18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-3

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
上 下
65 / 119
ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 60

しおりを挟む

 首筋に擽ったさを覚え、茉世まつよは身を捩った。プールの奥底まで潜ったときに似た負荷がある。温気うんきも冷気も、風の動きも感じられない。
「先輩」
 耳に沁み込む艷冶えんやな声は蓮だ。帰ってきたらしい。胸を縫針で刺されたような痛みがあった。
「蓮さんなんて嫌い」
 口が勝手に動いていた。喉元で渦巻き、無言のうちに消し去るべき醜い感情である。
「どうして、先輩。なんで……先輩」
 蓮は仰向けの茉世の身体にしかかっていた。体温は感じられなかったが見える限り、裸体であった。片腕に包帯が巻かれている。
「嫌わないって、言った……先輩。嫌だ。赦して……」
 過酷な夏を過ごしてきたばかりだというのに青白い顔から涙が落ちる。
「嫌いにならないって言った……俺は何かしたのか? 先輩……先輩に嫌われたら、俺はもう生きていけない」
 肌理きめ細やかな瑞々しい皮膚だというのにどこか乾燥して見える頬に塩分を含んだ水滴が滴り落ちていく様は痛々しい。
「先輩……」
「あっちへ行って!」
 理不尽な言い分であった。八つ当たりであった。不合理な感情であった。間違っても口にしてならない。胸に秘めておくべき情動である。それを言う立場にない。しかし顎も舌も動かさず、腹話術のごとく声が漏れる。
「俺が何も守れない役立たずだから? 先輩……」
 背の高い、体格もしっかりした男体に容赦のない体重をかけられている。
「先輩に嫌われないようにする。直すから……先輩の嫌なところ全部直すから。傷付かない。赦してくれ……」
 だが薄い目蓋は力強く閉じ、睫毛が眼球を浸す水を千切り、朝露を落としている。
「顔も見たくないの」
 神経質げな眉が歪む。次々と雨が降る。そういう表情筋がこの者にも備わっていたらしい。

