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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 52
しおりを挟む珍奇な訪問者を追い返すための方便だと思っていたが、鱗獣院炎は茉世を外へ連れ出した。日差しはまだ強い。長い石段を下り、着流しに不釣り合いな革靴がアスファルトを叩く。茉世は新品のサンダルで後を追う。履き慣れていない硬い芯が軋む。
反対側から自転車に乗った高校生が並列して通り過ぎていった。男女であった。互いに知らない様子ではなかった。むしろ睦まじい仲に見えた。片手でアイスキャンディを咥え、片手で器用に操縦していた。
鱗獣院炎の垂れがちな目が自転車の男女を追い、しまいには首まで動いた。その横面を茉世は見ていた。角膜が先日にテレビで観た水餅のようであった。
「知り合いでしたか」
制服はまったく違っていた。
「いンや。全然知らねー。危ねぇなって思っただけ」
確かにカーブになっている。見通しはよくなかった。スピードを落としていたようにも見えなかった。
「カップルですかね」
「オレ様には縁のない青春ってやつだわな」
「学校でも、そんな感じなんですか」
鱗獣院炎は不快げに茉世を一瞥した。その表情だけはそこはかとなく若い。
「"そんな感じ" とは?」
「……堂々としている、というか……若い先生より貫禄があるでしょう?」
彼は鼻を鳴らした。
「物は言いようだな。オレ様が横柄で偉そうで威張り腐ったナルシストだと?」
「い、いいえ……あの、その……」
「オレ様もそんなあっちこっちで違う態度ができるほど器用じゃねーよ」
見た目があまりにも大人びている以外は、艶福家の要素は備えているように思える。しかし高校生女子も愚かではない。強引な異性に惹かれるものか。否、この高校生は強引だが、それを通してしまえる説得力がありそうなものだった。高校時代に同じクラスであったなら、茉世も気にはなっていたかも知れない。
「ンで? オレ様がこんなだから青春が遠いと、そう言いてーの?」
ふいと横を向いた様が、「鱗獣院炎」らしくなかった。
「えっ………い、いえ! ただ、どんな高校生なのかな……って大人っぽいから想像できなかっただけです」
「このまんまさ。生徒会長やってる」
その厳つい雰囲気は現代の30代男性でも醸すことは難しかろう。しかし所詮は20年も生きていない子供だ。
「生徒会長ですか? すごいですね。じゃあ、生徒のなかで一番偉いんだ」
「別に、生徒のなかで一番とかねーけど……でも、成績も一番……」
鱗獣院炎の声がわずかにか細くなった。急に頬を赤らめて、顔を逸らした。
「生徒会なんですか? すごいですね。生徒会なんだ。でもなんとなく納得できます。生徒会選挙とかしたんですか」
「……いいだろ、別に。茉世は? どんな高校生だったんだよ。どうせ地味な陰キャだろ?」
「そのとおりです。青春とか甘酸っぱい思い出とかなかったけれど、楽しかったな。派手に遊んだわけでもないですから何が楽しかったのかすぐに浮かんではきませんが、でも楽しかったです」
炎は厚みのある唇を波打たせる。
「可愛かったって蓮ニーサマが言ってたぜ」
「え゛」
「嘘。聞いちゃいねーが、顔が言ってた。鼻の下伸ばしてよ。あんな表情初めて見たぜ。蓮ニーサマとオレ様は"性の目覚め"ってのが遅かった。オレ様も蓮ニーサマも高校入ってから。茉世。あんたで"目覚め"たみたいだぜ。昔は初潮が来れば赤飯が炊かれたらしいが、三途賽川は逆だ。バカ息子が精通したらその日はミルク粥。気持ち悪ぃだろ」
「そ、その……なんて言ったらいいか………」
「キモッて言え。女の口癖。まぁ、実際キモいから仕方ねーよ。あんな美貌してオナ猿だからな、蓮ニーサマは。ヘタなセックスするよりも、あんたの猥褻な妄想して夜毎身悶えるほうが趣味なのさ。一体どんな美少女だったんだ、茉世サン? あのイケメンを悩殺したなんて」
今度は茉世が顔を背ける番であった。
「し、知りませんっ!」
