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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 59
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るんが顔を上げた。喧嘩になってしまうかもしれない。茉世は腰を上げ、黒猫を拾った。すでに重低音を鳴らし、振動していた。
「んなぅぅ……」
「黒ちゃん、戻ろう?」
怪我をしている黒い猫を抱き上げ、茉世は片足を引き摺る。両手が塞がり、壁伝いには歩けない。
「ん~、んにゃん。にゃぅう」
乾草を荒らすような音が近くで聞こえ、その正体は鱗獣院炎が傷みきった金髪を掻き乱す音だった。
「ったりーな」
鱗獣院炎は聞こえよがしに溜息を吐くと、黒猫ごと茉世を抱き上げてしまった。そして茶の間を出る。ひとり残された蘭が、顔を背け、俯いたことを誰も知る由はない。
茉世は部屋で下ろされた。布団が整えられている。永世の姿はもうなかった。
「ふぁあ~っ、ねっむ。じゃあオレ様は寝るぜ。ここで寝ちまうかな? 同衾しようや」
「んんんんんなぅぅう!」
黒い猫は耳を伏せ、鼻梁に皺を寄せる。鱗獣院は嗤い飛ばすのみである。
「青山と外にいたんだろ? 何もされなかったか」
「……はい」
嘘である。しかし打ち明けることは躊躇われた。口にできない。思い返したくない。
「ん、ならいいんだけどよ」
鱗獣院炎は茉世の後頭部に手を回した。引き寄せられる。ココナッツミルクの匂いがまた近付いた。視界が暗くなり、額に柔らかな感触が落ちる。
「おやすみ、茉世」
「おやすみ……なさい」
彼女は自身の額を押さえた。高校生男子に揶揄われている。大き過ぎる背中が隣室の角に消えていくのを見送った。
「んにゃん」
鱗獣院炎を嫌う黒猫が脚に擦り寄る。頭を撫でると溶けてしまった。
「んなーん、んぅ」
いずれシャンソン荘に戻るのだ。そのとき、この猫はどうなるのだろう。飼主の有無も分からない。シャンソン荘に連れていくには、猫にとって厳しいだろう。だが、シャンソン荘に帰りたくなってしまった。蓮に会いたくない。蓮が帰ってくる前に、帰ってしまいたい。顔を合わせたくなかった。どういう態度をとればいいのか分からない。己を御していられるのか。
「蓮さん……」
「にゃぉおん。んにゃ、にゃーん。んにゃん」
猫が喚く。頭を撫でても治まらない。
「どんちゃんが怖がるでしょ。静かに」
蓮という男は、妻子を持ったとしても、何の連絡もせずに姿を晦ましてしまうのだろうか。外貌が特別秀でているだけではないか。陰険で、暴力に訴え、人の話を聞かない。
くだらない嫉妬だ。蓮は嫌な人物だが、それ以上に茉世は自身が嫌になってしまった。
「にゃあ、にゃぁん。にゃん」
何度も撫で回すが、猫は飽きもせず彼女の手に頭を手に入れる。
「ぅにゃん」
「寝よ、黒ちゃん。ここで寝るの?」
ダンボールのなかでは不服らしい。枕の横で丸くなる。
「にゃぅ……にゃ」
横になると、猫は布団に侵入する。茉世はこの獣の好きにさせていた。
少し眠った。この短い睡眠で十分眠った気になっていた。時計を見遣れば深夜帯だ。布団を捲る。
「ん~なぅ」
暗闇に融けていた生き物が抗議する。
喉が渇いた。喉奥の粘膜も乾燥している。腹も減っていた。霖の弁当の保冷剤兼デザートのために買っておいたミニゼリーを少しもらおうと台所へ向かう。片足の痛みはまだあったが、湿布が効いている。
蓮がいた部屋を通り抜ける。何かが苦い。乾涸びた思考が微睡みによって途切れた感情を繋ぎ合わせる。しかし、見方が変わった。腹が立ってきたのだ。何故帰ってこないのだ。何故、傍にいてやらないのか。
壁を伝い、風呂場の前を通る。明かりが点いていた。シャワーの音も聞こえる。消し忘れではない。誰か入っている。蓮が帰ってきたのだろうか。
台所に入り、シンクの上の電灯を点ける。浄水器を通した水を飲む。人工的な冷気に灼かれた喉はすぐに潤いはせず、まだひりついている。水分を摂ったことで空腹感は薄れた。
隣の風呂場で、明かりを落とす物音が聞えた。茉世もシンクの明かりを落とす。控えめな足音が台所に向かって来ている。蓮ではあるまいか。過ぎた日の出来事が甦る。この台所で、暴行事件が起こったのだ。蓮は永世の想いを厭い、彼を殴ったのではあるまいか。否、すべて仕組まれていたのではないか。厭うどころか二人は同じ気持ちを抱いているために、三途賽川から離れる必要があったのでは。
蓮という人物が分からない。永世のことも分からない。男など信用するものではない。三途賽川をまだ見縊っている。女が賎しいのであれば、尊い男同士で分かち合えばよいのだ。何の矛盾もない。合理的だ。世にはどうにもならないことが山程ある。取り合いをつけねばならない。溜飲を下げるなり、誤魔化すなり、負け惜しみ、開き直るなり、やりようはある。だが隠蔽のために使われたことが、胸を締めつけるのだ。そうしなければならなかった身の上、世間体。哀れだ。
