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第一章:そして王女は旅に出た
2.呪い、一度目の死
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「……全てを奪う、ですって? 見くびられたものね」
ローテーブルを挟んで対峙する相手――まるで闇夜に潜む烏みたいに真っ黒な男は、私が短剣を突きつけてそう言ってもまるで怯まず、かといって激昂して襲いかかってくるでもなく、相変わらず静かにこちらを見つめ続けている。
「ここで私が大声を上げたら、貴方、すぐ八つ裂きにされるわよ」
「なら、やってみるがいい」
「……ッ!」
侵入者のくせに、何なのよ、その落ち着きは!?
私自身、カッとなりやすい性格な自覚はあるけれど、それを差し引いてもこの男の態度、まるで子供を誂うような口調は看過出来るものじゃなかった。
「衛兵! 衛兵!! フィリア、来て!」
この部屋の構造は、大声を出せばかならず宿直の兵に届くようになっている。
それに、ほんの少し咳をしただけでも慌てて飛んでくるほどに神経が細かいフィリアだって、聞きつければ直ぐに来てくれる。
そしたら、こんな男なんて……!
だけど、私の想定を裏切って、走り込んでくる足音も、鎧が擦れ合って鳴る音も、何一つ聞こえてはこない。
「な……?」
「来ないさ」
私の言葉を遮って、烏みたいな賊が小さく呟いた。
「誰も来られないようにしておいた。二人の時間を、邪魔されたくはない」
厭な嘲りでこそなかったけれど、男の口元には押さえきれない笑みが浮かんでいる。
「一体、何をしたの!」
「呪いをかけた。眠くて、眠くて、起きていられない呪いを。この城全体にね」
「……なんですって? 呪い? 莫迦なことを……!」
男の言葉はあまりに軽々しいけど、とても正気で言っているとは思えなかった。
――呪い。
それは魔法に良く似た、しかしまるで違うもの。
『魔法』は神々から人に与えられた恩寵――術者によって力量の差はあっても、使えることがそれほど特別というわけじゃない。
一方で、『呪い』とは神の力そのもののこと。
人間ごときに扱えるものではなく、また扱って良いものでもない。
もし、呪いを自在に操れる存在が居たとしたら。
それは……人間じゃない、ということだ。
「ハッタリよ! 〈微睡みの霧〉を使ったとか――」
「そう思うなら、城の中を一周してみると良い。呪いは朝日が登るまで続く。誰かを揺り起こそうとしてみたって構わない」
「ぐ……!」
あまりに穏やかな声で諭されて、思わず絶句してしまう。
もし、この男の言葉が本当なら――そんな広範囲に影響を及ぼせる魔法など、これまで聞いたことがない。
懐剣を両手で握りしめたまま、何と言い返そうか迷っているうち、ヤツは不意に歩き出して入り口のドアノブに手をかけた。
「行け。俺は、此処で待っている」
「…………!」
――この男が何者かは分からない。
だけど、その一言からは、彼の異常なほどの自信と……それから、絶対に目的を遂げるという強い意思は、痛いほどに伝わって来た。
城内の何処へ行こうと、仮に跳ね橋を落として城下にまで逃げたとしても、必ず私を捕まえられるという自負。
呪いを使えるという言葉が嘘かどうかなんて、もう問題じゃない。
この男が、目の間に現れた時点で……私の運命はきっと、大きくうねり始めていたんだから。
「どうした」
「あいにくね。私たちの国に、奸賊の命令通りになるような惰弱な人間は居ないわ」
懐剣の柄を握り直し、早鐘よりなお早い鼓動を収めるために呼吸を整える。
「お前が何者かは知らない。だけど、私の全てを奪うと言うなら、代価にその生命を貰うわよ!」
この侵入者が本当に呪いを使いこなす存在なら、恐らく……いえ、確実に無理な誓い。
それでも、私はフラシア王の娘。
黙ってやられなんてしない――絶対に一太刀浴びせてみせる!
