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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 58

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 落ち着いた話し声が聞こえる。
『あの場であなたを解放するべきではありませんでした。そのお怪我はひとえにぼくの責任です。申し訳ございませんでした』
 茉世まつよは目蓋を持ち上げた。クーラーの微かな唸り声と冷えた空気が心地良い。しかし濡れた髪が冷え切っているのは不快だ。隣室から聞こえる声も、おそらく彼女の意識を現実へと引き戻した。この部屋には電気が点いていたが、隣の部屋は暗かった。
『―蓮さん』
 蓮は不在だ。家出をしたまま帰ってこない。車を置いて、財布もスマートフォンも置いて家出した。ペットのどんぐりも置いて。落胆した。檻の中の小さなハムスターは狩猟にいくこともできず、野生で生きていくこともできまい。否、もしかしたら任されていたのかもしれない。茉世はそういうことにした。完全に人を見限るのにも気力が要る。
『重ねてお詫びするしかありません。お二人の間を邪魔するつもりはないのです。ただ、もう少しだけ……』
 茉世は頭上、隣室の密やかな声を聞いていた。三途賽川さんずさいかわの放蕩息子は帰ってきたのだろうか。
『なぅん』
 猫が鳴いた。飼猫るんの声ではなかった。
『もう少しだけ、傍にいさせてください』
 それは愛の告白に似ていた。切ない響きを持っていた。茉世はまだ茫然とする頭の中で考えた。蓮の声はなかったし、他に気配はなかった。猫に語りかけているのだ。声の主は、猫に語りかけ、代わりに恋慕を打ち明けているのだ。永世は蓮のことが好きだったのだ。辻褄が合う気がした。永世は家の命に従って自分と肉体関係を結んだに過ぎないのだ。そこに気持ちは関係がない。務めである。身売りする女よりも、妊娠の心配がなく腕力も勝る男ならば、潔癖症でもない限り、その精神的な難易度は下がるのであろう。
 茉世は電灯を凝らしながら視界を滲ませた。遊ばれていた。否、遊んでもらっていた。鱗獣院りんじゅういんだんの冷やかしの意図をやっと理解した。初めて優しく触れ合った異性に浮かれていた。18歳の高校生の指摘を素通りしていた自身が恥ずかしくなった。
 男はすぐに割り切れるものである。青山藍にされた仕打ちを思い返してみよ。三途賽川の家訓を思い出してみよ。
 優しい永世は務めゆえに抱いた主家の嫁を厄介に思っていたに違いない。だがその気質、立場のために無碍むげにできなかった……
 涙が眦を通っていく。今聞いたばかりの声が耳に張り付いてしまった。恋をする者の声だ。そしてその対象を蓮だと言っている。その口が。聞かされているのは猫であるけれど。何かしらに声を発し、語りかけるまでに思い詰めているのだ。
 茉世は永世とのやり取りを思い起こした。邪魔をしていたかもしれない。蓮の気持ちが誰に向かっているのかは分からない。隠れ蓑にされていた可能性も否めないのだ。産めよ殖やせよの三途賽川が同性愛を赦すはずがない。
 人とは二面性を持っているものだ。責める気はなかった。怒りもない。ただ、胸が苦しい。
 隣の部屋から永世がやって来る。茉世は寝返りを装って布団に潜った。そして気付く。何故自分は布団の中にいるのか。夕食は何を食べた? 布団は誰が敷いた? 何故髪が濡れている?
