あの日、自遊長屋にて

灰色テッポ

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十六 荊棘

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(この男は俺と織枝を知っている──)

 そう確信した瞬間、相楽の目が針のように細められ、「どういう意味だ」と感情のない声で応えた。

「意味も何も、ただご新造さまはお元気かなってね、ほら、あんな惨い事件があって、突然ご出奔なさっちまったもんですから、いろいろと、ねえ、心配だったんでさあ」

 次太郎の言葉にはその内容とは裏腹に、まるで猫が鼠をいたぶるかの様な、いやらしさが露にでている。それは相楽のみならず煙にもわかった。

 煙は相変わらず興もなげに、「つまらん話しならよしておけ」と次太郎に忠告すると、次太郎はまるで快感に酔っているかの様子で、「煙の旦那、つまらんどころか、当時あっしらの間じゃ大事件だったんですよ」と云ってにやりと笑う。

「まあ、聞いておくんなさいよ、実はですね、相楽さんとこのご新造さまは、そりゃあ城下でも美人で有名な方でしてねえ、あっしも何度かお見かけしやしたが、江戸にもちょっといねえような、そりゃあいい女でしたぜ」

 煙はまるで聞いてはいないかの様に「ほう」と相槌だけをうつ。だがそんな事はお構い無しに次太郎は酔いしれた感じで話を続けたようだ。

「しかしそいつがかえってあだになっちまうとはね、世の中わからねえもんだ」

 次太郎はそう云うと薄笑いを浮かべながら相楽をみつめた、「いやまあ相楽さん、美人すぎるってえのも因果なものですな、そうでなきゃ、まさか御家老様んとこの馬鹿息子に興味を持たれる事もなかったでしょうからねえ、うふふ」

 次太郎がもしこの時、多少でも冷静さが残っていたのなら、相楽の細められた目に異様な光が宿ったことに気がついていたであろう。だが次太郎はいま、他人の秘めた不幸を暴き立てる快感に酔っており、まったくそのことには気付いていない。

「だけどあれですな、実際あそこまでいい女だと、男にとっちゃあ罪ですな、誰だって一度くらいは味わってみて、えと……」

 そこまで次太郎が話したとき、相楽はゆらりと立ち上がり、まったく感情のない目で次太郎を見下ろしていた。そしてその立ち上がった相楽を見上げた次太郎は、初めて相楽の様子の変化に気がつくと、急に喉にものが詰まったようになり、声がでなくなったのである。

「どうした? 続けろ」

 相楽はまったく感情のない声でそう促す。そしていつの間にか左手に握られていた刀の鯉口を、ゆっくりと切った────



 相楽には誰にも触れられたくない過去の記憶がある。記憶というよりそれはもはや、相楽の体中の神経に巻き付いて離れないいばらのようなものであったかもしれない。少しでもその荊が揺すられると全身の神経がそのとげに食い込まれ、気の遠くなるような痛みにおそわれるのだ。
 どうやら次太郎は、その荊を無造作に揺すってしまったようであった。


 国許で侍をしていた頃の相楽は馬廻り組に属しており、近い将来に国の剣術師範になるであろうという事が約束されていたほど、その才能を認められていた人材であった。
 それに加えて家中でも指折りの美人が妻女とあっては、目立つなというほうが無理な話であろう。家中の侍たちの羨望の念が自ずと相楽に集まったとて不思議ではない。
 ここまではこの物語の中でも、すでに軽く触れてある。

 そして往々にしてその羨望が、やがて嫉妬へと変わっていくのが世の常とも云える。そのこと自体はよくある話で、大げさに気にする必要もないのだが、もしその嫉妬の中にどうしようもない程の悪質なものが混じっていたとしたら、話も変わってくる。

 その狂気にも似た悪質な嫉妬がひとつ潜んでいたことが、相楽の予期せぬ不幸のはじまりであったのだ。

 その国の家老の息子に、それは三男であったのだが、家中でもわる遊びをすることで有名な矢部源三郎という男がいた。己の身分を笠に着て遊びではすまされない様な悪事を平気でし、これまでも家中の侍やその家族に限らず、町人や農民までもが多く泣かされ、死人がでた例も少なくないと聞く。

