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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 45
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茉世は前のめりになりながら不安定な姿勢でいた。畳を踏み鳴らして歩く鱗獣院炎についていく。急に立ち止まられ、屈強な広背筋に鼻柱を打つ。ふわ……とココナッツの乳臭さが薫る。
巨体のために茉世には姿を確認することはできなかったが、人の気配があった。
「この野郎!」
禅だ。成猫より半年前の猫とライオンといった体格差であった。
「なんで蘭兄ちゃんを傷付けるんだ! 赦せねぇよ!」
茉世の腕を鷲掴んでいた巨手が離れる。鈍い音がした。痛々しい光景を予期した彼女は、風圧を恐れるかのように自由を得た両腕を構える。
「美しい兄弟愛だな」
禅を投げ捨てるなど、ぬいぐるみを放り投げることとそう変わらない。茉世の視界にもやっと末義弟の姿が目に入った。投げ飛ばされ、立ち上がれそうにもなかった。
「子供ですよ……」
兄のために挑まんとする華奢な中学生の姿は、胸に迫るものがあった。
「俺と3つも変わらんが?」
「体格差を考えてくださいな」
命に関わる怪我をしそうであった。一生に遺る傷を負いかねない。
「弱さは特権じゃねぇ。最近の奴等はそれを勘違いしている」
禅はまだ挑むつもりらしかった。鱗獣院炎へ突進する。
「強ぇやつは弱ぇやつを甘やかすのが当然で、正当防衛も許されないと?」
頭を掴まれた禅はまた投げ飛ばされる。年齢は3歳差、共に未成年。成人男性の平均身長を大いに上回る鱗獣院炎と、発育途中にあるうえ、小柄な禅であまりにも容赦がない。
「男性なら挑んで死ね。お前は三途賽川の息子だよ。そこは褒めてやる。腰抜け兄貴と違ってな」
壁に肩を打った禅の表情は痛みに歪んだが、弾かれたように懲りず鱗獣院炎へ飛びかかる。どっしりとした胴体を相手にしては負ける。では片腕を相手にすればよい。人は器物を扱うために牙と爪、本能的な膂力を捨てた。だが歯はあるのである。そして顎の力は、或いは腕力、脚力より勝るかもしれない。
豚の丸焼きのごとく太い腕に禅の歯が突き刺さる。
「痛ッ!」
ごす、と音がした。禅の躯体がゴム鞠と化して壁に叩きつけられる。茉世は戦慄した。鱗獣院炎の腕を覗き込めば歯型から血が滲んでいる。
「何?」
物音に気付き、様子をみにきたのだろう。霖が角から首を傾げていた。
「あっ!」
伸びている禅を発見し、それから鱗獣院炎を見遣った。
茉世は後ろからやって来た夫と蓮に気付く。
禅は救急車に運ばれていった。茉世は指示されたとおり、鱗獣院炎の傷の手当をする。明日診察に行くよう蓮は言っていた。
「窮鼠猫を噛むってか」
鱗獣院炎は巻かれた包帯を撫でていた。茉世は包帯の巻き方に自信がなかった。そう触られてしまうと、今にも崩れてしまいそうであった。
「ありがとな。そこは感謝しておこう」
彼女は首を振って俯いた。
「暴力は、良くないです」
「あんたの旦那を殴った件に関して謝ってやる。ンでも、あのチビについては、先に手を出したのはオレじゃない。手を出されたら、手を出して返す。それが流儀。わざわざデカいオレのほうが体格差を考えて手加減してくれるとでも考えていたなんて、そんな情けない話があるかよ。まさかそんなことはないだろ。有るはずねぇよな」
先に手を出したのは、確かに禅のほうであった。だが禅には理由があった。そして鱗獣院炎も煽りに煽った。しかし理由があるからといって、煽られたからといって暴行を働くのは果たして正しいのだろうか。赦されるのであろうか。何の後ろめたさもないと言えるのか。
