あの日、自遊長屋にて

灰色テッポ

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二十四 つばくろ

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 春が訪れ風が吹き、初夏の雨が大地を潤す。いま真夏の日差しが樹々の葉を茂らせて、その命が真っ盛りだと謳っている。

 自遊長屋の住人たちは、そんな季節の変化などを楽しむ暇もなく、ただ翻弄されながら毎日の生活に追われてすごしていた。

 長屋の路地では日差しに焼かれた風が吹きぬけ、その風を追いかけているかのように、子供たちが走り抜けていく。その中には雫もいて、夢中でみんなと鬼ごっこをしているのだろう、夜吉はそんな雫のことを、目を細めて眺めていた。

「おう、夜吉、おめえ暇ならこっちにきて手伝いやがれ」

 そう云ってきたのは八助だ。汗をびっしょりかいてそう怒鳴り声をあげている。一体何を手伝うのかといえば、寺子屋につかう学び舎の建築をであった。

 長屋の住人たちは家主の笠次郎にいわれた通り、本当に自分たちで学び舎を建てていた。しかし木場での事件で相楽が大けがをしたことをうけて、それなら急ぐことはない、なるたけゆっくり丁寧に建てていこうというふうに話が纏まったようである。

 それでも先月には棟上げも終え、だいぶ建物としての形ができていた。

「八っつあん悪いな、今日は相楽さんに頼まれて、ご新造さまの月命日の墓参りだ」

 八助は捩じり鉢巻きを解くと、それで汗を拭きながら夜吉のところまで歩いてくる。

「そうかい、そいつはご苦労様だ。一人でかい?」

「いや、お花と雫ちゃんと三人でだ。帰ったら手伝うよ」

「なに心配はいらねえ、このとおり折れた腕も元に戻ったしな」そう云って八助は腕をぐるぐると回しながら「まあ、土産に久寿餅なんてのがあっても、ばちは当たらねえかもだ」とにやりと笑ったものだ。


 木場で相楽と煙一味との事件があってから四か月になろうとしていた。相楽の負った傷はあれから順調に回復していき、足の傷は完治して幸いなことに不自由は残らなかった。
 どうやら草薙氷庵の名医としての評判は伊達ではなかったようである。

 しかし脇腹の金創は、傷が塞がった後も身体に大きな負担を残したままだ。ゆえに一日の半分は床に就いていなければならい状態であり、長屋の人たちに助けられながら日々暮らしている。
 それでも相楽が寝たきりになることを覚悟したことに比べれば、僥倖といえたのではなかろうか。

 ただ氷庵が少し怖い顔をして「くれぐれもまだ酒は飲まぬように」と云いつけると、相楽が「むろんです」と真面目に応えるのとは裏腹な悲しい顔をするものだから、氷庵はその度に怪しむ顔をじっと向けてその本心を覗こうとしていたようだ。

 それに対しギクリとした顔をして相楽が狼狽していたのは云うまでもない。
 曲がりなりにも寺子屋の師匠となる身ならば、そんな無様な姿を曝すような生活態度は改めて欲しいものである。

 そんな相楽はいま、寺子屋で使う教科書である往来物おうらいものの選択に頭を悩ませていた。

「うむう……藩校で学んだことを、そのまま寺子屋でというわけにはいくまいな……」

 そう独り言をつぶやいている相楽の周りには、十数冊の往来物が散乱している。

庭訓ていきん往来と和算の塵劫記は外せぬところだが……王子詣は追々でいいか……この女子の訓戒とやらの女今川は人気らしいが、訓戒と云うのはあまり好かぬ……あ、それよりこれだ、商売往来。やはり町人の子らの将来を考えると外せぬところだが、類書が多すぎて迷う……」

 誰もいない部屋で、わざわざ言葉にだしてまで云う必要もない事だった。それにもかかわらず自分の声を聞こうとするのは、もしかするとそうやって寺子屋の師匠となる覚悟を、相楽なりに日に日に固めていっているからなのかもしれない。


