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10 朱音の災難

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七月二十六日 アラス

 少しくすんだ欧州の空を、小野朱音は眺めていた。
 結局こちらにいたのは一ヶ月もなかった。着任と同時に戦地に放り込まれて慌ただしいどころの騒ぎではなかった。自分たちは果たして役に立ったのかよく判らない。
 ただ朱音にとって有意義な時間ではあったと思う。女で海軍の技術職を目指すという突飛な目標に不安もあったが、なんとかやっていけそうだと確信が持てた。
 元々何故この道を選んだか。思い出しても今ひとつはっきりしていないが、大したことではなかったはずだ。確か家が隣で自分より成績の悪い少年が海軍で飛行機乗りを目指すいうので、どちらが出世できるかとかそんな他愛もない諍いだったような気がする。
 大体名前にさんずいが付いているから海軍いくとか、その程度のやつに負けるわけには行かないというか放っておく訳にいかないというか。まあそれはどうでもいいとして、その年から海軍の技術科が女性も可となったことが朱音の道を大きく変えた。
 進路の希望を両親に云ったとき驚かれはしたが、納得はしてくれた。女子師範を出て教師にもなった母は(おそらくは同じ道を進んでほしかったのだろうが)面白そうじゃないか、女が海軍の下士官様とは、と笑ってくれた。父はおろおろして心配してくれたが、お前は本当に母さんそっくりだよと結局許してくれた。入り婿特有の諦観なのだろう。
 技術科訓練生もそれなりに大変ではあったが恥ずかしくない成績を修められたとは思う。変な遠慮があるのは仕方ないし、つまらないことを云ってくる手合いもいたが、許容範囲ではあった。海軍としても取ったからにはそれなりの結果になってくれないと困るのだろう。
 教育期間短縮で実戦部隊に放り込まれてしまったが、結果的には良かったかもしれない。やるべきことが多すぎて、向こうもこっちも遠慮をしている余裕はなかった。おかげで何でもやらされたし何でもできた。
 何より朱音がうれしかったのがノルマンの技術者たちと関われたことだった。最初はノルマン語の成績が良かったので通訳として駆り出されたが、技術のことがよく判ってくれると何かと頼りにされた。ノルマンでも女性技術者は珍しいので、随分とかわいがってくれた。航空機や発動機の最新技術について、門限ギリギリまで語り明かしたこともあった。皆優秀で、そして優しかった。
 アカネ。君は素晴らしい可能性を持っている。もっと上を目指すべきだ。サージェントではもったいない。大学へ入ってドクターを取るべきだ。僕が推薦状を書いてあげる。ライレー・ローバーの設計主任にそう云ってもらえたのだ。こんなに素敵なことがあるだろうか。
 本当にみんな素晴らしい人たちばかりだった。何かとお菓子もくれるし。ただ残念なのは何事も例外があることだった。
「オライリーさん、まだですかぁ」
 空から地上に視線を変えて朱音は叫んだ。
「私、今日中にルーアン行かなきゃいけないんですけどぉ」
 あまりのんびりとはしていられないのだ。何しろブランドル軍がいつ来てもおかしくないのだ。ここライレー・ローバーのアラス工場も、今日で疎開だった。
「おう、お待たせお嬢さん」
 工場の中から木箱を抱えた男が出てくる。その男は木箱を朱音の乗っているトラックの荷台に積み込んだ。
「これで仕舞いだ。じゃあ行こうか」
 中年と云うよりは初老に近いその男は助手席に乗込む。熟柿のような酒の臭いが漂ってくる。
「また呑んでるんですか」
 軽蔑の色を隠さずに朱音は云う
「呑んでないよぉ」
 酒呑みはみんな同じことを云う。この男、オライリーは工場の中で数少ない朱音の尊敬できない人物だった。何もせずに酒臭い息をまき散らしふらふらしている。服も薄汚れているが油汚れなどの「名誉の汚れ」ではない。何故雇われているのか工場の七不思議の一つだった。