「それでも、自分の力量差が分からずにいたら、悪者になるのは炎さんです」
「たとえばあれが女なら、オレは容赦したぜ。女は男に殴られるだなんて風潮に生きてない。そういう考えが存在する世界にな。けれども、男は違う。男は男同士、殴り合い、蹴り合う概念があるはずだ。それを分からないふりして、手前はチビでガキだから配慮されようだなんて、そんな無様な話があるか。最初から拳を捨てればいい」
「三途賽川はそうでも、世間一般はそうではありません」
「あんたがどれほど世間一般を知ってるってんだ?」
茉世は一度怯んだ。そしてこのわずかな時間に咀嚼した。腹落ち。
「確かに、何も知りません」
そのとおりだと彼女は思ったのだ。肯定するほかない。言い当てられたのだ。図星であった。納得し、合点がいき、得心した。ところが鱗獣院炎は気味の悪そうな目をくれた。
「開き直りか?」
「いいえ。わたしは本当に何も知らないのです。どこかアルバイトに出られたらいいのですけれど」
「不要。本家の長男の嫁がバイトなんて、男尊女卑のルールが泣くわ。働かねー亭主に働く女の夫婦が男尊女卑掲げてやがるなんて、惨めなことこのうえない。ポコチンが生えているから無条件で尊ばれるわけでもない。くだらなくとも面子というものがある」
「夫にフられてしまったのに、履歴書真っ白なんです。就職活動のとき、わたしはその必要はなかったけれど、もう高校生の段階で企業説明会みたいなのがあって……アルバイトしたことある人がいいって話していたんです。でも進学校で、アルバイト禁止で……わたしはどう生きたらいいのか、もう分かりません」
鱗獣院炎は、獅子のような面を寄越す。
「フられはしたが、離婚はしないって言ってたろうが。それが一番、オレ様は気に喰わねーから言ってる。そんな大好きな弟が恥を投げ捨てて欲しいって言ってる女なら、一族郎党に頭下げて回っても別れてやりゃいい。叶うかどうかは知らん。ンでも男たるもの、やれるかやれないかじゃねーだろ。やるかやらないか、だ。canじゃねーのよ、doなわけ。あの半端さにキレちまったよ」
「家に縛られているお人なのでしょう。そんな考えも浮かばないのではありませんか。しかも、オンナナンカノタメニ……」
いくら穏やかに振る舞っていても、家のためならば母に恨まれ、妹をどうにかしたかもしれない人なのだ。
「あ゛~」
金獅子は唸った。傷が痛むのか。永世は家にいる。今からでも病院に行くべきではないか。
「男の美徳は沈黙だ。一番女々しいの、オレじゃねーか」
茉世は眉を顰めた。
「炎さんはまだ18歳の子供ではありませんか」
「ンでも男だ」
「男でも女でも、人は人です。性別が2つだから、生き方も2つしかないなんてことはないはずです」
垂れ目と視線を搗ち合わせる。動物的だった。それは恋人同士の目交ぜとは異質だった。睨み合いに似ていた。
「生意気な女だな」
「三途賽川には染まれませんでした」
「まだ分からんよ」
「けれど夫にはフられましたから」
太く長く大きな腕が茉世を抱き寄せる。ココナッツの匂いが鼻腔に充満し、顔に当たる分厚い胸板に気分が揉み解されていく。この少年とは表現できない年下の大男の胸筋に、彼女は弱くなってしまった。
「小生意気だがいい女だ。蓮ニーサマが惚れるのも分かっちまうな。傷付いてんの?」
「違います……」
ぱんッと張った胸元から離れがたかった。まだ温かなこの肌に張りついていたい。しかし相手は、到底そうは思われなくても未成年。子供である。
「人妻と高校生で、ラブロマンスするか」