 もちろん黙って見過ごされていたばかりでは無かったのだが、この親の身分がもつ家老という政治力に、その悪事はすべて揉み消されてしまってきたのである。
 権力が生みだすそういう歪みは、武家社会だけに限らずどこにでもある事だが、この家老の親子がしている事は、いささか常軌を逸しているようにも思えた。

 そんな異常な男が相楽を妬んだ以上、何事もおこらずに済むはずがない。

 ある日、織枝は共の端女はしためを連れて実家へいく途中、矢部源三郎とその取り巻き数人の手で攫われた。いくら人気のない武家屋敷の並ぶ町中だからといって、白昼堂々こんな手荒な事をするのは考えられないことである。いかにその男が異常者であったかが判ると云うものだ。
 そして織枝は縛られたまま駕籠にのせられ、どことも分からぬ屋敷で矢部源三郎に陵辱されたのであった。

 夕刻に城から戻った相楽は、すぐに異変があった事に気が付いた。織枝の共をした端女が泣き叫び、屋敷の中が騒然としていたからだ。

「いったい何事だ」とその仔細を話させると、ほどなく日が暮れた頃に織枝が独りで帰ってきた。
 織枝は気丈にも取り乱す様子もなく、あったことのすべてを相楽に話したのである。それはこの夫婦にとって非常に残酷な現実であったが、織枝は相楽の目を真っ直ぐに見つめてい、相楽もその目をしっかりと受け止めていた。

 やがて相楽はゆっくりと立ち上がると、織枝に頬笑みかけて「出掛けてくる、戻るまで待て」と云い屋敷を出ていく。

 次の日の朝に、矢部源三郎と数名の男たちが、城下の外れで斬殺されているのが発見される事となる。勿論、斬殺したのは相楽である。
 発見される前の深夜に屋敷に戻った相楽は織枝に「始末をつけてきた」と一言云うと、白装束を用意するようにと云いつけた。
 それはこれから自害をするという意味であったのだが、当然ながら織枝と二人して死のうという意味だ。

 法の裁きを待たずして自らの意地を通した以上、腹を切る覚悟はできていた。それは織枝も同じで、名誉を守るために死することを恐れる気持ちはない。それが武家として生きる者の作法なのである。

 しかし織枝はそれを拒んだ。あんな人とも思えぬ狂った男の為に死ぬのは嫌だと。もし自分たちが死なねば武家としての面目が立たないというのなら──

「遼之進さま、どうか織枝を殺してくださいまし」

 強く見開かれた瞳から涙を一筋こぼしながら、織枝はそう毅然として云ったのであった。

 織枝は自分たちは生きるべきだと云っている──この織枝の気持ちに相楽は、すぐには応えることができなかったようだ。
 長い時間、瞑目して黙っている相楽を、織枝もまた黙って待っていた。

 やがて長い沈黙の果てに相楽が辿りついた答えは、織枝は自分の犠牲になったという事であった。自分の妻であったからこその禍事まがごとであったのだと──

 ならば、いま死なずに自分たちのこの命が残るのなら、己の命は織枝のために使わねばならぬだろう。

(すまぬ……すまぬ、織枝──)

 そうして二人を包んだ沈黙の霧が晴れたとき、相楽ははっきりとした口調でこう云ったのだった。

「織枝が生きる事を望むのなら、わたしも共に生きよう」

 そのときの相楽の表情はまったくいつもの日常のままであり、自分の妻への想いに何も変わりはないと云っているかの様でもある。
 その事がわかったのであろう、織枝は「はい」とひとこと返事をすると微かに頬笑んで、さっきとは違う涙を流した。

 相楽はその日の深夜から早朝にかけて雇用人への後始末をし、今回の経緯を記した書状と、主君である出羽守への詫び状を残した。そして身の回りのものと金子きんすを手にしただけで織枝と共に国を出奔したのである。
 その国で築き上げてきた自分の侍としての生き様も、親兄弟もなにもかもを捨てて。

 幸いな事と云うとおかしいが、相楽に追手はかからなかった。それというのも家中では相楽に対する同情が圧倒的に強かった事と、斬殺された家老の息子である矢部源三郎が末っ子であった為、法的に仇討ちが不可能であった事がその理由であった。
 しかし何よりも父親である家老が、この事件によって家名に瑕がつくことを恐れ、源三郎を病死として届けたのが一番大きな理由であったろう。最後には自分の息子の死をも揉み消したわけである。

