18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-3

結局は俗物( ◠‿◠ )

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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 66

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 シャワーで嫌な汗を落とす。遅れて喉の痛みが顕れる。
「なぅん」
 脱衣所と浴室を区切る戸を猫が引っ掻いている。
「んなぁん」
「濡れちゃうよ、黒ちゃん」
 しかし茉世まつよは戸を開けた。水が飲みたいのかと思ったが、獣は水滴を舐めるでもなく、隅で座っている。
 シャンソン荘に戻るべきか、否か。この黒い猫のことが気にかかった。永世に抱き上げられていたが、懐いているわけではなかった。飼猫るんと仲が良いわけでもなかった。禅の話からすれば、飼主が女にうつつを抜かし、飼育放棄されたどんぐりのことも気になる。すべて三途賽川さんずさいかわに任せればいい。
「んなぁん」
 金色の双眸と視線がち合う。置いていけない。ばんは猫の帯同を許していたが、道中はどうする。猫が耐えられるだろうか。そもそもこの猫に飼い主は存在するのだろうか。
「ぅーなん」
 茉世は濡れた髪を絞った。脱衣所に出ると猫もついてくる。
 シャンソン荘に――……

 タオルで身体を包んだ。風呂場を出る。思案していた。ろくに前も見ていなかった。
「なぁーん」
 とっ、とっ、とっ、と片足で猫が跳ねて、後をついてくる。前からは白い物体が迫っていた。衝突する。後ろへ撥ね飛ばされそうであったが、タオルから露出した素肌に人の皮膚の質感が添わる。自身の体温より高い熱が肌理きめを焼く。
「あ、ごめんなさい」
 互いに前方不注意であったようだ。車ならばボンネットが潰れていたであろう。茉世は相手の胸元に減り込んでいた。
「い、いいえ……こちらこそ……」
 物思いに耽っていた彼女は声質から見当する暇もなかった。しかし鼻が利いていた。目の前で火花が散るようである。突き離してしまった。肌に温もりが残り、恐ろしくなる。
「すみません。前を見ていなくって……」
「ぼくもです。ごめんなさい。お怪我は?」
「な、ないです。全然。あの……」
 言葉が出てこない。先程のことも改めて謝るべきだ。だが思い至ったところで適切に穿ほじくり返すことができなかった。
「明日、お時間はありますか」
 彼女の惑乱を見かねたのか、永世から口を開いた。
「あ、あります……いつでも暇ですから………」
「よかった。御園生みそのうくんが呼んでいましたよ。ぼくの部屋にいます。ぼくはちょっと、これから出掛けるので、寛いでいてください」
 永世が茶の間のほうへすり抜けていく。今言わねば、言う時機を逃す。小心者ゆえのくだらない算勘が働いた。
「永世さんっ!」
 想定していたよりも大きな声が廊下に反響する。
「はい……?」
 顔立ちと雰囲気にそぐわない野趣に富む足が振り返る。嗅覚を介さない艶めいた匂いを嗅ぎ取ってしまう。茉世の胸は下から上へ殴られたような情動を覚え、わずかな動悸を抑えられない。
「先程のことは、どうもありがとうございました。助けてくださって……それなのにごめんなさい」
 永世の表情が動くのが怖い。恐れた。前言撤回し、有耶無耶にして逃げ出したくなる。
「どうして、茉世さんが謝るんですか。茉世さんに謝られることはひとつもなかったように思われるのですが……」
 茉世は首を振った。言いたいことを相手に伝わるように、尚且つ、保身にも走れるように表現することができない。恥部を明らかにすることになる。目を背けたい。なかったことにしたい。逃げ続けたい。
「永世さんが困ることを、言ったり、やったり……」
「そんな……むしろ、ぼくが助けられていたくらいです。いつも茉世さんには情けないところばかり曝して、お恥ずかしいです。どうか、嫌いにならないでください。庇ってくださってありがとうございました」
 玄関の磨り硝子に背を向けた永世は、暗い廊下から見ると逆光していた。影に塗り潰された表情のなかに、どこか諦めた微笑がある。消え入ってしまいそうだ。玄関の磨り硝子の曇天の光に吸い込まれてしまいそうなのだ。彼の肉体は平均的な健康な男児よりやや逞しいようだが、その空気感はそうではない。世の中の健康的肉体でありながら貧弱で図々しいその辺を行き交う男児よりも幾分儚い。彼は白百合なのだ! 目を離せばいつの間にか花弁を落として朽ちている。