彼女は話も聞かずに、胸の筋肉へ頬を擦り寄せる。さりげなく。相手が高校生であることも忘れていた。強靭な膨らみに甘えたくなる。だが異性として甘えたいのではなかった。庇護者と被庇護者としての関係のうえで、であった。
「ホント、オレのおっぱい好きなのな、あんた。デカ赤ちゃん」
鱗獣院炎は胸元に居ることを赦した。彼女も甘えていた。
「おっぱい吸うか?」
襟をずらし、岩壁に似た緊張感を纏う胸を晒す。浅黒い肌に、男には大した必要性のない部分が淡く突起している。
茉世は吸いたくなった。だが相手は未成年。しかし未成年とは認識しきれなかった。どう見ても30代に差し掛かっている威厳と落ち着きなのである。
「デカ赤ちゃん」
後頭部を撫でられる。茉世はどうでもよくなってしまった。欲求に従って、鱗獣院炎の胸を吸う。健康的な男性から、乳が出ることはなかった。だが彼女は嬰児のように胸を揉む。
「くすぐってぇよ、赤ちゃん」
尻から抱え上げられ、背中を叩かれる。
茉世は突起を吸った。滲み出てくるものはない。虚無であった。舌先で転がしてみてもやはり虚無。
「……、ヤバ、………感じる」
頭上で吐息が漏れる。茉世は鱗獣院炎を見上げた。目が合う。ココナッツミルクとは異なる妖しい匂いが鼻腔劈いていく。脳髄が震える。
「勃った」
茉世は強い酩酊感を覚えた。鱗獣院炎の腕をすり抜け、腰のほうへ潜っていく。彼女は自身が何をしているのか分かっていない。大きな膨らみへと惹き寄せられる。
そして図体に比例した巨物を取り出すと、落ちてくる髪を耳に掛けて、唇を寄せた。
「茉世」
大きな掌が頭の上に乗る。茉世はその大き過ぎるものを頬張った。だが口に入りきらない。先端部だけ口腔に納める。
「やめなさい」
口では禁じておきながら、鱗獣院炎は強く茉世を制するつもりはないらしかった。拙い口淫に顔を強張らせ、ぎこちない快感に酔い痴れているようにさえ見える。
茉世は乳を吸うように、その何倍もの大きさがあるプラムを吸った。胸板に生えていた殻とは違い、露を滲ませている。乳の味とは違うが、彼女はそれを啜った。唇で乳暈を刺激するように、プラムもまた揉み解す。
「茉世………」
鱗獣院炎は放っておかれている根元から先端部前にかけて、唾液が滴り落ちていく感覚に耐えなければならなかった。しかし耐える気はないのだろう。半分、自ら慰める。茉世は妖しく蕩けた目をしながら眉根を寄せた。口で捉えたものが膨らんでいく。露の量が増え、味が濃くなっていく。苦い。
「く……っ、」
メロンを埋め込んだ肩が、二度三度、繊細な戦慄き方をした。やがて弛緩する。
茉世は脈動に怯み、しかし頭を押さえられて口腔に濁流を受けた。こふ、と噎せる。下を向けば粘液がこぼれ落ちる。ぬとぉ……と糸を引いていく。若さゆえの強欲で強壮、濃厚な種汁だった。
「ん」
大きな指が彼女の口に入り、舌を拭う。粘性を帯びた腐った米の研ぎ汁と思しきものがぴしゃ、と飛び散った。飛び散った先の床の数歩先に裸の足が着く。
「抱いてやれ」
鱗獣院炎はそこにやって来た人物から顔を背けた。
「……え?」
「お前なら旦那も怒るまい。茉世も、な」
「そんなの、本人たちに訊いてみないと分かりませんよ」
永世は頭に巻いていた手拭いを取り去ると、呆けている茉世の口元の汚れをその端で拭いた。彼女には目の前にいる永世を認識していないようだった。
「お堅いやつめ」
「たとえ恋人でも配偶者でも、無理強いしていいはずはないんです」
「世間一般、司法の模範回答しか言えねーの?」
永世は答えなかった。主家の嫁の肩に、躊躇いながら触れた。メトロノームのごとくふらつく身体を抱える。ところが彼女は身体が浮く前に、永世へしがみついた。
「オレ様の残り香が消えないってか」
