を出ている彼女が何故残っているのだろう。
 小さな謎が浮かびつつも、園崎は課題を進める方を優先させた。
 クロッキー帳に鉛筆を走らせ、時に消しゴムをかける忙しない音が響く。
 道行く人の目に留まるべく配色を派手にし、強烈な印象を与えたい。しかし奇抜にしすぎると下品と受け取られかねない。自然物の色数に従ってみるのはどうか。
 虫の翅の機能美と生命の躍動を表現するなら標本をなぞるのではなく葉から飛び立つ瞬間を切り取った方が良い。スーパースローカメラなど持ち合わせがないが、パソコンを借りて写真家のサイトを探せば近いものが見られる気がする。
 そうなると成虫の飛翔よりもサナギの孵化の方が変化を示せるかもしれない。丁度、図鑑に蝶が羽化する写真があるではないかーーいや。似ているが、これは蝶ではなく蛾だ。
「それ、今日出されたやつ?」
 手を動かしながら巡っていた思考の奔流が、たった一声で停止した。
 不意をつかれた園崎が大げさなほど肩を震わせ、おそるおそる顔を上げると三鼓が正面に立っていた。見下ろしてくる眼差しからは感情が読めない。
「う、うん。月末に提出っていってもすぐには浮かばないから、色々描いてみたくてさ」
 隣の席の友人に横目で見られ、揶揄されたり要らぬ落書きを加えられるのは平気だが、三鼓に自分の絵を下書き以下の状態の時に見られるのは恥ずかしかった。
 腕で覆い隠してしまいたかったが、彼女の心証を害したらと思うと身体が動かない。
「そう。全部、自分でやるんだ。ここじゃ珍しいよね」
 三鼓はうつむいて降りた髪の一房を耳に掛け直し、一度だけ辺りを見回した。
 高校までの間に培われた集団生活のルールは専門学校でもまだ続いていて、仲の良い数人と机を囲み和気あいあいと課題に取り組む姿がまま見られる。
 何を描くという根本的な部分までも相談しあい、共有し、逸脱することなく完成まで持っていくのだ。
 園崎は元来の熱中癖と付き合い下手から目立った友人を作り損ね、最低限の関わりしか有していない。だが一人の気楽さを知った今は、それで良かったと思っている。
 逆に、かつて三鼓の周囲は個性的な女子達で賑やかだったが、三鼓本人はとても楽しそうには見えなかった。
「あいつら、勝手なもんだな」
 当時の騒ぎようを思い出してぽつりと感想を呟く。すると、三鼓は目を細めて苦笑いを浮かべた。
「あの子ら、あたしにくっついても意味ないって分かったんだよ」
「……それって、聞いてもいい話?」
 どこか痛ましい表情に胸が騒ぎ、尋ねずにはいられなかった。開いたままにしていた図鑑と画集を片手で慌てて閉じる。
「秘密にしてもバラしても、あたしはどっちでもいい」
 ページの多い本が立てる重たげな音を皮切りに、三鼓は淡々と語り出した。
「県展の絵を描いた時。清書や色塗りはパソコンを使ったけど、案は手描きの方が浮かびやすいから、あんたみたいに放課後を使って描いてた。納得がいくものが描けるまで何個も描いた。あの子達も机をくっつけてクロッキー帳に何か描いてた」
 作品作りに取りかかり余計無口になった三鼓と、かしましく喋る女子の姿が浮かぶ。
「あたし以外で気ままに雑談してたし、同じように頭ひねってるんだと思ってた……でも、違った」
 三鼓はあたかも腕を組むように自分の二の腕を押さえた。何度かの深呼吸と、腹の中のものを全て出すような深いため息。
「あの子ら、あたしが描いた没案を目でコピーして県展用に使った。言葉とかも、全部そのままだった」
「は……?」
 一瞬、彼女が何を言ったのか理解出来なかった。耳に届いた単語を脳で正しく受け取ると、心臓の鼓動が急激に激しくなる。
 園崎が真偽を疑っているように見えたのか、三鼓は施錠式の個人ロッカーから自分のクロッキー帳を持ってきた。
