MIBUROU ~幕末半妖伝~

きだつよし

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第二章 思い出の鈴  其の二

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 佐武親子との会談を終え、屯所に戻った近藤と土方は、親子が襲われた嚥獣らしき異形のこと、そして、二人を助けた人物が壬生狼か確かめるべく、彼を呼び出すことにした。
 表に出た土方は、懐から小さな笛を取り出し、長く1回吹いた。それは、「今宵亥の刻、壬生寺で待つ」……という合図である。
 笛は、自分を呼ぶ時に吹けと壬生狼が土方に渡したもので、笛が発する奇妙な音色は人の耳には聞こえないが、壬生狼の耳には聞こえる特殊な音らしい。
 そして夜……約束の刻限になり、土方は近藤と沖田を伴い、壬生寺を訪れた。
「いるか……?」
 土方が人気のない暗い境内に向かって声を投げると、本堂の影から壬生狼が姿を現した。
「なぜ報告しない?」
 顔を見るなり、土方は壬生狼に問い正した。
「何のことだ?」
「おとといの夜、嚥獣に遭遇し、親子を助けただろう」
「……」
 ばれたことが気まずいのか、壬生狼は黙って目をそらした。
 近藤はやれやれという顔で尋ねた。
「やはりお前か。嚥獣に出くわしたなら何故すぐ知らせん?」
「……」
 壬生狼は黙ったまま答えない。
 平静を装っているが、彼は明らかに動揺し、何かを隠そうとしている。
 土方には、それが何か察しはついていた。
「助けた女のせいか……?」
「!」
 壬生狼は驚き、目を見開いた。
「名をひなたと言ったか」
「どうしてそれを……?!」
 動揺する壬生狼に近藤が経緯を話した。
「事件のことを俺達に知らせたのは、その娘だ。彼女は、お前が着ていた新選組の羽織を頼りに、助けてくれた隊士が誰なのか確かめに来てな。その時、行方知れずの暁透志郎を探しに父親と共に会津から出てきたという話を聞いたのさ」
「……そうだったのか」
 話を聞き、視線を落とす壬生狼に土方が問いかけた。
「その女……お前の許婚らしいな」
「……ああ」
 視線を落としたまま、壬生狼は小さく答えた。
 土方は正直なところ、壬生狼が暁透志郎であるという話を半信半疑に思っていた。現実離れした彼の姿と実在する人物が頭の中でどうしても一致しなかったからだ。
 だが、暁透志郎を許婚とする女が現れ、その女と遭遇したこの男の心が明らかに乱れている……土方は、壬生狼が動揺を必死に抑えようとしているのを目のあたりにし、この異形の男が、行方知れずの暁透志郎であると確信を強めた。
 うつむいていた壬生狼が顔をあげ、土方に尋ねた。
「俺のことを彼女に何か話したか……?」
「名を聞いたことがあるという以外は何も」
「ならいい。俺のことはそれ以上話すな」
「無論そのつもりだ」
 土方が素っ気なく答えると、沖田が口をはさんだ。
「けど、いいんですか?その許婚さんは、この人のことをすごく心配してるんでしょ?、無事でいると伝えてあげた方が」
「何が無事だッ!」
 突然、壬生狼が声を荒げた。
「こんな姿で……こんな変わり果てた姿で……何が無事だと……」
 怒りとも哀しみともつかぬ気持ちがこみ上げ、壬生狼は声を詰まらせた。
「すみません。許婚さんがちょっと可哀想に思えて。けど、あなたにもあなたの事情がありますよね……」
 沖田は気まずそうに肩をすくめた。
「総司の言うことは間違っちゃいねえ。あの娘はこいつのことを心底心配してる。できるもんならホントのことを話してやりてえところだ。だが、この姿じゃ会えねえっていうこいつの気持ちもよくわかる。お互い辛えところだな……」
 人の好い近藤は、そう言って二人の気持ちを慮り、大きなため息をついた。
 沖田はいい手を思いついたとばかりに、手を叩いて言った。
「じゃ、せめて生きてることだけでも伝えてあげたらどうでしょう?遠くへ旅に出て、今は会えないってことにして」
「なるほど、手としてはなくはねえ。だが、あの娘のことだ。旅に出たなんて聞いたら、行く先を問い詰めて、後を追いかねん。かといって、生きていることだけ伝えて他を伏せれば、かえって疑心暗鬼になって心を乱しちまう」
 近藤の助言に沖田は「なるほど……」と腕を組んだ。
「何も話さない……それが一番だ」
 諦めとも悲しみともつかぬ壬生狼の沈んだ声に近藤と沖田の胸は痛んだ。
 二人が黙りこんでいると、土方が口を開いた。
「何故そんな姿になった……?」
 壬生狼はジロッと土方を睨んだ。
「詮索無用は承知している。だが、お前が元は人だったと言うなら、その謎を解かん限り何も前には進まん」
「……」
 黙ったままの壬生狼に土方は続けて言った。
「許嫁がまた襲われてもいいのか……?」
「?!」
 壬生狼は大きく目を見開いた。
「あの親子は、行方知れずになった京都遠征隊に関して何か知っている。そして、そのために襲われた節がある。だとすれば、敵がまた二人を襲う可能性がある」
「なら俺が守る!」
 壬生狼は闘志を漲らせて言った。
「その姿で彼女の周りをうろつくつもりか。それはお前の望むところではあるまい」
「くッ……」
 痛いところをつかれたという風に壬生狼は息をもらした。
「我々なら新選組として白昼も堂々護衛できる。だが、そのために嚥獣のことを少しでも知っておかねばならん。お前が知りえる話は、我々にとっても、そして、彼女を守るためにも必要なものだ」
 土方はそう言って、壬生狼をまっすぐ見た。
 壬生狼は黙って土方を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「よかろう。それでひなたを守れるというなら……」