「相楽さん、いらっしゃいますか?」

 そんな風に頭を悩ませていると、外からお花の訪いを入れる声がした。

「おお、お花殿、ちょうどいいところに。どうぞ入ってくだされ」

 お花は何がちょうどいいのかしら? と、分らない顔をして入ってみると、その顔はすぐに難しいものへと変わったようだ。

「またそんな無理をなさって、お身体に障ります」

「いやいや大丈夫、今日はすこぶる調子もいいのです」

「大丈夫じゃありません。氷庵先生もいってたじゃないですか、お腹の傷は長くかかるから、気長に油断なく養生するようにって」

 お花はそうぷりぷりと怒りながら、相楽の散らかした書物を片付ける。そしてその書物が往来物であると気がつくと、手に取って「あら、懐かしい」と呟いた。

「そろそろ寺子屋で使うものを決めようと思っているのですが、武家と町人とではやはり習うものも違っており、いささか決めかねておるのです」

 お花は相楽がそう話している最中も、手慣れた手つきで相楽を布団に寝かせるのを手伝っている。そして寝かし終わると、側にあった団扇で相楽に風をおくりながら訊いた。

「読み書きや算盤などもそんなに違うものなのですか?」

「いえ、その辺は問題ないのですが、商売に関する座学はまったく経験もなく……どんな書物を用いるのが良いのやら困っているのですよ」

「なるほど商いですか……」

「ええ」そう頷いて難しい顔をした相楽であったが、はたと何かに気がついたという顔をした。

「そうだ、八助殿なら商いをなさっているし、何か良いご助言をいただけるのでは?」

「えっ、八助さんですか?」

「はい、八助殿です」

 お花は八助の顔を思い浮かべると、少し困った顔をして僅かに首を振り、云い辛そうにした。

「八助さんはちょっと……」

「駄目ですか?」

「駄目じゃないですけど……うーん……」

 団扇の手を止め考え込んでしまったお花に、むろん悪気はないのだが……八助、まあ頑張れ。

「あっ、そういえば大家の菜衛門さんが、昔にどこかの商家の手代をなさってたって聞いたことがあります」

「おお、それは頼もしい。是非とも菜衛門殿にご助言を賜わりたいものですな」


 そう喜ぶ相楽の顔には、この先はじまる寺子屋の師匠としての生活に、明るいなにかを感じているような眩しさがある。お花にはそれがとても嬉しく思え、我しらずに顔をほころばせた。

「でも今日はもう寝てなくちゃいけませんよ? お墓参りのあとにでも大家さんにお伝えしておきますから」

 相楽はお花に目で頷くと、「そうでしたな」とぽつりと云った。

「織枝の墓参りをお願いしておいて、すっかり余計な話をしてしまいました。ご面倒でしょうがよろしくお願いいたします」

 お花は「面倒なんかじゃありません」と頬笑むと、もう行きますねと断りを入れ腰を浮かせた。
 ちょうどその時だ、窓からみえる板塀の上に、一羽の燕がちょこんと留まっているのが目に入る。

「あら、つばくろ」

 相楽もお花の目線の先を釣られるように見たら、燕は羽ばたいて、夏の日の高い空へ清々として風を切りながら舞い上がった。

「もうすぐまたどこかへ行ってしまうのかしら」

「渡り鳥ですからな、これから長い旅にでて、来年の春にはまた無事にここへと戻ってくるのでしょう」

「そうだといいですけれど、でも中には迷子になる様なうっかり者もいるんでしょうね」そう云ってお花はくすっと笑った。

(──迷子か)

 特に意味もなくお花はそう応えたのだろう。しかし相楽はそれでは哀しすぎると強く思った。迷子になって戻ってこれないとしたら、一体燕はどこへ行けばいいと云うのだろうかと……

 むろんお花を非難してそう思ったわけではない。それはたんに相楽の個人的な感情にすぎないのだ。
 ところが自分でも思いがけないほど切実な感情であったらしく、少し戸惑って黙ってしまったようだ。

