呪われ王女は旅をする

咲良野 縁

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第三章:歪みの森に梟は哭く

19.狩人

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「…………ッ」

 必死で奥歯を噛み締めて、逆上しそうになる血を抑え込む。
 行き場を失った感情が身体を強張らせ、鳩尾みぞおちの奥に集中して、やがて握り潰されるような痛みに変わっていく。
 さっき、アウスはなんて言った?

『これで助かった』

 つまり……あの時点で、彼は未来視さきみによって『自分は助からない』ことが分かっていたんだ。
 アウスは倒れた。
 私たちを先に進ませるために。
 ただ、それだけのために。

「畜生!」

 思わず、薄汚い罵りの言葉が喉からほとばしる。
 いくら我慢しても、こめかみがドクドク脈打って、視界が狭くなってしまいそう。
 駄目だ。
 いくら自分に落ち着きなさいと言い聞かせても、腕の戦慄わななきを抑えきれない!

「イナ様、あれを!」

 追い打ちをかけるように、私に縋っているフィリアが左手後方の茂みを示す。

「……!」

 明らかに四つ足の影が複数、ざわざわと音を立てながら追いすがってきている。
 あの巨大な狼、おそらくは群れの長が姿を見せたから、もう隠れる意味がなくなった……それとも、こちらを焦らせ、嘲笑っているのか。

「掴まって!」

 手綱で馬の首を叩き、駈歩キャンターから襲歩ギャロップへ速度を上げる。
 瞬間、体にぐっと圧力がかかって、振り落とされそうになったフィリアがあわてて私の腰に強く抱きついた。
 追い手は森の中、こちらは整備された平坦地。
 どちらが走りやすいかは言うまでもない。
 速力を増したことで、少しずつだけど気配を引き剥がしているのは感じられる。
 でも、このはあくまで荷馬、軍馬でなければ競走馬でもない。
 もう既に息が上がってしまっているし、脚にも乱れが見え始めている……。
 
「お願い、もう少し頑張って、お願い!」

 森を抜けるまでなんて言わない、追手が諦めるまででいい。
 多分、それすら無理だろうとは分かってるけど、今はもうあなた以外に頼るものがないの!

「フィリア! フォビアの様子は!?」

 もうひとりの親友の力があれば、と期待してみたけど。

「駄目です……眠ってしまったままで……」

 フィリアの泣き声で、その希望も打ち砕かれた。
 実は、彼女フォビアは一度眠りについたら、しばらく“表”に出てこられない。
 これを知られたら、誰かが悪意をもって隙を突いてくる恐れがある――だからこの事実はアウスにも教えず、あくまで私たち二人の秘密にしてあった。
 でも、もし。
 それが彼の読みを狂わせていたら。
 最後の砦として、フォビアの守りを当てにしていたとしたら……?
 
「……ます、イナーシャ様」
「なんですって!?」
 
 何と言われたのか聞き取れず、風切り音の中で怒鳴るように問い返す。
 
フィリアがお守りします! 私だって、貴女様の専属侍女ですわ!」
 
 いつもおっかなびっくり、何かあればすぐ涙ぐんでしまう、気弱な友達。
 今だって、泣きそうになっていたのに。
 ずっとずっと、そんなイメージしかなかったのに。

「フィリア!」

 背後で一生懸命に体勢を入れ替えようとしている彼女が、そのつど何度もバランスを崩しかけるのを、片手でなんとか支える。
 やっと馬上で背中合わせになった私たちは、互いの身体を革紐で固く繋ぎ合わせた。

「落ちないでよ、頼むから!」
「は、はい!」

 馬の体力が落ち、脚が覚束なくなるにつれて、後ろから気配がどんどん迫ってくる。
 埒が明かないと思ったのか、それとも一気に距離を詰めようとしたのかは分からないけど、ついに森の中から一頭の狼が飛び出してきた。
 やはり銀色の毛並みをした、大きな――でも、アウスを襲ったのに比べれば遥かに小柄な相手。

「お願い、引いて。来るなら容赦はしません……!」

 覚悟を決めたフィリアの声。
 外套越しの背中から伝わってくる鼓動の大きさと速さが、彼女の緊張をはっきりと物語っている。
 私はもう、放っておけばすぐ斜行しそうになる馬の制御で手一杯。
 あとは、彼女に任せるしかない!

『グオオオッ!』

 喉の奥から絞るような吠え声に呼応して、更に二匹。
 あわせて三匹の狼が、足並みを揃えて加速してくるのだけは、横目にちらりと見えた。
 まだ遠い、だけどこのままじゃすぐに追いつかれる!
 
「――原初の火に連なる神よ。願わくばその威光の一端を私にお示し下さい。我らを貴方の御手によってお守り下さい」

 両手を打ち合わせる音、火の神に捧ぐ詠唱。

「その魔法は……!?」

 フィリアの両手の間には今、純粋な熱の塊が出来上がっているはず。

「隔てよ、〈焦熱壁フレイムウォール〉!」

 ごっ、という熱波と共に、背後に炎の渦が立ち上がる。
 それは瞬間的に、街道の幅いっぱいまで膨れ上がった。

「や、やった……!」

 彼女も小さい頃からずっと魔法の修練をしていたけど、私には全く扱えないレベルの魔法までおさめているなんて、全然知らなかった。
 まして、こんな切羽詰まった状況で成功させるなんて!

