18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-3

結局は俗物( ◠‿◠ )

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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 70

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 大きな厚い掌に背中を叩かれる。相手は子供扱いしたかった子供だ。最初から器量が違った。けれどもその器量の差が、茉世まつよには物悲しく感じられるのだった。
「なぁん……」
 黒い猫が襖を向いた。足音が2人分、近付いてきていた。話し声も聞こえた。
「まっちゃん、いる?」
 御園生みそのう瑠璃だ。
「いるぞ」
 本人よりも先に鱗獣院りんじゅういんだんが答えた。
 襖が開くと、小学時代の昔馴染と永世が、並んで立っている。彼等はシャツを汚し、頭に手拭いを巻いていた。
「花火をやると聞いたので、軒先を片付けておきました。雨が降っていますので、そちらでやったらいかがですか。ぼくの借りている部屋から行けますから」
 茉世は永世の白いシャツに走った砂色のの汚れを見ていた。れた跡が白抜きになっている。
「だってよ、茉世」 
 励ましたかった相手が、また背中を軽く叩いた。
「ありがとうございます……霖さんにも声をかけてきます。禅さんはやるか分からないですけれど……」
「禅さんはぼくが呼んできます」
 永世はすぐに踵を返した。離れていく背中に目を奪われていた。曲がり角で姿が消えて正気に戻る。茉世は彼を追った。閉まりかける襖に手を入れる。
「あ、ごめんなさ……」
 驚いて振り向く永世に飛びついた。まったく後先も考えていなかった。ここがどこであるかもまるで。
「ありがとうございます……永世さん。ありがとう……」
「どうしました?」
 引き剥がす手は柔らかく、突き放すのとは違っていた。掴まれたままの腕を引かれ、襖が閉まる。光が遮断される。
「花火のこと……」
「ぼくは御園生くんの提案に乗っただけですから。何もしていません。むしろ……ありがとうございます。本当は三途賽川でやるべきことなのに……」
「わたしがやりたくてやったことですから。炎さんにはお世話になりましたし……」
「見た目は見た目ですが、年齢でいえばまだ大人に庇護されている年頃です。お家の都合で色々と背負わせているのに、ここで三途賽川や格下分家の辜礫築つみいしづく家のぼくが子供扱いするのもなんだか……振り回すようで。だから茉世さんが企画してくださって助かりました」
 茉世は彼の話を聞いていた。聞いていたが、すべてを聞けていたわけではない。指に絡む体温によって聞く意識は半分削がれていた。
「あ……、そ、その……余計なお世話かもしれないと思っていたので……そう言っていただけると、……ぁ、」
 手を繋ぐのかと思った。だが指先に挟まる熱は忙しなく動き回り、彼女の爪を撫でたり、押したり、関節を転がしたりと悪戯ばかりしている。
「余計なお世話なんてことはありませんよ」
 擽ったさとも痒さといえない触覚の刺激。背筋に微電流が駆けていく。馴染んだ熱に違和感はない。それが却って、茉世を戸惑わせる。
「そ、それなら……よかったで、す………」
 手の甲を撫でられている。痛みにもならない程度に皮を抓られ、指に通じる骨をなぞられている。本当に永世の手なのか。彼の声音にその気配はなかった。
