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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 47

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 三途賽川さんずさいかわでは勢力の強い分家の当主として威張り腐っている鱗獣院りんじゅういんだんも、世間一般からすれば、ただの高校生で、未成年である。とてもその姿は高校生とも未成年とも思えないけれど。
 茉世まつよは鱗獣院炎の通う三礼さんらい学院に電話をかけた。欠席の連絡は保護者がしなければならず、彼女はその代理として連絡を入れる。
 当の本人は布団に横たわり、頭杖をついて、腹を掻いている。辺りのものを吸い込むような大きな欠伸をして、眠たげである。
「ママ~」
 ふざけた調子で、鱗獣院炎は正座している彼女の膝に這ってやって来る。乗った手を払う。
「本当に高校生だったんですね」
 まだ茉世はこの大男が高校生だとは信じられなかった。言ってみたから、彼女は気付いた。中学卒業後、間を置いてから高校に入学したのではあるまいか。
「年齢が人を老いさせると? この歳で魑魅魍魎どもをどうにかする立場にある。嫌でも老けるさ」
 鱗獣院炎は気怠げに起き上がる。ココナッツミルクの香りが体温を帯びて茉世の鼻に届く。強い風のごとく、嫌な気持ちになった。しかしほんの一瞬のことで、その正体は分からなかった。嫌なだけになったことさえ忘れてしまった。
「朝ごはんができています。わたしたちはもういただいてしまいましたが、焼き鮭が台所にあるので召し上がってください」
「悪いね」
「支度が整ったら、声をかけてください。外にいます」
 茉世は鱗獣院炎の泊まっている部屋を出た。襖を閉め、正体不明の曖昧模糊とした不快感を追想する。しかしはっきりしない。何かを思い出し、思い出した途端に忘れた。だが不快感も挟まっていった。
 背中の戸が開く。彼女は驚きのあまり背筋を反らせた。
「飯」
「あ、ああ、ごめんなさい……」
 脇に除けると、鱗獣院炎の離れていく後ろ姿を所在なく見ていた。買ったはいいが一度も袖を通さなかった蓮の和服をぱっつんぱっつんにして着流している。その分厚い胸元は知っている。関心がある。けれども、さらに深いところを知ってしまったような……
 彼女は突沸を起こした。そして一瞬で氷点下に達する。裸体を想像してしまった。おぞましい。茉世にとって鱗獣院炎の肉体は悍ましいわけではなかった。ただ想像した自身が嫌になった。セクシュアルハラスメントだ。内心の自由とあの者はよく言うが、しかしその自由は赦せないな。太い首、逞しいあまり丸太のような腕、分厚い胸板、岩石のような尻、引き締まっているがそれでも太い腿。それ等から単純計算してしまったのだろう。妙に生々しい図像を描いてしまった。
 茉世は螺旋に迷い込んでしまった。想像と自己嫌悪に。
 区切りをつけるしかない。彼女は外へ出た。晩夏といえども朝から強い日差しが出迎える。脇から、シャワーの音が聞こえる。細い水の筋が葉や実に当たり、健やかな音色を奏でる。華奢な緑の垣から、白い手拭いを頭に巻いた永世がホースを握っていた。
 茉世は雨水を貯めた桶からしゃくを取り、根菜類に水をくれる。ニンジンが埋まっていた。
 永世の背後をとっている。彼女はちらちらと眩しい白いシャツを見ていた。緑色のなかに映え、太陽に照らされ、眩しく見えた。夏野菜と日光のせいである。それ以外に理由はない。輝いて見えた。緑と日差しのためだ。
 ぴしゃ、と白ずむ土が色濃くなり、表面が削れる。根菜の頭から吹いた霧のような緑が弾む。
 眩しい白シャツが振り返る。
「ああ、茉世さん」
 彼は今の今まで、茉世がいたことに気付いていなかったようだ。
「そろそろ食べ頃ですね」
 人の気配によって近くでバッタが跳んだ。
「明日には、トマトときゅうりが採れます。あとバジルも」
「植え直したんですね。確かに、テーブルにありましたものね」
 朝、罪滅ぼしの末に撃ち殺された悪狐の仕業のごとく、台所のテーブルにあるざるに夏野菜が積んであった。