茉世は屈んだ。黒い猫同様に闇夜に融けようとした。
と、と、と、と軽快な足取りも近付いてきている。黒い猫がついてきているらしい。
「誰かいるんですか」
暗闇に穏やかな音吐が沁み入っていく。永世だ。と、と、と、と黒い猫が呑気に跳ねている。
「にゃぅ」
柔らかな毛並みが身体にぶつかる。喉を鳴らしている。
「茉世さん……?」
茉世は震えた。言い当てられてしまったからには、沈黙を貫くわけにもいかない。明かるくすれば分かることだ。
「そ、そうです……すみません。お水をいただきに来ました」
「いいえ、謝らないでください。湯中りですから、たくさん飲んでいただかないと」
息が苦しい。その声が優しければ優しいほど、針となって胸を刺す。飲んだ水が鉛玉と化したようだ。
「ご迷惑をおかけしたようで……申し訳なかったです」
「迷惑だなんて……ご無事でよかったです。まだ油断は禁物ですけれど。水分補給をして、よく休んでください」
「ありがとうございます、永世さん。本当に……」
まだ割り切れていない。眼球が熱くなっていく。目頭が縫い付けられていくようだ。喉が痛む。明かりを消した自身の行動に感謝した。
「もう、寝ます」
短い言葉なら耐えられた。
「おやすみなさいませ」
すれ違う。入浴剤の匂いがした。今日は"森林の香り"らしい。保湿成分の入ったボディソープの匂いもする。苦しい。厭な匂いだ。
返す言葉は呑み込むしかなかった。嗚咽に変わってしまう。
「茉世さん」
やはり返事はできなかった。だが足を止めることはできる。
「無理をさせました。ぼくのせいです。だから茉世さんが礼を言ったり、謝ることではないんです」
何の話をしているのか見当がつかなかった。
「そんな……わたしの不注意です。永世さんは何も悪くありません」
優しい言葉も、綺麗な声も要らない。勘違いしてしまう。スモアを溶かしてできた底なし沼に片足をとられているも同然。理性が断ち切れといっていようが、そう容易に運べない事情があるのだ。
「なぅぅ」
足に猫が纏わりつく。
「茉世さん」
玄関から入る光が永世によって遮られた。欲求とは反対に後退る。足首に痛みが走った。距離は一気に詰められている。普段は布が数枚隔てているはずの肉体がすぐそこにある。明かりがないのは幸いであった。目の前にある肉体を見たことがないわけではない。しかし、もう直視することはできないのだろう。
「あの……」
吐息を感じる。男の体臭を乗せた風呂上がりの匂いが、脳髄を蒸らす。身体中が疼いた。微熱があるのかもしれない。流行病のワクチンを打ったときに似ていた。
気配が迫った。唇が触れる。だが浅ましいことだ。同情されているのだ。彼は彼自身の恋路と向き合うべきなのだ。分け与えることなどせず。目先の快楽に囚われては、いずれ八つ裂きに遭う。
腕を挟んでいた。引き締まった筋肉と瑞々しい皮膚の抵抗を感じる。拒んでしまったものの魅力の高さが指にまで伝わっている。
「ごめ……なさ………わた、し……応援しますから………応援しますから……永世さんのこと………」
涙が一粒落ちて、虚勢は瓦解する。語調は崩れ、嗚咽を隠せない。
「なぅ……」
猫が鳴いた。
緩衝材にした腕を取られる。頬に少し堅い掌が当たる。俯いた顔は上を向かされ、唇は奪われてしまった。弾力に押し潰されそうだった。今までの接吻とは違う。永世とのキスとは思われない、一方的な口付け。身体の距離も赦さないらしかった。彼は茉世を抱き寄せる。腰と後頭部を押さえられ、離れられはしない。
「ん……っ、」
何度も唇を当て、被捕食者の立場にあることを知らしめられる。身を委ねてしまいたい。だが暗雲を拭い去れはしない。
「だ………め、です」
唇が荒れていた。クーラーのせいではなかった。密着した身体に腕を割り込まる。自身から湧き立つ永世の匂いに戸惑う。
「怖いですか、ぼくが」
声音はまだ永世だった。キスは彼の姿を借りた別人のようであったけれど。
「少し……だけ………」
慄然とする。捕食者を前にした恐怖として片付けるには、甘い痺れが危機感を鈍らせる。
「ごめんなさい」
彼が謝る。何に対してか分からなかった。だが考える間はない。自ずと分からされた。怖がらせたことに対する詫びではなかったのだ。この口付けをやめられないことに対する詫びだったのだ。彼の弾力がまだ残っている唇がふたたび塞がれてしまった。
「は…………ぁ、ん………」
啄み、熱い舌が侵入する。日常的に永世から薫るシャンプーの匂いに酩酊する。蘭からも鱗獣院からも、義弟たちからも漂う匂いのはずだった。けれど違う。鼻は同じものだといっている。しかし肌が異質のものだといっている。この匂いのために、蝶や蜂になってしまう。
腹の奥底から巻き起こる洶湧を恐れた。後退ろうとしてしまう。けれども永世は微かな距離も赦さない。荒波めいた舌遣いに茉世は圧され、気付けば後ろに逃げ場はない。身体はいつの間にか向きを変え、背中には壁があった。
「………っ、は、」
