喉につかえる紫

坂本雅

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むらさき

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 生まれてすぐ母が死に、父は蒸発した。私は母方の祖母に引き取られ、奉祀を世襲してきた家の後継として告森蛍《つげもりほたる》という名前をもらい、育てられた。
 祖母は口癖のように、旧華族の家系である告森家を継ぐにふさわしい子になりなさいと言った。物心ついてからは毎日が勉強漬け。ネットを禁じられ漫画やアニメ、ゲームといったポップカルチャーはおろか、テレビも教養番組以外は一切見せてもらえなかった。食事でさえ、精進料理のような和食しか出てこない。
 小学生高学年以降は美容整形を促された。親戚のおばさんに連れられて整形外科に足しげく通い、生まれつきあったアザやホクロ、思春期にできた小さなニキビ跡までくまなく除去して回った。肌の治療が済むと、顔そのものにも着手した。目頭を切開して本来より目を大きくして、糸を通して埋没させ、二重まぶたを作った。
 一つの工程が終わるたび可愛くなった、綺麗になったと褒められたけれど、理解はできなかった。鏡に映る自分の顔が、少しずつ誰だか分からなくなっていく心地ばかりしていた。
 高校入学を控えた三月、歯並びが良くないからと歯科で上下の歯にワイヤーを通した金属製の矯正装置を付けた。笑ってみてくださいと歯医者に促されるまま鏡の前で笑うと、金具だらけの口の中が見えて鳥肌が立った。
 これを三年間、四六時中付け続けるなんて刑罰みたい。歯科を出て空を見上げると夕暮れは薄暗く、黒雲が広がっていて、雲間のところどころで雷鳴が光っていた。
 寄り道せず、まっすぐ家に帰るよう習慣づけられていたけれど、不意に自分を取り巻く全てが嫌になった。行き場なんてないのに、気がついたら家への道とは反対方向に駆け出していた。
 どこをどう通ったのかも覚えていない。霧雨から小雨へと、雨の勢いは次第に強まっていく。不注意で水たまりを踏んでしまって、スニーカーごしに靴下が濡れて不快だった。
 走り疲れて息があがり、足を止めると、怪しげな看板を掲げた店の立ち並ぶ裏路地に着いていた。夜型の営業時間が印字された白いシャッターには、英語を崩したようなスプレーの落書きがいくつも書かれている。
 疲労を実感した瞬間、膝から力が抜けて、私は硬いコンクリートの道の上にへたりこんだ。こういう状態を濡れネズミと言うんだろうなとぼんやり思った。
「お嬢ちゃん。こんな裏道にいたら、どこか変なとこに連れ込まれちゃうわよ」
 靴音と一緒に、男性の低い声がした。女性的な口調は日常的に使い慣れたような響きで、わざとらしさや違和感はなかった。
 見上げると黒い傘をさした、白いドレスシャツとジーンズ姿の男性が立っていた。すらっとした細身で、焦茶色の髪を耳が出るくらい切り揃えているのに前髪は長く伸ばしていて、右目が隠れている。
「ごめんなさい、すぐに立ち去りますから」
 歯を覆う金具を晒したくなくて、私は口元を右手で隠して立ち上がった。男性は手首を傾けて、私を傘の中に入れてくれる。
「傘は持ってないの? 鞄は?」
「元々、持ってないです」
 歯科は徒歩圏内だからと、ポケットに財布とスマートフォンを入れただけの軽装でいた。長袖シャツに地味なカーディガンと膝下のロングスカート。
「家出少女ってこと?」
「そういうわけじゃ……」
 気持ちの上では否定しきれない部分があったけれど、首を横に振った。男性は辺りを見回しながら息をつく。
「どっちにしろ、この辺りは若い子が手ぶらで歩いていい場所じゃないわよ。ついて来なさい、傘貸してあげる。あたしはここでバーやってるの。店に置き傘なんていくらでもあるわ」
 その人が笑うと、綺麗な白い歯が覗いた。少し尖った犬歯が顔の雰囲気とよく合っていて、不揃いな美しさを初めて知った。
「ありがとうございます……お兄さん、お名前は?」