「また御園生みそのうくんと茉世さんと、お漬物食べたいですから」
 微笑みを向けられ、茉世は慌てて目を逸らす。
「少し、りんくんのお弁当に使わせていただきました」
「使っていただけて光栄です」
 茉世の傍でまたバッタが跳んだ。1匹だと思ったが2匹いる。バッタの背に、さらに小さなバッタが乗っている。
「親子?」
 着地した枝豆の葉が揺れる。
「メスとオスです。上がオス……」
 バッタの話をしたかった。三途賽川の勢力図の話をしたかったわけではない。
 バッタが跳ぶ。小さいとはいえ、後ろに1匹背負っているとは思えない跳躍力であった。
「きゃ、!」
 茉世のほうへ跳んでくる。刺したり毒を持たなければ、彼女にとって虫とは見ていて愛らしさを覚えることもあった。だが触れるのはいけない。何よりも跳んでくるものに対し、反射が働いたのである。反対に跳べばよかった。しかし彼女も利己的で己を被庇護者と信じて疑わない臆病な小心者である。人のいるほうへ除け、盾にしようとしたのである。
 除けた先にある小麦色の肌を抱いた。見た目よりも太く逞しい。しっかりした骨と日焼けしても瑞々しい肉感。わずかに身体を傾け、来たものを受け止める。掴んでいないほうの腕に抱き寄せられた。
 白いシャツは遠目では燦然としていたが、いざ触れると薄らと汗ばんでいた。
 ひょいと降りた永世の麗らかな眼差しに貫かれ、彼女は我に返る。
「ごめんなさい」
「大丈夫ですか?」
 至近距離にたじろいだ。澄み渡った瞳が怖い。ところがそれよりも怖いのは、接したばしが疼きはじめていることだった。
「はい……本当にごめんなさい。びっくりしてしまって……」
 離れるべきだ。しかし離れたくなかった。相手から突き離されるのを待ってしまう。欲望と意思が別の選択を取ろうとする。だが身はひとつ。彼女は選択をやめた。永世の腕のなかで、ぼんやりと枝豆の行列を見詰めた。
 永世も自ら離れようとはしなかった。相手の行動に身を任せようとすればするほど、心臓は焦る。
 自身の鼓動か、永世の鼓動か分からない。一際大きな振動を感じた気がした。見上げる。懐かしい初夏の雨でできた水溜りを思わせる双眸の奥に、彼女は自身を見た。徐々に大きくなっていく。呑まれそうだ。
 迎えたのか、自ら向かったのか、茉世本人にも分からなかった。ひとつ確かなのは拒まなかった。拒む選択を忘れていた。消し去ったのかもしれない。迎えうつか、受け入れるか、二択。葛藤もなかった。不穏で不健全なほど凪いでいた。機能すべき本能、反射、直感のひとつも働いていなかった。けれども彼女は正気であった。正気のまま、唇を重ねる。
 心臓がとくり、とくりと鳴り響く。苦痛とは異質の苦しみが起こる。肉体は苦しかったのだ。速まる心臓に胸が張るのだ。けれどもそれを、脳が避けたいものとして認知してはくれなかった。
 合わさった唇は網戸の軋りによって解かれた。水をもらった花弁のように弾んで離れる。互いに顔を背けてしまった。
「茉世~!」
 縁側に鱗獣院炎が立っている。三途賽川のなかで体格が最も近い蓮の和服を以ってしても布が足らなかった。だが制服のシャツは洗ってしまっている。そして洋服こそ、その大き過ぎる体格に合うものは三途賽川にはない。
「準備できたぜ」
 茉世は永世を振り返る。
「中に入りましょう」
 玄関へ入ると上がりかまちには高圧的な態度で鱗獣院炎が立っていた。
「着替えてきます」
 仁王像のごとき迫力の大男の脇を、永世は頭を下げてすり抜けていった。金剛力士像の垂れ目が嘲るように茉世を見下ろした。
「人妻、ね……」
 彼女は察した。鱗獣院炎は、先程の一場面を知っているに違いない。
 俯くことしかできなかった。普段のように善人を偽り、小心者ぶって、可憐な弱者を装った軽い謝罪をすればいい。反省も改善も伴わない、口から出任せ、その場凌ぎの謝罪をすれば。
「選べるのは、本家の兄弟なかからだ」
「選ぶとか、そんなんじゃ……」
「いい男だ。オレ様ほどじゃねーけどな。惚れちまうのも分かるよ」
「違います!」
 下を向いている茉世には分からない。鱗獣院炎の揶揄する口に反して、その垂れがちな目に映るのは憐憫に近い。
 彼女の叫び声が玄関ホールにこだまする。 
「どしたの、茉世ちゃん」
