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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 50
しおりを挟む猫は茉世の布団を転がり回る。どこからか入ってきたのだろう。首輪はなかった。飼猫のるんが外から連れてきたのだろうか。
ジャンガリアンハムスターのどんぐりが気の毒で、茉世は成猫と思しき大きさの毛玉を抱え上げようとした。だが何を勘違いしているのか、転がって、色抜きしたような白い腹毛を見せて戯れつく。茉世の手へ、可愛らしい肉球をぺしりぺしり当てていく。重低音を鳴らし、遊んでいるつもりらしかった。引っ掻かれルノを恐れ、茉世は布団で黒毛玉を包んでしまった。
「ンなぅ」
「ここはどんちゃんのお部屋」
外に放り出そうかと思ったが、もしかすると蘭が、猫好きな弟のために連れてきたのではあるまいか。
玄関に直行するところを、茶の間へ酔った。鱗獣院炎は我が物顔で横になり、退屈げにテレビを観ていた。家主よりも偉そうに寛いでいる。蘭は大男のためにテーブルを引いて、そこで新聞を読んでいた。
「蘭さん」
新聞から彼は顔を上げた。
「どしたの」
彼女の腕のなかに収まった布団が蠢いている。
「猫が……」
「猫? るんちゃんがどうかしたの?」
「いいえ、るんさんではなくて……」
布団から猫が這い出てきた。そして絶妙なバランスを保ち、茉世の頬を頭突く要領で撫でられにいく。
「何、その猫。どうしたの?」
「わたしの部屋にいたんです。野良猫かとも思ったのですが、どうにも人懐っこくて……何かご存知かと思ってきたのですけれど……」
「知らないなぁ」
猫は茉世が喋るのも邪魔をした。口に毛が入る。
「では、外に出してきます」
「待って。でも、どこかの飼猫かもしれないんでしょ。家に置いておいたら」
「るんさんが嫌がるかもしれませんし……わたしの部屋にはどんぐりちゃんがいますから……」
「ああ、そっか……」
蘭はぽけ、と宙を凝らして静止した。間抜けに見えるがそれが彼の思案の仕方だった。
「保健所に連れていけ」
出掛ける支度をする様子もない鱗獣院炎は、ぱつぱつの着流しの上から尻を掻いた。
「保健所は……」
蘭が渋った。
「野良猫は害獣。野良で生きていても幸せにはならんだろ。ガス室で安らかにネムらせたれ」
そこに霖がやって来た。ヘルメットを取りに来たようだ。黒い猫を一瞥する。
「わ、綺麗な猫。飼うんですか?」
「分かんない。野良猫だったら、そうなるかもしれないけど……それより霖ちゃん、お弁当持った?」
「持ちました。じゃあ、行ってきます」
霖は兄から目を離し、茉世へ向いた。
「行ってらっしゃいませ」
猫は茉世の顔面に胴体を擦り付ける。布団の匂いがした。彼女は黒い塊を床に起き、玄関へと出た。霖を見送る間も、猫は彼女の脚に擦り寄る。
「んなぅ……」
頭突きをし、顔が歪むほど毛並みを押し付ける。
霖が出ていった数秒後、茉世は黒い猫を抱き上げた。
「きみには居場所があるの?」
金色の双眸がゆっくりと瞬く。
「ンみゃお」
長く伸びた身体が暴れた。引っ掻かれるのを恐れた。降ろすとすぐに擦り寄る。天を衝くほど伸び切って戦慄く尻尾を覗いた。オス猫であった。2つ並ぶ毛鈴は思っていたよりも大きく、キーホルダーのようである。指で突ついた。猫は自立するのをやめた。茉世の足を枕に寝転がる。
やはり飼猫か。警戒心がまるでない。撫でていると、茶の間から蘭が身を乗り出す。
「迷い猫の貼紙とか作っておくよ。炎くんもトゥイッタグラムで訊いてくれるって」
「ありがとうございます」
「もし誰もいなくてもうちで飼おうか。るんちゃんと合わなかったら部屋を分けるし」
蘭も、黒い毛並みを撫でようとした。猫はすっくと立ち上がり、茉世を盾にした。
「お願いします」
「茉世ちゃんの落ち着ける場所が、見つかるといいけど」
呟くように言って、蘭は茶の間へ戻っていった。茉世はそれが独り言なのか否か分からなかった。反応していいものなのか、判じられなかった。聞かなかったことにした。