「ヴァイオレット。BRIGITTE(ブリジット)オーナーのヴァイオレットよ。仕事前のすっぴん見たこと、内緒にしてちょうだい」
 私は彼に連れられて開店前のバーに行き、使い古しの傘を借りた。
 それが彼との初めての出会いだった。

 黒壁にポスターやメニュー表が貼り出されたバーの店内は誰も彼もオレンジライトで照らされていて、非現実的に見える。窓も遮光カーテンで閉めきっているから、時間帯さえ掴みづらい。
「はい、シンデレラ」
「ありがとう」
 ヴァイオレットちゃんがカウンター内から、席にいる私の前にノンアルコールのカクテルを差し出す。ボリュームのある藤紫色をした縦巻き髪のかつらと、紺色のノースリーブドレスがお店でのヴァイオレットちゃんの正装だ。
 大げさに引いたアイラインと長いつけまつげ、まぶたや目の下で大粒のラメが光るお化粧もすっかり見慣れた。
「そういえば昨日、あんたと初めて会った時の夢を見たわ。懐かしいわね」
「お店には大人になってから来なさい、って言われましたね。約束通り三年待ちましたよ」
 鮮やかな黄色のカクテルを一口飲んで返答すると、ヴァイオレットちゃんは苦笑いを浮かべて右手を軽く横に振った。
「興味本位でゲイバーに来たがる女子高生なんて厄介だもの」
 借りた傘を返しに行った時、BRIGITTEがゲイバーで彼がドラァグクイーンだと知らされた。ヴァイオレットちゃんの仕事は歌とトークがメインで、さっきシェイカーを振ってカクテルを作ってくれたのはお店のスタッフでバーテンダーのアンリくんだ。今もヴァイオレットちゃんの横で他のお客さんのカクテルをせっせと作っている。
「もう卒業しましたし、とっくに成人ですよ」
「そうね、最近は十八歳で成人。お酒も煙草も駄目なのに選挙権あってエッチなものは見ていいのよね。不思議」
 高校卒業後、神主の資格を得るために神職養成機関のある大学に入った私は月に一、二度のペースでお店に足を運んでいた。
「お待たせしました、クローバークラブです。……口を挟みますがゲイバーのショーって、新成人が見ていいものだったんでしょうか?」
 隣席のお客さんに白く泡立つ赤いカクテルを差し出してから、アンリくんが話に加わる。
「入店していいなら見ていいと思いますよ。この間、全国ネットで半裸の芸人が踊ってました」
 私は自分にとって都合のいい持論を展開した。たまたま点けたニュース番組の一シーンで、今、人気沸騰中の芸を披露しようとしていた。家事手伝いに来ている親戚からすぐにチャンネルを切り替えるよう促されて、細かくは見ていない。
「やぁだ、裸芸と一緒にしないで! ……と言いたいところだけど、我ながらあれより教育に悪い自信はあるわね」
「私、このお店のショー好きです。夢の舞台って感じがして、素敵ですから」
 ステージパフォーマンスのバックミュージックに使われているのは大抵が洋楽で、ひょっとしたらすごく下品な歌詞なのかもしれない。
 でも、聴き取りが難しいし曲の雰囲気自体は好きだから、深く考えずに聴いている。ドラァグクイーンの扇状的なダンスだって、キレがよくて素敵だと思う。おおよそ娯楽を絶たれた生活がパッと華やぐような心地がする。
「そう。おかわり要る?」
 私が飲み干して空になったカクテルグラスを下げながら、ヴァイオレットちゃんは機嫌よく尋ねてきた。
「お願いします。次はピンクレモネードで」
「はーい。それならシェイカー要らないし、たまにはあたしが作ってあげるわ」
「やった、ありがとうございます」
 ヴァイオレットちゃんが棚からシロップと炭酸水を出して準備を始める。
 ピンクレモネードもシンデレラと同じくノンアルコールのカクテルだ。アンリくんはすかさずグラスにクラッシュアイスを入れてヴァイオレットさんに渡していた。
「趣味に合うなら何より。蛍さんはマナーがいいですから、俺も来て頂けて嬉しいです」
「そ、そうですか……」
 黒髪をオールバックにした美青年に目を細めて微笑まれて、社交辞令と知りつつ内心、緊張する。
「あはは、怖がらなくても大丈夫ですよ。異性愛者の男と話すのが不得意で俺たちと話して練習したがる人、結構いますから」