「にゃん」
 永世の後に続いて軽げな体重も畳を跳ねて近くにやって来る。布団が重くなり、額の辺りに柔らかな毛が当たる。重低音と振動が今は耳障りに思える。
 さらに部屋の奥からまた別の足音が増える。
「まだまっちゃん、起きない?」
 御園生みそのう瑠璃だ。
「はい。とりあえずぼくがここにいます」
「じゃあこれ、久遠くおんが食えば。まっちゃんの新しく握ってくる」 
 彼女は起きるタイミングを見失っていた。
「すみません」
「ちゃんと食えよ」
「はい……」
 御園生の足音が遠ざかっていく。永世はその場に留まったはずだが気配はなかった。起きるに起きられない。顔を見たら困らせる気がした。永世には済まないことをしたのだ。布団の中で顔を覆った。胸が痛い。永世は哀れな男だ。そして彼の優しさにしかかってしまった。身の程を知らなかった。蘭の妻である。蘭が夫婦の在り方について無責任なほど寛容であったとしても、夫婦なのである。夫以外の男に惑っていられる立場ではなかった。
「茉世さん……ごめんなさい」
 嗚咽を殺す。謝られたくはなかった。むしろ謝りたかった。誰にも愛されない。愛したことがないからであろうか。すべて勘違いだったようだ。男女の間に愛情などないのではあるまいか。あるのは作りの違う肉体だ。
 実の両親からも愛されなかったのだ! 何故他者にならば愛されると思ったのであろう! やったことと言えば、優しさに甘えたことだけではないか。しかしそれでよいのだ。青山藍が異常なのではないのかもしれない。青山藍は素直なのだ。口にし、行動しているから異常に見えるのだ。青山藍の言動と行動こそ、世の男の標準なのかもしれない。
「なぅん」
 眼前に居座る猫が意味もなく鳴いた。御園生が戻ってきたのだろうか、また足音が近付いてくる。
「嫁はまだ起きねーのか」
 御園生ではなかった。鱗獣院炎だ。
「意識のねー相手に何かするなよ」
「当然です」
 そうなのだ。同性愛者なのか否かは分からないが、永世は蓮のことが好きなのだ。意識の有無に関わらず、何かすることはない。鱗獣院は気付いていないのだろうか。
「へっ、蓮ニーサマと違って倫理観があってよかったよ」
「鱗獣院さんにもモラルというものがあってよかったです。それで、何かご用ですか」
「随分と機嫌が悪ぃな」
 性的対象外の女が調子づき、その肉体に触れたからであろう。今ならば、茉世は鱗獣院炎の指摘する不機嫌の理由を言い当てられる。蓮は悪くない。が、今後、彼に今までどおり接することはできない。永世の片想いなのか、将又はたまたすでに関係が成立しているのであろうか。三途賽川に飛び込んできた女は都合のよい隠れ蓑であっただろう。蘭も鱗獣院も信じ込んでいるではないか。世間一般の価値観は分からない。しかし三途賽川ならば、同性愛よりも兄嫁に横恋慕している設定のほうが損失は軽いようだ。
 嗚咽を殺す。しかし哀しみは氾濫する。遊びではなかったつもりなのである。両親にすら愛されなかったが、その他の人間から受け取った優しさを遣り繰りして、愛情というものを知っていたつもりなのだ。それを受け渡したい相手がいた。渡したつもりだ。だが偽物だ。盲目であった。金塊を渡したように錯覚していた。けれども曇った眼を洗ってみれば、それは汚泥に過ぎなかった。プレゼントも渡された側が不要なものだと判断すれば塵芥に等しい。独り善がりの自己満足であった。否、それが精々なのである。所詮、人を愛する能がない人間なのだ。見誤った。勘違いをした。永世に付き纏ってしまった。青山藍と同じなのである。青山藍を拒む立場になかった。
 怒涛の哀しみが押し寄せる。そして己に対する不信が。将来に対する不安が。永世に対する申し訳なさとともに。
「にゃぅうん」
 真横の猫が立ち上がる。泣き噎いだのを聞いたらしい。
「にゃぁ、」
「なんだ?」
 布団が剥がされる。茉世は咄嗟に顔を隠した。鱗獣院炎は布団の端を放り投げ、彼女の腕を取った。
「泣いてんのか、茉世」
「ちが……います、違います………っ」
「怖い夢でみちまったかー。可哀想に」
 鱗獣院炎は彼女の腕を引いて、逞しさを超越した腕と豊満な胸板のなかに閉じ込めてしまった。ココナッツミルクの匂いが膨らむように鼻腔を通り過ぎていく。
「鱗獣院さん……!」
 永世の手が鱗獣院炎の俵のごとき太腕を掴む。
「あっはっは。オレ様のおっぱい好き