 線画の荒い筆致ながら、確かに県展で見かけた構図の絵が並んでいる。
 会場で見かけた、清書と彩色を施して仕上げられた偽物より下書きに過ぎない原案の方がずっと秀でて映った。首の後ろが恐ろしいほど冷えていく心地がする。
「賞とか一切取れてなかった。で、あたしにくっつくのやめた。それで終わり」
「盗作じゃん! 何で怒らないんだ!? それが証拠になるのに!」
 無表情に戻った三鼓の態度に耐えきれず、園崎は先の折れた鉛筆を放って席を立った。
 我がことのように感じている園崎が意外だったのか三鼓は少したじろいだが、顔そのものに目立った変化はない。
「発表したのはあの子達が先。思いついたのがあたしでも、描き起こしたのはあの子達だからどうしようもない。箸にも棒にもかからなかった以上、騒ぎようがないよ」
 あまりに冷静な結果論だった。
 県展で賞に選ばれたのは三鼓本人の作品だけ。悪事が露見せず大事にならなかった最大の原因がそこにある。
 三鼓はたった一人で勝ってしまった。取り巻きを糾弾しなかったのは、彼女らに費やす時間を惜しんだためか。
 それでも、盗まれたのが自分であれば耐えられない仕打ちだと園崎は思った。
「騒げなくても……悔しいだろ、そんなの」
 目頭が熱くなるのをこらえ、うわずった声をしぼり出すと三鼓は弱く頷く。
「教室じゃ、もう落書きくらいしか描きたくない。すっぱ抜かれたらダメだって分かってたんだけどね。あたしがうかつだった」
 細く整えられた眉が下がっていて、心底寂しそうに映った。
 期待を裏切られたような言い回しから、彼女は今までも似通った被害に遭い続けており、警戒の結果として無言を貫き通す姿勢になったのではないかという疑念が沸く。
「……三鼓の絵って、一度見たら忘れないくらい綺麗で上手いよ。それこそ、学校行かなくてもプロデビューできそうっていうか……なんでここにいるのか、不思議なくらいだ」
 何かしらのフォローになりはしないかと、日頃から思っていたことを率直に伝える。
「無責任だよ。あたしより上手い人は山ほどいる」
「えっ……あ、そうだよな。ごめん」
 すぐさま歯がゆそうに切り返され、園崎は自分の軽薄な物言いを反省した。
 好きな絵を描くだけで生計を立てられる者などほとんどいない。デザイナー業というと華やかに聞こえるが、大抵の場合は企業に属して協議の上でデザインを練り、依頼に忠実に沿った作品を生み出すのが仕事になる。
 我を殺すのが最優先されるのだ。趣味の延長でのびのびと描くのとはわけが違う。
 絵が上手いからどこでもやれるだろう、などと思うのは愚かだった。
 反省して頭を下げる園崎をよそに、三鼓は会話に飽きたとでも言うようにクロッキー帳をロッカーに戻し、踵を返してドアへと歩き出す。金具付きの革靴に似せた、丈の短いレインブーツの足音はとても静かだ。
「何で俺に盗作のこと、教えてくれたの」
 すらりとした背中へ素朴な疑問を投げかけたが、返答はない。
 声を掛けた瞬間、長髪がかすかになびいたが振り返るまでには至らなかった。

 その日以降、園崎の目は少し濁った。三鼓の周りに集まっていた件の女子達がハイエナの群れに見えてならず、周囲の者も油断できない動物のように映るのだ。
 平凡な才しかない自分が警戒しても取り越し苦労に過ぎないと分かっていても、万が一という焦燥感があった。基礎を学び、資格取得のために足並みを揃える同士という捉え方はもう出来そうにない。
 三鼓だけは変わらずに居たが、下手に馴れ馴れしくすると自分まで群れの一匹に成り下がるような気がして、下手に関わりを持てなかった。