「ンでもま、クラスにいたら好きになってたかもな、フツーに」
厚みのある唇は弧を描き、垂れがちな目は眇められているものと思っていた。けれどもおそるおそる見遣った鱗獣院炎のその面構えに揶揄はない。
「え……?」
「茉世のこと」
わずかに彼は顔を向けた。ほんの一瞬、視線が搗ち合わされる。咄嗟に逃げてしまった。落ち着きなく彼女の目が泳ぐ。
「えっと……」
今になって、厚い唇が弧を描く。
「ほら、可愛い」
太い指が、茉世の柔肌を突つく。
「もう! 大人を揶揄って!」
高校生は口角を持ち上げ、白い歯を見せた。
「危ねーぜ」
おどけたまま低い調子で彼は言った。大きな力に肩を引かれ、白線の内側に余裕を持って放られる。車が後ろを通った。九死に一生を得たというほど危機の迫ったものではなかったが、運転手側からすれば不安材料ではあったかもしれない。
「車道側を歩かない男は、ダメだよ」
しかしそう言った鱗獣院炎は茉世を車道側に立たせている。
「でもオレ様は子供だから」
彼はまだ蝉の鳴き喚く雑木林の横を通っていく。半ばトンネルのように木々や蔦が好き放題伸びている。
辿り着いたところは神社だった。猫の集会所になっているらしい。様々な柄の猫が一斉に不届きな参拝者に金色だの琥珀色だのの目を光らせた。
「"黒ちゃん"のお仲間がいっぱいだ」
「この地域って野良猫が多いんですね」
「忌み地には神隠しがつきものだからな」
茉世は若獅子のごとき顔を瞥見した。鱗獣院炎も茉世を見ていた。視線が合う。彼女は首を傾げた。
「神隠しが多いと猫が増えるってことですか? 飼い主がいなくなるから……?」
「茉世チャン、てんさーい。頭いいってよく言われるっしょ?」
大きな掌が頭を撫で回す。そして社のほうへ歩いていく。訝しげな面構えの猫たちが道を空けていく。
「忌み地はこの神社も食っちまったな」
とても信仰心があるとは思えない態度が、煤けて草臥れた鈴緒を揺らす。鈍い音がした。
「どういうことですか」
「ここの猫が増えるってこった。ま、人間なんて消え失せて、猫大国になっちまったほうが人間にとってはいいことなのかもな。人間なんざろくでもねぇ」
大男は気紛れに腰を落とし、寛ぐ猫を呼ぶ。猫は起き上がり、身を擦り寄せるのかと思いきや足早に去ってしまう。
「忌み地の力が強くなってる。ってことは三途賽川の力が弱まってるってこった。人は陰気になって自分で死ぬか、人殺すかするだろうよ。一人ひとり病んでいくのだろうさ。幻覚をみるかも知れん。ま、ダイジョーブなやつはダイジョーブなんだろうが、往々にしてそういうヤツは色々と終わってるのが多いもんだ」
「三途賽川の力が弱まっているのは……」
まだ逃げていない猫を大きな掌が捕まえた。鳩でも抱くような所作であった。老猫らしかった。配色の綺麗な三毛猫である。
「あんたの所為じゃねーよ……と言いたいところではあるが、まぁ、半分は、跡継ぎ問題も関わってくる。ンでも、それだけじゃねーのもガチ。」
太く長い指が少し硬そうな毛を撫でた。
「かわいいな、お前」
三毛猫は首を伸ばし、喉を撫でさせようとする。茉世は小動物と戯れる高校生を眺めた。白い毛は砂埃によって茶色を帯びていたが、構わず彼は頬擦りする。垂れがちな目が眇められる。嘲笑とは違う笑みが口元に浮かべられている。若さがあった。
「きゃわたん」
三毛猫は鱗獣院炎のファンになってしまった。地に置かれても、その脚に擦り寄る。狭い頭頂部を細かい作業でもするように大きな指が撫で回す。驕慢に、横柄に居丈高に振る舞っているが、やはりまだ高校生なのだ。その高校生らしさは三途賽川一族によって圧潰されたわけではないのだ。ふと茉世は、先程の自転車の男女の2人組を見ていた横面を思い出す。
「近くにコンビニがあるでしょう。アイスでも食べて帰りませんか」
「オレ、持ち合わせねーんだけど」
「わたしがあります。あんまり高いのはムリですけど……」
言ってしまってから、茉世は自身が鱗獣院炎にどう思われたのか察した。
「絆さんがMeloca貸してくださいましたし、蘭さんが霖くんのお弁当代のお釣りはお小遣いにしていいって……」