「ん………えい、……、ぁ」
呼吸は許可されていなかった。ただ混ざり合う口水の嚥下の隙を与えられたに過ぎなかった。彼女の喉が鳴るのを聞いた途端に、激しい接吻が再開する。誤解してしまう。勘違いするのも無理はない。勘違いではないのだと信じてしまいたくなる。求めている牝を捕まえる牡の所作だ。蜘蛛の巣に引っ掛かってしまった。もう逃れられない。逃れられたとして、粘糸は翅に絡みつき、以前のようには生けていけない。
力が抜けていく。堕ちていく。この牡の番いと成り果てていくしかない。そこに法的な手続きも、世間の承認も要らない。肉体ひとつあれば。そして理性を投げ捨ててしまえば。風呂上がりの素肌はそろそろ冷えていてもおかしくなかった。だが熱く茉世を包み込む。蒸籠だ。しかし香炉である。灼熱感も感染してしまった。欲情に燻された体臭とともに全身を愛撫していく。鼻腔を通り抜け、脳髄まで撫でられている。
目蓋の裏から起爆した。浮遊感に陥る。脳天から爪先まで、満遍なく心地良い。だが初めての豊かで穏やかな快楽に焦る。
「ふ………あ、ああっ、」
膝が屈した。尻から床に落ちるはずだった。しかし脚の間に、男の堅い腿が挟まる。バスタオル越しに鍛えられた筋肉を感じる。ハーフパンツや作業着に覆われていた大腿に座っていた。見たことがある。初めてこの人の肉体を知ったときに目にした。清楚な印象にそぐわない、頑健な肉叢を再度肌で感じる。
「茉世さん……?」
虚脱感と震えに戸惑った。病質的なものではなかった。湯中りにも貧血にも似ていた。だというのに不快感も苦痛もない。気持ちの良い目眩の正体が分からない。口元を押さえた。絡め合った舌がまだこの先の刺激を求めて疼く。口腔は甘く爛れ、首は頭を支えられず、無防備に首筋を晒す。対面にある熱く湿った吐息が皮膚を掠め、力はさらに入らなくなる。
「きもち、よくて…………」
声は上擦っていた。息も覚束ない。酸素が足らなかった。ぼんやりとして、眠ってしまいそうである。忙しなく胸元が浮沈する。そこへ背中から強い力が加わる。永世の胸の中にいた。締め殺されるのかと思うほどの抱擁に混乱する。生まれが生まれであった。世間一般の感覚と価値観を理解しているつもりもない。彼女はまだ若いが、同時に若者たちのことが分からない。茉世にとって、この力強い抱擁には意味がある。けれど相手にはどうなのだろう。遊び相手、隠れ蓑にした相手にやるには大袈裟だ。
「永世さん……?」
苦しさに声も上手く出せなかった。
「大丈夫ですよ、わたし……永世さんのこと、応援してますから。こんな自分を磨り減らす真似をしなくても……」
肋骨の狭間に押し込もうとするような抱擁が解かれた。
「え……?」
「湯冷めしてしまいます。そろそろお部屋に戻ったほうがいいですよ」
「んなぅ」
暗闇に融けていた猫も同意した。
「そ、そうだよね、黒ちゃん……」
掻き乱される感情を茉世はおどけて誤魔化した。世によくあることなのだ。勘違い女、重い女、テレビにしろ雑誌にしろ、よく聞く投書ではないか。優しく真面目なこの人の手枷足枷になってはいけない。都合のい女、と返書ではよく挙がるが、それの何が不都合なのだ。恩を返すだけなのだ。そのまま生きていれば知らずにいたかもしれない感覚をくれた相手である。
「分かりました。そうします」
また湿度の高まる目元を開け広げ、唇を噛む。痛みは便利だ。甘美な残影を消す。
手に温かな手がぶつかる。
「ごめんなさ……」
躱した。咄嗟に謝った。手はまた茉世の手にぶつかりにかかり、指の狭間をくぐると、違う温度のもの同士を縫い合わせてしまった。
「えっ」
「一緒がいいです」
「んなーぅ」
永世が脇を見遣るのが薄らと玄関から入る光によって確かめられた。彼は猫を片手で抱き上げ、茉世の手を引いていく。
「永世さん……」
片足の痛みも忘れた。湿布だけが冷感を強め、足首の存在を訴える。
「なーう、なぅ……」
手が熱い。少し乾燥している。硬い皮膚感が分かる。涙を止められない。胸が潰れそうだ。嗚咽が喉で轟いている。
彼は茉世の自室に繋がる部屋を通り抜けてしまった。
「あの、」
「ぼくの部屋は、こっちです」
「んなーご、なーご」
猫の長鳴きが抗議のようだった。
永世の部屋に通され、手が離れていった。火傷したのかと思うほど、まだ体温がそこに残っている。
すでに布団は敷かれていた。飼猫るんが塒を巻いて、新たにやって来た1人と1匹を品定めしている。
「服を着ます」
「……はい」
彼女は目を逸らした。黒い猫が喉を鳴らして傍に寄る。
「足首を怪我されていたんですね。気付かず申し訳なかったです。畳では痛いでしょう。どうぞ、布団の上にでも座ってください」
「大した怪我ではありませんから……」
永世の着替える音がする。何度も出入りしたことがある。しかしこの部屋で彼が寝ているのだと実感すると、妙な焦燥感が湧きたった。
彼は着替えを終え、一人だけ布団に座ることを厭うたのか、布団を丸めてしまった。るんは逃げ出し、正座する人間の膝に乗った。タオルドライしただけの乱れた頭髪が普段の印象を変える。灰色がかった白いパジャマがまだ彼の清廉楚々とした雰囲気を残してはいるけれど。