          ◯

 京都で孤軍奮闘する藩主・松平容保の力となるため、京都遠征隊が会津を発ったのは半年ほど前の事である。
 総勢三十名の若者は、生まれ育った故郷に別れを告げ、見知らぬ土地で暮らすことに不安もあったが、それ以上に藩主直属として誇りある任務につくことに胸を躍らせ、京に向かっていた。
 その中に、一際目を輝かせ、意気揚々と歩く一人の若者がいた。
 名は、暁透志郎……彼はその心のうちに、この任務で功績をあげ、胸を張ってひなたを伴侶に迎えるという強い想いを秘めていた。
 ひなたは、透志郎が門下生として属する佐武道場の主・佐武要蔵の娘である。
 幼い頃から道場に通う透志郎は、健気で明るいひなたに惹かれ、ひなたもまた透志郎の誠実な人柄を慕い、二人はいつしか恋に落ちた。
 だが、ひなたの父である佐武要蔵は、藩より直々に剣術指南を仰せつかるほどの武芸者であり、格式高い家柄の武士である。下級武士の家に生まれた透志郎では釣り合いがとれるとは言い難い。
 そこで、二人の仲を知るひなたの兄・翔助が、透志郎に提案した。
「俺が組頭となる京都遠征隊に加われ。そして京都で功績をあげ、親父に認めてもらうんだ」
 翔助は、佐武道場の師範代であり、透志郎の兄弟子である。早くに両親を亡くした透志郎を実の弟のようにかわいがり、密かに愛を育む二人を暖かく見守ってきた。
 透志郎は、ひなたと離れ、遠い地で暮らすことにためらいを覚えたが、要蔵に認めてもらうにはそれしかないと翔助の提案を受け入れることにした。
 ひなたもまた、透志郎と離れ離れになることをひどく寂しがったが、要蔵に認めてもらわぬ限り夫婦になれないことは重々わかっているので、寂しさを堪え、透志郎の帰りを待つことにした。
 要蔵の許しは得てはいないが、二人は互いを許婚とし、行く行くは夫婦になることを固く誓いあい、別れを告げた。
 ひなたの笑顔を守るため、そして彼女を伴侶に迎えるため、俺は必ず功績をあげる……透志郎は力強く足を踏みしめた。
 旅は順調に進み、あと五日もすれば京に辿り着くというところまでやってきた。
 その日、京都遠征隊は深い山の中を歩いていたが、晴れていた空を薄暗い雲が覆い
 霧が辺りを覆い始めた。
 山の天気は変わりやすい。今日のうちに山を越えようと、一同は足を早めたが、
 見る見る霧は濃くなり、視界は完全に白く遮られた。霧に包まれた山道を一同は慎重に進んだが、いつのまにか道に迷ったらしく、霧が晴れた頃にはすっかり夕暮れになっていた。
 今晩は山の中で野宿するしかなさそうだと一同が途方に暮れていると、はるか前方から人が歩いてくるのが見えた。こんな山奥で人と会うとは想像せず、一同は驚いたが、近づいてくる人影に目を凝らすと、それは修験僧のようだった。
 一同の前まで歩いてきた修験僧は、口元を布で覆っており、目元しか見えなかったが、優しい声で話しかけた。
「こんな山奥で何をしておいでです…?」
 組頭の翔助が、山越えをするつもりが霧で道に迷い、野宿をするか思案していると話すと、修験僧は暖かい言葉をかけた。
「この近くに私が修行で使う古い寺があります。よければそこをお使い下さい」
 一同は喜び、修験僧の好意に甘え、寺で宿をとらせてもらうことにした。
 修験僧が案内した寺は、山道をはずれて更に山深く入ったところにあった。
 すっかり夜もふけ、風の音しか聞こえない暗い森の中に静かに鎮座する本堂は、不気味な雰囲気を醸し出しているが、外界と関わりを絶ち、厳しい修行に励む修験僧には、こういう人目に触れにくい場所の方がふさわしいのかも知れない。
 一同は、気味の悪い寺でも雨風がしのげるだけありがたいと、修験僧が灯りを灯した本堂の中に入っていった。
 しばらくすると、修験僧がどこからか徳利と器を持ってきた。
「皆さんもお疲れでしょう。何もありませんが、これでも飲んで精をつけて下さい」
 修験僧は、そういって徳利から器に何か注ぎ、一同にふるまった。
「これは……?」
「薬草を煎じ、酒と混ぜたものです。滋養に優れ、疲れがとれます」
 翔助の問いに修験僧はそう答えた。
 修験僧のいう通り、器に注がれたものからほのかに草の香りが漂っている。
 見知らぬ飲み物が注がれた器を一同は恐る恐る眺めていたが、組頭の翔助が「良薬口に苦し!」と器をグイとあおった。
 一同は様子をうかがっていたが、「うまい!」と翔助が笑顔になったので、皆も続いて酒を煽った。透志郎も同じく、薬草を混ぜたというその酒を口に流し込んだ。
 それは不思議な味だった。薬草を混ぜているからには苦いだろうと想像したが、甘酒と混ぜているのか、その味は甘く優しく、体に心地よく染み渡る。
 その不思議な優しい味に、一同の緊張はすっかり解けていった。
 修験僧は、その様子を見て、「ではごゆっくり」と頭を下げ、本堂を出て行った。
 緊張が解けたとたん、一同にどっと疲れが襲ってきた。
 それもそのはず、霧の中で道に迷い、一日中山の中を彷徨っていたのである。よぼど疲れがたまっていたのか、普段なら一杯程度の酒で酔いが回るほどやわではない男達が、染み入る酒の心地良さに体を委ね、次々と横になって寝息を立て始めた。
 透志郎も仲間達のそんな様子を眺めながら、いつしか深い眠りに落ちていった……。