金に困って青山藍に身売りしていたわけではないのだ。置かれていった金は返すつもりなのだ。絆から交通系ICカードを渡されているし、蘭からは霖の弁当の材料費にしては少し多めに金を渡されている。コンビニエンスストアのアイスキャンディの1本や2本なら買えないこともない。
鱗獣院炎は三毛猫に別れを告げていた。
「じゃあ、お姉さまの奢りに期待していいわけだ?」
「は、はい……」
高校生は笑っている。だが柔和であった。年長者の表情だった。
「ソーダ味のアイスが食いてぇな」
「じゃあ、行ってみましょう」
神社を出て、三途賽川邸から反対へ進むと、茉世の記憶のとおりコンビニエンスストアがあった。鱗獣院炎は青い包装のアイスキャンディーを、茉世はグレープ味のアイスキャンディーを買った。袋を剥いて、齧りながら帰る。
「蓮さんが見たら、きっとはしたないって言うんだろうな……」
三途賽川の嫁が下品な真似をするなと言うに違いない。だが口にしてから、蓮という人間が変わってしまったことを思い出す。しかしまた同時に、あの変わりようを信じていいのか分からないでいた。疑ってもいるのだった。第一印象が茉世を意固地にする。
「はんっ、言わねーさ。"アイスじゃなくて俺の股間のホットキャンディーを舐めてくれ"って言うに決まってらぁ」
鱗獣院炎は蓮の口振りを真似た。声をしっとりと濡らして吐息を含め、抑揚を少なくしている。似せようとしているのは伝わったが、声質の違いを考慮しても似ているとは言い難い。
「コカンノホットキャンディー……」
茉世は訳が分からず復唱してしまった。熱い飴ならば溶けてしまう。彼女にアイスキャンディーを齧っている意識はなかった。彼女は「ゴリグリくん」を齧っているという認識であったし、「ゴリグリくん」はアイスバーと分類されていた。
「はっはっは」
大きな手にはアイスキャンディーの棒切れなど爪楊枝であった。食べるのが速い。茉世はまだ半分も食べ切れていなかった。開けたときは白けていた赤紫色の表面が今では色を濃くしている。鱗獣院炎は満足げであった。涼やかな音が頬袋のなかから聞こえた。 あの自転車の男女2人組を見ていたときのかぎろいはもうなかった。相手は高校生であった。だが茉世はそうではない。互いに高校生でなければ意味がないのかもしれなかった。封じられた若さゆえの青苦い思い、異性との駆け引きの甘酸っぱさ、塩映さ、泥臭さ、他にもあるだろう。それらを味わい、分かち合う相手は同年代でなければならないのかもしれなかった。
晴れやかに鱗獣院炎を見ていた。けれども徐々に彼女は俯き、しまいには爪先を凝らしていた。新品のサンダルが足を痛めつける。
「オレ様に見惚れちまうのも分かるけど、さっさと食わないと溶けるぜ」
「ち、違います!」
茉世は焦った。液体と化しはじめている赤紫を一口に食らった。
「ごちそうさま。ありがとな、茉世」
「な、なんですか……」
しかつめらしい表情と声音に彼女はたじろいだ。後退りかけもした。
「なんですか、って。常識的に奢ってもらったら礼言うだろ。逆に何だよ」
「なんでも、ないですけど……」
外方を向いた。近くを車が通る。走行音が、鱗獣院炎の言葉とぶつかった。
「楽しかった」
◇
1日経っても蓮は帰ってこなかった。家の誰も心配する様子はなかった。彼と入れ違いにやって来た黒い猫は居座ったまで、飼い主の情報は入ってきていないらしかった。鱗獣院炎も黒い猫と同様にして三途賽川に居座っている。鱗獣院炎は居間に寝転び、黒い猫はまたシャンソン荘に戻る機会を逃した茉世に付き纏う。
今日こそは戻るつもりでいた。だが出る直前になって客人があった。青山藍のガールフレンドだという。明るい茶髪を肩で切り揃えた小柄な女である。名は門町哥。カラーサングラスを掛けているが、服装や彼女の雰囲気には合わなかった。よろめいて歩き、身体をぶつけて歩く。
「大丈夫、ですか?」
茉世は声をかけた。三途賽川に用があるのならば、彼女はシャンソン荘へ戻ってしまってもよかったはずだ。ところがこの青山藍のガールフレンドは、茉世を頼ってきたのだという。そして青山藍本人はいない。
