あの日、自遊長屋にて

灰色テッポ

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二十三 織枝

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 意識を取り戻した日を境に、相楽は徐々にだが快方へと向かっているようにみえた。
 医者の草薙氷庵は毎日のようにきてくれて、相楽の傷の具合を診察している。金創は化膿せずに済みそうで、傷口のふさがり具合も申し分ないと云っていたようだ。

「食べられるようなら重湯を少量ずつあげるとよいな」と、そんなふうに容態の安定を裏付けるような指示もだしてくれてはいたが、熱が依然高いままなのが気になるようで、まだ油断はできんと独り言のようにも云っていた。

 事件から九日目の朝に、八助とお梶はとりあえず相楽が落ち着いた様子なので、一旦長屋へと帰っていった。二日に一度見舞いにやってくる大家の菜衛門から、子供たちが元気にしていることは聞いていたが、やはり親としては心配なのが当然だ。

 相楽が多少まともに話せるようになったのは、十一日目くらいからであったろうか。氷庵はまだ話してはいけないと厳しく注意するのであるが、医者が帰ると相楽はむしろ積極的に話したがっているようにみえた。
 お花はそのたびに気が気でない様子で、くどいほど相楽を嗜めたりもしていたようだ。


 事件から十三日目の夜、お花と虎蔵、そして夜吉が相楽の枕元で軽く話しなどをしていた。夕餉もすませ、あとは寝るだけという少し和やかなときである。
 夜吉がしきりに冗談などを云うのに、お花はやはり相楽の身体の心配が先にたち、「相楽さんがお疲れになるからよしてよ」と少し本気なふうに怒ったりもしている。
 しかし相楽はむしろ夜吉の冗談を聞きたいような顔をしているので、お花もしぶしぶながらそれを許したようだ。

「この前、八助のやつが長屋に帰る段になって云ったんですよ、これが断腸の思いってやつかってね」

 夜吉がそう云うと、相楽は「ほう」という顔をして目だけで頷いた。

「だからあっしは訊いたんです、なにが断腸の思いなんだ? ここで番度ばんたび飲めてた晩酌をあきらめることか? ってね。そしたら図星だったようで、野郎は顔を赤くして怒ってやした」

 相楽がそれを聞いてふふっと笑うと、お花と虎蔵もつられたように頬笑むのは、やはり相楽の身体の回復の兆しをみる様で嬉しかったからであろう。

 すると夜吉がなにかを思い出したという顔をして、「こいつはいけねえ」と自分の膝を叩いてそう云った。

「うっかりしてましたが、実は相楽さんの金子きんすをあっしがお預かりしてたんでした」

 夜吉はふところから紙包みを取り出すと、相楽の枕元へそっと置き、「木曽甚のご主人が相楽さんへのお礼だとかで、是非受け取ってほしいとのことでしてね」

「ふむ……給金ですかな?」相楽はすこしかすれた声でそう訊いた。

「いえ、それとは別に、店を守って頂いたことへの気持ちだそうです」

「ほう──」

 相楽ははじめ興味もなさそうに聞いていたのだが、突然その瞳が何かを閃いたように輝くと、「それはいかほど貰いましたかな?」と夜吉にたずねたのである。

「へい、失礼だとは思いましたが、間違いがあっちゃなんねえと思いまして、あらかじめ数えさせていただきましたが……二十両ございました」

 それを聞いたとき、相楽はおもわず「ぷっ」と吹き出してしまったものだ。もしも身体が許すなら、大声で笑いたかったに違いない。

「これはいい、用心棒も泥棒も、世間では棒の値段は二十両と決まっているようですな」

 何のことかさっぱりわけが分からない三人は、相楽がはじめなぜ笑っているのか不思議であったのだが、相楽に泥棒の手伝いをすれば二十両もらえるはずであったことを説明されると、なんとも困った顔をして苦笑いをした。