 一生懸命の笑顔はひきつっていたみたいで、アンリくんに笑われてしまった。ヴァイオレットちゃんに対してはドラァグクイーンの姿でなくとも自然体でいられるのに、彼以外の男性と接するのは苦手だ。しかも私の場合は、相手が異性愛者でも同性愛者でも関係ない。
「ごめんなさい、いつまでも慣れなくて」
「いいえ。男に何か嫌な思い出でもあるんですか? この際、話してスッキリした方がいいですよ」
「思い出ですか……」
 アンリくんに促されるまま、私は少し考え込む。ひどいいじめを受けていたとか、重い過去があるわけじゃない。祖母や親戚から男性とみだりに関わりを持つなと念を押されていたせいか、怖いものだという意識が根付いているだけ。けれど、複雑で面倒な家庭の事情を打ち明ける気にはならない。
「別に悪いことは起きてませんね。中学の頃は男友達がいて、スマホで漫画を読ませてくれたり、配信されてるアニメを見せてくれたりしました」
 小学生の頃、ネットやテレビの流行りに乗れない私は同級生たちと共通の話題がなく孤立していた。中学でもそれが続くものと考えていたけど、転校生の男の子とだけは馬が合った。
 私と男の子は揃って帰宅部だったから、よく放課後の帰宅途中にある公園のベンチに並んで座り、だらだらと過ごしていた。本当に面白いからとあれこれ勧めてくる彼を当時は暑苦しいとすら考えていたけれど、今になって思えばありがたい話し相手だった。
「あら、いい友達じゃないの」
 ヴァイオレットちゃんが完成したピンクレモネードを私の前に置いて、どこか嬉しげに口角を上げる。私は小さく首を横に振った。
「中学だけです。高校は別だったから、そこで縁が切れちゃいました」
 SNSのアカウントは知っていたし、メッセンジャーアプリにも登録している。でも学校という接点がなくなると、あえて連絡を取る理由もなくなってしまった。結局、中学卒業後は一度もやりとりをしていない。
「あんた意外と薄情ね。まぁ、仕方ないかしら。高校生はやれること多くて、下手な社会人より忙しいもの」
 アンリくんがヴァイオレットちゃんの意見に頷きながら私を見る。
「でも、なるべくなら連絡しておいた方がいいですよ、蛍さん。社会人になったら友達なんてなかなか作れませんから」
「そうそう。縁が続いてた人でも、ある日突然会えなくなったりしちゃうのよ。後悔先に立たずってやつ。この間もさ……」
「あぁ、マリーさんですか? 本当に、いきなりでしたね」
 二人の声が心なしか小さく、密やかになった。
 マリーゴールド。ヴァイオレットちゃんがデビューしたお店の同僚だった同世代のドラァグクイーン。仕事帰りや休日に互いの家で宅飲みしたり、カラオケで夜を明かしたりと仲が良かったそうだ。
 ヴァイオレットちゃんが独立してBRIGITTEを開いた後も折を見て会っていたのに、ある日、アルコール中毒で急死してしまった。
「マリーの家族があいつの番号で連絡してきてね。家族だけで全て済ませます、なんて言われて。あー、あいつ下手したわねって思いながら通話切ってさ……」
 一呼吸置き、ヴァイオレットちゃんは眉をひそめて憂いを帯びた表情になる。
「あたし、そのままマリーに電話かけようとしちゃった。繋がるはずないのに」
 衝撃的な事件が起きた時、すぐに受け入れられる人は少ない。相手が内輪と呼べる仲だったなら、なおさら。動揺するあまり、無意識に本人へ確認を取ろうとしたのだろう。
「わぁ……俺もやりそうです、それ」
「すぐ正気に戻ったから、リダイヤルせずにいられたけどね。アンリ、あんたも寝酒はほどほどになさいよ」
「あはは、気をつけまーす」
 アンリくんは頭を下げるでもなく、声のトーンを元通りにして軽快に笑った。それを合図に話題が世俗的なものへと切り替わる。
 ピンクレモネードを飲みながら、私はマリーさんの一件とヴァイオレットちゃんの行動を心に留めていた。自分が死んでしまった時に驚いてくれて、死そのものを疑ってくれて、何年経っても思い出してくれるような間柄の人がいたら人生が無駄じゃなかったと思えそう。
「マリーさんと、すごく仲良しだったんですね」