「ごめんなさい。アタシ、あんまり目、見えてなくて。何か壊したり、していませんか」
「それは大丈夫ですけれど……」
茶の間には、蘭の他に永世も物珍しげに集まってきていた。鱗獣院炎も長テーブルに頬杖をついて、とても客を迎え入れる態度ではない。
「うちを何かと勘違いしてんな」
鱗獣院炎がぼやいた。
「青山藍って、あの青山藍ですか……?」
永世は長テーブルについた若い女を無遠慮に眺めている。可憐な女だった。茉世は永世の、自分には向けられそうにない眼差しをはたから見詰めてしまった。胸がわずかに苦しくなる。靄がかかるようだった。
「A2GのA01だよ。ウチはいつから、芸能人御用達になったんだ?」
「オニイサン、A2G、知ってるんですか?」
「知ってるぜ、お嬢さん。毎週観てた。まさかショーン事務所が拾うたぁね。あそこ、ガチガチのアイドル路線だろ? A2Gって結構硬派で売ってたから意外だったね」
頬杖をついたまま鱗獣院は言った。平静を装っているようだが、その口振りにはわずかに熱が籠もる。
「その話、藍ちゃんの前でしちゃダメですよ。藍ちゃん、とっても後悔してるんですから。アイドル事務所に魂売らなきゃよかったって」
「でも売れたろ。A2G時代より知名度もあるだろ、今じゃ」
鱗獣院の垂れがちな目が、茉世を捉える。絆との確執について、この娘は知っているのかもしれない。
「それはそうなんですケド……藍ちゃん、すっごくダンスが上手いんでしょう? でも、アイドルにはそこまで求められてないし、周りがヘタに見えるから、藍ちゃんは手を抜けって言われたらしいんです。それで藍ちゃんはめちゃくちゃ怒ってて」
この娘は青山藍の話をしにきたのであろうか。否、彼女は青山藍が茉世に、ひいては三途賽川に宛てた手紙を持ってやって来た。そこには『まつよへ。おはらいをしてあげて』と丸文字で記してあるのだ。とても青山藍の手書きとは思われない、丸みを帯びて統一された書体で記してある。
茉世はこの場から去りたかった。青山藍のガールフレンドだと本人は説明したが、そのまま「女友達」という意味ではなかろう。茉世でいう、御園生瑠璃と同じような関係ではなかろう。哥の首には金色の細身のネックレスが掛かっていた。これと色違いの銀色のネックレスを見たことがある。
「それでは、あとは蘭さんたちに任せて……」
彼女は三途賽川一族たちを見渡して、茶の間を後にしようとした。自身の務めは、哥を長テーブルまで導くことだと決めてかかっていた。この娘の隣にいていいはずがない。青山藍との決して合意だったとは言い難い爛れた関係が、この娘の隣から茉世を弾こうとするのだった。
「待って、マツヨサン。マツヨサンがお話聞いていくれるんじゃないの?」
席を立とうとした茉世の手は、哥に握られてしまった。みかんを思わせるオレンジ色のネイルカラーがこの娘の血色によく似合っていた。
「あ……わたしは…………」
「特に用がなかったら居てあげて。女の子一人じゃ、心細いと思うし、おでたちは大丈夫だから」
蘭が言った。
「居てよ、マツヨサン」
「にゃうん……」
脚には、襖を開けることを覚えた黒い猫が擦り寄る。
「猫?」
哥が自身の周りを探す。茉世は猫を抱き上げた。誰もがこの生き物を好きなわけではない。
「ごめんなさい、黒ちゃんが……今、持っていきます」
「大丈夫ですよ。アタシ、お地蔵様を蹴っちゃったみたいで……そのときも猫の鳴き声がしたものですから。なんだかちょっと不吉かも?って思ったんですけど。でも別に、よくあることですよね。猫ってどこにでもいますもんね」
黒い猫は茉世の腕のなかで重低音を響かせていた。甘えた声で語りかけているが、人と猫。寛いでいること以外は分からない。
「地蔵を蹴った? まさか、それが相談内容かぃ?」
鱗獣院炎は相変わらず横柄な姿勢を崩さない。
「ですです。あ、くだらないとか思ったでしょ~? アタシ、目は悪いケド、顔見れなくても人のそういうのは分かるんだからね」