「何か誤解していませんか。七堂さんの件ですか。彼女とは……」
「違います! その方のことではございません」
確かに永世に婚約者がいたと知ったときに苦い思いをしたことは否めない。
「では……」
世間的にまだ偏見があり、時代に取り残された三途賽川では尚のこと不都合な話である。何より茉世は、自身で上手く説明する自身がなかった。言葉選びもそうであるが、抑えきれない感情が、話を途切れさせるのだろう。
「そ、それより永世さん。蘭さんに青山さんのこと、忠告してくだ、―」
「青山さんの話は聞きたくないです」
「すみ……ません」
無言。
無言。
無言。
何か言わなくてはならない。青山のことを弁解しなくては。しかしそれは拒否された。それでは何を語ればいいのだろう。
「……寝ましょう。すみません。夜中にする話ではありませんでした。お部屋まで送ります」
「待ってくださッ、……」
立ち上がりかけた永世を、茉世は膝立ちで引き止めようとした。足首に痛みが走り、バランスを崩す。慌てた顔が見えた。彼は茉世を支えようとした。しかし足の置き場には不貞腐れた様子のるんがやって来る。
「茉世さんッ!」
茉世は後ろへ手をついて、転倒を防いだ。鼻先の触れるところに永世がいる。焦茶色の瞳の中を覗いてしまった。体重を半分預けた手の甲も温かい。そして重い。蒸れる。白百合の香りに噎せ返る。甘やかな悪寒が走っていく。
「なぅう……」
毛尨が腕に纏わりつく。だが気にしていられない。
抑えられない。それは嘔吐だった。胃酸も胃の内容物も伴わない嘔吐であった。
「永世さんのこと、―……」
ところが彼女の声は襖の弾かれる音に消えた。
眼前にあった永世の顔付きが変わった。背中に腕が回り、襖とは反対の庭側へ向いた。抱き竦められている。彼女の思考は停止してしまった。彼の胸に頭を強く押し当てられ、早鐘を打つ鼓動が伝わる。
溜息が聞えた。長押を掴みながら、鱗獣院炎が呆れた顔を覗かせる。
「ンだよ。あんたか。例の件かと思っちまった」
「鱗獣院さん」
噛みつかんばかりの永世の態度に茉世はぎくりとした。
「あ?」
鱗獣院炎はさらに中へと踏み入って、茉世の姿を認めると、厚みのある口元に苦々しい微笑を浮かべる。
「深夜の逢引を邪魔しちまってたワケかぃ。悪かったよ」
「……起こしてしまったようで」
「ガチギレじゃねーか」
「いいえ。ちょっと驚いてしまっただけです。すみませんね」
技でもかけるようなすばやさで抑え込まれていた茉世は解放された。一瞬だけ、身体が冷気と乾燥を感じた。
「じゃ、まぁ、ほどほどにな」
垂れ目はそれから黒い猫を捉えた。
「ヘンタイストーカー猫はオレ様が連れていってやるよ」
「あ、あの、わたしも行きます……」
「は?」
鱗獣院炎は訳の分かっていない様子であった。垂れ目を丸くして、永世と本家の嫁を見比べている。
「あんた、そんなにこの猫大事にしてたっけ」
「い、いいえ……そろそろ寝る時間ですから」
茉世はのっそりと鱗獣院の傍に立った。
「"いいえ"って、まぁ、可哀想なやっちゃ」
黒い猫を捕まえた大男は、柔毛に頬擦りする。
「おやすみなさい、茉世さん」
「おやすみなさい……」
顔が見られない。夏が終われば永世は帰っていってしまうというのに。襖は鱗獣院が閉めた。
「炎さんのお部屋はどちらですか」
「そこ」
永世の部屋の斜向かいである。廊下を挟んでいるが、会話や物音は聞こえるのだろう。
「うるさくしてごめんなさい」
「別にうるさくはねーケド。オレ様が直々に部屋まで送ってやるよ。感謝しな」
大きな掌が頭に乗った。
「大丈夫ですよ。すぐそこですし……」
「ふん。オレ様の善意は受け取っておけ」
「んなーぉ」
「スケベ猫もそうしろってよ」
鱗獣院と共に部屋へと戻る。明かりが点けられる。布団を前にすると、白黒つけるべきであったのか……胸の痞えについて決着すべきだったのか、後悔が滲み出てきはじめた。あのキスに意味などないのかもしれない。
物思いに耽っていると、逞しい指が彼女の頬を押す。
「邪魔しちまったこと、キレてる?」
鱗獣院炎がいたことも忘れていた。
「いいえ……邪魔されただなんて、全然思っていませんし。むしろこちらこそ、起こしてしまったようで」
「それはいい。気にすんな。ちょっと三途賽川も、厄介なもの抱え込んじまったんでね。若干ナーバスになってんでさ」
それが"例の件"であろうか。永世の険のある語気が引っ掛かる。しかし女に知らせるものではないのだろう。首を突っ込んでも仕方がない。はぐらかされるのは目に見えている。
「蓮ニーサマいないならオレ様が茉世の隣に来ちまおうかな」
「どうぞ……目覚まし時計がうるさいかもしれませんけれど」
脚に身を擦り寄せていた金色の双眸と目が合う。
「んなん」
黒い猫の声は掠れている。
「いンや、オレ様の鼾と歯軋りの音色で眠れなくなっちまうのは茉世のほうだよ。じゃ、二度目だけどおやすみ。オレ様の夢みろ」