 ヂリリリリリ……

 厳しい息苦しさと目覚まし時計の悲鳴は同時だった。茉世は跳び起きた。胸元に重みが残っている。
「にゃんッ」
 布団の上から黒い猫が転げ落ちる。腹の白い毛を晒して、左右に揺れた。
「ごめんね、黒ちゃん。お手々、大丈夫?」 
 彼女は布団を抜け出して、猫の負傷した腕を撫でた。
「んなーぉ」
 小さな頭も撫でる。相変わらず毛並みが良い。少しの間、この柔毛を愉しんでから着替え、茶の間へ向かう。りんに弁当を作る予定はもうなかった。
 雨が降っていた。この家を外界と隔絶しているかのような静けさだ。
 足を下ろす。柔らかな感触があった。黒い猫を蹴ったか踏んだがしてしまっていた。ついて来ていたのだ。
「ぁにゃッ」
「黒ちゃ、」
 バランスをとろうとして出した足に、今度は痛みが走る。遅れて冷感を認めた。彼女は床に尻もちをつく。
「んなん……」
 黒い猫は片足を上げて、呑気に茉世を見上げている。自分がこのヒトを転ばせたことを知るよしもない。
「黒ちゃん……」
 すぐに立ち上がることもなく、黒い毛並みを撫でる。猫を飼うのに向いていないようだ。飼猫るんに避けられる理由が分かった。るんは本能的に察しているのだろう。
 足首に気を遣いながら立ち上がる。猫は抱き上げてしまった。また踏むか蹴るかするのだろう。
「茉世さん?」
 曲がり角から寝間着姿の永世が現れた。彼女はぎゅんと背筋を伸ばした。
「あ…………」
「おはようございます」
 櫛を入れる前の無防備な髪型は幼い印象を与えた。新鮮な味わいがある。胸を鷲掴みにされた。顔を背けてしまう。
「おはようございます……」
 永世は微笑した。そのまま目の前を通り抜け、茶の間に行くのかと思われた。
 視界が暗さを帯びた。
「ふ、ぇ……」
 猫を抱く腕にオフホワイトの寝間着が当たった。冷感素材のパジャマの奥に質量を感じる。背中に腕が回っている。柔らかな抱擁。甘すぎない花の匂いがした。布団の中で濃縮されている。鼓動が高鳴ってしまう。まだ朝だ。顔が火照る。強く目を瞑った。
「よく眠れましたか」
 夢か夢ではなかったか。揺れ惑っていた。夢ではなかった。昨晩、彼と会っている。
「はい……」 
 頭をわずかに動かした。背中にあった手が、彼女の頭を固定する。酒気に似た効果のある白花の香りに息が乱れる。
「よかったです」
「え、永世さんは…………どう、ですか……」
「よく眠れました」
 囁きが耳を擽る。身体が震える。だが寒くはない。このモンシロチョウのような男に脳髄を吸われているようだ。
「昨晩はその、すみませ……あの………」
 声も震える。抱擁する力が強まった。
「今日もよろしくお願いします」
 鼓膜が溶けて蜂蜜状になってしまう。耳殻はアップルパイのようだ。息が上がる。頭がくらくらした。
「は、………い………」
 火照りきった顔に炙られた眼球は潤んでしまった。
「んなーん。なーん。ンにゃーん!」
 猫が暴れた。長細い脚が永世を蹴る。
「ダメでしょ、黒ちゃん」
「すみませんね」
 彼は身を離し、洗面所へ行ってしまった。
 茉世は壁に背を預けた。黒い猫の体温が暑い。毛玉を床に置いた。身体に巻き付いた男の感触が消えない。静かに喘いだ。目眩がする。微熱に襲われているようだ。
「ぅなーん」
 永世の現れた曲がり角からまた人影が現れる。足音に容赦がない。辺りのものすべてを吸い込みかねない肺活量で欠伸をする。
「ん~? なんだ、茉世か」
「おはようございます」
 鱗獣院りんじゅういんだんである。三途賽川さんずさいかわに来た初日の威風堂々とした佇まいは消え失せ、傷んだ金髪は好きな方向を向いて伸びている。着流しは乱れ、豊満な胸筋が露出している。
「おはよ。朝からかわいいじゃん?」
 巨大な図体を丸め、茉世の額に唇を落とす。朝に弱いのだろう。寝呆けているに違いなかった。
「何を……」
 キスされた前髪を撫でつける。
「なんで茉世はオレ様たちと一緒に食わねーの」