「もうみんな先に行っちゃったじゃないですか」
 アクセルを踏み込んで朱音はトラックを発進させる。今日が疎開の最終日なので秋津軍からも支援に来ていたのだが、このオライリーがもたもたしているおかげで最後になってしまった。
「いいですか、秋津が支援できるのはルーアンまでですからね。マルセイユまではノルマンの担当ですからね。はぐれたら面倒なことになるんですよ」
 勢い朱音の口ぶりもきつくなる。
「しょうがないじゃん、これアキツのトラックなんだし。アキツ人じゃないと運転できないだろう」
「レイランドのコピー品ですよ。見れば判るでしょう」
 瓦斯電の四式六輪輸送車はレイランド社からライセンス権を買って生産しているため操作系もほとんど同じである。自動車の普及が遅れている秋津ではまず数を揃えようと躍起になって生産したおかげで、本家ノルマンよりも多く作られている。
「大体何でこんなに手間取ったんです。何もみんなが出た直後に積み込み始めなくても」
 人手があるときならさっさと終わっただろうに。
「ま、ほんとうに大事な物もあるさ、ほれ」
 そう云ってオライリーは書類鞄を渡してくる。運転中には止めてほしい。
「モーガンの過加給試験だ。昨日積み込む寸前にやったやつだ。一千三百出たぜ」
「え?」
 それは見たい。すごい見たい。朱音は片手で鞄を開けられないか十秒ほど挑戦してしまった。
「あとは、俺にとっての宝物さぁ」
 そう云って後ろの荷台に身を乗り出して漁り出す。
「へへ、みんな無事でいやがる」
「何なんですかそれ」
 それなりに大きい木箱が四つ。個人の持ち物としては多いが工場の備品としては少ない。
「これさあ」
 そう云ってオライリーは中から一つを取りだして見せた。ワインの瓶だった。
「はぁ?」
 朱音は思わず声を張り上げるが、オライリーはかまわず瓶の栓を抜きにかかる。
「燃料貯蔵庫の温度が最適なんだ。いい酒は環境にもこだわらないとな。秘蔵の品だからみんながいなくなってからでないと運び出せないしな。ワインだけじゃないぞ。ブランデーにウイスキーもある。俺のかけがえのないお宝たちさ」
「そんな物のために残ってたんですか? そんな物のために私付き合わされたんですか? 信じられない!」
 思わずハンドル操作が荒くなってしまう。なのにこの酔っ払いは酒がこぼれたかどうかしか気にしていない。しかも無事なのを確認するとそれを口に流し込んだ。本当に信じられない。
「ぷはぁ、神の恵みだ。こんなうまいもの、ブランドルのジャガイモ野郎にはもったいねぇんだよ。文明人が保護してやらなきゃ」
 知性も文明も感じさせない男が酒臭い息とともに汚い言葉をまき散らす。
「まあそう怒るなって、一本やるから」
 そう云って後ろからもう一本取り出す。
「結構です」
「まあそう云うなって。一九二七年だ。うまいぞ」
 そう云って無理矢理書類鞄にねじ込んでくる。
「早く追いつかなきゃいけないから速度上げますよ」
 アクセルを乱暴に踏み込むと速度が上がって振動も増える。
「うぇっぷ、酒じゃなくて車に酔っちまう。もう少しゆっくり」
 酔っ払いが不平を云っているが聞く耳はない。
「こんな莫迦莫迦しいことのんびりやってられません。そろそろ見えてくるはず」
 三〇分ほど無駄にしただろうか。遅れは取り戻さなければいけない。木立と畑が広がる北ノルマンの地を朱音は車を走らせた。
 カーブで少し外に膨らむ。荷台が垣根に少し当たるが、いい加減隊列の最後尾が見えてきても良いはず。そう期待したところで別の物が目の前に現れた。
 黒っぽい大きな塊。多分この四式六輪輸送車よりも大きい。全体的に角張っていて、棒のような物が突き出ているのが印象的だった。それが垣根を突き破って目の前を塞ぐように現れた。
 朱音は慌ててブレーキを踏む。すんでの所で止まれたが、隣でオライリーはひっくり返っていた。