頬に、背を屈めた大男の唇が当たった。
「おやすみなさいませ」
鱗獣院炎は顔も見せずに背を向けた。茉世は柔らかな感触の残る頬を擦る。
「んなぅぅ……」
「黒ちゃん、戻ろう?」
怪我をしている黒い猫を抱き上げ、茉世は片足を引き摺る。両手が塞がり、壁伝いには歩けない。
「ん~、んにゃん。にゃぅう」
乾草を荒らすような音が近くで聞こえ、その正体は鱗獣院炎が傷みきった金髪を掻き乱す音だった。
「ったりーな」
鱗獣院炎は聞こえよがしに溜息を吐くと、黒猫ごと茉世を抱き上げてしまった。そして茶の間を出る。ひとり残された蘭が、顔を背け、俯いたことを誰も知る由はない。
茉世は部屋で下ろされた。布団が整えられている。永世の姿はもうなかった。
「ふぁあ~っ、ねっむ。じゃあオレ様は寝るぜ。ここで寝ちまうかな? 同衾しようや」
「んんんんんなぅぅう!」
黒い猫は耳を伏せ、鼻梁に皺を寄せる。鱗獣院は嗤い飛ばすのみである。
「青山と外にいたんだろ? 何もされなかったか」
「……はい」
嘘である。しかし打ち明けることは躊躇われた。口にできない。思い返したくない。
「ん、ならいいんだけどよ」
鱗獣院炎は茉世の後頭部に手を回した。引き寄せられる。ココナッツミルクの匂いがまた近付いた。視界が暗くなり、額に柔らかな感触が落ちる。
「おやすみ、茉世」
「おやすみ……なさい」
彼女は自身の額を押さえた。高校生男子に揶揄われている。大き過ぎる背中が隣室の角に消えていくのを見送った。
「んにゃん」
鱗獣院炎を嫌う黒猫が脚に擦り寄る。頭を撫でると溶けてしまった。
「んなーん、んぅ」
いずれシャンソン荘に戻るのだ。そのとき、この猫はどうなるのだろう。飼主の有無も分からない。シャンソン荘に連れていくには、猫にとって厳しいだろう。だが、シャンソン荘に帰りたくなってしまった。蓮に会いたくない。蓮が帰ってくる前に、帰ってしまいたい。顔を合わせたくなかった。どういう態度をとればいいのか分からない。己を御していられるのか。
「蓮さん……」
「にゃぉおん。んにゃ、にゃーん。んにゃん」
猫が喚く。頭を撫でても治まらない。
「どんちゃんが怖がるでしょ。静かに」
蓮という男は、妻子を持ったとしても、何の連絡もせずに姿を晦ましてしまうのだろうか。外貌が特別秀でているだけではないか。陰険で、暴力に訴え、人の話を聞かない。
くだらない嫉妬だ。蓮は嫌な人物だが、それ以上に茉世は自身が嫌になってしまった。
「にゃあ、にゃぁん。にゃん」
何度も撫で回すが、猫は飽きもせず彼女の手に頭を手に入れる。
「ぅにゃん」
「寝よ、黒ちゃん。ここで寝るの?」
ダンボールのなかでは不服らしい。枕の横で丸くなる。
「にゃぅ……にゃ」
横になると、猫は布団に侵入する。茉世はこの獣の好きにさせていた。
少し眠った。この短い睡眠で十分眠った気になっていた。時計を見遣れば深夜帯だ。布団を捲る。
「ん~なぅ」
暗闇に融けていた生き物が抗議する。
喉が渇いた。喉奥の粘膜も乾燥している。腹も減っていた。霖の弁当の保冷剤兼デザートのために買っておいたミニゼリーを少しもらおうと台所へ向かう。片足の痛みはまだあったが、湿布が効いている。
蓮がいた部屋を通り抜ける。何かが苦い。乾涸びた思考が微睡みによって途切れた感情を繋ぎ合わせる。しかし、見方が変わった。腹が立ってきたのだ。何故帰ってこないのだ。何故、傍にいてやらないのか。
壁を伝い、風呂場の前を通る。明かりが点いていた。シャワーの音も聞こえる。消し忘れではない。誰か入っている。蓮が帰ってきたのだろうか。
台所に入り、シンクの上の電灯を点ける。浄水器を通した水を飲む。人工的な冷気に灼かれた喉はすぐに潤いはせず、まだひりついている。水分を摂ったことで空腹感は薄れた。
隣の風呂場で、明かりを落とす物音が聞えた。茉世もシンクの明かりを落とす。控えめな足音が台所に向かって来ている。蓮ではあるまいか。過ぎた日の出来事が甦る。この台所で、暴行事件が起こったのだ。蓮は永世の想いを厭い、彼を殴ったのではあるまいか。否、すべて仕組まれていたのではないか。厭うどころか二人は同じ気持ちを抱いているために、三途賽川から離れる必要があったのでは。
蓮という人物が分からない。永世のことも分からない。男など信用するものではない。三途賽川をまだ見縊っている。女が賎しいのであれば、尊い男同士で分かち合えばよいのだ。何の矛盾もない。合理的だ。世にはどうにもならないことが山程ある。取り合いをつけねばならない。溜飲を下げるなり、誤魔化すなり、負け惜しみ、開き直るなり、やりようはある。だが隠蔽のために使われたことが、胸を締めつけるのだ。そうしなければならなかった身の上、世間体。哀れだ。
茉世は屈んだ。黒い猫同様に闇夜に融けようとした。
と、と、と、と軽快な足取りも近付いてきている。黒い猫がついてきているらしい。
「誰かいるんですか」
暗闇に穏やかな音吐が沁み入っていく。永世だ。と、と、と、と黒い猫が呑気に跳ねている。