「茉世さん……」
茉世は永世の胸へ頭を潜り込ませる。もはや頭突きに近い。
「抱いてやれ……抱け」
「抱きません」
彼は吐き捨て、絡みつこうとする茉世を往なす。玄関の前を通りかかったとき、玄関戸がからから音を鳴らした。
「ただいま」
御園生瑠璃が帰ってきた。永世と茉世の姿を認めると、靴を蹴り飛ばして式台を越えた。
「まっちゃん! どしたん?」
「お酒に酔ったみたいで……」
茉世は永世へ匂いをつける。身体を擦り寄せる。永世は御園生のほうを見ることもない。
「じゃあ水持ってくわ。ってか旦那サマたちは?」
「禅さんが体調を崩したので、病院に……」
「そか。じゃ、水持ってく」
別れかけ、永世は御園生を呼び止める。
「分家のお偉い人が来ていますので……特に遠慮するところはないのですが」
「分かった」
茉世は自室へ連れて行かれる。永世は彼女を下ろした。
「今、御園生くんがお水を持ってきてくださいますから……」
虚ろな眼は鏡面と化して永世の姿を映し出す。一呼吸、二呼吸している間は静かに座り、清楚な顔立ちを見上げていたが、彼女は永世に縋りついた。
「茉世さ………ん」
相手は女である。油断したのだろう。さらに主家の嫁だ。手荒な真似はできない。彼は茉世によって畳へ敷かれてしまった。後ろ手で支え、起こしている上体に、茉世が這い上がっていく。
「ぼくは鱗獣院さんではありませんよ……」
宥めた手を彼女は奪った。頬擦りする。鼻を近付けた。石鹸の匂いをほのかに纏っている。
「茉世さん……目を、覚まして………」
だが茉世は、猫みたいに鼻を鳴らして永世の匂いを嗅ぐ。鼻先を突き出し、聞香する。首に籠った匂いを吸い、乾燥した唇に鼻を掠れさせ、それから耳元を嗅ぐ。彼女は耳殻を嗅ぎ回り、やがて小さな耳朶を口に入れた。飴玉を見つけたのだ。舌先で転がし、食む。
「ぁ……っ、茉世さ……ん」
乗り上げる茉世の身体を支えるか否か、宙に手が置かれる。彼は片腕ですべて支えなければならなくなった。
「いけない………茉世さん」
胸板に手をやって、彼女は永世の耳朶を舐め続ける。そこから授乳されてでもいるかのようだった。
ちゅぱ、と音をたてて彼女は耳朶から口を離す。
「茉世さん……」
茉世は舌先をちらつかせながらはくはくと微かに顎を動かした。今し方放した餅の弾力が舌先に留まり、口寂しい。
「落ち着い………っん、」
彼女は唇の寂しさを埋める手段を見つけた。接吻だ。薄皮の逆剥けた唇をもにもに食んだ。吸う。充血し、腫れていく。
「ま、つよ……さ………」
身動きを彼女は赦さなかった。奥に潜む桜色の軟体を引き摺り出そうと茉世は躍起になった。彼女は物に憑かれている。そういう技巧や勇ましさ、気力がこの女にあるとは思えない。
クーラーの唸り声に、水音が混ざる。
「ふ………ぅう」
茉世は桜色の餅を甘く噛んでいた。雨漏りしている。2人の間で雨漏りしている。ここ暫く晴天続きだったはずだが、畳には水溜りができている。粘こい雨漏りのためだった。しかし構わず、茉世は永世の口元で桜色の餅を食んでいた。
「ん、く…………まつ、よさ……」
茉世は離れようとすることを赦さなかった。作った距離をなくされ、口水を啜る。
『お~い、久遠きゅ~ん。まっちゃ~ん』
足音が近付いてきていた。永世は茉世を抱き締め、そのまま一息に身体を回転させた。上下が入れ替わる。ビーチ・フラッグスのごとく永世は茉世を部屋奥へ押しやると襖へ跳んだ。先手必勝。自ら先にやってきた御園生を迎える。
『まっちゃん、だいじょぶそ?』
『ええ。もう寝ています』
茉世は懲りずに突き飛ばされても襖を開けようとした。開かない。押さえつけられている。