 お客さんやアンリくんとの会話の切れ間を見計らって、ヴァイオレットちゃんに話しかける。ヴァイオレットちゃんは肩にかかった巻き髪を片手でかきあげて、懐かしそうに息をついた。
「ろくでもない腐れ縁の悪友よ。あんたの前じゃ聞かせられない下品な話ばっかりしてたわ」
 地毛同様にかつらの前髪も右側だけ長く、顔の向きによっては表情が読みづらい。それでも彼は今、マリーさんを追想して遠い目になっていると伝わってきた。
「私の前でもいろんな話、してほしいです」
 意を決して思いきった提案をしたのに、ヴァイオレットちゃんはグロスを重ねた赤い唇に柔らかい微笑を浮かべて、首を横に振った。
「相手に合わせてトークを変えるのがプロよ。空気を読む力と引き出しの多さが夜の店で成り上がる秘訣なの。あんたがもっと経験積んだら、考えてあげる」
「……子供扱いですか」
「歳を取りたくなくなってからがいっぱしの大人よ」
「実感こもってますね、ママ」
「お黙り、アンリ。時給減らすわよ」
 周りから笑い声があがり、私もつられて笑った。調子を合わせただけで、心からのものじゃなかった。ヴァイオレットちゃんと出会わなかったら、私はひどくつまらない日々を送っていただろう。彼にはとても感謝しているし、興味があるからこそ知らない一面を垣間見せてほしかった。
 でも冷静に考えると、下品な話を振られても私は面白い応対ができない気がする。性教育は一通り学校で教わっていても関心が薄くて、他人事のようにとらえている。だったら、違う話題の方がいいに決まっていた。
 ヴァイオレットちゃんの判断は正しい。ゲイバーにそぐわない私は、オーナーである彼の去る者は追わず来る者は拒まずの精神によって席をもらっているにすぎない。
 自己嫌悪で若干、悲観的になりながら私はカクテルを飲み終えてお勘定を払い、いつもより早めにお店を後にした。連日帰宅が遅くなると、親族にまたお小声を言われてしまう。
 息抜きの場は必要だし、素性を明かさないならどこへ行こうと構わない、なんて許可を出してはいても、決していい顔はされていなかった。
 修繕と改築を重ねながら、告森家の人間が代々住んできた旧家のお屋敷は庭園も含めてとても広い。土地がありすぎて、時折がらんどうにも思える。
「お帰りなさい、蛍さん。すぐにお夕飯にしましょうね」
 家政婦として住み込みで働いている小林さんが、庭の掃き掃除をやめて声をかけてきた。お嫁に行った分家の女性で、幼い頃からお世話になっている。けれどいつも張り付けたような愛想笑いを浮かべているし、私を過度に幼く見ていて意見を真剣に聞き入れてはくれないから、正直あまり好きじゃない。
 挨拶を返して手洗いを済ませ、居間に行くと着物姿の祖母が座卓に着席していた。足を悪くしてから、あまり動けず寝室に食事を運び入れることも増えた。今日は身体の調子が良いらしい。
「ただいま帰りました、おばあさま」
「お帰りなさい、蛍さん」
 しわの多い無表情からは何にも読み取れない。ちょっとした会話を試みようと、学生時代から外で起きた出来事をたびたび話してきたけれど、祖母が成績と健康状態以外の私的な趣味に関心を寄せたことはない。だからいつしか、私は祖母の前では貝のように押し黙る癖がついた。一所懸命に話しかけても一切関心を寄せられないなら、その努力は無駄だからだ。
 テレビを見ながら食事するなんて品がない、と祖母が主張するので、居間のテレビは暗転したまま。食事時の話題は、亡き母や親族の過去の話ばかり。健康に気を遣った味気ないメニューを食べながら、世間と隔絶された奇妙な時間を過ごしている。
「蛍さんが母親似で本当に良かった。子供を見捨てる親なんて、ねぇ」
 祖母は居なくなった私の実父がことのほか大嫌いで、ぶつける先のない嫌味をたびたび宙に浮かべた。
 言いたいことは分かる。でも、どこで何をしているかも分からなくなった人をいつまでも恨んで疲れないんだろうか。私は見捨てられた張本人ながら、実父に対して何も心が動かない。好きも嫌いもない。ただ、そんな無責任な人がこれから私の人生に関わらないことを祈るばかりだった。
