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2章 トライアングル
夜は進む
しおりを挟む「あれ、桔梗、なんでここにいるの」
「ばあちゃん、良くなったから、帰ってきた。凄いだろ。さすが不死身だわ」
「じゃあ、連休中一緒にいられるんだ」
「ああ」
「……嬉しい」
最後の台詞は、囁くように小さかったけれど、ちゃんと桔梗に届いたようだ。目を細めてにっこりと笑い、いつものように髪をくしゃくしゃに混ぜる。
泣きたいほど、懐かしい。ほんの数時間会わなかっただけなのに……。
「ん? 桔梗?」
目の前の姿が、ふいにぼやける。
ビデオカメラの映像が、ぶれた時のように、数回細切れに身体が分断された後、別な影が、くっきりと、強烈な存在感を持って浮かび上がってきた。
「気がつくのが、早かったな」
ほんの少し気遣うような、しかし鋭い視線が、圭を見下ろしている。
洋介先輩……。
圭は、はっとまわりを見渡した。
「ここは、どこ」
「俺の部屋だ」
やけにがらんとした、殺風景な部屋。
おそらく、高級マンションの一室なのだろう。やたらに広いベッドが置かれてあって、その中央に、圭は寝かされていた。
先輩とキスをしている間に、何か薬みたいなものをのまされて、そのまま、意識をなくしてしまったのだった。衝撃の事実を思い出し、圭の心臓にアドレナリンが一気に分泌される。
身を起こして改めると、どうやら服は脱がされていないらしい。だが、両手を後ろ手にひものようなもので縛られていて、洋介が、圭を拘束して、よからぬことをたくらんでいるのは明白だった。
絶望で、圭はわーんと、子供のような大声で泣き始める。
昨夜の洋介を思い出した。獣のような顔で襲い掛かってきた洋介。
きっと、今度こそ、犯されてしまうのだろう。しかも、圭は彼を裏切ったのだ。
どんな酷い目にあわされるかと想像すると、怖くて全身を襲う震えが止まらなかった。
「泣いても、誰もこないぜ。ここ、防音完璧だから」
洋介は、ちらりと圭に視線を合わせると、そう言った後で、額に手を当てながら
「って、脅してどうすんだよな……。泣くなよ、そんなに泣かれると胸が痛い」
と言った。
しゃくりあげながら、洋介を見つめる。
「お前って、寝てる時でも、桔梗の夢見てんだな」
独り言のように続けられる。
「うわごとで、名前呼んでた……ったく、泣きたいのはこっちだぜ」
俯くと、顎のシャープなラインが一層強調される。
ああ、やっぱり、洋介先輩は綺麗だ……。
こんな時なのに、圭はその完璧な容姿に見とれていた。
この綺麗な男に、こんな傷ついた表情をさせてしまうなんて、自分でも嫌になる。
そんな価値なんて全然ないのに。洋介なら、モデルだって、ハリウッドのスターだって、誰を連れていたって、見劣りしない。
鼻をすすりながら、そんな事を考えていたら、洋介は、
「そうだ、お腹がすいただろ。昼飯、何も食べてないもんな」
と言って、別室に消えた。
隣の部屋がキッチンなのか、手に紙皿とフォーク、それから缶詰の缶をいくつか手にして戻ってくる。
「俺、料理は得意なんだけど、今は道具が何もないからな……。果物は好きか」
「……自分で食べるから、これ、ほどいて」
圭は、手首を振ってアピールした。
洋介は、
「食べさせてやるよ」
と言うと。勝手に桃の缶詰を開けると、スプーンで一片を突き刺して、圭の口に近づける。
「ほら、口をあけろよ」
圭は素直に従った。
冷たい桃の感触と、かみ締めた後の甘酸っぱい香りに、心が少し凪いでいく。
「おいしい……」
呟くと、そっと触れるようなキスが落ちてきた
「桃の味がする……」
囁きながら、舌が差し込まれる。
信じられないくらい、優しくて、自信に満ちた動き。だけど、圭には、洋介が泣いているようにみえた。
口付けが終わると、新しい欠片が唇に運ばれた。じゅわりと飲み下しきれなかった桃の汁が圭の口の端からたれる。