「人の気持ちが読めるってやつか? オレぁ信じねーぞ。大概あれ系は、人の気持ちを分かったつもりになってるだけの電波系よな。やめとけ、やめとけ。人の気持ちなんざ分からねーから成り立ってる社会もあんだよ」
「えぇ? でもマツヨサンのダンナサン。少なくともアナタが今、くだらなそうって思ったのは正解でしょ?」
哥は声の出処は判じていた。鱗獣院炎を向いている。
「え?」
蘭が呆気にとられている。茉世も脈絡を理解するのにわずかな時間を要した。
「藍ちゃんはマツヨサンのダンナサンは威張ってるカンジの人だって言ってたから、多分、アナタでしょ? 他の方々はそんなカンジしないし……」
鱗獣院炎は乾いた笑みを浮かべて蘭に目配せしていた。真の夫もまた右顧左眄、左見右見している。誰か事情の分かる者はいないかと……
「え? 蓮くんのこと? でも……」
三途賽川家で起こった痴情の縺れを、何故、この部外者が知っているのか。
「ッは! 贔屓目に見ても、蓮ニーサマは偉そうに見えるってかぃ」
まさか鱗獣院炎も、青山藍に吐いた嘘がここで巡り巡ってくるとは想定していなかったのだろう。蘭から逃げるように垂れがちな目を泳がせる。
「青山さんの勘違いです。わたしの夫はその人ではありません……」
「あら、そうなの? それは失礼。ここにいる? ごめんなさい。気を悪くしないでね」
鱗獣院は外方を向いた。いつの間にか居なくなっていた永世が茶の間に戻ってきて、缶の茶を配っていく。
「アナタがマツヨサンのダンナサン?」
テーブルに缶を置く腕が、オレンジ色が鮮やかな指に掴まれてしまった。茉世はぎょっとした。永世もまた肩を跳ねさせ、片腕に抱いていた缶が落ちていく。
「あらあら、またまたごめんなさい。マツヨサンのダンナサンによろしく言っておくように言われたの。だからよろしくお願いしますね、マツヨサンのダンナサン」
「あ……いえ………ぼくは…………」
「んにゃぅ……ぅぅ………んなぅ」
黒い猫も喉に連動し、震えた声で喋る。
「ほら、猫さんもそうだって言ってる。仲の良い夫婦は似るって云うじゃないですか。雰囲気が似てますもの。きっとアナタね?」
茉世は口を開いたまま固まってしまった。その確信を打ち砕くのが正しいのか、真実を伝えるのが正しいのか迷った結果、時機を逃した。
「全然、威張ってなんてないのにね。あっちのお兄さんのほうが藍ちゃんの言ってた人に近かったから、アタシ勘違いしちゃった。ごめんなさいね。アタシより断然目がいいのに、藍ちゃんったら節穴ね。でも自分ほどじゃないけど、背が高くてカッコよくて天然ボケなところにギャップがあるって言ってた。アタシの目が悪いのが惜しまれるわね」
哥は永世の腕を放さない。若く可愛らしい娘であった。髪も綺麗に梳かされ、服装も垢抜けている。声は静謐な森の潺を思わせ、 強気な態度にも嫌味がない。茉世は強張っている永世の姿に焦りを覚えた。
「ダメだぜ、お嬢ちゃん。人の旦那の腕をいつまでも掴んでちゃ」
鱗獣院炎は、この娘よりおそらく年下であった。だが年長者として徹するつもりであるらしい。そして彼は茉世を見遣り、意地の悪い口元を隠しもしない。
「確かに。マツヨサン、ごめんなさい。つい癖で。他意はないから。かっこいいっていうのは惹かれるところだケド」
「ヤキモチ焼いてら」
「や、焼いてませんし、それに……」
訂正する機会を得たと彼女は思った。だが次の言葉は蘭に奪われる。
「ま、まあまあ。で、お地蔵さんを蹴っちゃったのが不安なんだっけ?」
「ですです」
「請け負うよ。そういう不安を取り除くのもおでたちの仕事だから……」
茉世は真の夫の横面を見詰めてしまった。親友としてやっていくのだ。だが世間的にはそうではない。夫婦である。中身は伴っていないが、夫婦は夫婦なのだ。親友としてやっていくのなら、何故、居づらそうな面構えを看過できるのだ。
「わたしの夫はその人です。わたしの夫の三途賽川蘭です。よろしくどうぞ」
愚かな女であった。まだ清廉潔白な自身というものを彼女は信じていた。他の男に気を取られておきながら。
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