「祭りを楽しみにしていますよ。蛍さんの晴れ舞台ですからね」
「はい。頑張ります」
 毎年、この地域ではクリスマスの少し前に大きな祭礼がある。告森の一族も必ず関わってきた、由緒ある神事。今年は私が巫女の一人として初めて行列に参加し、神楽を披露する。
 大学の講義と課題に追われながら、隙間を縫って稽古に励んでいた。やらなければ家に居場所がないから、やむを得ず努力した。
 空虚な食事を終えてお風呂と歯磨きを済ませて、部屋にこもる。ベッドで横になりながら、不意にBRIGITTEで話した中学生時代の友達を思い出した。
 園崎《そのさき》紫安しあんくん。絵が得意なのに美術部には入っていなくて、独学で描き続けて展覧会やコンクールでたびたび賞をもらっていた。
 親しみやすく気さくだったけど誰にでも浅く広く付き合っていて、友達の輪に入らず一人でのんびり過ごしていた。彼は孤高で、私は孤独だった。顔や手足にちょくちょく保護テープをつけてくる神社の跡取りは、同級生から腫れ物を触るように遠巻きに見られていた。
 園崎くんとどんなきっかけで話すようになったのかとか、別れの挨拶が何だったとか細かい部分は覚えていない。でも、一つだけ忘れられない言葉があった。
「詳しくは分からないけど、肌とか綺麗にするのって、お金がめちゃくちゃ必要らしいじゃん。告森はそれだけ大事にされてるんじゃない?」
 親族の求める、あらかじめ決められた枠組みに無理やり押し込められている気持ちでいた私にとって、それは思いもよらない視点だった。醜いから整えなければいけないんだと卑下するばかりで、私自身の価値なんて考えてもみなかった。
 あの言葉がなかったら、今よりもっと自信がなくて卑屈な性格になっていただろう。園崎くん本人はそんな言葉を投げかけたことなんて、とうに忘れてしまっていそうだけれど。
「年明けに電話、かけてみようかな……」
 スマホで連絡先の欄を見ながら、どこをタップするわけでもなく、ぽつりと呟いた。

 祭り当日の朝は目覚まし時計より早く起きた。手早く朝食を済ませ、なじみの美容師に分厚くて入念な化粧を施された後、楚々とした巫女装束を着込む。竹の骨組みを載せた頭に白い被衣をかぶせて、ずれないよう紐で固定する。
 被衣は横向きに広がっていて周囲が見えにくいから、家から神社への道のりも手を引かれて車で移動した。境内でしつけの行き届いた白馬にまたがり、じきに神社関係者の皆さんと間隔を開けた行列を成して進み始める。
 鳥居を越えて間もなく、割れんばかりの拍手と撮影のシャッター音が耳に入ってきた。伝統的でおごそかな式だから、馬上から人々に笑いかける必要はない。緊張の実感はなく、心もとても凪いでいた。
 手足の感覚さえ遠ざかっていく心地がする中、肌寒さを覚えて身震いした。吐いた息が白い。正面を向いたきりの視界の端に、空から降ってくる小さな雪が映る。風情はあっても、着物が濡れて重くなったら厄介だ。
 周りにいる誘導役の男性たちのさしている和傘が羨ましくなって、少しだけ首を傾けて覗く。傘の向こうに距離を保った観光客や地元民の人混みが見えた。
「あっ」
 やや細い目と、いつもうっすら笑ったような口元。見覚えのある顔を見つけて思わず声が漏れる。
 園崎くんだ。幾分か背が伸びて首や肩も太くなったけれど、雰囲気はそのまま残っていた。そして彼の横には、腰まで届きそうな黒髪をなびかす細身の美人が立っていた。あまり化粧っけがなくて厚着をしているから分かりづらいけど、おそらく女性だろう。
 園崎くんは私の視線に気づかず、横を向いて彼女に笑いかけた。貴方といられて幸せなんだと訴えかけるような柔らかい表情は、特別な相手にしかしない類のものだった。距離が離れていたのに、注視していたせいで見えてしまった。
 私は何で、そちら側じゃないんだろう。心から疑問を抱いた。
 顔を隠す被衣は、はたから見たら美しくても、かぶっている本人は骨組みを載せている感覚しかなくて滑稽ですらある。こんなもの、観客を楽しませるだけのハリボテでしかない。