 そんな微妙な空気の変化にお花も気づいたらしく、不審気に相楽に振り向いたが、相楽はそれにも気づかずに飛んでいる燕をみつめ、ほどなくしてまた言葉を綴りだした。

「つばくろは長い旅からやがて戻ってくると、また元のつがいと待ち合わせ、巣をつくり子を成すといいます。仲のいい夫婦めおとは生涯そうするらしいです」

「……そうなんですか」

「ええ、だから──」

 そう強く返事をしかけた相楽は、急に自分が感傷的になっていたことに恥ずかしさを覚えたのだろうか、「いや」と口を濁すと小さくかぶりを振り、ゆっくりとお花に向いて語りかけた。

「……だから、このつばくろも長い旅路の果てに、また番とめぐり合えたらいいですな」

 燕はまるで相楽が云い終わるのを待っていたかのように、窓から見えるところを飛んでいたが、やがて遠く南の空の青へと消えていく。

(ああ、そっか、そういうことなんだ……)

 さして勘が良いわけではないお花でも、いま相楽が燕に自分を重ね合わせ、織枝のことを考えていたことくらいは想像できる。ましてや月命日なのだ、そう考えるほうが自然でさえあったろう。

(長い旅路の果てに、か……)

 きっとそれは今生の旅を終え、来世でまた織枝と巡り合いたいという相楽の願いが込められているに違いない。そう察したお花は相楽の情の深さを感じて、なぜだか胸苦しさを覚えた。
 けれどもその胸苦しさは不快なものではなくて、切なくなる様なのに不思議と甘やかだった。

「……ええ、きっとまた巡り合えます」

 祈りにも似たお花の声が相楽に届いたかはわからない。優しく頷くその目をみながら、お花は心の中で繰り返す。

(きっと、きっと……)と。



 八助が捩じり鉢巻きをし直して、学び舎の大工仕事へと戻ったあと、夜吉は何となく手持ち無沙汰にお花が来るのを待っていた。
 少し離れたところには、鬼ごっこに飽きた雫がしゃがみこみ、雑草をひき抜いて遊んでいる。

 夜吉はそんな雫をぼんやりと眺めながら、懐にしまった一本の簪を握った。去年の秋に拵えたまま、お花にいまだ渡せずにいた簪をである。

 そのうち渡せばいいかと思いながら、ずるずると先延ばしになってしまった簪だった。木場での事件があってすぐの頃は遠慮した気持ちもあったのだが、今となっては渡せない言い訳になり果てている。

(なんのことはねえ、つまりは臆病風に吹かれちまっているだけだ)

 そう吐き捨てた夜吉は自分に舌打ちをしたようだ。簪をお花に渡した時の手応えが、もし自分が望んでいるものと違ったらと……要するに失望する事が怖いのだろう。

(ちえ、意気地のねえ……ただ簪をやるだけのことじゃねえか──)

 そう強がってはみたものの、その簪にはそれ以上の意味を持たせてしまっていることに、嘘はつけない夜吉なのである。

「どうしたの? 難しい顔をして」

 お花の声が突然に聞こえた夜吉は、まったくその気配に気づいていなかっただけに酷くおどろき、小さく「ひっ」と変な声をだして振り向いた。

「なによ変なひとね、遅くなって怒っているの?」

「い、いや、そんなことはねえさ、相楽さんには墓参りに行くって云ってきたのか?」

「うん、待たせちゃってごめんなさいね」

「なに、なんでもねえよ……」

「あら、雫ちゃんは?」

 夜吉はお花の問いかけに無言で顎をしゃくり、雫が遊んでいるほうを示す。するとお花もそれに無言で頷くと、二人はしばらく雫が遊んでいる様子をみつめていたが、夜吉の心中は今日こそお花に簪を渡そうと、腹を括るのに精一杯で実はなんにも見ちゃいない。