「嫌いになんてなりません! なるわけ、ないです。永世さんには感謝しているんです……」
 二枚舌である。狡猾だ。そして狭量だ。言葉と感情が一致していない。それならば何故、彼の恋路を雑念なく、我欲なく、支持することができないのか。
「……ありがとうございます。変なことを言ってしまって申し訳ない」
 茉世は首を振った。苦しみが溢れる。嘘で塗り固めなければやっていけない小心者であるくせに、嘘を呑み込める器用さも持ち合わせていない。
「でも、ぼくに感謝なんて要りません。ぼくは茉世さんが感謝するような人間ではないんです」
 反論を許しはしなかった。永世は茶の間へ入っていく。
「なぅうん」
 茉世は屈み込んでしまった。魅了された。猛烈な魅力を前に屈した。毒だ。解毒するには体力が要る。飯を食えば消化する。消化するにも体力が要る。
「なぅ」
 猫を撫で摩る。そうしていなければ、内側で起こる澎湃ほうはいをやり過ごせない。
 胸の高鳴りが鎮まるのを待った。御園生瑠璃が呼んでいるという。部屋に戻り、服を着て、髪は乾かさず首にタオルを巻いて御園生瑠璃のもとに向かう。永世の部屋に彼はいた。テレビを点けているが、ろくに観てはいなかった。横になってスマートフォンを弄っている。その横に、どんぐりのケージがあった。蓮のハムスターを、永世が預かっている……
「お、まっちゃん。ハガキ出せたんか?」  
「ハガキ?」
 全く身に覚えのない問いに、彼女は自身の記憶を疑った。
「さっき久遠くおんきゅんが追っていったでしょ、車で」
「……いつ頃?」
 御園生は起き上がって首を傾げた。電子蒲鉾板の画面が消える。待ち受け画面は犬だった。
「まっちゃんが出ていってすぐ」
 茉世は余計に分からなくなった。ハガキとは何だ。思い出そうとするが、思い出せなかった。どこかで頭を打ったのであろうか。
「郵便ポスト行くのにハガキ忘れるなんて……でも分かるぜ。昔犬の散歩行くのに犬忘れて行ったことあるからな、おれも」
「永世さんが、何かおっしゃっていたんですか」
「まっちゃんにハガキ届けるって。あれ? 会ってないんけ?」
「い、いいえ。会いました……」
 永世は何も言っていなかった。この話はすでに完結し、終了しているようだ。
「じゃあよかった。血相変えてたからよ。よっぽど大事なものだったんだな。ラジオのお便りとか?」
 青山藍の巣穴に閉じ込められていたとき、永世は車を走らせていたのだ。茉世はまだ眼球の裏が熱くなっていくのを感じた。 
「う、うん。そんな感じ。ドジで困っちゃうな」
「大人は忙しいし、そんなもんじゃね?」
「わたしは……そんな忙しくないから。それで、話って? 永世さんから、るりるりが呼んでるって聞いてたんだけど……」
 御園生瑠璃は一瞬きょとんと茉世を見つめて静止した。
「ああ、うん。明日、暇?」
「暇……だね」
「ほんなら、ちょっとドライブでも行こうぜ」
「ドライブ……?」 
 ただ車に乗ってあちらこちらを走るだけのことではないのだろう。往々にしてそれは日帰り旅行を意味する。
「あ、あのね……暇は、暇だけれど、おうちのことがあるから……夫にも悪いし。だからごめんなさい。でもありがとう、るりるり。誘ってくれて嬉しかった」
 知己なりの気遣いなのであろう。けれども立場が応じることを許さない。
「えっ……ああ、そうなんだ。いんや、おれも独身同士のノリで誘っちまったから気にすんな。ちゃんと息抜きしろよ」
 嫌味のない、爽やかな御園生瑠璃の態度に救われる。
「うん。ありがとう……」 
「あっはっは。独身はお気楽でダメだな」
 茉世は首を振った。
「そんなことないよ。るりるりだってたくさん気を遣ってくれてるでしょ。わたし結構、助けられてるんだ」
 御園生の微苦笑が消え入って、俯いていく。
「久遠きゅんは?」 
「この後ちょっと用事があるとかで……今はリビングに……」 
「そっか。分かった。呼び出しちまって悪かったな」
「ううん。じゃあね」
 茉世は部屋を出た。それから蘭の部屋へ爪先を向けた。話し合わなければならないだろう。何事もなかったように振る舞うのは心苦しい。そしてそれは、蘭に選択を迫ることでもある。
 襖を軽く叩いた。応答があった。名乗る。胃の辺りが重かった。
「茉世ちゃんか。どうぞ、入って」
 襖を開いた。室内を見た途端、目を疑った。そこにいたのは蘭であるが、見知った蘭ではなかった。橙色に近い明るい茶髪は伸び放題伸びて、畳に川を作っていた。頭頂部から生えたおぞましい獣耳も、長ね埃を被ったようにもっさりと毛足を長くしていた。尾もそうである。本数は変わらないが、どっしりと肥えて体積を増やしている。