 なお少し雑談が続いたようではあるが「そろそろお休みにならないと」と、お花がやたらと心配するものだから虎蔵が頷いて、「相楽さん、申し訳ねえんですが、明日の朝に一旦あっしは長屋に戻らせていただきやす」と雑談を締め括るように云う。

「どうしても仕上げなきゃなんねえ仕事が残ってましてね、まだ心配で戻りたくはねえんだが、どうか勘弁しておくんなさい」

 相楽は虎蔵へ思いを込めた眼差しを向けると、やがて寝たままではあったが静かに謝意を示した。

「色々と、かたじけのうござった」

 虎蔵は「とんでもねえ」と恐縮したふうに慌てたが、相楽は続けて「なら、今日の内にお話ししておきましょう」と云って虎蔵、お花、夜吉にたいして順番に頷いてみせたものだ。

 お花はそれが何の話かは分からぬが、氷庵がまだ話してはいけないと云っていたことが心配で、「お身体に障りますから、今日はもうお休みになってください」と懇願したが、相楽は「なに、大丈夫です、長い話ではありません」と云って頬笑んでみせる。

「実は私が目を覚まさぬ間の事なのですが、妻の、織枝の夢をみましてな」相楽はそう続けると、ほんの少しの無言のあとに、「その夢の話におつきあい頂きたいのです」と頭を下げたのだった────



 沈丁花の花の匂いがする何かぼんやりとした風景の場所に相楽はいた。ここはどこだろうと思っていると、遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえてくるのが判り、辺りを見回してみた。

「──遼之進さま」

 それは妻の織枝の声に似ていて、相楽はその声のする方に振り向くと、遠くから振袖姿の織枝が手を振りながらこっちに向かって歩いてくるのが見える。

「遼之進さま、こちらですわ」

 なぜ織枝が振袖姿でいるのだろうと訝しく思っていると、今度はすぐ隣に織枝がいて、普段着ていた小袖姿になっていた。

「おまえは妻になったというのに、いつまで俺を名前で呼びつづける気なのだ?」

「もちろんずっとです、わたくし、遼之進さまって呼ぶほうが好きですもの。旦那様なんて嫌ですわ」

 織枝がまったく悪びれない顔でそう云うのに、相楽は「困ったやつだ」と苦笑いを浮かべる。

 織枝はそんな相楽を愛おしそうにみていたが、やがて小さな波が引いていくように頬笑みが消え、少し悲し気な顔をして話しはじめた。

「ずっと心配しておりましたのよ……江戸に来て二人で暮らしはじめてからの遼之進さまは、いつも疲れていらして、とても元気がありませんでしたから……」

 そう云った織枝は少し目を伏せたあと、ゆっくりと相楽の瞳をみつめる。

「あの時、わたくしが我が儘をいわずに、遼之進さまと一緒に自害していたら、こんなにお辛い思いをさせる事もなかったのかなって──織枝が生活の重荷になっているからだと分かっていましたから、私もとても苦しかったのです」

 相楽は思いがけない織枝の話しを聞いて狼狽し、「それは違う」と慌てて否定した。

「そうじゃないぞ織枝、これはいかん、そんな風に思わせてしまっていたとするなら、全部この俺がいけない」そう云って相楽は織枝の手をしっかりと握った。

「俺はおまえと共に生きようと思ったことを、そう選んだことを後悔などまったくしていない。心から良かったと思っておる。重荷などとはとんでもないことだ。むしろ織枝は俺の犠牲となったせいで、酷い思いもし、苦労をかけつづけてしまったことが悔やまれる……本当に、悔やまれる……」