 大男は茉世の寝間着の裾を摘んだ。太い眉を下げ、厚みのある唇を「へ」の字に曲げた。あざとさがある。だが雰囲気にそぐわない。
「以前、蓮さんにそう指導されたものですから。他のお宅は違うのですか」 
「分かんね。あんまり余所よその嫁に興味ねーから。そんな泊まったりもしないしな」
 垂れ目が黒猫を見る。そしていやらしく笑った。
「蓮ニーサマが茉世と飯食いたくねーって言ったと?」
「嫁のはしたないところを見せたらいけないって……そんなようなことを言われました」
「はんっ。どうせ見惚れてはしたないことになるのは蓮ニーサマのほうだろ」
「それは、ないと思いますが……」
 鱗獣院は茉世の袖を摘んだまま歩き出す。
「茉世は辜礫築つみいしづくせがれと食べるんだろ?」
「るりるりも……御園生みそのうくんも一緒です」
「あ~、小学時代の友達なんだろ? 本人から聞いた」
「そうです。同じ班だったりして、仲良かったんですよ」
 大男は止まった。茉世は高慢な顔をおそるおそる見上げる。大きな手が頬を抓る。痛みはない。
「なんですか」
「茉世ってちょっと性格悪いよな」
「えっ、な、なんでですか。わたし何か……」
「知~らねッ」
 鱗獣院炎は一人で茶の間へ入っていってしまった。揶揄われたのだろう。しかし今の彼女の情緒は、高校生の戯言を真に受けてしまった。受け流せなかった。疑ってしまう。自身の印象というものを。
 もと来た廊下を少し戻り、顔を洗った。洗面所にこもる各種洗剤の芳香のなかに、鮮やかな活きた匂いがある。
 茶の間にはすでに家事代行員と蘭と霖、そしてげんがいた。鱗獣院炎も腰を下ろす。
 茉世は食事風景を眺めていた。今日の朝食は雑穀米を主食に切り干し大根と鯖の塩焼き、マカロニサラダ、豆腐の味噌汁だ。
「ぅにゃん。んなぉ」
 黒い猫はエサ場にも行かず、彼女の身体に身を擦り寄せる。
「黒ちゃん、ごはん食べてきたら……」
「んなーん」
 頭をエサのある方向に向けても、黒い猫は喉を鳴らして傍を離れない。やがて寝間着から着替えた永世がやって来た。隣へやって来る。背筋を伸ばした。息が上がる。
「脚を崩さなくて大丈夫ですか。正座では足首が痛むでしょう」
 言葉などろくに入ってこない。その声ばかりを聞いていた。まるで幽邃ゆうすいな森に谺する下露の音色だ。
「あ、……あ、ありがとう、ございます」
 彼の声が途切れてから、遅れて内容を認識する。彼の気遣いと、三途賽川のしきたりの間で戸惑う。蘭も霖も以前の蓮のように口に出しはしないだろうが、内心はどう思うのか分からない。態度こそ軟らかく、そこに救われてもいるが、所詮は三途賽川の男子だ。
「んなーん」
 黒い猫は茉世の膝に片足を乗せ、背伸びする。顔を覗き込まれている。
「茉世ちゃんも永ちゃんも、今度からソファー座りなよ。テレビ観ててもいいし」
 蘭が言った。
「そうしましょうか。立てますか」
 永世が立ち上がり、手を差し伸べる。
「すみません……」
 蘭の前である。人目がある。何よりも永世に済まなく思った。自分の真心を磨り減らしてまで、哀れみをくれる価値はない。彼女は胸の奥底に腫瘍を抱えている心地になった。疼いて息苦しい。
 差し伸べられた手には応えなかった。自力で立ち上がる。永世は長い睫毛を伏せた。彼は茉世をソファーへと促した。
「失礼します」
 腰を下ろす。永世も隣に座る。沈むクッションから、痩躯に見えても筋肉量のある体重を感じた。彼の手が、膝の上の手に舞い降りた。基礎代謝の高い男の体温が瞬く間に肌を伝う。
「ご、ごめ………なさ、」
 自分の座った位置が悪かったのかもしれない。茉世は慌てふためいた。触れた手の振動も知られているに違いなかった。
 永世の手はぶつかったことを詫びるでも、引き下がるでもなくそこにいた。むしろ彼女の手を握っていた。
「んなーん。なーん。なぁーん」