 更に月日が経った年末、教室のホワイトボードに忘年会の知らせが貼られた。会費を集め、飲み屋を貸し切って過ごす恒例行事だ。
 普段の園崎なら金欠を理由に参加を断るところだが、参加者欄に三鼓と書かれているのを発見して気が変わった。
 彼女も毎回不参加だったというのに、どういう風の吹き回しだろう。飲み会の実態と三鼓の過ごし方に興味が尽きなくなった園崎は、思わず彼女の下に名前を書いた。
 貴重な休みである土日を潰すのを惜しんだのか、忘年会は金曜日の夜に開催された。
 くじ引きで選んだ席は長テーブルの壁際という末席に等しい場所で、注文もトイレに立つのも一苦労という有様だった。
 仲の良いグループで集まろうと頻繁に席替えが繰り広げられる中、園崎は味の濃い唐揚げと野菜スティックを交互に口に運んで成り行きを見るに留めた。
 共に街をぶらついたことのある者はちらほら居たが、誰かを押しのけてまで隣に居座るほどの仲ではない。
 生まれて初めて飲んだビールは爽やかなテレビCMとは裏腹にひたすら苦味の強い炭酸飲料で、女子が頼むカクテルの方がジュースに近く、まだ飲めた。
 柑橘系の酸っぱさを味わいながらも、視線は遠い席の三鼓へ向きがちになる。しかし席を立つまでには至らず、会の終了まで二人は一度も隣り合わなかった。
 主催者からの締めの挨拶が済み、学生達は飲み屋の入り口で徐々にばらけていく。
 知り合いから二次会への誘いを掛けられたが、多人数で話すのが苦手な自分がいては盛り上がりに水を差すと丁寧に辞退した。
 男女比率が多少偏ろうとも、無礼講の場ではさして気になるまい。
 人よりも、自分がきちんと家にたどり着けるかを心配すべきだ。カクテルなら大して酔わないだろうと勘違いしていた。
 ふらつく足で帰路に就こうとした園崎は、程なくして上背のある誰かとぶつかった。
「わっ、すみません」
 黒に近いネイビーのファーコートから一歩距離を置いて見上げると、少し赤みを帯びた秀麗な面立ちが知れた。
 意図せず三鼓と衝突してしまったのだ。
「おぉ……?」
 ノンアルコールで済ませそうな印象を持っていたが、彼女も酒を飲むのか。
 今更な感想を抱く園崎を尻目に、三鼓は無言で己の手に分厚い手袋をはめていた。首まで覆うニットといい寒がりであるらしい。
「このまま帰るの?」
 白い息を吐きながらの問いかけに園崎は多少、頭をひねる。
「二次会のこと? 憧れがないわけじゃないし、なんか寂しいなとは思うけど。俺はほら、邪魔になるからさ。夢は夢のままで、こう」
 あらぬ方向を向いて妙に浮ついた気持ちのまま喋っていると、急に手首を掴まれた。
 ぎょっとして彼女の方を見つめ直す。
「暇なのかどうか、聞いてるの」
 焦げ茶色の目には、不思議なほど真剣みがあった。
「ええっと……用はない、かな」
 勢いに気圧されながら答えた直後、三鼓はぐいと手を引いて歩き始める。
 園崎と違って足取りにおかしな点はなく、非常に堂々としていた。
「カラオケでも行く?」
 駆け足についていこうとして転びそうになりながら、半ば冗談のつもりで尋ねるも笑いは起きない。
「……あんたに、話がある」
 押し殺したような声は意味深だったが、言われた時点では意図を掴めなかった。
 教室や飲み会の席では出来ない話とは一体何なのか。周りに聞かれては困るのか。酔いが回った状態では深く考察するのも難しい。
 気に留めていた相手から相談事を持ちかけられているとだけ理解し、園崎は楽観的なにやけ面になっていた。

 導かれるままにたどり着いた先はマンションだった。ライトアップされたガラスのエントランスと大理石の床を通り抜けて、カードキーであらゆるロックを解除していく。説明こそないが、三鼓の自宅に違いなかった。
「お邪魔しますー」