          ◯

 どのくらい眠ったのか……透志郎が目を覚ますと、あの修験僧が更に持ち込んだのか、壁に沿って等間隔に置かれたいくつもの蝋燭が静かに揺れているのが目に入った。
 透志郎は体を起こそうとしたが、意識が朦朧とし、力が入らない。なんとか起きようと試みるうち、自分の体が大の字になって横たわり、その手足が床に打たれた杭に縛られていることに気がついた。
 状況が呑み込めず、透志郎は首をよじって辺りを見た。すると自分と同じく、大の字に横たわる仲間達が手足を杭に縛れているのが目に入った。
 その中に組頭の翔助もいるのだろうか?力の入らない体を必死に動かし、辺りを見渡すが、目に入るところに姿はない。
 翔助殿!……透志郎は組頭の飛助を探し、声をあげようとしたが、力が入らずうまく声にならない。
 どうしてこんなことに?……もしや、先刻飲んだ酒に薬が盛られていたのか?……だとしたら何故?……この寺へ案内されたのは自分達を捕らえる罠だったのか?……透志郎が朦朧とした頭で必死に考えをめぐらせていると、ふいに声がした。
「目が覚めたのか」
 見ると、頭上に先ほどの修験僧が立っている。
 だが、その恰好は先刻見た修験僧のそれではなかった。顔を隠していた布をはずし、その身に怪しげな法衣を身にまとうその姿は、密教の教祖ともいうべき異装のいで立ちだった。
 法衣の男は、透志郎を見下して言った。
「まあいい。我が奇跡を目の当たりにできるとは運がいい……」
 奇跡?……透志郎は尋ねようとしたが、口が動かず声にならない。
 男はその声がわかったのか、冷たい微笑みをたたえて答えた。
「貴様達はこれから獣と一つになり……嚥獣となる」
 のけもの?……透志郎にその意味は全くわからなかったが、自分と仲間の身に危機が迫っていることだけは理解できた。
 法衣の男は、透志郎達が眠っているあいだに組み上げた祭壇の前に立った。
 祭壇には、獣の生首や骨、はいだ毛皮などが積まれており、本堂はそれらが放つ生臭い血の匂いで満ちている。その異様な臭気に透志郎はむせかえった。
 法衣の男は、手に持った錫杖を大きく降りあげ、怪しげな呪文を唱え始めた。
 やがて、その呪文に応えるように、祭壇に積まれた獣の欠片から次々と邪気が噴き出し、人魂のように本堂の中を乱れ飛んだ。
 そして、法衣の男が「フンッ!」と気合いを発すると、今度は透志郎達が縛りつけられている床に描かれた巨大な結界が光を放ち、不気味に輝き始めた。
 獣の形をした無数の邪気は咆哮をあげると、その輝きに導かれるように、一斉に結界に飛び込んだ。
 その瞬間、これまで味わったことのない衝撃が透志郎の体を貫いた。
「うがああああああ!」
 あまりの激痛に透志郎は声をあげて叫んだ。
 眠っていた仲間達も衝撃で意識が目覚め、襲いかかる激痛に苦しみ悶えた。
 衝撃はそれだけですまなかった。結界に飛び込んできた獰猛な獣の邪気が咆哮をあげながら透志郎達の体に飛び込み、体内で暴れはじめた。
 未曾有の恐怖に絶叫し、激痛に体をよじり、もがき苦しむ透志郎達……その体が獣のような毛や鱗に見る見る覆われてゆき、おぞましく変化してゆく。ある者は大きく口が裂け……ある者は牙が生え……ある者は爪が鋭く伸び……ある者は巨大な尻尾が生え……異様な光を放つ結界の中で人の姿をした者はもはやなく、かわりに蠢くのは、人の形をした異形の獣……元は人間だった者達が変わり果ててゆく姿だった。
 異形に変わる時に味わう苦痛は心と体を激しく蝕む。常軌を逸するそのおぞましい感覚は、人が耐えられる限界を遥かに超え、ほとんどの者は恐怖と激痛に耐え切れず、目や口から血を吹き出し、断末魔の悲鳴をあげ、次々と悶死していった。
 阿鼻叫喚の光景を目の当たりにした透志郎は絶望の中で正気を失い、涙を流しながら狂ったように激しく体を揺さぶった。
 その時、透志郎の耳に清らかな音が鳴り響いた。
 チリン……。
 その音は、懐にいれた鈴の音色だった。
 鈴は、会津を出る前の日、ひなたと町に出かけた折りに、離れ離れになっても寂しくならないようにと、小物屋で買った揃いの鈴だった。鈴は小さなものだったが、その音色は心に染み入るようにどこまでも澄んでいた。
「この音を聞けば、いつでも一緒にいる気持ちになれますね」
 そう言って、寂しさを押し隠し、健気に笑うひなたの愛しい顔……透志郎の脳裏にその笑顔が鮮明に蘇った。