 三途賽川では、訳の分からない出来事が多い。この手も、永世のものではないのかもしれない。どこから忽如として生えたものなのではあるまいか。茉世は好色的な感じのする手を振り払い、腕を辿った。瑞々しいが、少し硬い肌。筋肉の隆起。肘らしき部位を上がっていくと布に触れる。大きな肩。固いものは鎖骨か。周辺に丘陵きゅうりょうがある。首筋はわずかに湿気を帯びる。耳、その下から伸びる輪郭。人だ。暗闇から爆誕した腕ではない。
「ん……っ、茉世さん。擽ったいですよ」
 永世だ。永世で間違いなかった。掌に残る肌理の摩擦、肉感は彼のものだったの。爪先から残暑とはまた異質の温気うんきが上がっていく。
「ごっ……ごめんなさい! ごめんなさい。あの、いいえ、その……」
 火照った顔は見えなかっただろう。だが温まった喉は、声を発すればもうごまかすことはできない。上擦った音吐はどこか媚びてさえいる。
「ぼくのほうこそ悪戯してすみません。じゃあ、禅さんのお部屋はこちらなので」
 永世が離れていく。何も言葉を返せなかった。触られ、触った手が鼓動に合わせ脈動している。両手を擦り合わせ、感覚を紛らわせる。おかしくなってしまう。おかしくなってしまった。
 茉世は目眩を起こしたように後退り、背中を壁にぶつけた。そして萎んだ風船のごとく屈んでしまった。握られた指も、触ってしまった掌も、すべて熱い。



 結局、禅は姿を現さなかった。
 永世の寝泊まりしている部屋の前の軒下に集まり、蝋燭を囲んだ。
 雨が煙を打ち落とし、土埃の匂いと火薬の匂いが混ざり合う。
 鱗獣院炎は、縁側の端で花火を楽しむ霖やげん、御園生瑠璃の姿を眺めている茉世の傍へやって来た。
「ありがとよ」
 茉世はその手を見遣った。何も握られていない。
「花火はもう?」
「いや、まだある。花火もいいが、まずは何よりも、こうして茉世オネーサマがもてなしてくれたことがありがたかったんでね」
 鱗獣院炎は茉世の膝の上で喉を鳴らしている夜色の毛玉を奪い取って抱き上げた。
「んなぁあああん」
「なかなか見る目があるじゃねーか」
 大きな掌で艷やかな毛並みを堪能してから茉世へと返す。
「夏休みの課題はないんですか」
「帰ったらやるさ。成績は良いほうなんでね」
「絵日記とかに、描けたらいいですけど」
「高校に絵日記はねぇです」
 垂れ目とぶつかる。わずかな間、沈黙が流れる。
「そうでしたっけ?」 
「ンま、LDKの青春の1ページにはなった。本家の嫁さんとアイスデートして、親戚連中と花火やれたってな」
「デートじゃないですけど、LDKって何ですか?」
「男子高校生ラストってこと」
 意味が分かった途端に軽快で俗っぽく聞こえはじめるその語感が、鱗獣院炎には似合わない。
「言葉にすると、ちょっと切ないですね。高校卒業して大人になっても、それなりに楽しみはあるのに……」
「親の庇護から抜けるからな。子供でも大人でもなくなる妙な期間。オレ様の家には関係ないが」
 茉世は霖とはしゃぐ諺の後姿に目を留めた。あの子供は子供として育っていくのだろうか。
「――だから、嬉しかったぜ」
「本当はまだ足りないくらいです……」
「やめとけ、やめとけ。あんたは三途賽川の嫁さん。余所の家のガキに同情したが最期。ケツの毛まで毟られちまう」
 横顔を窺った。鱗獣院炎も同じことをしようとしていたらしい。視線が衝突し合い、ばつが悪い。
「親戚といえども他人の家。厄介事を自ら背負う必要はねぇ。これは三途賽川分家のオレ様としての腹も膨らむありがてぇ説法じゃなくて、あんたに好くしてもらった一男子高校生としてのオレのお節介だと思ってくれ。これしかあんたには報いることができねーんでね」
「報いようなんて考えなくていいんですよ。それこそ、わたしの勘繰りみたいなものですから。付き合わせるのは炎さんなのに。でも、ありがとうございます」