これからシャンソン荘に帰る予定があった。支度をしなければならなかったが、この猫の登場が調子を狂わせる。
茉世は黒い猫を茶の間に置いて自室へ行こうとした。しかし猫は彼女の後をついてくるのである。布団を風呂場へ持っていくときまでついてくる。猫は飽きもせず茉世を追う。離れる気はないらしい。茶の間へ返しても、離れようとしない。
「鬱陶しい!」
鱗獣院炎が吠えた。
「ごめんなさい。連れていきたいんですけれど、わたしの部屋には蓮さんのハムスターがおりますから……」
「ハムスター? ハムスター飼ってんのけ。あのツラで?」
「銀色のハムスターを……可愛いですよ」
鱗獣院炎と話した途端に、猫は茉世の足に転がった。
「んなぅ。うーん」
喉を鳴らし溶けている。何度かまた撫でてやった。あまりにも人懐こい。毛並みもよかった。野良猫ではなかろう。少なくとも餌付けされている。
「写真撮ってやるよ。何か特徴はねぇもんかね」
「お腹が少し白いです」
「じゃあ性格は悪くねーんだな」
茉世は黒い猫を抱え起こし、腹の写真を撮らせた。手を放しても、彼女のほうを向いて腹を見せたまま、左右に転がる。
鱗獣院炎が妙な顔をした。大きな手が、ふさふさとした毛に伸びた。俊敏な生き物である。毛尨は金色の目を剥いて跳び起きた。茉世のほうへ逃げる。
「大きい人が苦手なのかしら」
老けた見た目の高校生はこういう点に関して年相応に怒りだすものだと思われた。しかし神妙な面持ちで茉世は脚に身を擦り寄せる小獣を見詰める。
「炎さん?」
猫に拒絶されたことが、多感な高校生を傷付けたものだと彼女は思い込んだらしかった。呼びかけると、そのあらゆるパーツが大きなライオンみたいな面構えに嘲笑が戻る。
「当家の猫になるなら去勢しないといけねぇわな」
尻尾を真上に伸ばし、力みすぎるあまり半ば腰が引き攣っている。オスであることを示す小玉をふたつ見せつけるようでもあった。
「三途賽川で繁殖していいのは人間だけなんでね」
茉世は俯いてしまった。同じ空間に蘭もいるのだった。
「黒い猫と白い猫の子供の猫って灰色になるの?」
新聞を読んでいた蘭が訊ねる。
「絵の具じゃねぇだから」
「パンダくんになるんだ」
鱗獣院炎はもう答える気はないらしかった。黒い猫と同様に横になる。茉世は時計を見遣った。
「黒ちゃん、ここにいてね。ここにいて」
部屋にはハムスターがいる。猫は連れ込めない。
「蘭さん。蓮さんのお帰りが遅くなるようなら、わたしの部屋にハムスターがおりますから、お水と、ごはんを……エアコンも消さないでおきます」
「うん。分かった。ありがとうね」
部屋に戻りたい茉世を妨害しようとしているのか、黒い猫は相変わらず彼女の後を追い回す。茉世は茶の間に閉じ込めてしまうことにした。
「んなぁ、なぁ。おお~ん。なぉー」
爪を研ぐ曇った音が戸の奥で聞こえた。長鳴きは嘆きに似ていた。悪いことをしている気分になる。しかし構わないことにして部屋へ戻るが、廊下の曲がり角で視界が塞がった。柔らかくも質量のあるものとぶつかる。緩やかな衝突であったが、呑まれるような吸着性も感じられた。
「おっと。すみません。大丈夫ですか」
肩に快い重さが乗った。遅れて、穏やかな匂いが鼻を通り過ぎていく。
「ごめんなさい、ちゃんと見ていなくって……」
「こちらこそ」
永世である。茉世は顔を火照らせ、突き合わされた爪先を見ていた。容貌や物腰は清楚な男でも、足の形はどこか野生的だった。
「るんさんが暴れているのですか?」
彼は茶の間を見遣る。
「いいえ……るんさんではないんです。黒い猫がこの家に迷い込んできてしまったみたいで。野良猫かとも思ったのですが人懐こいし、飼猫にしては首輪もしていないので、今、炎さんに迷い猫の呼びかけをしてもらっているところなんです」
「そうでしたか。黒猫が……」
「可愛らしい綺麗な猫でしたよ」
飼猫のるんに良いようにされている永世ならば、黒い猫を愛でに茶の間に行くだろうと彼女は思っていた。
「今日、お帰りになるんですか」