 茶の間からひょこ、と夫が顔を出した。茉世は身体中が寒くなっていく。
「オレが意地悪してやったのさ」
「やめてよ」
「可愛い弟の女だから?」
「うん。それもある」
 三和土たたきと上がり框の間には防音壁でも立っているかのようだった。妻本人を前にしての会話とは思われなかった。
「それもあるとは?」
「普通にもう家族じゃない。家族に意地悪されたら嫌だもん」
「ンじゃあもっといぢめてやろ」
「困るよねぇ?」
 だが夫は、その場に妻がいることを知っていた。何のわだかまりも確執もなさそうである。だが茉世はそうではなかった。話を振られ、狼狽えた。
「とりまオレ様の服買いに行ってくる。茉世の体調次第で、明日には帰らせるんでいいな?」
「それは茉世ちゃんに任せるよ。でも蓮くんにも教えておいてあげて。茉世ちゃんのこと大好きだから、大学のほうも手につかないみたいで。困るよ、お医者さんになって、いっぱい稼いでもらわないと」
「本当に明け渡す気だと?」
「蓮くん、色々やってくれたからね。霖ちゃんの高校願書とか大学受験の資料とかも全部手配してくれたし。頭上がらないよ。PTAの仕事とかも。茉世ちゃんもおでといるより蓮くんと一緒のほうが幸せだと思うよ。これは"そんなコトないよ"待ちじゃなくって」
 昨晩の暴行がふたたび起こりはしないかと茉世は鱗獣院炎を見遣った。
「ま、ガキはこさえてもらうがな」
 鱗獣院炎は蘭に背を向け、茉世と対峙する。
「先輩」
 蘭が茶の間へ引っ込んだかと思うと、今度はその弟の登場であった。鱗獣院炎はざりざりと傷んだ金髪を掻く。うんざりした顔をしている。
「携帯電話が鳴っていた。誰だ? 大丈夫なのか?」
 携帯電話は電話を架けるか受けるかするものである。昨今では半ば遊び道具と化しているが、電話がかかってきてもおかしくはない。高機能携帯電話が鳴ったくらいで喚くようにやってきたこの男はそうとう束縛が強いのではあるまいか。
「スマートフォンも飽くまで電話よな。手足が生えてきたんでもなし。さえずるんじゃねーや」
「異常だ」
「異常なのはあんただよ、お・ ま・え。君だよ、君」
「どなたからですか?」
 茉世が訊ねると、蓮はわずかに顎を引いて上目遣いを装って彼女を見た。しかし背の高い男がそうやったとしても上目遣いにはならず、三和土に立っている茉世とはさらに身長差が開いている。
「見ていない。ただ鳴っていただけだから……部屋には入っていない。先輩の部屋には勝手に入らない。嫌われたくないから……」
 蓮には玄関ホールを塞ぐ巨大像など見えていないらしかった。狭い通路を通る要領で式台まで降りてくる。
「誰、あんた」
 鱗獣院炎が訊ねた。だがその揶揄とも問いとも判じられないものは宙に消えていった。
「嫌われたくない」
 眉間に皺を寄せ、茉世の袖を摘む。この女に酷いことをされたのだとばかりの顔をしている。赦さないほうが性悪の、臍曲りの頑固者といった調子だった。
「先輩の嫌がること、しない……」
「別に嫌いになんてなりません」
「甘やかすんじゃねーや」
 上がり框のど真ん中に置かれた阿形像とも吽形像ともいえない筋骨隆々の巨躯は退屈げにしていた。
「ちょっと見てきます」
 茉世は巨体の脇を潜っていった。そして自室に戻ると、確かに携帯電話が震えていた。充電しながら着信しているため、電子板は熱くなっている。
「誰からなんだ?」
 蓮もついてきていた。敷居の前に立っている。媚びるような目に、畏怖と関心が混ざっていた。
ばんさんです」
 彼女も驚いていた。信じられなかった。画面に表示された『六供園正城ろっこんせいじょう絆』とは、三途賽川の実の三男である。ほんの数十分間で十何回も着信している。留守番電話を入れる余裕もないようだった。
 この有様では、蓮が呼びにきた理由について納得せざるを得ない。
「絆? 何故?」
 電話が止む。
「分かりません……でも、黙って出てきてしまいましたから……」
 充電は十分にできていた。端子も抜いて、茉世は絆へと電話をかける。だが彼もまたこちらに電話するかけようとしているようだった。
「すみません」
 蓮に一言断って、茉世は襖を閉めた。それでも防音に関して十分とはいえない。