『蓮クンが、嫌な予感がするって、まっちゃんと電話させろって言ってんだけど……』
『―お電話代わりました。茉世さんはすでに寝ていまして……はあ………特に変わったことはありません。ところで禅さんは……』
彼の反応からして、そう厳しい状態ではないようだ。
襖をがちゃがちゃやっていると、突然軽くなって引手が滑っていく。
「あっ!」
子機を片手にしている永世が振り返った。
「起きてんじゃん、まっちゃん」
御園生は水を差し出す。茉世はぼんやりと昔馴染みの顔を見詰めていた。
「お酒は程々にな」
水を渡すと御園生はすぐに出ていった。襖は開け放しで、子機を片手に次男とやり取りしている永世を一瞥し、労いの微苦笑を浮かべている。次男は彼にとっても腫れ物らしい。颯爽と去っていく後姿を茉世は見送っていた。ふと、その双眸に理性の輝きが戻った。
自分は何をしていたのか……
茉世は省みようとしたが、思い出せない。鱗獣院炎の腕の傷を手当てしていたときから途切れている。襖と襖の間では、永世が子機を耳から離したところだった。彼は部屋を覗いた。そして茉世に気付く。
「よかった……茉世さん」
疲弊した柔和な笑みがそこにある。彼女の目が泳ぐ。
"彼の手は石鹸の匂いがする"
恐ろしい天啓に身を打たれた。過ぎた夏に鳴り響いた雷のごとく、彼女の脳裏で稲光を起こす。
耳朶は小さく、韓国餅のよう。
「ごめんなさい……永世さん……」
おかしな妄想は隠すべきだ。だが彼女は謝ってしまった。後先考えず。内心でおもちゃにしてしまったのだ。
「お水、飲んでください」
永世は傍にやって来た。子機を持つ手も麗らかに見えた。―石鹸の匂いがする。
茉世はぶるると震えて水を飲んだ。畳に目を這わせる。彼の日に焼けた肌を見ると、肌でなくとも布越しの肉体を見ると、稲光に灼かれてしまう。
「鱗獣院さんのおうちは……その…………子を絶やさないように、不思議な力が宿っているんです」
「え?」
何故急に鱗獣院家の話が切り出されたのか彼女には分からなかった。
「だからその……茉世さんの気にすることではありません。きっと、それで、引き摺ってしまったんだと思います。茉世さんの人格がどうこうというお話ではなくて……」
「何か粗相をしてしまったのですね」
人格を疑われることをしでかしたらしい。そうでなければ、このような庇い方はされなかろう。けれども茉世は分からなかった。否、泥沼の微睡みの最中にみた淫蕩な夢は。薄らと炙り出された浅ましい視覚情報を読み取る。
唇が寂しい。何か噛んでいた。癖になる予感がある。歯が軋る快感とは違う。おそらく柔らかなものだった。満たされなかった唇と舌の孤独が欲を知ってしまっている。享受を当然としている。胸が苦しい。だが甘美だ。しかし毒の甘さ。
「ごめんなさい………」
水の半ばほど減ったグラスが手の厭な熱を奪っていく。
「あ、い……いいえ。お風呂が沸いていますから、どうぞお入りください」
どこか気拙げな永世とこのまま離れたくなかった。
「永世さん」
喉を雑巾絞りしたかのような声だった。
「……はい」
呼んだはいい。呼んで、相手が立ち止まったまではいい。しかし時間は止まらない。沈黙するだけ重苦しくなる。だが茉世は言葉を用意しておかなかった。ただ反射的に呼び止めてしまった。握ったグラスの水は、火照った身体によって煮え滾りそうだ。
静寂は針と棘と化し、毛穴を刺す。冷気は鑢だ。
「な、なんでもないです。すみません、お忙しいのに、こんな……」
「とんでもないことです。お疲れでしょう。布団を敷いておきますから、よくお休みください」
茉世は頷いた。顔が見られない。すれ違った瞬間に、爽やかな匂いがした。燃え上がり灰燼になれなかった埋み火が、また存在を露わにしはじめる。あの匂いを纏いながら、その手は石鹸の匂いがする。小さな耳朶は焼いたトックのようで、食むたびに身体が戦慄く。