「俺はこんなところで死ぬわけにはいかない!」
 鈴の音色に正気を取り戻した透志郎は、力任せに手足を振り上げた。
 すると、縛っていた縄が杭ごと引き抜ぬかれ、手足が自由になった。透志郎は、火事場の馬鹿力とはいえ、自分にこれほど力があることに驚いた。
 法衣の男が、透志郎が起き上がったのに気づき、振り返った。男と目があった透志郎は、反射的に立ち上がり、本堂の外に飛び出た。
 できるだけここから離れなければならない……得体の知れぬ相手に今は太刀打ちできぬと悟った透志郎は、本能のまま駆け続けた。
 すると、そのあとを猛烈な速さで何かが追ってきた。それは、気配を感じて振り返った透志郎の頬をシュッと切り裂き、前方に回り込んだ。
 暗闇の中で妖しく光り、鳥のように羽根を広げて旋回するそれは、法衣の男が放った式神だった。式神とは陰陽師が使役する使い魔で、主の命により様々な任をこなす。
 それが式神とは透志郎にわかるはずもなかったが、自分の頬を切った相手が敵であることは明白であり、それを放った者が法衣の男であることは容易に想像できた。
 敵は、自分を捕らえるか、殺すか、どちらかに違いない。ならば、なんとしても逃げ切るしかない……透志郎は式神の追撃をかわしながら森の中を必死に駆けた。
 と、突然足場を失い、体が宙に投げ出された。
「うわああああああ!」
 深い谷に透志郎の声がこだました。
 敵の追撃に気を取られ、ましてや暗闇の中では、前方が谷になっていたことに気づく方が難しい。透志郎の体は、暗い闇に包まれた谷底に吸い込まれていった……。
 それからどのくらい時が過ぎたのか……。
 透志郎は、顔に暖かい感覚を感じて目を覚ました。
 ゆっくり目を開けると、眩しい陽射しが空から降り注いでいる。体の方に目を移すと、自分が川岸にうつぶせに横たわり、腰のあたりまで水に浸かっているのが見えた。
 どうやら自分は、谷底に流れていた川に落ち、ここまで流されて来たらしい。辺りに敵がいないところを見ると、無事逃げおおせることができたようだ……透志郎は、ぼんやりとそんなことを考えながら体を起こした。
 体はあちこち痛むが、動かないところはない。透志郎は安堵のため息をついた。
 安心したとたん喉が渇いてきた。透志郎は水を飲もうと川辺に顔を寄せた。
「うわああああああ!」
 透志郎の絶叫が山間に響いた。
 川面に映る自分の顔は、見慣れた自分の顔ではなかった……あるのは、全てが深い毛で覆われ、大きく裂けた口から牙がむき出しになった獣……狼の顔だった。
「あ、ああ……あああああああああ!」
 透志郎は狂ったように声をあげ、獣と化した自分の顔や体をかきむしった。