 繰り返しかけられてくる電話に、茉世はやっと応答ボタンを押すことができた。
「あの……もしもし」
『茉世義姉ちゃん、ドコ? 茉世義姉ちゃん、どこにいるの?』
 母親を探す迷子を思わせる、心細げな音吐おんとが罪悪感を煽る
「ごめんなさい、絆さん。色々あって、今、三途賽川に来ているんです。連絡もしないで、本当にごめんなさい」
『……帰ってくるよネ?』
「早ければ明日には……」
 先程の夫と鱗獣院炎の話ではそうだった。
『分かったヨ、茉世義姉ちゃん。無事ならよかった……デモ、三途賽川の人たちに、酷いことされてナイ?』
「はい。ご心配。おかけしました」
『気を付けてネ。酷い人たちダカラ……』
「絆さんは、大丈夫ですか」
 話し方に勢いはある。しかし視覚情報がなく、聴覚情報のみのためか、以前よりも覇気がないように感じられる。
『オレ? オレはダイジョーブだヨ』
 けれども茉世はそうは思わなかった。絆はおかしくなっている。本当に本人は気付いていないのであろうか。
「そうですか……」
『お願いだヨ、茉世義姉ちゃん。ドコ行って何シててもいいカラ、ナイショでいなくならないデ……お願い』
 絆もまた実の次兄の面影を強く引いていた。媚びて上擦った声が電子音の質感を帯びて茉世に響く。所詮は夢だ。しかし不合理な彼女の印象には作用した。夢のなかでも、彼が母と姉の逃亡を阻んでしまった件について。
「ごめんなさい。そうします。お忙しいのに申し訳ありませんでした」
『茉世義姉ちゃんが無事ならイイの。オレもいっぱい電話しちゃってゴメンね。あとネ、茉世義姉ちゃん。オレがもっと頑張ってお金稼ぐからサ、もう青山くんと会わなくてダイジョーブだヨ……』
 媚びた声が途中から震えた。喉を引き絞るかのようだった。
『オレがありがとうのお金渡すカラ……もうツラいコトしないデ。う、うぅ……隠し撮りしてゴメンなさい。全部消すカラ……もうツラいコトしないデ……』
 茉世は感情がせめぎ合い、結局どれも相殺されていった。盗撮された怒りや悲しみを持とうとすれば、青山藍との秘事に対する後ろめたさが邪魔をする。悪用はしないというのも、どうしてか信じることができてしまった。
「絆さん……」
『お願いだヨ……うぅ………』
「そうします。そうします……」
 誤解があるようだった。だが弁明する立場にはない。
『もうお仕事行くネ……じゃあ』
 鼻を啜る音が聞こえた。軽率な茉世の胸を痛めつけるには十分であった。
「はい。お気を付けて」
 電話が切れる。
 襖を開けると、忠犬よろしく蓮が突っ立っている。詮索される前に口を開いた。
「シャンソン荘の管理のことで、ちょっと」
「……そうか」
 妙な間に疑念の色があったことは否めない。しかし天秤に掛けたのだろう。彼女への好奇心か、彼女からの好感度か。後者をとったのだ。
「俺も先輩と電話したい」
 今、携帯電話は壊れていない。バッテリーも十分にある。断る理由がなかった。一瞬の狼狽は、蓮には一瞬ではなかったようだ。
「すまない。我儘言わない。もう言わないから、嫌いにならないでくれ」
 咄嗟に腕を伸ばしたのだろう。そして我に帰ったに違いない。茉世の肩か腕を掴もうとした手は、急遽、袖を摘む。
「電話は本当のところ、苦手ですから……」
 夫に対して、これ以上の不義理を働きたくない。そして勉学もおろそかになっているという話ではなかったか。
「嫌いにならないでくれ」
 彼は言質げんちを取るつもりらしい。茉世の目を覗き込み、小首を捻る。小動物を彷彿とさせる若い女性や、児童がやるような所作である。シェパード犬や黒豹のような大の男がやることではない。
「なりません、それくらいのことで……」
 ただ怖い。第一印象がまだ払底できないのだ。体格差もあろう。無遠慮に近付かれるたび、本能は生命の脅威と誤認する。
 茉世は玄関へ戻った。すでに永世も戻ってきていた。
「るんさんにごはんをねだられてしまって。お待たせしてすみません」
 彼は珍しく砂色の開襟の半袖シャツを着ていた。純白の服ではないというのに薄暗い玄関でまだ輝いて見える。顔が見られなくなった。弾かれたように鱗獣院炎のほうを見遣れば、そこには揶揄に満ちたいやらしい微笑。
「唇が乾いてんぞ、茉世。どうした? リップ貸してやろうか?」