(よしっ!)と気合をいれ、もう一度懐のなかの簪を握りしめたとき、お花がぽつりと云ったのだった。

「さっきね、つばくろが飛んでいたの」

「おっ? お、おう、そういや飛んでたかもしんねえな……」

 完全に出鼻をくじかれた夜吉は、なんとか平静を装って応えたが、気持ちをすぐに切り替えられるほどの器用さはない。宙に浮いた胸の内を持てあます夜吉を余所に、お花は話を続ける。

「相楽さんが教えてくれたんだけど、つばくろってね、番になると一生同じ夫婦でいるんだって。別々に旅をして戻ってきても、お互いを探してまた同じ番で巣をつくるそうなの。なんかすごいわよね」

 そう話すお花の目は少し熱を帯びていた。しかしそんなことに気づける心の余裕は今の夜吉には当然ない。

「そ、そうか、夫婦めおとか、畜生のくせして生意気な野郎だな」

 ちょっと夜吉に同情してもいいかなと思う。話の経緯いきさつも知らなかった事だし、なにより頭も混乱していたのだろうから。
 しかしお花にしてみれば、そう云う訳にはいかなかった様である。あきらかに無神経だと感じた夜吉の応えに、すっかり機嫌を悪くしてキッと夜吉を睨んだものだ。

「そうね、あんたに話した、あたしが馬鹿だったわ」

(えっ! なんで怒ってんだ?)

 頬をふくらませたお花に、夜吉はあわれなほど狼狽している。訳が分からないのもさることながら、ますます頭が混乱した挙句に、夜吉はすっかりしょげ返ってしまった。

 ところがお花は、そんな夜吉に「まったくもう」と普段と変わらぬ笑顔を向けた。お花とて最初から自分の感傷を夜吉に押し付ける気はなかったのだろう。
 ただなんとなく今日は素直な自分でいたかったように思う。夜吉とこうして怒ったり笑ったりできることが、お花には嬉しい。

(あれっ?……どういうこった?)

 なんだか夜吉は、あれこれと考えていることが無駄なように思えてきた。とどのつまり女心なんて代物は、こちとら朴念仁にわかるはずもない。そう思うと急に気持ちが楽になり、自然と笑顔になって「すまねえ」と照れた。

「ううん、夜吉っちゃんらしいよ、それに、それでいいと思う」

 何がいいのか夜吉にはさっぱりだったが、お花はなんだか嬉しそうで、いままで自分は何を意気地のねえ真似をしていたのだろうかと、そう思えたら不思議と開き直った自分がいる。

(ちえ、じたばたしても始まらねえや)

 ならば今度こそはと懲りずに握りしめた簪を、お花に向かってぐいっと差し出して、どうだとばかりにお花を見る。すると、きょとんとしたお花の視線とぶつかった。

「えっと、なんだ、これはつまり……」と、いざとなってまだ煮え切らない自分に苛々してきたものか、大きく息を吸うと勢いをつけて云い放ったものだ。

「つまりな、ずっとおめえにやろうと思ってた簪だ、貰ってくれるかい?」

 朝顔の花と蔓が彫り込まれた平打ちの簪。お花は手に取り「きれいね」としみじみと呟くと、見上げたその目で夜吉を真っ直ぐにみた。

「ありがとう、大切ににします」

「いや、それほどのもんじゃねえけどさ」

 そうして二人は少しばかり決まりわるく見つめ合っていると、お花はやおら簪を自分の髪に差し、少し上目遣いにして訊いた。

「どう? 似合うかな」

 簪を渡せてほっとしたものか、すっかりいつもの調子に戻った夜吉は、「云わぬが花ってな」と憎まれ口をたたくのに、お花は「ちょっとお」とぶつ真似をする。

 怖え怖えとおどけてみせる夜吉は「さて」と云って「そろそろ行くか」とお花に振り向いた。

「うん、あまり雫ちゃんを待たせたら可哀そうだものね」

 むこうで一人遊びをしていた雫は自分を呼ぶ声に気がついたのだろう、しゃがんだまま声のする方をみると、夜吉とお花が自分に手をふっている。それをみた雫は立ち上がり、手にもっていた雑草を捨てながら二人に向かって走り出した。


〈了〉
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