「ら、蘭さん……」
「気付いたらこんなんになっちゃった。床屋さんに行かなきゃ……それで、茉世ちゃんはどうしたの」
 蘭は長く伸びすぎた髪を気にしていた。
「先程のご無礼を謝りたくて……こんな身形みなりですが……」
 濡れた髪に、値引きされた綿のシャツと、ワンコインで買える薄手のルームパンツ。首には手拭いを巻いている。とても詫びに来た世俗の人間の出で立ちではない。
「いいよ、いいよ。謝らないで。余程の事情があるってことは分かってたのに、おではああいう対応をするしかなかった。謝るのはおでのほうなのに、茉世ちゃんに来させちゃったね」
「蘭さんに大恥をかかせてしまいました。蘭さんだけでなく、三途賽川の皆さんにも……」
 畳に膝をつき、両手をついた。蘭の手が宙を掻く。凶器と見紛うほど爪も長く伸びていた。触れそうになったところで思い留まったらしい。
「茉世ちゃん。来てもらったところ悪いんだケド、爪切ってくれないかな」  
「え……はい……」
 爪切りはすでに小さな卓袱台の上に出されていた。
「ゴメンね。手がどうにかなれば、足は自分で切れるから……」 
 しかし茉世も、大振りなオクラが生えているのかと思うほど長い爪を切るのは初めてである。ごみ箱を手繰り寄せると、蘭の右手を取って、爪切りを握る。
「……あの後の話、誰かから聞いた?」
「いいえ……」
 爪が飛ぶ。一度では到底、切り終わらない。
門町かどまちさんも、青山さんの素行については知ってたんだって。詳しくは聞かなかったケド、だんくんから聞いた。ゴメン、気付かなくて……」
 梃子てこを押す手が止まる。
「相談しなかったのは、わたしのほうですから」
 爪切りを再開する。
 相談したからといって、都合良く事が運ぶとは限らない。それが誠心誠意だとして、相手に伝わるとは限らない。伝わったとて、相手の感情までもが納得するとは限らない。それならば黙っておくことに利がある。だが知れてしまっては白状するほかない。隠すほうがリスクである。
「おでも三途賽川も、頼りにならないから……一人で抱え込ませて済まなく思う」
「磨きますから、痛かったらおっしゃってください」
 まるで蘭の言葉を撥ね退けるようだった。梃子部分に設けられたやすりで角張った爪を砥ぐ。
 三途賽川の家訓が口を封じるに至らせたのだろうか。
 隣の指の爪を切っていく。
「明日も、青山さん、来るから……誰かと出掛けたら……どうかな?」
 どことなく媚びへつらい、おもねたような調子であった。家長である。それが何故、粗末に扱い、捨て去っても構わない嫁を畏れているのか。
「家におります。遊び歩くわけにはいきませんから」
 御園生瑠璃の誘いを断ったばかりだ。そしてこの地に友達付き合いはない。
「瑠璃くんと、たまには……遊んできたら……? 幼馴染なんでしょ?」
「遊びに行くとしたら、運転のこともありますし、るり――……御園生さんの負担になってしまいます。大丈夫です。お部屋で黒ちゃんたちと遊んでいますから」
 爪を切り、粗雑な作りの鑢で整える。
「シャンソン荘に、帰る?」
「……まだ、帰らないことにしました。黒ちゃんの飼い主さんのことも気になりますし……見つからなかったら、里親を探さないと」
「その場合はうちで飼うよ。家族みたいなものだし」
「シャンソン荘に戻ったら、働きに出ようと思います。いいですか」
 御園生瑠璃への借金についても、茉世は何も相談していなかった。
「うん。茉世ちゃんの好きにしていいよ」
「ありがとうございます。少し余裕ができたら、おうちにもいくらか入れますから」
 しかし捕らぬ狸の皮算用である。学歴や職歴を鑑みるがいい。もし雇われるとすれば非正規雇用であろう。手取りはいくらになる。御園生瑠璃への多額の借金はいつ返済できるというのか。
「それは気にしなくていいよ」
 沈黙のなかで、爪が断ち切られていく。
「ありがとう、茉世ちゃん。右手使えれば、あとは自分でできるから」
「失礼します」
 茉世は頭を下げて部屋を出た。
「んーなぅ」
 襖を閉めた直後、脚に柔らかなものが巻き付いた。暗がりに溶けている。
「んなぁ。なぁ。んなぅ」
「黒ちゃん、このおうちに居ていいって。よかったね」
 姿は見えなかったが、小さな頭を撫で回す。
「なぅん。なぁん。ぅにゃぁ」
 猫を抱き上げ、部屋へと戻る。疲れてしまった。ドライヤーもかけず、タオルを敷いて横になる。目蓋が重い。