「はい。あの、―」
御園生瑠璃の話をしようとした。だがその続きは奪われていた。触れるだけ触れてすぐに離れる。夢と言われならばそう信じただろう。ほんの一瞬の陶酔感を覚える。
「少しだけ寂しくなります」
染み渡るように、夏が終わることはこの男との別れを意味しているのだと気付く。
「夏野菜は、さっきのが食べ納めですね」
おそるおそる、熱くなった顔を持ち上げる。穏やかな笑みと、深い色を湛えた瞳に、茉世は怖くなった。火照りが鎮まる。
「そうですね」
茉世は義弟を遠ざけた意地も、言い訳めいた体裁も真っ白く塗り潰してしまった。白いシャツに頭を潜り込ませる。背に、腕が回った。
「なぉー。あぉぉー。ぁおー」
猫が遠吠えをしている。だが関係のないことだ。
「また来年、来てくださいますか」
「……そうですね」
待っている言葉があった。しかし彼からは告げられそうになかった。そのために茉世は自ら口にすることにした。
「来年といわず……」
「ええ」
ここは三途賽川の家だ。いつまでも抱き合っているわけにはいかなかった。離れがたい。速まる鼓動が心地良くなってきていた。
彼女は身を剥がした。相手を見上げれば視線が搗ち合う。ふたたび唇が降りてきて、二度目の口付けを交わす。
そして何事もなかったかのように自室に戻る。化粧し、着替えた。ハムスターは巣箱に籠もる。日の高いうちは寝ているのだろう。
ある程度部屋を片付けていると、微かな地鳴りに気付いた。誰か来る。大柄で、重みのある者が。
襖が弾かれる。一言もない。だが急いでいる様子でもなかった。鱗獣院炎は制服姿で腕を組んでいる。
「悪ぃけど帰れなくなった」
「何かあったんですか」
この高校生は廊下の襖を閉めてこなかったらしい。黒い影が駆け抜け、この巨体の高校生の股の下を通って茉世の膝へ跳び込んだ。振動している。垂れ目がじと、と黒い毛玉を一瞥した。
「神隠しって信じるかい」
「聞いたことはありますけれど……」
「神隠しに遭った人間はどこに行くと思う?」
「……神の世界、とかですか……?」
何故急に神隠しの話をしたのであろうか。あまりに突拍子もない話題であった。
「神の世界って?」
莫迦にした色を帯びて鱗獣院炎は口角を吊り上げる。神隠しとは行方不明になることだ。行方不明なのはこの家の長女である。しかし建前だ。あの娘は、義妹は、死んでいる。
「尽さんのことですか?」
太い眉が片方、持ち上がった。鱗獣院炎の質問の意図が分からない。黒い毛並みをなでて手汗を誤魔化す。喉の振動が伝わる。
「んなぅ……ぅにゃぅ」
「そっちのほうが幸せかい」
「え?」
正気の面構えをしているが、茉世は鱗獣院炎が怖くなった。気が狂れたのではあるまいか。
「オレ様レベルになると猫と喋れんのさ。言うことは伝えたぜ」
「炎さんや月さんのご都合が悪いのなら電車で帰ります……」
「駅までどうする? 辜礫築の倅に任せるかい? 蘭ニーサマを同行させたいところだが、生憎お仕事が入っちまった。駆け落ちすんなよ」
茉世の頬に赤みが走る。
「駆け落ちだなんて……」
「そこの服、蓮ニーサマのだろ? 服は脱ぎっ放し、布団は乱れたまま、スマホも持たず行き先も告げねぇ。いいカレシにもいい旦那にも向かねぇわな。辜礫築の倅のほうがいい男だよ。認めてやる。でもダメだ。諦めろ」
喉を鳴らし、金色の目を閉じて微睡む呑気な黒い毛尨がふと羨ましく感じられた。
「諦めるとか、諦めないとか、ないです」
「往生際の悪ぃ」
「わたしは蘭さんを裏切って、蘭さんにフられた女です。それでもここに居座るからには、建前だけでも通さなければならないんです」
永世との爛れた関係について、無味無臭の所感が脳裏を流れていくばかりである。危機感も罪悪感もない。温度も色も匂いもなく通り抜けていく。赦されないことであろう。浅はかで軽率。判然としている。頭では。しかし感情に訴えてこない。茉世は清廉潔白、品行方正だと半ば信じていたかった自身と決別しなければならなかった。
鱗獣院炎は首を傾げた。この高校生は