 私もただの見物人でいたかった。舞台裏なんて知らずに、そうやって好きな人と一緒に過ごしたかった。
 泥沼のような濁った気持ちがどんどんあふれ出てきて、胸が苦しくなる。馬から降りて、逃げ出してしまいたくなったけど、式を台無しにはできなかった。
 出店の並ぶ通りを練り歩いて社にたどり着くと、他の巫女と一緒に神楽を披露した。
 雅楽も鈴の音も祝詞も、きっとこれから私は何千回も聴くに違いない。整えられて飾り立てられて、神様と人々のために生きられる幸福な立場のはずなのに、どうして私は人を羨まずにはいられないんだろう。
 
 一連の儀式は深夜まで続く。私はこっそりと私服に着替え、見つからないように群衆に紛れて祭りの熱気から抜け出した。
 本来なら出番を終えた後も末席に居続けなければならない。だけど何を言い出すか自分でも分からないし、今はあの場にいたくなかった。足が自然とBRIGITTEに向かっていた。
「蛍?」
 ヴァイオレットちゃんはお店の開店準備中で、たまたま玄関の清掃をしていた。まだドラァグクィーンの格好はしていなくて、彼の地毛も素顔も久しぶりに見る気がする。
「ヴァ……いや、トシさん……」
 お店の外では源氏名じゃなくて、本名の略称のトシと呼ぶように教わっていた。強引にでも笑おうとする私の顔を、ヴァイオレットちゃんはまじまじと眺めてくる。
「ひょっとして、さっき行列で白馬に乗ってた? あと、踊りも」
「え? ええ、まぁ……」
 親族から釘を刺されていたのもあるけれど、色眼鏡で見られたくなかったし、詮索もされたくなくて蛍という名前と年齢以外は明かさずにいた。
 さぞ驚いただろうなと思いつつも肯定すると、ヴァイオレットちゃんは花が咲くような明るい笑顔になる。
「やっぱり! 凄いじゃない、あたし感動しちゃった! 気まぐれに見に行って得した気分よ」
「トシさん……」
 彼の言葉を遮るように、もう一度呼びかけた。下を向き、軽く首を振ってから口を開く。
「さっき、前話した中学の頃に仲良かった人がいて……その人、彼女といたんです。私、嫉妬しました。むかついて、今もイライラしてます。自分から関わりを持とうとしなかったくせに、自業自得なのに、嫌な気持ちを止められません」
 無関係なヴァイオレットちゃんに打ち明けてどうするつもりなのか、どういう対応をしてほしいのか自分でも分からないまま喋った。
「立派に青春してたのね」
 顔を上げると、唯一見える彼の左目が真摯な光を宿していた。茶化しもない真剣な表情に意表をつかれる。
「隣の芝生は青く見えるけど、あんまり羨ましがるもんでもないわよ。その子たちもあんたくらい紆余曲折あって、あの場にいたんでしょうから」
 きわめて穏やかな声音の中にも、早まった解釈をたしなめるような響きがあった。深く考えず安直に慰められるより、よほど胸を打つ。
 果たすべき役割を放棄して逃げてきたこと自体が間違いだった気がしてきて、涙腺が緩んでくる。みっともないな、と自嘲した次の瞬間、ヴァイオレットちゃんは私の肩を軽くぽんぽんと叩いた。
「でも嫌なものは嫌よねぇ! あたしも逃した魚が世の中上手く渡ってるの見たらイラつくわ!」
 先ほど口にしたのは社会的な建前だったのだろうか。威勢よく、当然とばかりに私の不満に同調してくれた。そのまま、呆気に取られる私の顔を少しかがんで覗き込んでくる。
「あんた、この後は暇?」
「は、はい」
 黙って出てきたから家へ一報を入れる必要はあるし、儀礼を見届けなかった件でかなり非難されるだろうけど、しばらくは戻りたくない。
「じゃあウチに来なさい、あたしのおごりで飲ませてあげるわ! 他の客には内緒よ?」
 彼が言葉尻と同時に長く左目を閉じたのは、おそらくウィンクだ。
「ありがとうございます、ヴァイオレットちゃん」
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みんなの感想(1件)

谷 亜里砂
2024.04.19 谷 亜里砂

おごりは嬉しい…!

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