「……さあ、来なさい! 聖国第一王女がどれほどのものか、思い知ると良いわ!」
短い人生の中で初めて抱いた、死ぬ覚悟。
足回りにまとわりつく薄い寝間着の裾を片手で引き裂き、動きやすい姿勢を取る。
子供の頃、遊びに夢中で同じことをしたときは母様からものすごく怒られたっけ。
そんな懐かしい記憶が、ふっと脳裏を過る。
でも……多分。
今回は、よくぞ誇りを守るために戦ったと、そう褒めてくださるでしょう。
「……ああ、そうだ。君は、確かにそういう女性だった」
臨戦態勢を取った私をものともしていないのか、感傷的な表情を浮かべている男は、何を思ったのか後ろ手にドアをしめると、私に向けて無防備に歩み寄ってくる。
やはり、外套の切れ目からちらちら見えているのは、白銀の長剣。
でも、だらんと下げたままなんて、油断でしかないわ!
「――〈発火〉!」
「!」
男が絨毯を踏んだ瞬間、私でも使える魔法を解き放つ。
ホントは室内で使うのを厳に禁じられてるんだけど、そんなこと構っちゃいられないわ。
起毛の絨毯、その毛羽立ちに着火すれば、僅かな火種でも派手な炎が立つ。
そして、上手く行けば……。
「く……ッ!」
「やった!」
自分でもびっくりするぐらい目論見通り、男の外套へ燃え移った火は、瞬時に全身へ回っていく。
この部屋の床は石造りだから、燃え広がる心配はない。
あとは、あの男が動けなくなる前に火を消して、拘束魔法で縛ってしまえば……!
「…………見事な判断だ、イナーシャ姫」
油断していたつもりはない。
勝った気になっていた事実も、ない。
「やはり俺は――君の全てを奪わなければならない」
燃え上がる火焔を纏った男が、すっと背筋を伸ばした瞬間、外套がすとんと床に落ちた。
「え」
それこそ子供の頃に見せてもらった記憶のある、手品の一幕みたいに。
いま、目の前で燃え尽きようとしている外套の『中身』が、突然消え失せた様にしか見えなくて。
「…………ッ」
気づいたときには、部屋の中に大きな烏が飛んでいた。
青磁の仮面の奥で瞳を光らせ、銀色の刃を閃かせたそれが、天蓋よりも高い位置から私を目掛けて襲いかかってくる。
「……あ……?」
胸の真ん中が酷く冷たくて、燃えるほど熱い。
……ああ、そうか。
私、刺されたのね?
仮面の男の右手から伸びる直剣の先を目で追うだけの勇気は……いくら私でも、持てなかった。
「か……はッ」
せめて罵倒の一つぐらいは浴びせてやろうと思ったのに、どうしても上手く声が出せない。
何故、と動かした唇の動きにきっと気づいただろう男は、静かに目を閉じると、剣先を私の中から引き抜き、そして。
「せめて、これ以上の痛みは与えまい」
胸と同じ冷たい熱が、下腹と喉にも走る。
「…………」
もう立っていることも出来ず、床に崩れ落ちながら、私はただただ、悔しいと思っていた。
だって結局、こいつには毛ほどの傷も追わせることは出来なかったんだもの。
このまま死ぬのなんて……悔しい。
せめて、せめて。
仮面を剥ぎ取って、素顔を……!
「………………う……あ」
でも、震える手をいくら伸ばした所で、立っている男には――ましてその顔までなんて届くはずもなく、硬くて冷たい床の上に指先が落ちる。
嵌めていた婚約指輪がかちんと音を立てたのを境に、視界が白と黒に明滅し始めた。
段々と、何もかもがぼやけていく感覚――その中で、不意に身体がふわりと浮かんだように思う。
「……俺を追ってこい、イナーシャ」
耳元で囁かれた声は、確かにそう言った。
「もう一度巡り合ったなら……その時、俺は君と……」
その夜、私が記憶しているのは、ここまで。
……いえ、正確にはもう一つ。
これだけは誰にも――侍女のフィリアにすら、今でも話していないこと。
あの男が去る前に、私の唇に何かが触れた――ような気がする。
きっと気の所為に違いないから、その意味を考える必要なんてないはず。
でも、どうしてかしら。
それは、この身に刻まれた三つの傷を補っても余るぐらい……なぜか、懐かしい温かさだった。
ローテーブルを挟んで対峙する相手――まるで闇夜に潜む烏みたいに真っ黒な男は、私が短剣を突きつけてそう言ってもまるで怯まず、かといって激昂して襲いかかってくるでもなく、相変わらず静かにこちらを見つめ続けている。
「ここで私が大声を上げたら、貴方、すぐ八つ裂きにされるわよ」
「なら、やってみるがいい」
「……ッ!」
侵入者のくせに、何なのよ、その落ち着きは!?