「驚いたわ、フィリア!」

 火は全てを温め、同時に全てを拒むものだ。
 あのタイミングで発動した炎の障壁は、狼たちの進路を明確に塞いだはず。

「とにかく、これで少しは……」

 仮に森の中に飛び込んで迂回してくるとしても、時間は稼げた――そう思ったのに。

「そんな!?」

 背後でフィリアが息を呑んだのにつられて振り返る。
 見えたのは、なんの躊躇もなく火の壁を突き破ってくる狼どもの姿。

「な……!」

 慌てて馬を急かしても、一度緩めてしまった速度は直ぐに戻らず、また戻せるだけの体力もこの子に残っていない。

「火をまるで恐れない獣なんて……!?」

 いない、とまでは言いきれない。
 山火事に巻かれ、逃げ場を失った野犬が、最後の手段として火中を駆け抜けたという逸話なら、確かに聞いたことがあるもの。
 だけど、あいつらはそもそも火を怖がるような素振りすら見せていない。
 そんなの、まともじゃない――獣どころか、生き物として!

「〈発火イグナイト〉! 〈発火イグナイト〉!」

 くすんだ銀毛が焼け焦げているのに、全く構わず迫ってくる狼たちに対し、フィリアは炎の礫を乱射する。
 一々どうなったか、確認なんて出来ない。
 でも、彼女の攻撃が奏功していないのは、徐々に狼の荒い息遣いが近づいて来るので判ってしまう。
 
「はあッ、はあッ、はあッ、い、〈発火イグナイト〉……ッ!」
「もう止めて、フィリア!」

 短時間の魔法連射は、体力だけでなく精神こころを強く蝕むと聞いた。
 『呪い』を受けた私やアウスがどう変質したかを思えば、神の恩寵とされる『魔法』だって、使い続けることで恐ろしい末路を辿っても不思議はない。
 いいえ、そうでなくても……フィリアまでここで力尽きてしまうことになったら、私は……!

「で、でも……っ」
「アウスは、私たちは助かると言ったのよ! だから……!」

 もうすでに、三匹の狼はすぐ背後まで迫っている。
 後ろを向いているフィリアはその事実を余計にはっきり感じられるのだから、生きた心地もしないはず。

「神よ……」

 万策が尽きた彼女から漏れた、か細い声。
 それが、あらゆる雑音に満ちた私の耳に、妙に澄んだ音で響いた。

「どうか我らを――神よ!」

 ――神。
 多分、私に助けの手を差し伸べる神など、一柱も居ないのでしょうね。
 だって、私を“殺した”ものもまた、『神』なのだから。
 そんな『神』に祈るぐらいなら、このまま狼に食われてやったほうがマシかもしれない。
 だけど、私には目指す場所がある。
 やるべきことがある。
 だから。

「……諦めないわ、絶対に。運命なんて信じないのよ、私は!」

 当然、森の切れ目はまだ見えない。馬がそこまで保つとも思えない。
 それでも前を、前だけを見ていた私の背後で、明らかな殺気が膨れ上がった。

「姫様ッ!」

 フィリアが――おそらく反射的に――私を庇うために身を反らす。
 万全の体勢で距離を見定め、私たちに確実な死をもたらすために跳躍した狼の牙と爪。
 それが私たちを引き裂こうとした、まさにそのときだった。

「――地に伏せろ」

 凛とした、よく通る男性の声。
 それに導かれた私は、何一つ考える間もなくフィリアを巻き込むようにして身体を横倒すと、馬の上から転がり落ちた。
 強く抱き合った私たちは弾みで街道脇の茂みの中へと突っ込み、そして。

『ギャアアアアアアッ!?』

 人間そっくりな絶叫が上がった。
 強かに背中を打った私が必死に呼吸を取り戻そうとしている、そのすぐ傍に狼の身体がどたりと落下する。

「……!」

 両目に突き立っていたのは、二本の矢。
 そのうち一本は頭蓋を突き破り、首の後ろからやじりが覗いている。

『グ……グ……!?』
 
 残る狼も慌てて足を止めると、必死にあたりを見回し、鼻を鳴らして警戒態勢をとる。
 でも、その成果が出る前に、鋭い風切り音を立てて飛来した矢がまた別の一頭の目を射抜いた。

『ギャ……!?』

 身を捩り、頭を激しく振る狼。
 不規則な動きにも係わらず、冷徹に飛来した二の矢はまたしても残る目を穿ち、二匹目もあえなく地に倒れ伏す。

「……どうやら無事のようだな」
「えっ!?」

 いきなりの声に、口から心臓が飛び出しそうになった。
 なんの気配もしなかったのに……こんな近くに誰かいたなんて!?

「あ、貴方は……?」

 木立の陰から滲み出るように姿を見せたのは、長身の痩せた男。
 年の頃は三十歳ぐらいかしら、鋭い金色の目と腕に刻まれた沢山の古傷が、この人もまた尋常の生き方をする人間でないことを示している。
 彼は、その手に携えた弓――無数の棘が突き出る茨で編まれた異形の猟具に矢をつがえると、完全に怯えきっている三匹目の狼に向けて大きく引き絞った。

「……俺は狩人だ。狼専門のな」
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