 片足を上げた黒猫も、ソファーの傍へやってきて茉世を見上げた。片足が使えないために、跳び乗ることができないのだろう。小さな牙とピンク色の舌を見せて、不満を言っている。彼女は永世の掌の下から抜け出した。猫を抱え上げる。膝に置いた。艷やかな毛並みを撫でる。落ち着かなければならない。心臓の鼓動が速い。黒い猫の重低音で誤魔化せるだろうか。
「なぉん。ぅなん。なぉ……」
 黒い猫は喉を震わせながら独りちる。ゆ……っくりと金色の目を閉ざし、眠げだ。膝が温かい。今日は雨であった。蒸し暑さは、ソファーの対面に取り付けられたクーラーの除湿機能によって薄らいでいる。寒いくらいであった。そのために猫の温もりが心地よい。
 急激な精神活動は彼女を疲れさせた。除湿でも吹き付けられる冷風と猫の体温が微睡まどろみへ誘う。小気味よい食器の音もそれを手伝う。
 目蓋が落ちた。よく眠ったつもりでも、身体はそうではなかったのだろう。猫の丘を作る腰を撫でていた手が、滑落した。座面へ転がる。わずかに意識が浮上した。転げた手が温かい。包まれている。指と指の狭間を掠める硬い皮膚感が、また意識を引き摺り下ろしていく。
 頭がふらついた。
 間の悪い女だった。左右の二択。わざわざ、人のいるほうへ傾く必要はなかった。法的な夫の傍で、なんという大胆。なんという不敵。彼女の身体は堕落した。或いは彼女は凛として咲き誇る白百合から逃げることのできない蝶や蜂であった。傾いていく。
「んなーん。んなーん。んなーぁん」
 耳はまだ働いていた。長鳴きが不安を煽る。目が覚める。彼女は自身が寝ていることに気付かなかった。
「あ、ごめんなさい……」
 もし以前の蓮に見られたならば、どのような叱責を受けるか分かったものではない。
「んなーぉ」
 握られて火照る手に、黒猫がじゃれつく。茉世の腕を噛む。そして鉄棒のごとく回り、繋がっている永世の腕を蹴った。長細い足が何度も蹴る。爪は立てていないようだった。
 手を繋いでいることに気付く。
「あ……っすみません……」
 頭の中に竜巻が起こっている。咄嗟に立ち上がった。ソファーを離れる。猫の爪が引っ掛かり腕に痛みが走ったが、些細なことであった。永世の顔を真正面から捉えた。寄せられた眉と見開かれた目。傷付けている。傷付けてしまう。消耗させ、磨り減らしている。
 食卓は静寂に包まれていた。食器の音も消えていた。一斉に視線を浴びている。
「ごめんなさい……」 
 息が詰まる。悲しい。苦しい。自分が嫌になってしまった。永世の隣には戻れない。
「蓮さんのハムスターにエサを忘れてしまって……ちょっとあげてきます……失礼します」
 胸がおかしい。茶の間を抜け出した。どんぐりにエサをあげるのはもう少し後である。嘘であった。部屋に着く前にも涙が溢れる。永世との接し方が分からない。これから顔を突き合わせて朝餉を摂らなければならないというのに。
 自室では、押入れのなかから滑車を回す音が聞えた。開けると、小さな毛玉は立体的な円盤から降りた。巣箱へ帰ってしまう。
 涙を拭いた。おかしくなってしまった。何が起きたというのだろう。何故、永世の前に立つと息ができなくなってしまうのか。不甲斐ない。情けない。
 茶の間に戻るときに、裏口から御園生瑠璃が入ってきた。
「おはよう、まっちゃん」
 雨だというのに爽やかであった。手拭いを被っていたが、短髪とシャツが濡れている
「おはよう」
「どした? 元気ないじゃん。ま、昨日の今日だもんな。あんま無理すんなよ」
「うん。あと、昨日のおにぎり食べられなかったの。朝ごはんにいただくね」
「それはおれが食っちまったから気にすんな」
 これ以上、おかしくなりたくなかった。
「あと……ちょっと風邪気味っぽくて。伝染うつすのは悪いから、今日は朝ごはん、一人でいただくね」
「ん、おっけ。お大事にな」
 御園生の手が肩を叩く。
「ありがとう」
 永世の部屋に向かった御園生とすれ違い、茶の間へと戻る。すでに朝食を終えていた。解散の直後だったらしい。
「茉世ちゃん」
 蘭に呼び止められる。咎められるのか。彼の表情が強張って見えた。
「離席してしまってごめんなさい」