べろりと舐めて清めた後、洋介の唇は、ごく自然に首筋へと移っていった。
「洋介先輩、駄目」
「綺麗にするだけだ」
「そんなとこ、汚れてない……」
小さく訴えたが駄目だった。
音をたてて、吸い上げられる。
きっと跡が残ってしまうはずだ。だけど、両手を縛られていては、押しのける事はできない。
そのまま、ベッドに横たえられる。
「駄目だったら……」
拒絶の声は、自分でも嫌になるほど小さかった。洋介への罪悪感が、激しい抵抗を阻んでいた。
「圭の身体は、どこもかしこも甘いな」
独り言のように洋介が呟く。
そして、おもむろに、身体を離すと大きくため息をついた。
「俺、あれから一睡もしてないんだぜ……すっげー嬉しくって……これからの事考えたら眠れなかった」
素直な、だけど苦しすぎる告白に、どくん、と圭の心臓が大きな音を立てる。
「突然、幸運が舞い降りてきて、嬉しくてたまらないけど、なんかの間違いじゃないかって、不安で、だけど、信じられないくらい、幸せで、でもやっぱり夢か、俺の思い違いじゃないかって、何度も飛び起きてみたんだけど」
呟きながら、片方の唇を上げて、自嘲気味に笑ってみせる。
「やっぱり、なんかの間違いだったみたいだな」
端正な横顔が、憂いで曇る。圭は、たまらなくなった。洋介は誰よりも誇り高い男のはずなのだ。その彼が、こんな傷ついた顔をするなんて。
洋介は、長い脚を抱えてベッドの上に座り込んでいる。捨て鉢な仕草が、受けた衝撃の深さを物語っていて、なお更胸が締め付けられる。今だかつて、こんな洋介は見たことがない。圭は泣きそうになった。
「先輩、解いて、これ」
もう一度お願いすると、洋介は、もう圭を拘束する気力もないのか、簡単に、両手を結んでいたタオルをほどいた。
手首が少し痛かったけれど、洋介の胸の痛みに比べれば、きっと、どれほどのものでもない。
圭は俯いている洋介を後ろから抱きしめた。
「同情すんなよ」
軽く肩を揺するが、圭は振りほどかれまいとしがみつく。
洋介の全てを抱きしめていたかった。
ごめん。俺なんかを好きになってくれたのに。
今度生まれ変わったら、絶対俺、先輩のお嫁さんになるから。
だから、お願い。そんなに悲しまないで。
広い背中に腕を回したまま、心の中で、そう何度も呟いていた。
洋介が上目遣いで圭を見上げる。
「今だけ……抱いて眠っていいか」
見つめ返して、頷くと、洋介は、ゆっくりと圭の背中に手をまわした。
圭が自分から身体を倒していくと、洋介は、その胸に自分の頭をのせるようにしてもたれかかってきた。
そのまま目を閉じると、長い睫が、精悍な顔を黒く彩って、どこか可愛らしい印象を与える。
圭もつられて瞳を閉じる。しばらくすると、静かな二人分の寝息が、部屋の中に響きはじめた。
今度の夢は洋介の夢だった。
洋介が、タキシードをぱりっと着こなして赤いじゅうたんを歩いている。傍らにいるのは、有名なハリウッド女優だ。腰に手を回してエスコートするのも様になっている。
ストロボがたかれて、少し眩しそうに、目を細め、視線の先に圭を捉えて、
「よう」
と、片手をあげてみせる。
かっこいい。やっぱりどこにいたって、かっこいいよ。
そう思ったところで目が覚めた。
ううん、と大きく伸びをする。
ここはどこ、と一瞬記憶を辿った後、全ての事を思い出す。
そうだ、先輩は、と隣に目をやるが、姿はなく、代わりに、水の落ちる音と鼻歌が聞こえてくる。
どうやらシャワーを浴びているようだった。
窓際に近寄ってカーテンを開けると、外は薄暗くなっていた。部屋にぽつんと置かれた目覚まし時計はもう7時をまわっている。いつのまにかもう、夜だった。
きゅーっと扉の開く音がして、洋介が、上半身裸のまま、タオルで頭を拭きながら現れた。
「なんだ、起きてたのか」