なんだろ? 揉ましてやるよ。吸ってもいいぜ」
 新しい着流しが手に入ったらしい。見慣れない柄であった。生地も堅い。はだけた胸から、意識のぼやける甘い香りが醸し出されている。弾力のある胸板に頬擦りする。悲しみは拭いきれないが、安堵する。
「茉世さんを放してください」
 彼は優しいのだ。勘違いしてはならない。本心をどうにかしても家に従うつもりなのだ。残酷な男だ! しかし憎めはしない。恨めない。済まなさと憐憫が湧き出るばかり。
「ほらよ」
 鱗獣院炎は茉世を放り投げた。茉世の身体は大きく揺れた。布団に投げ出されるはずだったがそうはならなかった。脱衣所で身を委ねた質感と、引き締まった薄い胸板を感じる。ホワイトフローラルの香りが漂う。しかし茉世にはまだ状況を呑み込めない。
「危ないじゃないですか、鱗獣院さん! 茉世さんは具合が悪いんですよ。なんてことを」
「ンでもお前が受け止めただろうが」
 雑な大男の一言で彼女は永世の腕の中にいることを知った。切ない胸の痛みが亀裂のように入っていく。目頭が沁みる。眼球が熱い。永世の顔を見ることはできなかった。突っ撥ねてしまう。鱗獣院炎の前であった。散々、彼のことを利用したのである。彼の禁じられた恋慕を糊塗しなければならない。協力しなければ。それが償いのはずなのだ。美しき建前! だが納得しきれない。
 大粒の涙が溢れ出る。
「茉世さん……」
「ごめんなさい、わたし………ちょっと、頭を、冷やしてきます。ごめんなさい。でも大丈夫ですから……ちょっと貧血気味で……ちょっと……」
 風呂に入った覚えがある。部屋に帰ろうとして、気持ち悪くなったのだ。夕食を摂った覚えも、布団を敷いた覚えもないのは当然であった。食べていなかった。敷いてもいない。髪が濡れているのは乾かしていないからだ。
「十分冷えてんだろ。ってか冷やした」
 立ち上がる。足首に稲光が走る。崩れかけるのを、鱗獣院の太い腕が支えた。
「トイレです、トイレ……」
「なぅうん」
 黒い猫が後を追う。だが大きな手がその尻尾を掴んだ。
「んに゛ゃーお」
 茉世は叫ぶ猫を一瞥したが、構わず廊下へと出ていった。曲がり角から御園生がやって来る。彼女は立ち止まった。足首を引き摺るのをやめた。御園生の手には握り飯の乗った皿と漬物の小皿を並べた盆がある。
「あれ、まっちゃん……」
「ん、るりるり……」
 目元を拭う。そして先手を打った。
「ちょっと目にゴミが入っちゃって。さっき取れたんだけど……」
「マジ? 目薬貸そうか?」
 彼女は首を振った。笑みを繕う。
「だいじょーぶ。ありがとね」
「あんまほっつき歩くなよ。よく水飲んでな。飯、部屋に置いとくから」
「心配かけてごめん。ほんと、ありがと」
 知己の心遣いが胸に響く。
「ま、気にすんな。困ったときはお互い様だ」
 否、一方的に助けられている。だが掘り返していい気分になる御園生ではない。
「うん、ありがとう!」
 茉世はその足で玄関を出た。引戸を閉めた途端、屈んでしまう。顔を両手で覆った。
「う………ぅぅ、…………ぅぅ」
 止め処なく涙が溢れ、喉が熱くなった。顔中が熱い。中学や高校、大学で知っておくべき体験なのであろう。他者の心が思い通りにならず泣く。子供だ。
 蓮が嫌だ。蓮が羨ましい。蓮が嫌いだ。蓮が憎い。しかし理不尽なものだ。的外れだ。浅はかだ。蓮も永世も何も悪くない。勘違い女がすべて悪い!
「悲しいよ………」
 口に出していた。指の間から水滴が落ちていく。悲しみだけではない。恥ずかしさもあった。勘違いした。己の興味を曝け出してしまった。後悔が形を持って浮き上がってくる。
 玄関前の電灯が消えた。音が消える。茉世は異変に気付き、頭を上げた。髪に手が乗る。薄く軽い。男の手とは思われなかった。
「なんで、泣いてるの」
 茉世は手の持ち主を見上げた。顔の作りは蓮であった。だが線の細さは女性である。 
「ちょっと……勘違いしちゃっ、しちゃいまして………」
「勘違い?」
 じんは茉世の前に屈み、目線を合わせる。不気味なほどの美青年に酷似した妹もまた不気味なほどの美少女だった。しかし彼女には愛嬌がある。
「ちょっと優しくされたからって、だめですね、勝手に都合のいいふうに考えちゃ……」
「ふぅん」
 彼女は茉世の肩に手をかける。線香の匂いがした。唇が柔らかく包まれる。
「ま、あたしの優しさは都合よく受け止めていいけどね」