 玄関と見て反射的に頭を下げるも家主には無視された。物が置かれていない殺風景な玄関や廊下から綺麗好きかと当たりをつけていたが、ドアを一枚隔てた向こうは全く様子が違う。
 カーテンで閉め切られた掃き出し窓を潰すように巨大な本棚が置かれており、隙間なく本が詰められている。その手前で分厚い図鑑がいくつも平積みにされていて、カラフルな付箋が重ならないように付けてあった。
 壁と密着した木製のテーブルの上には乾いた絵の具の乗ったパレットや筆、画用紙など課題で用いる道具が使いかけで転がっている。カレンダーが貼られたドアは、おそらく寝室に繋がっているのだろう。
 部屋の角にある姿見はカバーが掛けられておらず、ぶつけたのか上方が割れてしまっていた。しばらく見回したが、作業スペースの一脚以外に椅子はない。
 あの席に座って良いのは三鼓だけだという意識が働き、園崎はフローリングの床へ直に座り込んだ。
「水、飲む?」
 防寒具を脱いだ三鼓がエアコンを起動させながら顔を覗いてくる。
「大丈夫。ヒルガちゃん、何か話したいんだろ。寝る前に、聞いておかないと」
 ひらひらと手を振りながらも、喉から大きなしゃっくりが出た。
 こみあげてくるものはないが視界が揺らぎ始めている。早々に切り出して貰った方がいいかもしれない。
 酔いを醒まそうと何度か首を振っているうちに、園崎はふと、三鼓を名前で呼んでしまったことに気が付いた。
 普段は人をちゃん付けなどしない。友達と表現するのも微妙な間柄だというのに、何故それが言いやすかったのだろう。
 疑問に思った矢先、三鼓が動き出した。
 ハンガーに掛ける途中だったコートが外れて床に落ちたのも構わず歩み寄り、園崎の手を握ってきたのだ。
「三鼓……?」
 酒で互いに体温が高くなっているはずが、少し冷たく感じられる。
「思い出したの?」
 ぎゅう、と細さに合わぬ力がこめられて、ほのかな痛みがあった。
 意識不明者がようやく目を開けたのを目撃したような焦った声。
「何のこと……」
「あんたはあたしを知ってる」
 首を振って反論をさえぎられた。
「地元の幼稚園で一緒だった。あんたが忘れても、あたしは……忘れてやらない。いつ言い出すか、ずっと迷ってた」
 眉をひそめた苦々しい表情から、その思い出は嫌な感情を沸き立たせる類いのものかと考えたが、実際は違った。
「……ヒルガちゃんは凄い。僕も描くの好きだけど、ヒルガちゃんの見てる方がいい」
 当時の真似をしているのか、三鼓は少し声を高くしていた。
「色んなクレヨン使って、凄く綺麗。ヒルガちゃんの目で見るとこんなに綺麗なんだね」
「……あっ」
 つたなくも真っ直ぐな言い回しが心の一部に引っかかる。
 年月を経て他と混ざり、半ば埋没しかけていた記憶が走馬燈のように蘇った。
 ラインの入ったセーラーの制服を着た小さな女の子が床に寝そべり、自分と共に画用紙で絵を描いている。
 女の子は幼くして集中力があり、似た色のクレヨンを組み合わせて影や濃淡をつける技術を持っていた。
 二人だけで何枚も紙を使ってはいけないと先生が注意しにきた際、仕上がった絵を見て大変に驚き、続けても良いと言って引き返してしまうほど上手かった。
 褒められ続けているうちに女の子は人気者になり、園崎が割って入る隙間は徐々に失われていったが、女の子の隣を諦めるつもりはなかった。
『僕、虫が好きなんだ。だからヒルガちゃん、虫になってよ。そうしたら、ヒルガちゃんをカゴにいれて、ずっと一緒にいられる』
 意中の人を独り占めにしたいという思いがありありと感じ取れる言葉に、彼女がどんな返事をしたかは分からない。ただ、その発言の後に二人はまた手を繋ぎ、共に過ごしていた。女の子が見せる満面の微笑みは、決して無理強いされたものではなかった。