小生意気で時折、年不相応なことを言う。しかしその口とは共存できなそうな澄んだ垂れ目に、別角度から見透かされようとしている。
「バレちまえばお了いさ。三文芝居ならやめちまえ。そこまで不毛じゃ、せめて一人は得してもらいてぇもんだが。実際は誰も得しねぇわな」
茉世は目を逸らしてしまった。膝の上の猫が体勢を変える。
「……辜礫築の倅のことは諦めろ。オレは一応、言っておいてやったからな。あとは知らん。自己責任だ。"あの男はやめておけ"と言われて、"でもでもだって"と屁理屈捏ね回すのは高校生くらいまでなもんだと思ってたぜ、茉世さんよ」
「炎さんはわたしをどうしたいのですか。蓮さんとならどうなってもいいと言っておいて、いざ蘭さんがそれを譲るとなると怒り狂う。永世さんが本家の血ではないからですか。けれど永世さんとは、子を成すようなことはあれ以来ひとつもしていません。ご心配には及ばないんです。そして諦めるとか諦めないとかないです。だってわたしに選択権なんて無いでしょう? 親に捨てられた日から」
膝の上で寝ていた尨毛が金色の目を開けた。そして茉世に顔を擦り寄せる。
二親のどちらかに育てられていたら。夢想してしまう。鬼畜だった可能性もあろう。恐ろしい虐待から救い出されて、今に至るのかもしれない。しかし選べなかった選択に希望を抱いてしまうのだ。今が不幸だとは彼女も思ってはいなかった。六道月路の暮らしのなかに幸せはあった。三途賽川の暮らしは必ずしも不幸ではなかった。けれども親に捨てられたという事実はふと日常のなかに陰を落とす。
「……哀しむのは得意か、お嬢ちゃん」
「いいえ」
「そうか。それでいい」
「大事なことはやはり、何も言ってはくれないのですね」
猫は起きて、胴体を擦り付ける。尻尾を真上に真っ直ぐ伸ばし過ぎて痙攣している。
「んなぅ。んん~。んなぉ」
「辜礫築の倅には少し長旅に出てもらう。どうせあんたも三途賽川では長く持つまい。そうなればおさらばさ。言い残すことがあるなら言っておけ」
金色の双眸が茉世を見上げ、必死に喋りかけている。彼女が他の生き物と話しているのが気に入らないようだ。
「わたしの、せいですか……? はっきり言ってください。傷付いたりしませんから……」
「いや、あんたは関係ない。御家のことだ」
茉世は鱗獣院炎の垂れた目を凝らした。逸らされる。嘘だとは思わなかった。だがそれがすべてとも思えなかった。
「永世さんと帰ります。あの人はきっと駆け落ちなんてしません。多分、わたしが頼んでも」
「頼んだのか」
「いいえ」
鼻で嗤うのが聞こえた。しかし茉世が思うよりも卑屈な面構えをしていた。
「頼まれちゃ、困るな」
「困らせるつもりはないのです」
「んにゃう」
猫も返事をした。
「分かった。辜礫築の倅と帰れ」
茉世は永世を探した。黒い猫も後をついてくる。足に絡まれ、着地するところに先回りし、茉世は躓き、毛尨を蹴り、踏みかける。とうとう黒い猫は彼女の脹脛を噛んだ。
「痛っ」
牙は皮膚を突き破ることはなかったが、痛みがある。
「何するの」
黒い猫は立ち止まった茉世に満足しているらしかった。脳天を擦り付けて喉を鳴らす。この猫が怖くなってきた。
「そんなことするなら、黒ちゃんなんて嫌い」
「んなーぉ」
彼女は茶の間に黒い猫を誘導して閉じ込めた。蘭の姿はもうなかった。外に出ると永世が菜園に立っていた。何をしているわけでもなかった。ただ呆然と立っていた。
「永世さん」
物思いに耽っていたらしい。遅れて反応を示す。無表情に微笑が差した。
「もう、出るんですか」
「すみません……本当は月さんがお迎えに来てくださるはずだったのですが、予定が合わなかったみたいで。無二駅まで送っていただけませんか……?」
「ええ。分かりました。無二駅まででいいんですか? シャンソン荘までお送りしますよ」
しかし急な申し出である。突然3時間近くかけて目的地へ連れて行けというのも酷な話であろう。
「無二駅までで大丈夫です。ごめんなさい。急に……」
「謝らないでください。すぐ支度をしてきます」
永世が脇を通り抜けていく。彼の匂いが一拍置いて薫った。胸がきゅっと苦しくなる。秘めておかねばならない。