「おいおい危ないなお嬢さん、瓶が割れちまったらどうするんだい」
 隣で何やら云っているのは聞こえたが朱音は黒い塊を見上げた。一番上から人が上半身を出していた。向こうもトラックが急に現れたことに驚いているらしい。黒っぽい服に帽子の男と、目が合った。
 お互い数秒見つめ合っていた気がする。朱音は瞬きの後視線を少し下に下げる。そこには白縁に黒で三つの山形が描かれていた。向こうは向こうでこちらのボンネットに広げられているノルマンの国旗を見ていた。朱音は大きく息を吸い込んで、叫んだ。
「ブランドルの、戦車ぁ!」
 重たい変速器を切り替えてアクセルを一気に踏み込んだ。トラックは後ろに向かって走り出した。先ほどの曲がり角まで下がるともう一度変速器を切り替えて前進に切り替える。隣から手が出てきてハンドルが右いっぱいに切られる。朱音がアクセルを踏み込むと、トラックは右に曲がって垣根をなぎ倒しながら走り始めた。
「なんで西に逃げるんですか!」
 勝手にハンドルを切ったオライリーに朱音は叫ぶ。本当は南下したいがそちらは戦車がいるから駄目なのは判る。だが東の方がまだ味方が多そうなのに。
「このまま行ったら味方の所に敵を案内しちまう!」
 振り返ると戦車がこちらの後を追いかけようとしていた。
「戦車よりは速いからいったん振り切って撒いてから合流すれば」
 そう言った途端に今度は助手席側の垣根から何かが飛び出してきた。ブランドル軍の側車だった。残念ながら側車の方がトラックより速い。
 すぐ脇につけた側車の兵士が持っている銃を向ける。反射的に朱音はハンドルを切った。
 向こうの発砲と同時にトラックが体当たりして、あっけなく側車が生け垣に放り投げられる。だがトラックもふらふらとしばらく蛇行した後、反対側の垣根に突っ込んで止まってしまう。停止と同時に前から水蒸気がもうもうと上がる。
「ラジエータがやられてます!」
 これではルーアンまで、いやアミアンまでも走れない。振り返れば戦車と、更に別の車も追ってきている。どうすれば。そう思った瞬間、朱音は突き飛ばされて、道路に投げ出された。
「何するんです!」
 叫んだ向こうではオライリーが運転席側に移ろうとしている。
「湯気の吹いたトラックじゃ目立って逃げ切れるもんじゃねぇ。こちらで敵を引きつけるからその隙に嬢ちゃんは逃げろ」
 まさかこの男からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。呆然とみているとオライリーは顔を歪めた。
「こんなことはしたくねぇんだ。あいつらが先に見つかってたら、その隙にずらかるつもりだったんだ。でも、でも見つかったのはこっちだったんだ。なら、ならこうするしかないじゃないか」
 この男の、生涯唯一の誰かのための行動なのではなかろうか。なのに何故、そんな泣き出しそうな情けない顔をするのだ。
「あ、あばよぅ」
 オライリーがそう云うとトラックは一度後退し、垣根をかき分けて走り出した。
 慌てて朱音は反対側に逃げる。垣根と畑をいくつか駆け抜けて、彼女は振り返った。土煙と木をなぎ倒す音、そして銃声が聞こえる。時折白い煙が見えるのはトラックの水蒸気だろうか。
 ひときわ大きな銃声。おそらく戦車の大砲らしき音が響き、小さな爆発と、黒煙が立ち昇った。それを最後に、戦闘の音は聞こえなくなった。
 呆然とそれを見つめていた朱音は、ふと周囲を見回し、慌てて藪の中に身を隠した。座り込んで肩を抱くが、震えが止まらない。
 取り残されてしまった。
 異国の地で、声の届く範囲に味方は誰もいない。アミアンまでおよそ六十㎞。しかもアミアン基地も今日で撤収なのだ。ただ独り、取り残されてしまった。
 一体どうすれば。肩から提げた書類鞄と中の酒瓶が、やけに重く感じられた。
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