私自身、カッとなりやすい性格な自覚はあるけれど、それを差し引いてもこの男の態度、まるで子供を誂うような口調は看過出来るものじゃなかった。
「衛兵! 衛兵!! フィリア、来て!」
この部屋の構造は、大声を出せばかならず宿直の兵に届くようになっている。
それに、ほんの少し咳をしただけでも慌てて飛んでくるほどに神経が細かいフィリアだって、聞きつければ直ぐに来てくれる。
そしたら、こんな男なんて……!
だけど、私の想定を裏切って、走り込んでくる足音も、鎧が擦れ合って鳴る音も、何一つ聞こえてはこない。
「な……?」
「来ないさ」
私の言葉を遮って、烏みたいな賊が小さく呟いた。
「誰も来られないようにしておいた。二人の時間を、邪魔されたくはない」
厭な嘲りでこそなかったけれど、男の口元には押さえきれない笑みが浮かんでいる。
「一体、何をしたの!」
「呪いをかけた。眠くて、眠くて、起きていられない呪いを。この城全体にね」
「……なんですって? 呪い? 莫迦なことを……!」
男の言葉はあまりに軽々しいけど、とても正気で言っているとは思えなかった。
――呪い。
それは魔法に良く似た、しかしまるで違うもの。
『魔法』は神々から人に与えられた恩寵――術者によって力量の差はあっても、使えることがそれほど特別というわけじゃない。
一方で、『呪い』とは神の力そのもののこと。
人間ごときに扱えるものではなく、また扱って良いものでもない。
もし、呪いを自在に操れる存在が居たとしたら。
それは……人間じゃない、ということだ。
「ハッタリよ! 〈微睡みの霧〉を使ったとか――」
「そう思うなら、城の中を一周してみると良い。呪いは朝日が登るまで続く。誰かを揺り起こそうとしてみたって構わない」
「ぐ……!」
あまりに穏やかな声で諭されて、思わず絶句してしまう。
もし、この男の言葉が本当なら――そんな広範囲に影響を及ぼせる魔法など、これまで聞いたことがない。
懐剣を両手で握りしめたまま、何と言い返そうか迷っているうち、ヤツは不意に歩き出して入り口のドアノブに手をかけた。
「行け。俺は、此処で待っている」
「…………!」
――この男が何者かは分からない。
だけど、その一言からは、彼の異常なほどの自信と……それから、絶対に目的を遂げるという強い意思は、痛いほどに伝わって来た。
城内の何処へ行こうと、仮に跳ね橋を落として城下にまで逃げたとしても、必ず私を捕まえられるという自負。
呪いを使えるという言葉が嘘かどうかなんて、もう問題じゃない。
この男が、目の間に現れた時点で……私の運命はきっと、大きくうねり始めていたんだから。
「どうした」
「あいにくね。私たちの国に、奸賊の命令通りになるような惰弱な人間は居ないわ」
懐剣の柄を握り直し、早鐘よりなお早い鼓動を収めるために呼吸を整える。
「お前が何者かは知らない。だけど、私の全てを奪うと言うなら、代価にその生命を貰うわよ!」
この侵入者が本当に呪いを使いこなす存在なら、恐らく……いえ、確実に無理な誓い。
それでも、私はフラシア王の娘。
黙ってやられなんてしない――絶対に一太刀浴びせてみせる!