さっきのしおらしい態度とはうってかわった、張りのある声。
そのまま、隣の部屋へ行くと、缶ビールを飲みながら戻ってくる。
「お前も飲むか」
蓋の開いた缶を差し出されたが、かぶりを振る。未成年だから、なんて固いことを言うつもりはないが、長居をするつもりはなかった。
洋介に対する責任は全て果たした。
憑き物が落ちたような晴れ晴れとした洋介の表情に、高い山を登った後のような、妙な達成感を覚えていた。
「じゃあ、俺、もう帰るね。駅ってどっち」
首をかしげて尋ねると、洋介は一言
「何言ってんだ」
と言った。
「だって、俺ここがどこかわからないんだもん」
少しふくれて訴える。もう恋人ではないのだから、勿論、車で送ってもらえるとは期待していなかった。
「馬鹿な事言ってないで、お前もシャワー浴びてこいよ」
「え、なに言ってんの」
きょとんと問い返すと、
「お前って真性の天然なんだな」
洋介は本気で呆れた声を上げた。
「俺は、薬を飲ませてお前を部屋へ監禁するような男だぜ。その俺が、ここでお前を逃がすと、本気で思っているのか」
言葉の意味がじんわりと浸透して、脳に到達した時、圭は恐怖で血の気がひく思いがした。
「まさかと思うけど、先輩、もしかして、俺のこと……」
「そ、そのまさか」
しれっとした表情で宣告するる。
「今から俺、お前を抱くから」
巧そうにビールを飲み干すと、洋介は獲物を狙うハンターの目で圭を見た。洋介がライオンなら、対峙する自分はインパラだ。油断は禁物だったと、唇を噛締める。
「すぐには抱かないから、安心しろ。夜は長いからな」
「さっきのは、なんだったんだよ……もしかしてだましたの?」
「だましただ? あ? たった1晩で、別な男と浮気するような奴に言われたくないな」
凄まれて竦みあがるが、そもそも恋人の誓いは、洋介が無理やり圭を襲ったことから発生したのだ。それを思うと、浮気と一方的に断ぜられるのはどうかと思う。だが、脅すような口調はそこまでだった。
「……がっくりきたんだよ……悪いか」
徐に洋介はぷいと横を向く。
「お前が誰かのものになるかと思うと……もう会えないのかと思うと、目の前が真っ暗になったんだよ」
「……先輩」
「あんなたよりない気持ちは生まれて初めてだぜ」
「…………」
照れている姿に、胸が少しきゅんとなる。
可愛い……。
つい頭の中に浮かべてしまった感想を圭は必死で打ち消した。
駄目だ、駄目だ。自分には桔梗がいるのに。
洋介は、圭に視線を合わせるとにやりと笑った。
「信じないかもしれないが、さっきは、お前を帰す気になってたんだぜ。落ち込みすぎて、俺のも使い物になりそうもなかったしな」、
「なんで、気がかわったの」
おそるおそる問いかける。自分自身の馬鹿さ加減を呪いながら。洋介が寝ている間に逃げる。これだけが救いの道だったのに。
洋介は床にビールの缶を置くと、窓際に近づいてきた。逃げようとしたが、遅く、ふんわりと、抱きしめられる。
ちゅっと、髪にキスをされた。
「お前、やばい。可愛すぎる」
ため息のような声。
「隣で眠りこんでるお前を見ていたら、ムラムラしてきて……あっという間に、俺の、回復しちまった」
「そんな」
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「優しくされるのが好きなら、そうしてやる……。お前が満足できるように、好きなやり方で抱いてやるよ。たっぷりと可愛がってやるから、あいつの事は忘れろ」
「先輩……」
「忘れて俺を好きになれ」
洋介は、身を屈めて、深く唇を重ねてきた。無理やり圭の薄い唇をこじあけて、口腔を蹂躙する。
優しくすると言ったばかりなのに。
言葉とは裏腹な強引な口付け。
それは、この夜の行く先を暗示しているように思えた。
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