 隙のない美貌が眼前にある。見惚れてしまった。その唇に吸われたことも忘れていた。だがふと、その面構えに男の顔を見出すと、胸が張り裂けそうになった。
「ありがとうございます……」
「嫁さんひとりで泣かせて、あのグズどもは何してる?」
「わたしがひとりになりたくて、出てきただけですから……」
「でもあたしは傍にいる。いさせろ。現世そっちにはもういないんだし、ノーカンだろ」
「でもあんまり、そんな感じしないです。立派ないい嫁にはなれませんでしたけれど、尽さんのこと、義妹いもうととして見たいです……」
 茉世は涙を拭いた。いつでも会えるわけではない義妹がわざわざ姿を見せたのだ。泣いている場合ではない。蓮のことはよく分からず、禅には忌み嫌われてしまったが、りんばんのように打ち解けたい。
「えっ、じゃああたしもどっか行ったほうがいい感じ?」
「それは違います! 来てくださって嬉しいです。気分転換になりますし……泣いてる場合じゃないですよね……ごめんなさい」
 建前だ! 愛しているつもりだったとは建前なのだ。勘違いをしていたのだ。愛しているのならば、何故あの者の秘められた恋路に傷付くのだ。何故、無私にならないのか。我欲を曝け出すのか。結局
は愛しているつもりでしかなかった。所詮は無償の愛を知らない女なのだ。知らないものを持ち合わせる能もまたなかった。見返りを求めるのならば欺瞞だ。条件付きの情愛を劣後して見るならば、この気持ちは吐いて捨ててしまうがよい。
「別に、泣きたけりゃ泣けば? 我慢してどうする。真空パック理論さ。空気を抜かなきゃならねぇのよ、感情をな。つまらん生産者だよ、健やかなる人間様ってのは」
 ステッカーでも貼るかのような不器用で、彼女は茉世の頭を撫でる。もはや、掌を当てていた。
「鱗獣院のクソ坊っちゃん、あたしの1コ下なんだけど、自白させる交霊術持ってるからさ、あたしも試してみよっかな。そしたらネエサンの本音、全部吐き出させてやれるんだけど?」
 茉世は首を振る。軽やかな所作だった。
「くだらないことです。本当にくだらないことで……分け与えてくれた優しさを都合良く受け取ってしまっただけなんです。ストーカーみたいですね、わたし。嫌だな」
「蓮ニーサマの話みたい」
 蓮が不在で良かった。否、彼が不在だからこそ、知ってしまえたのだろう。幸か不幸か。前者だ。もう気は遣わせないよう立ち回れる。いいや、いいや、後者だ。甘美な毒を啜っていられたというのに。
 その名前を聞くと、胸に風穴が空いたようなのである。
「そろそろ戻ります。自分の話ばかりしてしまってごめんなさい、尽さん」
「いいよ、あたしのことなんか気にしなさんな。抱き締めてやろうか?」
 ほっそりとした長い腕を開き、尽は小首を傾げる。
「ありがとう、尽さん」
 同性のその華奢な胸元に身を預ければよかったが、茉世はそのやり方をよく知らなかった。茉世からも腕を回す。細い。腕を何周も巻き付けられそうである。それでいて柔らかな肉感もあった。ただ、一定して変わることのない線香の匂いが物悲しかった。このむすめはやはり……
 玄関が開いた。引戸の軋りが鼓膜を轢き潰すように耳障りだった。茉世は泣き腫らした目を向けた。蘭が立っている。青黒い夜に、暖色の電灯が差し、明るい茶髪と三角形の耳が炙られている。
 尽の姿はもうなかった。
「忌み地の気配がしたよ」
 蘭は微笑を浮かべた。泣き腫らした目について言うことはないようである。茉世もまた問われたくはなかった。
「……そう、ですか………」
 茉世には知らない家の事情である。忌み地云々についても、妹との関係についても。
「さっきはごめんね。お風呂入ろうとしてたのに、野暮用を頼んだりして……」
「そんな……家の案内くらいしか、わたしにはできませんから」
 俯いていると玄関の外灯が消えた。消えたのではなかった。視界が翳ったのだ。腰に回った腕に押される。着流しの乱れた衿の狭間に頬がぶつかる。大雑把な手が背中を摩った。霖や禅もそうされて育ってきたのだろう。子供扱いされている。だが嫌ではなかった。むしろ心地良かった。
「蘭さん……」
 しかし無邪気に甘えるにはつみが多い。茉世は蘭を押しやる。けれども蘭の力も強かった。
「戻ろ」
 背中を撫で回した手が跳ねる。軽く叩かれ、玄関へ促される。茉世は中へ入っていったが、蘭は庭を見回していた。