彼女は風呂場に向かっていった。身体が熱い。微熱を持ったように疼く。けれども病熱ではない。
埋み火は爆炎に化けようとしている。意識の曖昧なときの記憶を掻き集め、清廉な男のあでやかな反応を茉世に聞かせようというのだ。彼女は二頭の狂犬を躾けなければならなくなった。だが言うことを聞きはしない。この狂犬は結局のところ、二つの頭を持ちながら一頭に違いなかった。埋み火によって生まれ、茉世に餌を乞う。
鱗獣院炎に点けられ、鱗獣院諺によって鎮火の機会を逃れた火は、あの石鹸の匂いによって勢いを増してしまった。見て見ぬふりをしていれば、明日には灰になっていたかもしれないというのに。
「あ………ああ………」
湯を浴び、冷たいタイルへ身を寄せ、彼女は大きな指に嬲られた胸の実粒を捏ねた。ここで燃え上がりたい! 肉欲はこの機ばかりはもう逃さないつもりらしかった。強烈な快感が谺する。
珠の雫を生らせた腿が擦り合わされる。彼女は唇を噛んだ。あの清楚な男を肴にしてしまう。微かな拒否感と強い誘惑。彼女は拒否を選んだ。しかし欲情は誘惑に乗った。乖離していく。
「ん………、んん………」
あの者はどのようにこの胸粒を甚振るのだろう。遠慮がちに触れて焦らすのか。マニュアルどおり導いていくのか。様子を見ながら試していくのだろうか。石鹸の匂いを思い出す。あえかな雰囲気の否めない性格にも顔には少々意外な無骨な形をしている。それでいて筋張り、所作に品がある。あの手が石鹸を転がし、泡立て、水に打たれていくのだ。この身にも触れた。この身に触れ、濡れた手が。
乳房を支え、下から勃起を掻いた。臥龍は目覚め、登りゆく。
「ふ、ぁ……ああああ!」
視界が爆ぜる。シャワーを跳ね返すような活力が彼女の肉体から発散されるようだった。
鱗獣院炎に散々煽られた乳頭による絶頂を叶え、茉世は息を切らした。今度は下腹部が甘く痺れて構うよう主張する。
巨体のために茉世には姿を確認することはできなかったが、人の気配があった。
「この野郎!」
禅だ。成猫より半年前の猫とライオンといった体格差であった。
「なんで蘭兄ちゃんを傷付けるんだ! 赦せねぇよ!」
茉世の腕を鷲掴んでいた巨手が離れる。鈍い音がした。痛々しい光景を予期した彼女は、風圧を恐れるかのように自由を得た両腕を構える。
「美しい兄弟愛だな」
禅を投げ捨てるなど、ぬいぐるみを放り投げることとそう変わらない。茉世の視界にもやっと末義弟の姿が目に入った。投げ飛ばされ、立ち上がれそうにもなかった。
「子供ですよ……」
兄のために挑まんとする華奢な中学生の姿は、胸に迫るものがあった。
「俺と3つも変わらんが?」
「体格差を考えてくださいな」
命に関わる怪我をしそうであった。一生に遺る傷を負いかねない。
「弱さは特権じゃねぇ。最近の奴等はそれを勘違いしている」
禅はまだ挑むつもりらしかった。鱗獣院炎へ突進する。
「強ぇやつは弱ぇやつを甘やかすのが当然で、正当防衛も許されないと?」
頭を掴まれた禅はまた投げ飛ばされる。年齢は3歳差、共に未成年。成人男性の平均身長を大いに上回る鱗獣院炎と、発育途中にあるうえ、小柄な禅であまりにも容赦がない。
「男性なら挑んで死ね。お前は三途賽川の息子だよ。そこは褒めてやる。腰抜け兄貴と違ってな」
壁に肩を打った禅の表情は痛みに歪んだが、弾かれたように懲りず鱗獣院炎へ飛びかかる。どっしりとした胴体を相手にしては負ける。では片腕を相手にすればよい。人は器物を扱うために牙と爪、本能的な膂力を捨てた。だが歯はあるのである。そして顎の力は、或いは腕力、脚力より勝るかもしれない。