 耳元で呼ばれている。気が付くと、まず真横にいる全裸の男が視界に入った。色の白い、冷たそうな皮膚感だが、腺病質というわけではなく、筋肉はついている。
「先輩、どうして嫌いとか言うんだ?」
 背の高い、そして筋肉のついた裸にしかかられている。片腕の包帯が全裸にそぐわない。
「先輩、嫌わないで。なんでもする……整形する。明るくするから……」
 何もかも曖昧だったが、重さはしっかりと感じられた。
「お願い、先輩。見捨てないで……役に立つ。先輩のことちゃんと守る……」
 黒い髪を顔面に押し付けられ、茉世は息苦しくなった。まるで頭突きである。顔面のみならず、顎や首や肩にかけて、頭頂部を押し付けるのである。
「全部謝る……! 今までのこと全部、謝る……! 先輩の言うことに従う……!」
 大の男が泣き始め、茉世は怖くなってしまった。悪夢だ。魘される。
「先輩……」
 色白の裸体の男は茉世の身体の上で暴れていたが、急に止まった。
「あ……」
 男は間の抜けた声を漏らした。その理由を茉世も覚った。下腹部に大きな異物が当たっている。擦り付けている。
「先輩……ユメノナカダカラ、……いい?」
 肉体が眠っている意識はあった。泥の海を揺蕩っているようだった。しかし重量感だけが生々しい。
「先輩と、ヒトツニ、なりたい……」
 陰阜いんぷで硬いものが行き来している。
「先輩……、先輩………先輩………」
 身体が拉げそうである。茉世は男の体重の相場に疎いが、おそらく70kg或いは80kg前後あるに違いない物体に圧迫されている。苦しい。だが乗っている人物は構いやしない。悩ましい声音で前後に揺れる。
 そのうち、陰阜を摩擦していたものが滑った。脚と脚の間には潜ろうとする。茉世は己の下肢が分からなくなっていた。肉体と外気の境界を失っている。認識したとき、内腿は色白の裸夫を挟んでいた。
「先輩と、ヒトツニナリタイ。先輩……お願い。先輩……ユメノナカダカラ……」
 唇が落ちてくる。