「にゃぅ」
柔らかな毛並みが身体にぶつかる。喉を鳴らしている。
「茉世さん……?」
茉世は震えた。言い当てられてしまったからには、沈黙を貫くわけにもいかない。明かるくすれば分かることだ。
「そ、そうです……すみません。お水をいただきに来ました」
「いいえ、謝らないでください。湯中りですから、たくさん飲んでいただかないと」
息が苦しい。その声が優しければ優しいほど、針となって胸を刺す。飲んだ水が鉛玉と化したようだ。
「ご迷惑をおかけしたようで……申し訳なかったです」
「迷惑だなんて……ご無事でよかったです。まだ油断は禁物ですけれど。水分補給をして、よく休んでください」
「ありがとうございます、永世さん。本当に……」
まだ割り切れていない。眼球が熱くなっていく。目頭が縫い付けられていくようだ。喉が痛む。明かりを消した自身の行動に感謝した。
「もう、寝ます」
短い言葉なら耐えられた。
「おやすみなさいませ」
すれ違う。入浴剤の匂いがした。今日は"森林の香り"らしい。保湿成分の入ったボディソープの匂いもする。苦しい。厭な匂いだ。
返す言葉は呑み込むしかなかった。嗚咽に変わってしまう。
「茉世さん」
やはり返事はできなかった。だが足を止めることはできる。
「無理をさせました。ぼくのせいです。だから茉世さんが礼を言ったり、謝ることではないんです」
何の話をしているのか見当がつかなかった。
「そんな……わたしの不注意です。永世さんは何も悪くありません」
優しい言葉も、綺麗な声も要らない。勘違いしてしまう。スモアを溶かしてできた底なし沼に片足をとられているも同然。理性が断ち切れといっていようが、そう容易に運べない事情があるのだ。
「なぅぅ」
足に猫が纏わりつく。
「茉世さん」
玄関から入る光が永世によって遮られた。欲求とは反対に後退る。足首に痛みが走った。距離は一気に詰められている。普段は布が数枚隔てているはずの肉体がすぐそこにある。明かりがないのは幸いであった。目の前にある肉体を見たことがないわけではない。しかし、もう直視することはできないのだろう。
「あの……」
吐息を感じる。男の体臭を乗せた風呂上がりの匂いが、脳髄を蒸らす。身体中が疼いた。微熱があるのかもしれない。流行病のワクチンを打ったときに似ていた。
気配が迫った。唇が触れる。だが浅ましいことだ。同情されているのだ。彼は彼自身の恋路と向き合うべきなのだ。分け与えることなどせず。目先の快楽に囚われては、いずれ八つ裂きに遭う。
腕を挟んでいた。引き締まった筋肉と瑞々しい皮膚の抵抗を感じる。拒んでしまったものの魅力の高さが指にまで伝わっている。
「ごめ……なさ………わた、し……応援しますから………応援しますから……永世さんのこと………」
涙が一粒落ちて、虚勢は瓦解する。語調は崩れ、嗚咽を隠せない。
「なぅ……」
猫が鳴いた。
緩衝材にした腕を取られる。頬に少し堅い掌が当たる。俯いた顔は上を向かされ、唇は奪われてしまった。弾力に押し潰されそうだった。今までの接吻とは違う。永世とのキスとは思われない、一方的な口付け。身体の距離も赦さないらしかった。彼は茉世を抱き寄せる。腰と後頭部を押さえられ、離れられはしない。
「ん……っ、」
何度も唇を当て、被捕食者の立場にあることを知らしめられる。身を委ねてしまいたい。だが暗雲を拭い去れはしない。
「だ………め、です」
唇が荒れていた。クーラーのせいではなかった。密着した身体に腕を割り込まる。自身から湧き立つ永世の匂いに戸惑う。
「怖いですか、ぼくが」
声音はまだ永世だった。キスは彼の姿を借りた別人のようであったけれど。
「少し……だけ………」
慄然とする。捕食者を前にした恐怖として片付けるには、甘い痺れが危機感を鈍らせる。
「ごめんなさい」
彼が謝る。何に対してか分からなかった。だが考える間はない。自ずと分からされた。怖がらせたことに対する詫びではなかったのだ。この口付けをやめられないことに対する詫びだったのだ。彼の弾力がまだ残っている唇がふたたび塞がれてしまった。
「は…………ぁ、ん………」
啄み、熱い舌が侵入する。日常的に永世から薫るシャンプーの匂いに酩酊する。蘭からも鱗獣院からも、義弟たちからも漂う匂いのはずだった。けれど違う。鼻は同じものだといっている。しかし肌が異質のものだといっている。この匂いのために、蝶や蜂になってしまう。
腹の奥底から巻き起こる洶湧を恐れた。後退ろうとしてしまう。けれども永世は微かな距離も赦さない。荒波めいた舌遣いに茉世は圧され、気付けば後ろに逃げ場はない。身体はいつの間にか向きを変え、背中には壁があった。
「………っ、は、」
「ん………えい、……、ぁ」
呼吸は許可されていなかった。ただ混ざり合う口水の嚥下の隙を与えられたに過ぎなかった。彼女の喉が鳴るのを聞いた途端に、激しい接吻が再開する。誤解してしまう。勘違いするのも無理はない。勘違いではないのだと信じてしまいたくなる。求めている牝を捕まえる牡の所作だ。蜘蛛の巣に引っ掛かってしまった。もう逃れられない。逃れられたとして、粘糸は翅に絡みつき、以前のようには生けていけない。