 彼の脳裏に仲間が獣のように変わり果ててゆく阿鼻叫喚の光景が蘇った。そして、生き残った自分もまた、彼らと同じように異形の者に変わり果てたというおぞましい事実を透志郎は改めて理解した……。
 透志郎は泣いた。泣きに泣いた。
 何も考えることができず、幾日もただひたすらに泣いた。
 涙も枯れ、精も根も尽き果てたある日、死ねば楽になるかも知れないと透志郎は自ら命を絶つことを決めた。
 気力を失った重い体を引きずって崖を登り、透志郎は生気の消えた目で深い谷底をのぞきこんだ。そして、愛する者に最後の別れを告げるべく、懐に入れてある鈴を取り出した。
 チリン……。
 風に揺れた鈴が小さく音を奏でた。
 その澄んだ音色は、暗く乾き切った透志郎の心に灯を灯した。
「……ひなた……」
 鈴を見つめる瞳が見る見る涙でいっぱいになった。
 会いたい……もう一度ひなたに……ひなたにもう一度会いたい……。
 透志郎の中に「生きたい」という気持ちが波紋のように広がっていった。
 同時に、静かな闘志が沸々と湧き上がってきた。
 自分をこんな姿に変えた法衣の男……奴なら自分を元に戻す方法を知っているに違いない。俺はその術を手に入れて元の姿に戻り、ひなたのところに必ず帰る!……透志郎は決意を新たにすると、あの忌まわしい寺へ引き返した。
 だが、それは険しく辛い道のりだった。
 だいたい自分がどこまで流されたのかすらわからない。川を遡り、自分が落ちたであろう谷を探し当てるまで何日もかかり、谷をはいあがっても、向かうべき道が定まらない。暗い山中を無我夢中で逃げてきたが、どこをどう走ったのか全く見当がつかず、見知らぬ山の中を幾日も彷徨った。
 それでもなんとか寺を見つけ出した頃にはすでにふた月以上経っていた。
 だが、本堂はもぬけの空で儀式が行われた形跡は何一つ残されていなかった。
 何の手掛かりも得られず、透志郎は激しく落ち込んだが、脳裏に浮かぶひなたの笑顔がくじけそうな心に力を与え、再び彼を奮い立たせた。
 京都遠征隊が消えたとなれば、受け入れ先の京都守護職に動きがあるはず……そう考えた透志郎は一路京を目指した。
 京都に入った頃には、会津を経ってからすでに四カ月が過ぎようとしていた。
 本来ならば三カ月前には到着し、容保様の手足となって京の都を駆けまわっているはずだった……透志郎は、変わり果てた境遇を嘆きながら、異形となった顔を浪人笠で隠し、密かに京都守護職の様子を探った。だが、京都遠征隊が到着せぬことが大きな事件になっている気配はない。
 透志郎は少し不可解に思ったが、そんなところに幕府要人が惨殺される事件が起きた。そして、事件は同じ手口で次々起こり、その手口は常人によるものではないらしいという話を聞きつけた。
 透志郎は、下手人が自分と同じ《嚥獣》ではないかと考え、事件を追う新選組を見張ることにしたのだ。