「……さあ、来なさい! 聖国第一王女がどれほどのものか、思い知ると良いわ!」
短い人生の中で初めて抱いた、死ぬ覚悟。
足回りにまとわりつく薄い寝間着の裾を片手で引き裂き、動きやすい姿勢を取る。
子供の頃、遊びに夢中で同じことをしたときは母様からものすごく怒られたっけ。
そんな懐かしい記憶が、ふっと脳裏を過る。
でも……多分。
今回は、よくぞ誇りを守るために戦ったと、そう褒めてくださるでしょう。
「……ああ、そうだ。君は、確かにそういう女性だった」
臨戦態勢を取った私をものともしていないのか、感傷的な表情を浮かべている男は、何を思ったのか後ろ手にドアをしめると、私に向けて無防備に歩み寄ってくる。
やはり、外套の切れ目からちらちら見えているのは、白銀の長剣。
でも、だらんと下げたままなんて、油断でしかないわ!
「――〈発火〉!」
「!」
男が絨毯を踏んだ瞬間、私でも使える魔法を解き放つ。
ホントは室内で使うのを厳に禁じられてるんだけど、そんなこと構っちゃいられないわ。
起毛の絨毯、その毛羽立ちに着火すれば、僅かな火種でも派手な炎が立つ。
そして、上手く行けば……。
「く……ッ!」
「やった!」
自分でもびっくりするぐらい目論見通り、男の外套へ燃え移った火は、瞬時に全身へ回っていく。
この部屋の床は石造りだから、燃え広がる心配はない。
あとは、あの男が動けなくなる前に火を消して、拘束魔法で縛ってしまえば……!
「…………見事な判断だ、イナーシャ姫」
油断していたつもりはない。
勝った気になっていた事実も、ない。
「やはり俺は――君の全てを奪わなければならない」
燃え上がる火焔を纏った男が、すっと背筋を伸ばした瞬間、外套がすとんと床に落ちた。
「え」
それこそ子供の頃に見せてもらった記憶のある、手品の一幕みたいに。
いま、目の前で燃え尽きようとしている外套の『中身』が、突然消え失せた様にしか見えなくて。
「…………ッ」
気づいたときには、部屋の中に大きな烏が飛んでいた。
青磁の仮面の奥で瞳を光らせ、銀色の刃を閃かせたそれが、天蓋よりも高い位置から私を目掛けて襲いかかってくる。
「……あ……?」
胸の真ん中が酷く冷たくて、燃えるほど熱い。
……ああ、そうか。
私、刺されたのね?
仮面の男の右手から伸びる直剣の先を目で追うだけの勇気は……いくら私でも、持てなかった。
「か……はッ」
せめて罵倒の一つぐらいは浴びせてやろうと思ったのに、どうしても上手く声が出せない。
何故、と動かした唇の動きにきっと気づいただろう男は、静かに目を閉じると、剣先を私の中から引き抜き、そして。
「せめて、これ以上の痛みは与えまい」
胸と同じ冷たい熱が、下腹と喉にも走る。
「…………」
もう立っていることも出来ず、床に崩れ落ちながら、私はただただ、悔しいと思っていた。
だって結局、こいつには毛ほどの傷も追わせることは出来なかったんだもの。
このまま死ぬのなんて……悔しい。
せめて、せめて。
仮面を剥ぎ取って、素顔を……!
「………………う……あ」
でも、震える手をいくら伸ばした所で、立っている男には――ましてその顔までなんて届くはずもなく、硬くて冷たい床の上に指先が落ちる。
嵌めていた婚約指輪がかちんと音を立てたのを境に、視界が白と黒に明滅し始めた。
段々と、何もかもがぼやけていく感覚――その中で、不意に身体がふわりと浮かんだように思う。
「……俺を追ってこい、イナーシャ」
耳元で囁かれた声は、確かにそう言った。
「もう一度巡り合ったなら……その時、俺は君と……」
その夜、私が記憶しているのは、ここまで。
……いえ、正確にはもう一つ。
これだけは誰にも――侍女のフィリアにすら、今でも話していないこと。
あの男が去る前に、私の唇に何かが触れた――ような気がする。
きっと気の所為に違いないから、その意味を考える必要なんてないはず。
でも、どうしてかしら。
それは、この身に刻まれた三つの傷を補っても余るぐらい……なぜか、懐かしい温かさだった。
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