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Track-4.part A怪物

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あの夜から、片桐奏人さんとの夜の密会が増えた。もちろん、アブナイ意味ではない。

ただ仕事を終え、時間が合えば歩道橋の下へ行き、私が歌を歌う。そんな日に限って、雨が降り、人が足を止めることはない。

なのに、なぜ彼が一緒に居てくれるかと言うと、あの夜に交わした約束があったからに他ならなかった。

この日も、私は先日の約束を信じ……待っていた。


私が好きな歌を歌い終わり、最後の音を鳴らし終えると、彼は静かな拍手を私に向ける。

この前にはなかった反応だ。
だけど、その小さな拍手に、私は感動を覚えた。

ピアノ発表会の時の拍手とも、合唱コンクールでの拍手とも違う、とても小さな拍手。だけど私一人に与えられた何よりも大きな拍手に泣きそうになった。

「……ありがとうございました」
今にも崩壊しそうな涙腺をどうにか堪えて、たった一人の聴衆にお礼を言う。

満足か?そう問われると、首を横に振りたくなる。だけど、この曲と私の歌の感想を聞ければ思い残すことはない。

「……どうでした?」
彼の様子を伺うように尋ねてみる。それに、彼は頷き、「よかったよ」とだけ答えてくれる。
その言葉に、私は「ありがとうございます」と頭を下げ、言葉を続ける。

「ほんとはまだまだなんですけどね……」

「どこが?上手く歌えてだと思うけど?」

「全然です。物足りない……」

「えっ?どこが?」
私の答えに、彼は不思議そうな顔をする。

「物足りないんですよ。ピースが足りていないって言うか……」
私は宙を見上げる。そこには私たちを雨から守る歩道橋の天井があった。

その天井は雨から身は守ってくれる。だけど、それ以上の事はしてくれない。

この歌についてもそうだ。自己満足は満たしてくれる……が、完璧な歌にはならないのだ。

これを作った人の、あの声が足りないのだ。
だからと言って、彼がこの場に現れるはずもない。

いや、知っている人に歌ってもらえればいいのかもしれない。だけど私にはそんなことを頼める人も勇気もない。そうである以上、この歩道橋の天井の下から出る事はないのだ。

ピースが足りないと言ったきり、なんの返事もない片桐さんに、ダメ元で聞いてみる。

「……片桐さんはこのきょくをしってますか?」

「…………いいや」
長く溜めた割にやけにシンプルな答えが彼の口から出てくる。

……知ってた。その予想していた答えに私は深くため息をつく。

「そうですよね……。誰も知らないですよね」
作曲者を目の前に言う言葉ではないのだろうが、そんなことを知らない私はむくれながらその作曲者の文句を言う。

「いい曲なのに、なんでこの歌を作った人はちゃんとプロモーションをしないんだろう。曲を定期的に作って上げれば絶対ファンはついてくれるはずなのに……」

「…………」

そんな私の言葉を片桐さんは何一つ言う事なく聞いていた。それに気をよくした私は今まで溜まってきた作曲者に対する文句をここぞとばかりににぶつける。内心では苦々しい思いだっただろう。

「って言っても、片桐さんに話す事じゃなかったですよね。すいません」


私が謝ると、彼は「……いや」と言ってしばらく黙ったかと思うと、言葉を続ける。

「……好きなんだな。その歌が」
唐突に飛んできた質問に、私は目を丸くする。

……好き。そんな言葉では表せない感情が、心から溢れてくる。

普段の私ならそれを言われると、10が100になるくらいの勢いで、あの曲の良さを早口で捲し立てるのに、不思議なことに今日は違った。

きっと口数の少ない彼の言葉に影響をされたのだろう……。私は小さく頷く。

「この歌に……、救われましたから」

「……そうか」
私の言葉を彼はそれ以上求める事はなかった。

しばしの沈黙が、二人を包む。
正面に見えるのは百貨店の壁と、雨の小さな水滴だけだった。

「……けど、これも今日で終わり」

「はっ?なんで?」
私がそう言うと、彼は驚きの声をあげる。

「最初は乗り気じゃなかったんですよ。友達とカラオケに行って、歌を歌って、褒められて、乗せられて……。バカみたいですよね」
自虐のように自分で自分のことを笑う。

……歌手になるなんて夢のまた夢だ。醒めてみればなんのことはない。この雨の中、誰も足を止めない。たった一人の為に歌を歌うだけ。

労力に見合う対価もなければ、一緒に歌を楽しむ仲間なんてものもいない、ただの自己満足だ。

それを分かっていながらやってきたのは、ただこうやって積年の思いを誰かに聞いて欲しかった。それだけなのだ。

それが分かった以上、女が一人で夜に歌を歌うなんてリスクを冒す必要はない。

「分かったんです。何がしたかったかって……。
こうやって好きな歌を聴いてもらって、長年の思いを口にできたらいい。それだけなんだなって……。けど、もう終わりです」

「……なぜ?」

「バカな夢のためにリスクを冒してまでここで歌うべきじゃないんですよ。自己満足ならカラオケでも行きやがれってんだ!!」
心のままに自分を自分で罵倒する。が、その言葉は自分の胸に突き刺さる。