 織枝は相楽に握られた手を握り返すと、自分の胸のところまでもっていき、「いいえ」と云って頬笑んだ。

「それこそ違います。織枝は苦労に思ったことなんて一度もありません。犠牲だなんて云ったら怒ります。だって、わたくしずっと幸せでしたのよ?」

 相楽は戸惑ったように口を開くが、言葉がでてこなかった。織枝はそんな相楽をみて「ふふっ」と笑った。

「それに今はもっと幸せです。私がお慕いした遼之進さまが戻ってきて下さったのですもの」

 相楽は織枝が云った意味がわからないという顔をしていたので、織枝は少し悪戯っぽい目で相楽を睨んだ。

「三人の悪い泥棒と戦っていらしたじゃありませんか、本当に昔のままのご立派な武者振りでしたわ。それはもう遼之進さまのお姿が、とてもお美しいなって思うほどにです」

「なんだ織枝、あれを見ていたのか?」

「あら、ずっとお傍におりましたでしょ、心配するなと仰って下さったのに、覚えていませんの?」そう云って織枝はすこし口を尖らせる。

「うむう……すまん、覚えておらんようだ」

「ひどいです、けれど赦して差し上げます。織枝が機嫌のいいことに感謝して下さいましね」

 そう表情をころころと変えながら話している織枝をみて、相楽はなんだかとても幸せな気持ちになっていた。
 すると今度は真面目な顔をした織枝が相楽をじっと見つめて、はっきりとした口調で言葉を届ける。

「遼之進さまはもう大丈夫です。織枝はそう信じています。一緒に前を向いてくれた事が、とても嬉しゅうございました」

「ああ、これからもずっと一緒だ。むしろおまえの心も知らずにいて、済まなかった」

 織枝は僅かに頬笑んで首を振り、それを応えの代わりにすると、今度はゆっくりと虚空に目を向け暫く黙っていた。
 そこに何か大切なものがあるかのような、そんな真剣な眼差しで──

 やがて織枝は相楽に向き直る。そして「ただ一つだけ心残りがございますの」と云って目を伏せた。

 相楽にはその心残りが何であるかがすぐにわかったようだ。

「雫のことだな」

「……はい」

 織枝はそう頷き、伏した目をもう一度相楽の瞳と合わせて、「わたくしはあの子に乳をやることはおろか、抱いてやることさえ一度も出来ませんでした」と寂しさを滲ませた声で云ったのだった。


 お花は相楽の話を聞きながら、看病をしていた初めの頃に沈丁花の花がよく香っていたことを思い出した。
 今はもう花も落ちてしまっていたが、それでもその時の匂いの記憶のなかに、織枝の面影をみるような気がしている。

 相楽は少し疲れたのだろう、呼吸を整えてからふたたび話しはじめたようだ。

「織枝は私に、雫のことをどうかお願いしますと云って、頭を下げていました。むろんわたしとて望むところなのです」

 虎蔵と夜吉は、生まれたての雫を残して織枝が逝ってしまった日のことを思い出したのだろう、痛ましい思い出がよみがえりその顔を顰める。

「わたしは織枝に何も心配する事はない、だからもうゆっくり休めと云ってやりました。約束するから安心しろと……そしたら織枝は──」

 そこで言葉を切った相楽は、少し遠くをみるような目をしたあとに、「そしたら、織枝は優しく頬笑んでくれました」と、儚げな笑みを残して夢の話を終わらせた。

 相楽が昏睡していたときにみた夢。それは彼岸での泡沫うたかたの邂逅であったのだろうか。それとも織枝の魂の残滓がみせた幻なのか。いや、本当にただの夢だったのかもしれない。

 だがいずれであろうと相楽にとってそれはどうでもいい事だ。織枝が自分に会いに来ることに何の不思議があろうか。もし自分が先に逝っていたのならば、同じように会いにいく。ただそれだけの事だった。


 相楽はしばらく瞑目し、次の言葉を慎重に選んでいるかのように黙っていた。やがてゆっくりと瞼をあけると、夜吉に身体を起こしてくれるよう頼み、礼を云った後ふたたび話しはじめた。