 けれど直後に出てきた記憶は、それまでとは真逆の響きを有していた。
『ヒルガって、虫なんだぞ。蛭っていう虫がいるし、蛾も虫だ。だからヒルガは虫だ』
 小学校に入学して間もなくという時に、園崎の口から出た言葉だ。
 環境が著しく変わり、以前とほぼ同じ理由で彼女と距離が生まれかけた。
 同性同士で何事も遊ぶべきという風潮に負けるのが嫌で、親の書斎からふりがなの振られた図鑑を見つけて語呂合わせに使った。
 かつて彼女に受け入れられた文句を、今度は周りにも示してやろうとしたのだ。
 園崎に悪意はなかった。蛭は悪い血を吸ってくれる。蛾は光のあるところを教えてくれる。どちらにもマイナスのイメージを持っていなかった。
 しかし表現がつたなく主語も欠けていたために気持ちは汲み取られず、理不尽な罵倒と見なされた。
『可哀相な、さあちゃん。シアンのせいよ』
 あだ名の由来は苗字だ。かつて彼女は逆巻翻(さかまきひるが)という名前だった。
 机に伏せて泣いている女の子の背中と、彼女を守ろうと囲ってバリケードを築く女子達の姿が鮮明に思い出される。
 女子に徹底的に阻まれ、謝る機会すら得られなかった。
 家庭の事情で彼女が引っ越してしまうと、それすらも園崎が原因とされて、最終的にはいじめが始まった。
 大切な人を傷付けた罪と、一方的ないじめが孕む毒。その辛さに耐えきれなくなった園崎は、関連性を含めた過去の記憶を頭の奥にしまいこんでいた。
「最初に名簿を見た時は同姓同名の別人じゃないかと思った。入学式の日に本人だって気付いた。それからはあんたの知ってる通り」
 酩酊して定まりにくい視界の中、園崎は三鼓の顔を改めて見つめ直す。
 子供特有の丸顔から細面に変わり印象が異なっているものの、ゴムが結べないほど細い黒髪と焦げ茶色の眼差しは確かに面影を残している。
 何もかも忘れて脳天気に日々を過ごす加害者に彼女はどれだけ腹を立てただろう。話しかけてきたのも秘密を明かしたのも、全てはこの瞬間のためだったのか。
 園崎は握られたままの手をすり抜けさせて自分の膝に置くと、勢いよく頭を下げた。
「な、殴れ! 蹴ってもいい! 気が済むことなんかないだろうけど、罵詈雑言でもなんでも浴びせてくれ!」
 今更、好意からの行動だったと弁明して罪を軽くしようとは思わない。そんな卑怯な真似をするくらいなら、彼女のサンドバッグになった方がマシだ。
 微動だにせず相手の出方を待っていると、呆れたような嘆息が漏れ聞こえた。
「……何やってんの?」
「謝っても……手遅れだから、せめて俺への苛立ちだけでも受け止めようと」
「馬鹿。顔、上げてよ」
 失笑を浴びつつも言われるがままに姿勢を戻したーー直後、不快ではない圧迫感が来る。 三鼓が覆い被さるように抱きついてきたのだと把握するまでに、ひどく時間を要した。
「ヒルガ……ちゃん……?」
 髪から淡い石鹸の匂いがする。
「あんたは絵を通してあたしを見た。あたしの見ている世界を褒めた。そのせいで、あたしはまだ描いてる。たった一回のそれを、いつかまた欲しかった。ただ、それだけ」
 空を掴んでいた手を肩や二の腕に回すと、三鼓は身を震わせた。
 小さく鼻をすする音を耳が拾うも顔を見ることは叶わない。
「……あたしを虫けらにした責任を取れ」
 限られた視野のどこを取っても生活や嗜好がうかがい知れるアトリエに招かれた意味を、ようやく悟ったような気がした。
 園崎は目を閉じて呼吸を整え、長く言わずにいた一言を口にする。
「君が、好きだよ」
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