 頭を下げる。蘭の一個人的な感情のことは分からない。だが家主としての威厳のために厳しい態度をとる必要性もあろう。
「気にしないで。頭上げてよ。別にあれも必要ないんだし。蓮くんの言ってたことはもう守らなくていいよ。時間を無駄にさせちゃ悪いし。それはそれとして、今日は禅ちゃんが退院する日だから、お昼頃まで家空けちゃうね。諺ちゃんは一緒に連れて行って、霖くんは図書館で勉強するって言ってたから、炎くんとお留守番になっちゃうケド、いいかな」
「はあ、承知しました」 
「ごめんね。シャンソン荘、戻りたいよね」
「い、いいえ……そんなことは……」 
 形式的な会話であった。俯いてばかりで、蘭の目も見られない。
「じゃ、じゃあ、そういうことでよろしくね」
 彼は脇を擦り抜けていく。
 茉世はテーブルの上に残った食器を台所へと運び、それから一人で朝飯を食った。空腹ではあるが食欲が湧かない。永世に失礼な態度をとってしまった。彼とは長いこと会えなくなると聞いている。謝るべきだ。一体何を謝るのか。流しておくのが最適解な事柄をわざわざ口に出して、どういう顔をしろというのだろう。砂のような朝食だった。滑車の音が押入れから聞こえる。やがて黒い猫が襖を引っ掻いて入室を求める。茉世の膝に乗って振動している。腕に刻まれた引っ掻き傷を撫でる。最初は痒みだった。傷を認めた途端に痛みへと変わる。
 どこまでが策略であったのだろう。蓮はどう思っているのだろう。左腕の傷跡がばからしくなった。大きなオナモミを切り開いて貼り付け、皮膚と同化したようなこの跡に三途賽川の意思が働いていたのはおそらく本当なのであろう。鏡花辺津きょうげべつつきが嘘を言っているとは思われなかった。否、分からない。何も分からない。何を信じようとしても疑念が過る。
 大きな溜息が漏れた。食い切れそうにない朝飯を腹に詰め込む。後で食うとしても冷蔵庫の邪魔になるだけである。かといって捨てるのは忍びなかった。
『手前で働いて食ってるわけじゃないんだ。お残しできると思うんじゃないよ』
 昔、頬を張られた。六道月路ろくどうがつじに引き取られる前の、韮谷にらや家での苦い思い出だ。正論であるがゆえに逃げ場がない。
「んなん」
 膝で丸まっていた猫が起き上がった。足音が襖の前まで来ている。
「茉世~?」
 鱗獣院炎であった。返事をすれば、襖が開いた。中へと踏み入り、岩石のような尻を畳に下ろした。
「小学時代のお友達と一緒に食うんじゃなかったのけ?」
「……今日はそういう気分じゃなくて…ろ」 
 わざわざそのようなことを確かめに来たのではあるまい。だが鱗獣院炎は茉世に眼差しをくれるばかりである。
「どうかされましたか」
 太い眉。垂れ目。彫りを深くする鼻梁。厚みのある唇。獅子のような顎。これらが険しい顔を作っている。茉世は身構えた。厳しい指摘をする者は蘭でも蓮でもなく、炎のほうなのかもしれない。
「だいじょぶか?」 
 首を傾げて、大男は彼女の双眸を覗き込んだ。
「大丈夫か、と言いますと……?」
「さっき様子が変だった。こんなクソみてぇな家だからな。ストレスは多いだろうよ。内心の自由ってもんがあるが、押し潰されないようにな」
 乾いた唇を舐めて潤したつもりになっても、唾液ではまた荒れるだけだ。
 鱗獣院炎は年齢の割りに擦れているが、しかしまだ純粋な子供らしい。外貌のためにとてもそうは思えないこの大男は、内心の自由と罪悪感のために本家の嫁が苦しんでいると思っているらしいのだ。茉世は自身の卑しさを知らしめられる。そうであるべきだ。既婚の身であるならば、内心の自由と罪悪のために苦しむべき状況であった。ところが実情は違った。圧倒的な我欲と高慢のために悲嘆していた。
 色を失ったようだ。耳には靄が纏わりついたようで、首には真綿が巻き付いてるように思える。
「ンでも、嫁と分家を正座させて横で飯食うって、余所でもあんなんなかなか見ねーから、ちょっとビビっちまった。朝もなのかよ。モラ男のDVでもやらんだろ、今どき」