 逞しい腕が横から彼女の肩に伸びた。力が働く方向に身体が傾く。
「んにゃぁあああ」
 猫が叫んだ。
 茉世は上の空で、目の前に影が迫ることについて何の疑問も抱かず受け入れていた。額に柔らかなものが当たる。
「んなーん。なぁん。なぅう」
 視界はすぐにもとの光量を取り戻した。同時に、膝で丸くなっていた猫が身体を伸ばして茉世の首に頭を擦りつける。
「甘えん坊さん」
 毛を撫でる。
「やきもち焼いてんだな。可愛がってやれよ。今更飼主に返すっつーほうが哀れさ」
「もう少しだけ探してみようと思って……飼主さんとはぐれて、心細いだけなのかもしれませんし……」
「んなぁん」
「それはねぇな」
 鱗獣院炎は鼻で嗤うと、大きな手の甲で尨毛むくげを荒らす。
「んにゃお!」
 猫は牙を剥いて鱗獣院炎を威嚇した。
「ンじゃ、オレは花火やってくるよ」
 大男が去っていく。それだけで堰き止められていた風を感じるようであった。
 少しすると、蘭と永世が西瓜すいかを切って持ってきた。梨と桃もある。彼等もまた鱗獣院炎をもてなそうとしているらしかった。
 茉世は安堵の溜息を吐く。黒い猫は彼女のこの隙を見逃さなかった。肩に前足を置いて、彼女の耳朶を吸う。
「きゃ、」
 髪のなかにある突起を、猫は勘違いしているらしい。すでに成体であるようだが、哺乳類の本能か。
「黒ちゃん、くすぐったいよ……」
「んにゃん」
 永世がすぐ傍へとやって来て猫を取り払う。
「んなぁお」
 抗議の鳴き声を上げて、黒い小動物は永世に絡まり、噛もうとしている。
「あぉおん」
「大丈夫ですか」
 永世は黒い猫に構うことなく、茉世の後ろに侍る。
「あ……はい。ごめんなさい。変なところを……」
「るんさんもよくやりますから。くすぐったいですよね」
 茉世は咄嗟に永世の耳朶を見てしまった。小さく薄い耳だ。ピアスのひとつでも付いていそうな雰囲気だが、穴の痕も見当たらない。その肉感が柔らかいことを何故か彼女は知っていた。想像して戸惑う。歯が疼いた。何か噛みたいようなもどかしさに襲われる。
「すいか切ったので、食べてくださいね。甘くて美味しいですよ」
「あ、ありがとう……ございます……」
「黒猫さんはぼくが預かりますね」
 立ち去ろうとした彼の腕を、茉世は捕まえてしまった。言葉が出てこなかった。だが急上昇した意思がそれ以外の選択をとった。
「どうかしましたか」
「は、花火……しませんか。もし、お時間があるのなら……」
 打ち上げ花火と共に消えてしまいそうなこの人の夢を見た。あれは夢なのだと再確認する必要があったのだろう。あまりにもばかげた手段であると知りながら。
「ええ。じゃあ……お言葉に甘えて。花火もらってきます」
 永世は黒猫を抱き上げ、一度廊下にそいつを放ると、線香花火を2つ持って戻ってきた。
 線香花火を持った途端、茉世は蘭ことを思い出した。果物の大皿を持ってくると、もうこの場にはいないようだった。それでも周りには目がある。
「いいですか?」
 余所見をしていた茉世に、ライターを構えた永世が訊ねる。ガスライターが鈍く光っている。喫煙者でなければ持つ必要のないものに思われた。けれど永世が喫煙しているところなど見たことがなかったし、また煙草の匂いもしなかった。知らないところで吸っている様子もまた感じられなかった。
「永世さんって、煙草吸われるんですか」
 蓮は煙草を吸っていた……
 嫌な気分になった。やはり聞きたくなかった。
『ぼくは吸いませんけれど、ぼくの好きな人が――』



――茉世は緋色に輝く火先ほさきも見たくなかった。一体何度、彼の吸う煙草に触れたものなのだろう。