「んにゃん」
きゅりきゅりと玄関戸が引っ掻かれ、小さく動いた。隙間から、その隙間よりも体積のあるように見える四つ足の毛玉がすり抜けて外へ飛び出した。
「あっ! 黒ちゃん!」
菜園から彼女も飛び出した。金色の目は瞬時にそこに立つ人を捉える。
「なぁお」
「中に入ってなきゃだめ」
捕まえようとしても逃げはしなかった。ただ触れた途端に粉雪のごとく溶けてしまう。玉砂利に寝転び、茉世の手で遊ぼうとする。喉を鳴らし、人を小馬鹿にしている。
「黒ちゃん」
ふわ、と目眩がした。熱中症であろうか。後ろへ落ちそうな頭を戻したとき、目の前には黒い猫が寝そべっているはずだったが、そこには見慣れた竹林が広がっていた。竹林自体には見慣れていた。しかしいつもと違うのは、竹林に出口が見えるのであった。それは入口であったのかもしれないが、茉世にとっては出口であった。
彼女は出口に向かって進んでいった。白く爆ぜるような光が薄らいで、向こう側の景色が見えはじめる。そこは市街地であった。大通りの脇から出てきたらしい。車はあるがすべて停まって、人気はなかった。アスファルトには亀裂が入り、隆起と陥没が見てとれた。建物は倒れるか拉げ、ぷすぷすと煙を吹いている。どこかの被災地かと思われた。しかし茉世も知っている土地なのである。
ここは忌み地である。現実ではなかった。市街地が機能停止してしまうほどの大きな地震など起こっていない。しかしこのときになって地が揺れた。足の裏が浮沈するような揺れは、地震の揺れ方とは異質だった。ずしん、と腹奥に響く振動を以って、徐々に大きくなっていく。近付いてきている。象かもしれない。ただの動物園にいるような象ではないかもしれない。想像の倍はある気がした。テレビアニメに出てくる巨大人型ロボットでもいるような。
地響きは後ろから来ていた。竹林から。振り返ろうとした。しかし振り返らなかった。頬に触れた水滴に気付く。一度認めると、次々と水滴が顔に当たる。雨だ。徐々に勢いを増し、空はすぐさま鈍色に褪せていく。アスファルトは色を濃くし、点綴とした白斑が朧げに照りつける。ビルから立ち昇っていた煙も消えていく。遠雷。生き物めいた地響きは消えたが、代わりに雷轟が地を揺らす。激しい雨が茉世の身体を打つ。稲光が空を引き裂いた。
街は空虚だった。
「茉世さん」
雨が降っているのは事実であった。傘が小気味良い音を鳴らしている。茉世は跪くような姿勢で屈み、その躯体を永世が支えていた。
「あれ……?」
「あちらの世界に引き込まれてしまいましたか」
すぐに焦点は合わなかった。ただ傘に籠もる心地良い声を聞いていた。
「あ、あ……」
目が開いても夢から覚めきれないときの気怠さに似ていた。金縛りにも似ていた。身体に力が入らない。永世の腕を掴んでいるので精々だった。二人の空を覆っていた傘が宙で転がった。雨に打たれる。
茉世は色のない空を見上げた。永世が身動きをとって彼女を抱き上げる。
「永世さん……」
「最近どうも……忌み地の力が強くなっているみたいで。巡り合わせですから……仕方ありませんね」
雨粒が彼の頬に張り付いた。
「にゃぁお」
黒い猫も傍にいたらしい。
「永世さん、遠くに行ってしまわれるんですか」
竹林や壊れた街よりも、茉世には今このときが微睡みの夢に思えた。
「はい。遠くへ……」
「少しだけ、寂しいです」
永世は玄関を見詰めていた。待っている言葉はやって来ない。茉世は目を伏せた。
「また会えますよね」
「ええ、きっと」
玄関扉が開く。彼女は上がり框に降ろされる。黒い猫が式台を越え、玄関ホールに跳んでくる。永世は傘を拾いにまた外へ引き返す。雨に打たれるその背中を、茉世は追った。四肢は自由を取り戻していた。
傘を拾うために前屈みになった永世は、同時に茉世に気付いたらしい。無言のまま向かい合う。茉世はどこか腑抜けたつらを両手で捉え、背伸びをした。
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