それを彼は黙って聞いてくれる。それだけで気が晴れた。

「けどよかった……。最初で最後に歌を聞いてくれたのが片桐さんで」

「本当か?」
彼が私の真意を確かめるように尋ねてくる。

「えっ?」

「本当かって聞いてるんだよ」
強い口調ながら、彼は優しく聞いてくる。その言葉に私は静かに頷く。

「じゃあ……、なんで泣きそうになってるんだ?」

「えっ?えっ?」
その言葉を聞いて、私は今の感情の在処を確かめる為に目を手で擦る。

気が付かなかった……。
泣きそうになってる自分がいたのだ。
それを理解すると、涙が……堰をきるように溢れてくる。

「あ、あれ?おかしいな」
拭えど、拭え度溢れてくる涙にますます感情が吐露する。

その様子を彼は黙って見ている。
それがまた感情を増大させる。
私はついに声を上げて、泣き出した。

しばらく私は泣くと、胸に溜まった汚濁が晴れたようにすっきりとした。

ずいぶん時間が経ったはずなのに、彼は黙って横にいてくれた。

「……すいません。ご迷惑お掛けしました」

「……気にするな」
そう言うと、片桐さんは静かに立ち上がる。
そんな様子に……帰るのかな?と言う思いを抱いた私だったが、彼は大きな深呼吸をする。

そしてこちらを向き直り、一言口にする。

「……リスクは嫌か?」
その言葉に私は横に首を振る。

「嫉妬、憎悪、醜悪……。音楽業界ってのは光と闇……いや、清濁入り混じるところだって話だ」
片桐さんのその言葉に私は頷く。

「歌なんて儲けてなんぼだからな。未来すら切り捨てないといけない可能性もある。そんな世界で君は未来(現実)を直視する事ができるのか?」

真剣な表情の片桐さんの眼光に、私は身震いする。そりゃあまぁ、身に危険が及ぶリスクは嫌だ。

だけどそれ以外のリスクは覚悟はしている。しているつもりだった。だけど、彼の言う未来という言葉に含まれる意味を考える。

富、名声、恋愛、自己権意欲……。そのどれもが常人とは違うのだ。そんな世界で、生きていく覚悟を問われている気がする。

私の中で天使と悪魔が囁いてくる。

『できるわけねぇよ。テメェが何してきたって言うんだ?なんの努力もせず、自分に言い訳して生きてきただけだろう』

『そんな事はないわ。大好きなピアノを続けてきたじゃない』

『そんなの、プロになりたい奴はみんなやってるぜ?それでもなれない奴は掃くほどいるぜ』

『…………』
自分の中でも、出来ない理由を口にする悪魔の方が優勢のようだ。だが……。

『才能なんてのは人には備えられちゃいないんだよ。自分が得られるものなんてたかが知れてる。せいぜい自分ができる精一杯の努力とチャンスをモノにできる運だけだ』
その悪魔の囁きが、脳裏をリフレインする。

……チャンスをモノに出来る運。
その言葉が、とある言葉を思い出させる。

「……出来ます。その覚悟は出来ています」
俯いていた私は、決意を秘めた目で片桐さんをみる。

『音愛は天才だ……。音愛ならいずれ日本の……、いや、世界の歌姫になれる』
昔、父が幼い私に言った決して更新される事のない言葉だった。

その為なら何だってする……。
そう決めたのは幼い頃の私だった。

「……歌手になるなんて夢のまた夢です。だけど私はなりたいんです。歌手に!!それが父との約束なんで!!」
私がそう言うと、彼は少し困った顔をする。がが、ふうとため息をつき、「分かった」と言って……小さく笑った。


片桐さんが雨の中、走ってくる。
相変わらず傘も差さず、びしょ濡れだ。

その様子を私は呆れながらも、どう言うかを想像する。きっと彼はこう言うのだろう……。

『はぁ、はぁ……。すまん、遅くなった』
息を切らした彼がするその謝罪に対し、私はこう答える……。

『もう、遅いですよー!!女の子が一人でこんな暗い中待ってるんですよ?」

すると彼はこう言いかえす……。

『これでも間に合うように、必死で仕事を終わらせてきたんだぞ?君も知ってるだろう?』と……。

それでも私はいじけたフリをしてこう言ってやるのだ。

『将来の歌姫に何があったらどうするんですか?見守ってくれるんですよね?』
そう言うと、彼は呆れた顔でぶつくさと文句を言いつつも謝るのだろう。

その姿を笑って楽しむ……。
これが付き合ってもいない、私達の距離感だ。

「はぁ、はぁ……。すまん、遅くなった……」

……ほらね。

追伸
彼は優しい。私が泣いた時、いつもじっと黙って話を聞いてくれる。

その居心地の良さに甘えてしまうのは仕方のない事だ。だけど、決まって差し出す物がある。

雨で濡れたハンカチだ。
だけど、私はそれを受け取る事はない。

「いや、いいです。気持ち悪いから……」
私がそう言うと、彼はあんぐりとした顔でショックを受けるのだった。
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