力が抜けていく。堕ちていく。この牡の番いと成り果てていくしかない。そこに法的な手続きも、世間の承認も要らない。肉体ひとつあれば。そして理性を投げ捨ててしまえば。風呂上がりの素肌はそろそろ冷えていてもおかしくなかった。だが熱く茉世を包み込む。蒸籠だ。しかし香炉である。灼熱感も感染してしまった。欲情に燻された体臭とともに全身を愛撫していく。鼻腔を通り抜け、脳髄まで撫でられている。
目蓋の裏から起爆した。浮遊感に陥る。脳天から爪先まで、満遍なく心地良い。だが初めての豊かで穏やかな快楽に焦る。
「ふ………あ、ああっ、」
膝が屈した。尻から床に落ちるはずだった。しかし脚の間に、男の堅い腿が挟まる。バスタオル越しに鍛えられた筋肉を感じる。ハーフパンツや作業着に覆われていた大腿に座っていた。見たことがある。初めてこの人の肉体を知ったときに目にした。清楚な印象にそぐわない、頑健な肉叢を再度肌で感じる。
「茉世さん……?」
虚脱感と震えに戸惑った。病質的なものではなかった。湯中りにも貧血にも似ていた。だというのに不快感も苦痛もない。気持ちの良い目眩の正体が分からない。口元を押さえた。絡め合った舌がまだこの先の刺激を求めて疼く。口腔は甘く爛れ、首は頭を支えられず、無防備に首筋を晒す。対面にある熱く湿った吐息が皮膚を掠め、力はさらに入らなくなる。
「きもち、よくて…………」
声は上擦っていた。息も覚束ない。酸素が足らなかった。ぼんやりとして、眠ってしまいそうである。忙しなく胸元が浮沈する。そこへ背中から強い力が加わる。永世の胸の中にいた。締め殺されるのかと思うほどの抱擁に混乱する。生まれが生まれであった。世間一般の感覚と価値観を理解しているつもりもない。彼女はまだ若いが、同時に若者たちのことが分からない。茉世にとって、この力強い抱擁には意味がある。けれど相手にはどうなのだろう。遊び相手、隠れ蓑にした相手にやるには大袈裟だ。
「永世さん……?」
苦しさに声も上手く出せなかった。
「大丈夫ですよ、わたし……永世さんのこと、応援してますから。こんな自分を磨り減らす真似をしなくても……」
肋骨の狭間に押し込もうとするような抱擁が解かれた。
「え……?」
「湯冷めしてしまいます。そろそろお部屋に戻ったほうがいいですよ」
「んなぅ」
暗闇に融けていた猫も同意した。
「そ、そうだよね、黒ちゃん……」
掻き乱される感情を茉世はおどけて誤魔化した。世によくあることなのだ。勘違い女、重い女、テレビにしろ雑誌にしろ、よく聞く投書ではないか。優しく真面目なこの人の手枷足枷になってはいけない。都合のい女、と返書ではよく挙がるが、それの何が不都合なのだ。恩を返すだけなのだ。そのまま生きていれば知らずにいたかもしれない感覚をくれた相手である。
「分かりました。そうします」
また湿度の高まる目元を開け広げ、唇を噛む。痛みは便利だ。甘美な残影を消す。
手に温かな手がぶつかる。
「ごめんなさ……」
躱した。咄嗟に謝った。手はまた茉世の手にぶつかりにかかり、指の狭間をくぐると、違う温度のもの同士を縫い合わせてしまった。
「えっ」
「一緒がいいです」
「んなーぅ」
永世が脇を見遣るのが薄らと玄関から入る光によって確かめられた。彼は猫を片手で抱き上げ、茉世の手を引いていく。
「永世さん……」
片足の痛みも忘れた。湿布だけが冷感を強め、足首の存在を訴える。
「なーう、なぅ……」
手が熱い。少し乾燥している。硬い皮膚感が分かる。涙を止められない。胸が潰れそうだ。嗚咽が喉で轟いている。
彼は茉世の自室に繋がる部屋を通り抜けてしまった。
「あの、」
「ぼくの部屋は、こっちです」
「んなーご、なーご」
猫の長鳴きが抗議のようだった。
永世の部屋に通され、手が離れていった。火傷したのかと思うほど、まだ体温がそこに残っている。
すでに布団は敷かれていた。飼猫るんが塒を巻いて、新たにやって来た1人と1匹を品定めしている。
「服を着ます」
「……はい」
彼女は目を逸らした。黒い猫が喉を鳴らして傍に寄る。
「足首を怪我されていたんですね。気付かず申し訳なかったです。畳では痛いでしょう。どうぞ、布団の上にでも座ってください」
「大した怪我ではありませんから……」
永世の着替える音がする。何度も出入りしたことがある。しかしこの部屋で彼が寝ているのだと実感すると、妙な焦燥感が湧きたった。
彼は着替えを終え、一人だけ布団に座ることを厭うたのか、布団を丸めてしまった。るんは逃げ出し、正座する人間の膝に乗った。タオルドライしただけの乱れた頭髪が普段の印象を変える。灰色がかった白いパジャマがまだ彼の清廉楚々とした雰囲気を残してはいるけれど。
「何か誤解していませんか。七堂さんの件ですか。彼女とは……」
「違います! その方のことではございません」
確かに永世に婚約者がいたと知ったときに苦い思いをしたことは否めない。