「煙草は吸いませんが、家が家ですから……火を使うことが何かと多くて。父に、高校卒業のお祝でもらったんです」
 茉世の持つ線香花火に火が点いた。そして彼は自分の線香花火にも火先を当てる。すぐに火が点き、ガスライターの蓋が落ちてくる。天端てんばに絡む指に見惚れていた。寿命の短い火花を観ているべきであった。だがガスライターを包む手から目が放せない。
「夏が、終わりますね」
「えっ? あ、は、はい……今年の夏は、楽しかったです……」
 嫌なこともあった。たくさんあった。だが、彼の前でそのことを匂わせたくなかった。この時間が形を変えてしまいそうだった。
「あはは。すみません。火花が彼岸花みたいで……」
 そこでやっと線香花火を観てやれば、儚げな細い火花が四散している。
「この燃え方を、"牡丹"というらしいですが、ぼくには彼岸花に見えます」
「燃え方にも、名前があるんですね」
「そうらしいです。ぼくも詳しくは知りませんけれど……線香花火は人生を顕すそうなのですが、ぼくには合いませんね。こんな侘び寂びみたいな人生じゃなかったですよ」
 緋色を微かに帯びた永世の顔が持ち上がった。反射的に茉世も顔を上げてしまった。火花がかぎりう眼に吸い込まれそうだった。
「もっと華やかでした」
「……でした?」
 茉世の指摘とも疑問ともいえない反応に、彼は微苦笑を浮かべる。
「です」
 けれど訂正されたところで、茉世のなかに植え付けられた胸騒ぎは消えなかった。しかし、その正体が分からない。言葉の使い方の不快感ではない。漠然としている。過去形にしたことに意味などないのかもしれない。言葉などその場の反射神経でしかない場合もある。多少の言い間違いや不適切な語法を用いてしまうこともある。気にするところではないはずなのだ。
「永世さんのこと、夢にみたんです」
「え……?」
 言って、相手の間の抜けた返事を聞いてから、彼女は自身の発言を反芻した。発する直前まで、まったく考えも及ばなかった意味合いが見えてくる。
「あっ、いや、あの……その、変な意味ではありませんよッ!」
「変な意味でも、別にいいですけど……茉世さんなら……」
「あ、いや……! 本当に、変な意味ではなくて……」
 朗らかな笑い声に呼応するかのように、線香花火は火の玉を作る。
「冗談です。ちょっと本気ですけど。夢の中のぼくはどうでしたか。本物よりいい男でした?」
 茉世は永世が怖くなった。間違いなく、永世だ。だが、以前の永世と違う気がした。慣れであろうか。窺い見る。
「現実の永世さんのほうがいいです。夢の中の永世さんは意味深長で、少し怖かったです。だから……」
「何を言ったんです」
 彼の音吐には険が帯びていた。
「放さないで、って……花火を見ながら。それは打ち上げ花火なんですけれど……夜に消えてしまいそうでちょっと切なくなってしまって。炎さんや諺さんのお見送りもそうですけど、永世さんも、遠くに行ってしまうのでしょう?」
「…………そう、ですね……」
 永世の手からぶら下がった玉ねぎのような火が、砂埃を掃いた跡のあるアスファルトに落ちた。
「来年も、線香花火しましょう」
 茉世の手にあった花火もアスファルトに消えた。表情が見えなくなる。
「向こうで家庭を持とうと思っていまして。女性を絶つとは言いましたが、根はやっぱり女性が好きみたいです。海外美女と、家庭を持ちます」
 摘んでいた線香花火を奪い取られる。サンダルがアスファルトを擦った。
 嘘かもしれないが、本音かもしれない。だがいずれにせよ防御壁をそこに作られたことは明らかであった。