 茉世は上がり框に足を乗せ、体重をかける。また足首に稲光があった。
「痛ッ……」
 咄嗟にうずくまる。庭を見ていた蘭が気付いた。
「どうしたの、茉世ちゃん。足、捻った?」
 玄関を閉め、鍵を掛けてしまう。茉世は足首を摩って、引戸を見遣った。
「あの、蓮さんが帰ってくるんじゃ……」
 慌てながら傍にきた蘭と視線が搗ち合う。何かおかしなことを言ったらしい。蘭の目が泳いだ。あの義弟は家の鍵も置いていったのだ。
「あ……えっと………そうだね。じゃあ、寝る前に開けておくよ。それより茉世ちゃん、足首みせて」
 茉世は膝裏に何かが当たり、前へのめった。足が床を離れ、身体が浮く。上体が大きく揺らめき、咄嗟に凭れかかったのは蘭であった。蘭に抱き上げられている。
「蘭さんっ!」
「暴れないで。落ちちゃうから」
 彼は茉世を茶の間へ運び、ソファーへ座らせる。彼女の前にひざまずき、足首の様子をみていた。
「ただ、ちょっと捻っただけで……折れているわけじゃ……」
 大袈裟な扱いに、彼女は気恥ずかしくなってしまった。
「とりあえず今は湿布貼っておこうか。痛みが強くなったらまた言って」
 彼は腰を上げ、救急箱を探す。ソファーに座り、この男尊女卑の家で、夫が働いているのを目で追っていた。開け放していた出入り口から四つ足の小動物が現れ、ソファーに近付いてくる。白い猫であった。座面へ跳び、ヒトの腿すらも座るところだと認識しているらしい。茉世の上に落ち着いてしまった。撫でてみても喉を鳴らしはしなかった。尾を左右に振る。 
「邪魔だった?」
 柔らかな毛を撫でる。茉世の呟きに蘭が振り向く。救急箱を手に戻ってきた彼はは白い猫を横にやった。
「るんちゃん、ダメでしょ。茉世ちゃんの上乗っちゃ、めっ」
「ありがとうございます。黒ちゃんの匂いがついちゃったのかな。あんまり懐かれてなかったはずなんですけど」
「だとしたら余計に嫌がるんじゃないかな。るんちゃんは気紛れだから」
 家主が頭を撫でれば、横柄な白猫は目を細め、重低音を鳴らした。
「明後日、また青山さんが来るんだケド、大丈夫?」
 救急箱のなかの草臥れた湿布のケースを所在なく凝らす。素朴な手がジッパーを破り、湿布を取り出している。
「わたし………その、あの……何か、不手際がありましたか………」
 蘭の前で青山藍と接触したのは初めてのはずだ。ほんの短い間のことである。それを何故、特別なことのように訊ねるのか。
「え? ないよ、何も。でも、永ちゃんが、茉世ちゃんが怖がってそうだからって言ってたから。確かにちょっとイカツい見た目してたもんね。だからおうちの中だけど、2人きりにしちゃって悪かったなって」
 永世の名前に、身体が震えた。背中に氷を詰められたかのような気分になった。
「そうなんですね。ちょっと……あまり関わりのあるタイプではありませんでしたから……すみません。お客様に対して……」
「謝ることじゃないよ。得意不得意はあるし」
 湿布を切り、フィルムを剥がす。
「貼るね」
 茉世は頷いた。直後に冷感が疼痛を包む。
「お手数をおかけしました」
「何言ってるの、これくらいのことで」
 優しい夫なのだ。
 茶の間にまた足音が加わる。衿元から覗くぱんっと張った胸を掻きながら、大欠伸をして入ってきたのは鱗獣院炎。
「随分長いトイレだと思ったらここにいたんけ。オレ様は寝るぜ。ガキは寝る時間なんでね」
「うん、おやすみ、炎くん」
 鱗獣院炎はソファーに座る茉世をしげしげと眺めた。
「なんかあったんか?」
「足首を傷めちゃったみたい」
 代わりに蘭が答えた。
「仕方ねーな。オレ様が布団まで運んでやるよ。いいよな、蘭ニーサマ? 異論は? ねーよな?」
 蘭はきょとんとしていた。
「う、うん。炎くんのほうが力持ちだもんね。そのほうが安全だし。茉世ちゃんを頼んだよ」
「自分で帰れます。お気持ちだけ……炎さんは寝てください。子供は寝る時間なのでしょう? 折れているわけではありませんから。ご心配おかけしました」
「んなーぉ」
 3人の視線が一斉に同じところを向いた。茉世の横に居座る白い猫の鳴き声ではなかった。るんはとぐろを巻いて寝ている。
「ストーカー猫」
 大男に罵られるのも構わず、負傷した片方の前足を上げて、茉世のほうへ跳ねて歩く。
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