「では……」
世間的にまだ偏見があり、時代に取り残された三途賽川では尚のこと不都合な話である。何より茉世は、自身で上手く説明する自身がなかった。言葉選びもそうであるが、抑えきれない感情が、話を途切れさせるのだろう。
「そ、それより永世さん。蘭さんに青山さんのこと、忠告してくだ、―」
「青山さんの話は聞きたくないです」
「すみ……ません」
無言。
無言。
無言。
何か言わなくてはならない。青山のことを弁解しなくては。しかしそれは拒否された。それでは何を語ればいいのだろう。
「……寝ましょう。すみません。夜中にする話ではありませんでした。お部屋まで送ります」
「待ってくださッ、……」
立ち上がりかけた永世を、茉世は膝立ちで引き止めようとした。足首に痛みが走り、バランスを崩す。慌てた顔が見えた。彼は茉世を支えようとした。しかし足の置き場には不貞腐れた様子のるんがやって来る。
「茉世さんッ!」
茉世は後ろへ手をついて、転倒を防いだ。鼻先の触れるところに永世がいる。焦茶色の瞳の中を覗いてしまった。体重を半分預けた手の甲も温かい。そして重い。蒸れる。白百合の香りに噎せ返る。甘やかな悪寒が走っていく。
「なぅう……」
毛尨が腕に纏わりつく。だが気にしていられない。
抑えられない。それは嘔吐だった。胃酸も胃の内容物も伴わない嘔吐であった。
「永世さんのこと、―……」
ところが彼女の声は襖の弾かれる音に消えた。
眼前にあった永世の顔付きが変わった。背中に腕が回り、襖とは反対の庭側へ向いた。抱き竦められている。彼女の思考は停止してしまった。彼の胸に頭を強く押し当てられ、早鐘を打つ鼓動が伝わる。
溜息が聞えた。長押を掴みながら、鱗獣院炎が呆れた顔を覗かせる。
「ンだよ。あんたか。例の件かと思っちまった」
「鱗獣院さん」
噛みつかんばかりの永世の態度に茉世はぎくりとした。
「あ?」
鱗獣院炎はさらに中へと踏み入って、茉世の姿を認めると、厚みのある口元に苦々しい微笑を浮かべる。
「深夜の逢引を邪魔しちまってたワケかぃ。悪かったよ」
「……起こしてしまったようで」
「ガチギレじゃねーか」
「いいえ。ちょっと驚いてしまっただけです。すみませんね」
技でもかけるようなすばやさで抑え込まれていた茉世は解放された。一瞬だけ、身体が冷気と乾燥を感じた。
「じゃ、まぁ、ほどほどにな」
垂れ目はそれから黒い猫を捉えた。
「ヘンタイストーカー猫はオレ様が連れていってやるよ」
「あ、あの、わたしも行きます……」
「は?」
鱗獣院炎は訳の分かっていない様子であった。垂れ目を丸くして、永世と本家の嫁を見比べている。
「あんた、そんなにこの猫大事にしてたっけ」
「い、いいえ……そろそろ寝る時間ですから」
茉世はのっそりと鱗獣院の傍に立った。
「"いいえ"って、まぁ、可哀想なやっちゃ」
黒い猫を捕まえた大男は、柔毛に頬擦りする。
「おやすみなさい、茉世さん」
「おやすみなさい……」
顔が見られない。夏が終われば永世は帰っていってしまうというのに。襖は鱗獣院が閉めた。
「炎さんのお部屋はどちらですか」
「そこ」
永世の部屋の斜向かいである。廊下を挟んでいるが、会話や物音は聞こえるのだろう。
「うるさくしてごめんなさい」
「別にうるさくはねーケド。オレ様が直々に部屋まで送ってやるよ。感謝しな」
大きな掌が頭に乗った。
「大丈夫ですよ。すぐそこですし……」
「ふん。オレ様の善意は受け取っておけ」
「んなーぉ」
「スケベ猫もそうしろってよ」
鱗獣院と共に部屋へと戻る。明かりが点けられる。布団を前にすると、白黒つけるべきであったのか……胸の痞えについて決着すべきだったのか、後悔が滲み出てきはじめた。あのキスに意味などないのかもしれない。
物思いに耽っていると、逞しい指が彼女の頬を押す。
「邪魔しちまったこと、キレてる?」
鱗獣院炎がいたことも忘れていた。
「いいえ……邪魔されただなんて、全然思っていませんし。むしろこちらこそ、起こしてしまったようで」
「それはいい。気にすんな。ちょっと三途賽川も、厄介なもの抱え込んじまったんでね。若干ナーバスになってんでさ」
それが"例の件"であろうか。永世の険のある語気が引っ掛かる。しかし女に知らせるものではないのだろう。首を突っ込んでも仕方がない。はぐらかされるのは目に見えている。
「蓮ニーサマいないならオレ様が茉世の隣に来ちまおうかな」
「どうぞ……目覚まし時計がうるさいかもしれませんけれど」
脚に身を擦り寄せていた金色の双眸と目が合う。
「んなん」
黒い猫の声は掠れている。
「いンや、オレ様の鼾と歯軋りの音色で眠れなくなっちまうのは茉世のほうだよ。じゃ、二度目だけどおやすみ。オレ様の夢みろ」
頬に、背を屈めた大男の唇が当たった。
「おやすみなさいませ」
鱗獣院炎は顔も見せずに背を向けた。茉世は柔らかな感触の残る頬を擦る。
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