 茉世は茫然として固まっていた。役目を果たした線香花火を持っていかれたことも分からずにいた。
「茉世義姉さん、すいか、食べましたか?」
 花火を楽しんでいた霖に呼ばれるまで、彼女は放心していた。
 分かっていたことだ。
「わたしは結構です。少しお腹の調子が悪くて。お部屋で横になっていますね」
 霖は梨を齧りながら茉世を目で追う。
「茉世義姉さん。僕のことも誘ってくださって、ありがとうございます。夏らしいことができてよかったです」
「ううん。こんなことしかできませんが、楽しんでね」
 茉世は自室へと戻った。玄関から回ると黒い猫が出迎える。
「なぁん。なーん。なぅう」
 喉を鳴らして歩行の邪魔をする。抱き上げると、ほんのりと火薬の匂いが毛尨けむくから薫ったような気がした。だが鼻に残っているだけだろう。
 茶の間にはこちらに背を向けて座る蘭がいた。西瓜の皮と桃の汁が乗った空き皿がテーブルに置かれている。
「蘭さん」
「ああ、茉世ちゃん」
 小難しい顔をしていたようだが、一気にその表情に花が咲く。
「空いたお皿、持っていきますよ」
 毛物をそこに置いて、皿に手を掛ける。
「ありがとう。ゴメンね」
「いいえ」
 台所に皿を運び、三角コーナーに皮を捨てる。水で表面を流してからシンクに置いた。
「なぁん。なぅーん。なぁ」
 黒い猫は台所まで追ってきて、脚に擦りつく。抱き上げて茶の間に戻ると、蘭は新聞を開いていた。
「ありがとうね。お風呂入っちゃえば? まだみんな花火でしょ?」
「さすがに一番風呂は悪いです」
「えぇ~、茉世ちゃん入ってよ。一番風呂は湯が硬くて。それとも一緒に入る?」
 蘭は新聞を閉じて、身体を茉世のほうに向けた。黒い猫よりも厚みのある三角形の耳が跳ねる。
「ではお言葉に甘えて……」
「えっ! 一緒に入るのッ?」
「ち、違います! 一番風呂のほうです……後が詰まってしまいますもんね」
「ああ、そっちか……ビックリした」
 赤らんだ頬を手で扇ぎ、蘭は締まりのない笑みを見せる。巻かれた包帯が痛々しい。
「ありがとうね、茉世ちゃん。花火大会企画してくれて」
「そんな大それたものではありませんが……炎さんにはお世話になりましたし、子供らしいこと、何かしてあげたかったので……」
 口を滑らせた。三途賽川の当主に言うべきではなかった。素直な意見の吐露はたちまち嫌味と化してしまう。
「そうだね」
 蘭は怒りはしなかった。俯き気味になって声がわずかに低くなるのみであった。
「茉世ちゃんは優しいのに、禅ちゃんがゴメンね」
「謝らないでください。わたしが悪いんですから……それに4人も5人も兄弟がいれば、一人くらいは相容れないことってあると思いますし……わたし、お風呂入ってきますね」
 しかし風呂場の前で禅と鉢合わせる。不機嫌な目に睨まれ、茉世は譲った。その足で自室へ戻る。
 一人になりたくなかった。だが日頃の行いが彼女を独りにした。彼女自身でそう認識していた。
「なぅうん。なぁーん。なぅう」
 纏わりつく柔毛を撫で回す。猫は喉を鳴らして、ふたたび彼女の耳朶を吸う。
「黒ちゃん……」
 ふと、歯が疼いた。何か噛みたい。テーブルを兼ねた脇置に御園生瑠璃からもらった見切り品のグミがあった。包装を開けて、一粒口に放り込む。まず酸っぱさが弾け、やがて人工的なグレープの甘さが広がる。歯を立てた。ゆっくりと入っていく。軟かい。人の耳朶を噛んでいるようだ。もう噛むことはない人の耳朶など。
 欲求を満たす黒い猫を慮ることもなく、生き物を抱き締めて寝転がる。
 既婚の身である。相手に何を求めていたのだろう。勘違いし、また不確定要素に甘えていた。現代の今風な、巷の男女の距離感というものを知らなかった。そのために盛大な思い上がりがあった。自惚れが。そしてそこに呑まれた。満更でもなかったし、やぶさかでもなかった。