          ◯

「つまり嚥獣とは、その法衣の男の術によって、獣の姿と力を与えられた者……ということか……。その男は何者だ?」
 経緯を聞いた土方は、壬生狼に尋ねた。
「わからん。だが、嚥獣を追えば奴に辿り着く……俺はそう考えている」
「他に知っていることは?」
「何も……」
 と言いかけた壬生狼が、何かを思い出し口をつぐんだ。
 土方はそれを見逃さず、問い正した。
「この期に及んで隠し立てはよせ」
 壬生狼は少し考えて言った。
「……元に戻る術が一つだけわかった」
「何だ?」
「死ぬことだ……」
 そう言う壬生狼の瞳が悲しげに光った。
 土方の脳裏に先日の羆顔の最期が蘇った。
 羆顔は絶命した後、確かに人の姿に戻った。あれは、死ぬことによって術が解けたということだったのか。死なねば人に戻れないというのは、あまりにも無常で残酷すぎる……土方は、あれを目の当たりにした壬生狼が、驚きとも哀しみともつかぬ顔で体を震わせていたわけを改めて理解した。
「だからって、それを選ぶつもりはさらさらねえだろ?」
 明るい近藤の声が重苦しい雰囲気を打ち破った。
「ひなたさんのためにも、その男をひっ捕らえて元に戻る術を聞き出す……ですよね?」
 沖田がそう言って壬生狼に笑いかけた。
「ああ……」
 壬生狼は、悲しく沈んだ瞳に再び力を宿し、近藤と沖田を見た。
 黙ってその様子を見ていた土方が、懐から何か取り出し、壬生狼に差し出した。
「返しておく……」
 それは、土方が預かっていた壬生狼の鈴だった。
 壬生狼は鈴を受け取りながら、土方を訝しげに見た。
「……どういう風の吹きまわしだ?」
「あの娘がいればこれは必要ない」
「貴様……ひなたを人質に!」
「好きにとればいい。お前が素直に従えば、俺達はあの娘を守るのに力を貸す。裏切ればあの娘がどうなろうと知ったことではない。それだけだ」
 土方は、憤慨する壬生狼にそう言い捨て、足早に去っていった。
「ほんと素直じゃないなあ」
 去っていく土方の背を見ながら沖田がつぶやいた。
「土方さんは。あなたが何故その鈴を大事にしているかわかったんで、取り上げているのが気まずくなったんですよ」
 沖田は壬生狼に笑いかけると、土方のあとを楽しそうに追いかけていった。
「あいつなりの優しさだ。黙って受け取っておけ」
 近藤はそう言って壬生狼の肩をポンと叩き、続いて立ち去った。
 一人になった壬生狼は、手元に戻った鈴をしばらく見つめていたが、「……フン」と表情を緩め、土方が立ち去った方を改めて見た。

 …続く
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