 茉世は指摘され、唇を舐めた。
「おアツいキスでもしてきたと?」
 すぐ傍の茶の間へ駆け込んでしまいたかった。
「ワセリンならありますが、塗りますか」
「だ、大丈夫です」
 白昼夢をみたに違いない。現にあまり鮮明ではなかった。永世の態度からいってそうだ。彼の性格を考えれば、もう少しぎこちなさが生まれるはずであった。しかし彼は相変わらず楚々としていた。




 レディースクリニックと衣料品店から帰ってくると、三途賽川には蓮のものでも家事代行員のものでも、御園生瑠璃のでもない車が停まっていた。
七堂しちどうさんを呼びましたか」
 砂利を踏む音が小さく聞こえるほど、運転手の声音は冷めていた。
「っは! 呼んではねーよ。言うべきことを言っただけさ」
 永世は怒っている。茉世にはそう感じられた。
 家に入ると、彼は焦っているようだった。靴を脱ぎ、揃えてはいったが、どこか余裕がなかった。茶の間を覗くその姿に茉世は厭な痺れを胸に感じた。
 通り過ぎたときに、彼女も茶の間を見ることができた。蘭と蓮が客人の応対をしている。ショートカットの背の高い女性が緊張した面持ちで座っていた。男尊女卑を掲げてはいるが、客人ともなればさすがに上座に座らせるらしい。
「七堂さん」
 通り過ぎた。だが気になった。振り返ってしまう。
 砂色の開襟シャツの胸元に女性が飛び込んだ。またつきりと、胸に厭な痺れが駆ける。その意味を茉世は知りたくなかった。知ろうとすれば侮蔑すべき自身に遭遇するだけだ。
「外でお話しませんか」
 永世の手が、背の高い女の肩を撫で摩り、玄関のほうへ促した。
辜礫築つみいしづくせがれの婚約者だ。若干一方的なのは否めないが」
 ぬんと耳元に低い声が吹き込まれる。衣料量販店に寄ったはいいが、合うサイズのなかったために結局何も買わなかった鱗獣院炎だ。店頭かインターネットで注文するしかないらしい。
「婚約者がいらっしゃったんですね」
「ショックけ?」
「それは、ショックです。婚約者がいて、あんな役目を果たさなければならないなんて……」
 鼻で嗤うのが聞こえた。
「辜礫築の倅のほうが断って、でも向こうが諦め切れないってところだな」
 彼等の出ていった玄関扉が白く爆ぜるようだった。
「幻滅した?」
 肯定を期待されているかのような問い方である。
「幻滅も何も……」
「ま、諦めとけ」
「諦めるとか諦めないとか、そんなんじゃ……」
 茉世は鱗獣院炎と喋っていたくなかった。永世の婚約者に挨拶は不要らしい。彼女は自室へ向かおうとする。
「茉世」
 自室に行くには真後ろの大男の横を通らなければならなかった。手首を鷲掴まれる。拘束されるかのような力強さだった。痛む。
「これは茶化しているんじゃない。辜礫築の倅のことは、諦めてくれ」
 垂れ目も大きな口もしかつめらしい緊迫感を帯びている。
 家としてはあの娘と添い遂げさせたいか。それか若しくは、茉世自身のほうの問題である。だが彼女は、そう強く鱗獣院炎に忠告されずとも、蘭の妻として在るつもりだった。菜園で交わした口付けも忘れて。
「わたしは蘭さんの妻なのでしょう。それで蓮さんならいいとか、永世さんなら諦めてくれとか、どうなっているんですか。何故、嫁として妻として蘭さんに付き従えとはおっしゃらないのです。わたしに選択の余地があったとおっしゃるのですか」
 傷口に塩を塗られ長い爪で引っ掻かれやすりをかけられたかのようなつらを鱗獣院炎は晒して見せた。
「当主が弟に遠慮して妻に手を出せないんじゃ、オレは手を尽くして離婚させ、新しい妻を迎えさせたほうが効率がいいように思う」
「効率……結婚させられて、子供産まされるのが効率、ですか……」
「三途賽川一族は人間牧場。競走馬と同じだ。ブランド牛とな。一介の権利があると思うんじゃねーや」
 茶の間から蓮が気怠るげに出てきた。そして鱗獣院炎と茉世の姿を認める。
「おかえりなさい、先輩」
「ただいま帰りました……」
「鱗獣院にいじめられているのか」
「せんぷわぁいをいぢめんのは楽しいからな。ガハハ」
 大きな手が彼女の肩を叩く。脅すように揺らす。
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