 いつもならば永世はいなかった。今日だけである。だがそれを鱗獣院炎に言ったとて内容に大差はない。
「蘭さんはしなくていいと言ってくださいますし……けれど蓮さんにやるよう言われた手前、やめどきも分からなくて。やらなきゃやらないで、蘭さんにも悪いですし……」
「んなぅ。んなーん」
 猫が膝の上で立つ。何か気に入らないらしかった。その小さな頭を軽く叩く。
「フツーに飯が不味くなるけどな、あんなん。茉世が蓮ニーサマ嫌うのも分かるぜ。食欲失くすわ。蘭ニーサマがやらんでいいって言ってんならやめちまえ。どうしてもやめらんねーっつーならオレ様がいつもどおり、飯の時間遅らせればいいんだけどよ。ヒルナノデスワ観ながらな」
「嫌っているというわけでは……」
「にゃあーん。にゃーん。ぅなーん」
 黒い猫は彼女の身体に頭を手に入れる。撫でられ足らないらしかった。かといって撫でようとすれば、その手に牙を剥き、蹴ろうとするのである。
「まぁ、茉世が気にしてねーなら、オレ様の口出すことじゃねーやな」 
「ありがとうございます。それとすみませんでした。朝から不愉快な思いをさせたようで。でもわたしは大丈夫です。せめてあれくらいは蘭さんを立てないと……」
「ふん。アイス奢ってもらっちまったからな。オレ様は恩を忘れねーんだよ。いい男なんでね」
「コンビニで買えるようなアイスですから、そんな……」
 笑いかけた。だが鱗獣院の普段の軽薄な笑みはそこにはない。たじろぐ。
「惚れた女の世話くらいさせろ」
 彼女の世界は一瞬、時が止まった。遅れて、言葉が脳を通った。大して意味がないことだと知る。
「あ………いえ、その…………お、大人をからかわないでください……」
 けれど悪い気はしなかった。この子供なりに気を遣っているのだろう。
「でも、ありがとうございます、炎さん。不甲斐なくて申し訳ないです」
 大きな手が金髪を掻く。
「ギュッてしてやるよ。おっぱい揉むか?」
 狭い部屋いっぱいに彼は腕を広げた。襖と壁にぶつかりそうなほどだ。
「高校生が何を言っているの。そうしなくても、炎さんが来てくださってお話聞いてくださって、元気出ましたよ、わたし。やっぱり変ですよね、朝食のあれ。気付いてくださって嬉しかったです。食器を下げてきますね」
 膳に伸ばした手は、まるで絵物語に出てくる姫のように掬い取られた。茉世は鱗獣院の顔色を窺う。
「オレって案外、チョロいンだわ」
 ココナッツミルクの匂いに覆われる。高い体温に汗ばんでいく。
「んなーぉ」
 実際はその太い腕に肉体を締められているにもかかわらず、心が緩む。
「あんたに惚れてる」
 しかし届かないのだ。そのような言葉は何も信じられない。空気の振動に過ぎぬ。やがて治まり消えていくものだ。二親からの情愛然り。容易く偽れるのだ。
「なーぉ、なーぉ」
 猫の声に我に返る。三十路に見紛うが、結局は子供の言葉だ。大人を元気づけようとする健気で可愛らしい努力ではないか。自身の愚かさにみ果てる。もう何も上手くはいかぬ。そのような気になる。
「大丈夫です、炎さん。大丈夫ですから。ありがとう」 
 分厚い胸板を押しやる。膳を抱えて逃げてしまった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

シチュボ(女性向け)

身喰らう白蛇
恋愛
自発さえしなければ好きに使用してください。 アドリブ、改変、なんでもOKです。 他人を害することだけはお止め下さい。 使用報告は無しで商用でも練習でもなんでもOKです。 Twitterやコメント欄等にリアクションあるとむせながら喜びます✌︎︎(´ °∀︎°`)✌︎︎ゲホゴホ

秘事

詩織
恋愛
妻が何か隠し事をしている感じがし、調べるようになった。 そしてその結果は...

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

処理中です...