 核心を突く会話はなかった。問いもしなかった。それを赦される立場ではない。だがあの返答は、核心に迫ってはいないが、非常に近いのだろう。
「なぁあーん」
 抱き枕代わりにされた猫は抗議するでもなく、喉を鳴らしている。されるがままであった。
 温かな振動が心地良い。手が熱くなっていた。握られた感触が甦る。指にあった温もりが胸や腹にも伝播している。
 婉曲的に拒否された相手のことが目蓋の裏から離れない。
 好からぬことだ。侮辱だ。けれどもこの身を抱いた腕を思い出すのだった。自身も腕を絡めた胸回りや首回りを。
 家のために身を捧げた男を味わっている。最低だ。唾棄だきされて然る行為だ。これでは蛇蝎だかつのごとく嫌われれて当然である。
 彼はそういう卑怯さを見抜いていたのかもしれない。それが、手心を加えた拒絶に繋がったのだろう。
 茉世は胸に手を伸ばした。泣きたい気持ちになりながら、身体が昂っている。猫の存在も忘れていた。
「なぁあーん」
 しかしこの執念深い猫は人間に忘れられていることを敏く気取けどった。服の上から自身の乳房をまさぐる手に頭突きし、撫でることを強要する。
「なぁん。にゃう。なーん」



『先輩』
 茉世は目を開いた。寝ていたつもりはなかったが、目を開いたことを意識した。
『先輩は俺が気持ち良くするって、言った』
 色の白い男がぼやけて視界に入った。はっきりとは見えなかったが、肉付きや骨格から男だと思った。耳を通さず入ってくる声も、女のものとは思われなかった。
『先輩』
 先輩。先輩、先輩、先輩……
 その者は、服を着ていなかった。けれども片腕には包帯が巻かれ、「一糸も纏っていない」とはいえなかった。
『先輩のこと、好きだから』
 裸体の、男と思しき人物が眼前に迫る。茉世は弛緩したまま裸夫を見詰めていた。金縛りに遭っているようだった。四肢は投げ出し、硬直しているという感じもなかったが、身体を動かそうとは思わなかった。眼球と目蓋だけが自由だった。
「だ……れ………?」
 思い出せそうで、思い出せない。喉まで出かかっている。蘭の雰囲気ではないし、霖や禅のような発育途中の肉置ししおきではない。ばんの華奢な骨格でもない。炎ならば山脈のような肩幅をしているし、何より色白ではなかった。
「永世さん……?」
 そうは思えなかった。日に焼けていたはずだ。白いシャツを脱いでも、まだ白いシャツを着ているかのような跡をつけていた。
『………"三途賽川の嫁のくせに、はしたなくないのか"』
 抑揚のない物言いは紙に書いてあることをただ単に読み上げているだけのようである。それでも茉世は脳髄のなかで記憶が逆巻くのを感じた。
「蓮……さん?」
 嫁には高圧的に接するくせ、義絶した途端、何もかも放り投げて出奔しゅっぽんした放蕩息子だ。
『そう。先輩の、俺』
 頭突きされる。黒い髪が視界を覆った。顔面に毛が当たる。
「急に、なんですか……」
 心身共に距離感のおかしくなっている義長弟に、彼女は不快を示した。
『俺は先輩だけの猫だから……』
 この義長弟は、義長弟の姿を借りた怪物ではあるまいか。そのような可憐奇想的ファンシーな冗談を言う人物であっただろうか。
 蓮を騙る裸夫は喉を鳴らした。猫のように低音を轟かせている。
「蓮さんは猫ではないですよ」
 独走的で非協力的、孤独を好みがちな性格は似ているかもしれないが、茉世から見てあの義弟は、そう可愛らしい生き物ではない。
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