ユメノナカダカラ……

ユメノナカ……

ユメ………

 目蓋が持ち上がる。喉が痛んだ。首も痛む。青山藍に頸椎をし折られかけたのが原因であろう。
「ん~んなぅ……なぅ」
 首元に黒い塊が乗っているのも理由のひとつかもしれない。振動している。
「黒ちゃん、重い」
 押さえながら身体を起こす。茉世の撫でる手に挑みかかり、右へ左へ転がっている。
「んなぁん。なぁん」
 時計を見遣ると、夕食の時間が近かった。



 淫靡な夢ばかり見る。だが決定的なところで打ち切られる。人を窒息死させるつもりらしい夜に紛れた毛玉を首元胸元から追い払った。
「んーなん」
「ごめんね、黒ちゃん。苦しい」
 ハムスターは別の部屋に預けたままだ。滑車の音で寝づらなくなってはいないだろうか。
「んなぁん」
 暗闇に低音が轟く。
「待っててね」
 水が飲みたくなった。猫のために閉め切っていない襖をすり抜けて、台所へ向かう。水を飲み、戻ろうとしたところで、玄関戸の奥に人影が見えた。普段点いているはずの外灯が消えているが、背格好からして男性である。苦しくなった。蓮が帰ってきたのではあるまいか。心苦しい。気が重い。だが見て見ぬふりもできない。彼にはこの家に出入りする当然の権利がある。たとえ形ばかりの義絶をしていても。
 茉世は玄関戸の鍵に手を掛けたが、鍵は開いていた。引戸を開ける。
「蓮さん?」
 蚊取り線香の匂いがした。そして玄関アプローチに立っていたのは蓮ではなかった。何故、見間違ったのだろう。
「蓮さんでなくて申し訳ないです」
 そこに佇んでいるのは永世であった。まだ風呂には入っていないらしく、寝間着ではなかった。日焼けした肌に弱々しい煙が巻き付いている。
「あ……っ、その、……! れ、蓮さんかと思って。お水をいただきにッ、来たところで人影が、見えたものですから! こんな時間に誰だろうと思って、あの……ッ!」
 慌てふためく茉世を、彼は穏やかな笑みで眺めている。
「そうですか。蓮さんが、よかったですか?」
 微笑を浮かべたまま、わずかに目元と語気に意地の悪さが滲み出る。
「違います! 本当に、違くて……! だって他に、思い当たる人がいなかったものですから……!」
 べっとりとした汗が肌を覆った。
「うふふ、ごめんなさい。分かっています。蓮さん、帰ってきませんもんね」
 茉世は永世に向けた視線を引き千切る。待っていたに違いない。秘かに慕う相手を待ち構えているのだ。邪魔をしてはいけない。邪魔をするつもりはない。雑念を払拭ふっしょくし、彼の楚々とした思慕を支持すべきだ。
「永世さんも、蓮さんを待っていたんですか」
 とどめを刺してほしかった。そうすれば踵を返せる。背を向けられる。足を一歩踏み出せざるを得ない。
 息を呑んで返答を待つ。平生へいぜいの会話であるはずだが、途端に一言一言が鈍重に感じられる。
「いいえ」
「え?」
「ちょっと考えごとをしていたんです」
「考えごと……」
 内容は分かっている。聞きたくない。それでいて、聞いてしまいたかった。引鉄は焦らさずに引け。
「高校時代、いじめられていたんです」
 自嘲的であるが、その語気は深刻そうである。以前、そのようなことを御園生瑠璃と話していたが、そのときは冗談めいた。
「委員長だって、るりるりが話していたような……」
「そうです。だからでしょうね。"いい子ぶるな"ってよく殴られてました」
「なっ……殴られていたんですか……」
「情けない話ですが。御園生くんには、よく助けてもらっていたんです。だから恩人ですね。こうしてまた一緒に過ごすとは思いませんでした。そう考えると茉世さんって不思議な方ですね。御園生くんと再会したのは茉世さんがきっかけですし」
 途中から揶揄われている。
「そんなことはないです……偶然です、すべて」
 一度目を離すと、永世は項垂れていた。
「もう楽しいことだけ考えて生きようと思ったのに、嫌なこと思い出すなんて。それで大事なところで、貴方を危険に曝してしまった。反省です。あっはっは。星見ててください。ぼくのことは見ないで――」
 彼は大仰に笑った。下手である。稚拙である。不細工だ。彼の指した夜空には確かに満天の星空がきらついている。
「――情けないですから」
「突き飛ばしてください!」
 茉世は喚いた。自分でも何を言っているのか分からなかった。白いシャツを摘んで、引き寄せている。華奢な腕の中に引き締まった胴体を収めている。甘い匂いがした。日溜まりの匂いもする。包み込むことはできない。体格に差があった。
「茉世さん……」
「卑屈に笑わないでほしいです……」
 背中に回る手は怖ず怖ずとして、毛虫が這うようだった。
「星空なんか見えなくていいです」
 黒い猫の気持ちが分かる気がした。頭を擦り付ける。肌理、繊維に捩じ込むほど頭突く。白花の香りに酩酊しそうである。蚊取り線香は機能しているのだろうか。鼻に届かない。
「突き飛ばしてください。お願いします」
 そうでなければ不公平だ。
「嫌です」
「だってわたしは、」
「ぼくがいいんです。ぼくはこれでいいんです」
 茉世は息を呑んだ。身体中に静電気が走っている。だが痺れはない。爛れるようだ。呼吸が弾む。
「るりるりから聞きました。車で探していてくれたこと……」
「ですが結局――」
 もう少し、甘えてみる気になった。相手を磨り減らしている。けれど止められない。
「永世さん……」
 抱きつく腕に力が籠もる。
「今夜はゆっくり……眠れそうです」
 ところが茉世は逆である。頭が冴えてしまった。沸騰した血潮が全身を駆け巡る。気を変にした。
「ごめんなさい」
 抱擁を押し退ける。だがシャツは摘まんだまま放さなかった。背伸びをする。背伸びをしても届かないはずであった。しかし唇は触れていた。シャツを掴む手に、熱い体温が重なる。背筋に妖しい電流が走る。
 大きな手だった。筋張っている。狭い指の間に、指が割り込み、手が裂けそうだ。熱さを恐れて後退れば、腰に腕が回った。逃げることは赦されない。さながら炮烙ほうらくの刑だ。誘蛾灯だ。触れたら最期、電撃に身を奪われ、堕ちていくしかない。
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