「しかし、私の身体はもう元のようには戻らぬでしょう。寺子屋の師匠も、まともに務められるとは思えぬのです」

 それは長屋の誰もがまだ向き合うことを恐れ、考えないようにしていた不幸な可能性だった。

「わたしも自遊長屋の皆さんのお役に立ちたかったのですが、どうやらそれは難しいようです」

 こんな話を自分の口から聞きたくはあるまい。相楽の身体がまた元に戻るようにと、誰もが献身的に看病をしてくれているのだ。その希望を自ら刈り取るようなことを云うのは残酷すぎる。
 そう分ってはいた相楽ではあったが、強く口を引き結び挑むように云い募った。

「右足は不自由ながらも何とかなるでしょう。しかし胴の傷は本来なら命取りとなる深手でした。一生悩まされ続ける事でしょうし、ともすれば寝たきりで生きていくことも覚悟せねばなりません……」

「そんなことありません!」お花は衝動的にそう否定をした。それはこのまま相楽が元気になっていって欲しいという、子供じみた願望からでた身勝手な言葉だ。

 虎蔵はそんな感情的になったお花をじろりと睨み、「お話に水を差すんじゃねえっ」と、きつく叱った。

 相楽はお花をみて口の端をわずかに緩めて頷くと、また話を続ける。

「おそらく雫と二人で普通に生活していくだけでも、皆さんのお力に縋ることになると思います。ましてや寺子屋の師匠をするとしたら、もっとご迷惑をお掛けすることになるのは明らかです」

 お花は目に涙を一杯にためて俯きながら、「でも……でも……」と小さく声を震わせている。

 相楽はそんなお花を柔らかい目でみつめ、「そうではないのですよ」と温かい声で云ったのだった。

「だからこそ皆さんにお願いしたかったのです。どうか私に寺子屋の師匠をさせてください。多くのご迷惑をおかけすると思います。それは承知の上でのお願いです。娘の雫を育てる力を私にお貸しください。どうか織枝との約束を果たさせてください」

 相楽はそう云って、深々と頭を下げた。

「お願いします……」

 すると一瞬の静寂のあと、虎蔵が身を乗り出して応えたのである。

「ようございますとも、いわれるまでもねえことだ。相楽さん、あっしはそのお言葉をずっと待っていたんですよ」そう云って虎蔵はめずらしく感情を露わにし、涙を流したのだった。

「あっしも及ばずながら、精一杯お手伝いさせていただきます!」

 そう請け負った夜吉も、着物の袖で涙を何度も拭っている。

 だがお花からは何の言葉もでてはこない。何度も何度も頷くだけで、大粒の涙がぽろぽろと止めどもなくこぼれ落ちている。そしてその目はただ相楽を強く見つめ続けていた。


 相楽はそんな三人を眩しそうにみていた。そして少しかすれた声で「ありがたい……」と安心したように目を閉じて、頭を枕にもたせかける。

 そして囁きにも似た声で「よかったなあ」とその口を動かすと、安堵した顔で静かに横たわり、やがて目尻から一筋だけ涙を流して長く沈黙しつづけた──


 三人はそんな相楽をまばたきもせずにじっと見つめていたが、夜吉が急に不安な顔をして、「えっ? 相楽さん?」と呼びかける。しかし何の反応もない。

 お花の顔は一瞬で蒼白となり「そんな、うそ……」と呟く。

 しかし虎蔵だけは冷静で、そっと相楽の口元に耳を寄せると、穏やかな寝息が聞こえてきた……

「──精も根もつかい果たされたんだんだろう、ゆっくり寝かせてさしあげろ」

 何とも複雑な笑い顔作ってそう安心させたものだ。

 途端に夜吉は脱力したようになり、「肝をつぶしたぜ」と大きく息を吐く。

 お花も「もう……」と少し怒ったような目をして相楽を睨んだ。

「ほんと、このお人にはかなわねえや」そう云って夜吉はまいったという顔でお花に振り向いた。

 その時のお花の面差しは何とも幸せそうで、優しい涙を流していたのであった。
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