 ともかく当時これは家中での大事件であり、知らぬ者がいないと云っていいほどの出来事であった。それゆえ相楽の上役の屋敷に奉公していた次太郎が、事件をよく知っていることに何の不思議もなかったと云えよう。



 沈丁花の匂いが相楽に織枝との幸せな記憶を蘇らせた。そして同じ花の匂いが次太郎に悲惨な事件の記憶を思い出させたのである。花には罪はないが、なんともやり切れない話ではないか。

 たったいま、想い出と共に相楽の心の中に生々しくそこにいた織枝が、次太郎の言葉でまたもや穢されたように感じてしまったとて、それを責めることはできまい。むしろ責められるべきは、いたずらに他人の不幸をもてあそんだ次太郎の方であろう。

(──赦せぬ)

 その気持ちだけがいま相楽を支配している。仮にもう少し次太郎の態度が冷静で、あんな人を嬲るような真似をしなければ、次太郎を斬ろうとは相楽も思わなかったのかもしれない。しかし相楽はいま、確かに次太郎を斬るつもりでいた。

 相楽の放つ殺気に捕われた次太郎は、まるで金縛りにでもなったかのように突っ立っている。相楽はするりと次太郎に寄ると、無言で抜き打ちをかけに刀を抜いた。いや、刀を抜こうとしたその刹那であった。

 まるでその相楽の呼吸がわかっていたかの様に、煙管の雁首を煙草盆に叩きつける『カーーン』という鋭く高い音が響いたのだった。相楽はその不意の音に呼吸を呑まれ、咄嗟に体の動きを止めた。否、そうではない、動きを止められたのだ。

「よせよせ、くだらない」

 煙はそう云って、叩いた煙管の中に煙草の滓が残っていないことを確かめている。

(こやつ……)

 相楽にはすぐにわかった。あの自分の動きを止めた音が偶然ではなく、煙が相楽の呼吸を見切ってわざとやったという事が。さらに相楽は、自分の中からもう殺気が抜けてしまっていることにも気がついていた。

 何食わぬ顔で煙管の雁首に刻み煙草を丸めて詰めている煙を、じっと見つめた相楽は心の中で(俺はいま、この男に斬られて死んだ)と思っていた。でなければ殺気が抜けるはずもないのである。

 だが、ある意味それに気づいた相楽も相当な剣客だと云っていいだろう。もし生半可な者が次太郎を斬ろうとしていたなら、煙のだした煙管の音にも気づかずに、刀を次太郎に叩きつけていたはずである。むろん生半可な者の殺気では、次太郎が怖気づくわけもないのだが。

 煙はおそらく相楽の発した殺気が一流の剣客のものだと察したがゆえ、音による一刀が相楽に伝わると確信してそうしたのだ。たったいま、誰も刀を抜いたわけでもないここで、怖ろしく高度な剣戟がおこなわれたと云ってもいい。


 次太郎にも相楽から殺気が消えたことがわかったのであろう、急に安心をして、腰が抜けたように尻からどしんと落ちた。相楽は左手に刀を持ったままその様子をみていたが、次太郎を斬るつもりは最早ない。むしろ今はなぜ煙に自分の呼吸が支配されたのか、そのことを考えている。

 煙はうまそうに口から紫煙をはきだすと、「おい次太郎、今日が大事な日だってことを、お前わかっているのか?」と云って苦笑いをした。

 次太郎はやっと声をだせたという様なか細い声で「へい……」とだけ応える。

「ならばよし」

 そして煙は自分を見つめている相楽に、初めて気がついたという風に振り返り、「困ったやつだ」と云ってみせると、「相楽さんは俺たちのお仲間だ、それをからかうというのは感心せんな」と独り頷いてみせる。

 相楽がしばらく黙っていると、煙がふたたび相楽に視線を向けた、「まさかあんたも機嫌を悪くしちゃいないだろうね?」

 そう云って笑った煙の顔は、まったくの無表情なのであるが確かに笑ってみえる。
 相楽はなにか不気味な感じがして、煙には応えずに部屋を出て行った──
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