豚の丸焼きのごとく太い腕に禅の歯が突き刺さる。
「痛ッ!」
ごす、と音がした。禅の躯体がゴム鞠と化して壁に叩きつけられる。茉世は戦慄した。鱗獣院炎の腕を覗き込めば歯型から血が滲んでいる。
「何?」
物音に気付き、様子をみにきたのだろう。霖が角から首を傾げていた。
「あっ!」
伸びている禅を発見し、それから鱗獣院炎を見遣った。
茉世は後ろからやって来た夫と蓮に気付く。
禅は救急車に運ばれていった。茉世は指示されたとおり、鱗獣院炎の傷の手当をする。明日診察に行くよう蓮は言っていた。
「窮鼠猫を噛むってか」
鱗獣院炎は巻かれた包帯を撫でていた。茉世は包帯の巻き方に自信がなかった。そう触られてしまうと、今にも崩れてしまいそうであった。
「ありがとな。そこは感謝しておこう」
彼女は首を振って俯いた。
「暴力は、良くないです」
「あんたの旦那を殴った件に関して謝ってやる。ンでも、あのチビについては、先に手を出したのはオレじゃない。手を出されたら、手を出して返す。それが流儀。わざわざデカいオレのほうが体格差を考えて手加減してくれるとでも考えていたなんて、そんな情けない話があるかよ。まさかそんなことはないだろ。有るはずねぇよな」
先に手を出したのは、確かに禅のほうであった。だが禅には理由があった。そして鱗獣院炎も煽りに煽った。しかし理由があるからといって、煽られたからといって暴行を働くのは果たして正しいのだろうか。赦されるのであろうか。何の後ろめたさもないと言えるのか。
「それでも、自分の力量差が分からずにいたら、悪者になるのは炎さんです」
「たとえばあれが女なら、オレは容赦したぜ。女は男に殴られるだなんて風潮に生きてない。そういう考えが存在する世界にな。けれども、男は違う。男は男同士、殴り合い、蹴り合う概念があるはずだ。それを分からないふりして、手前はチビでガキだから配慮されようだなんて、そんな無様な話があるか。最初から拳を捨てればいい」
「三途賽川はそうでも、世間一般はそうではありません」
「あんたがどれほど世間一般を知ってるってんだ?」
茉世は一度怯んだ。そしてこのわずかな時間に咀嚼した。腹落ち。
「確かに、何も知りません」
そのとおりだと彼女は思ったのだ。肯定するほかない。言い当てられたのだ。図星であった。納得し、合点がいき、得心した。ところが鱗獣院炎は気味の悪そうな目をくれた。
「開き直りか?」
「いいえ。わたしは本当に何も知らないのです。どこかアルバイトに出られたらいいのですけれど」
「不要。本家の長男の嫁がバイトなんて、男尊女卑のルールが泣くわ。働かねー亭主に働く女の夫婦が男尊女卑掲げてやがるなんて、惨めなことこのうえない。ポコチンが生えているから無条件で尊ばれるわけでもない。くだらなくとも面子というものがある」
「夫にフられてしまったのに、履歴書真っ白なんです。就職活動のとき、わたしはその必要はなかったけれど、もう高校生の段階で企業説明会みたいなのがあって……アルバイトしたことある人がいいって話していたんです。でも進学校で、アルバイト禁止で……わたしはどう生きたらいいのか、もう分かりません」
鱗獣院炎は、獅子のような面を寄越す。
「フられはしたが、離婚はしないって言ってたろうが。それが一番、オレ様は気に喰わねーから言ってる。そんな大好きな弟が恥を投げ捨てて欲しいって言ってる女なら、一族郎党に頭下げて回っても別れてやりゃいい。叶うかどうかは知らん。ンでも男たるもの、やれるかやれないかじゃねーだろ。やるかやらないか、だ。canじゃねーのよ、doなわけ。あの半端さにキレちまったよ」
「家に縛られているお人なのでしょう。そんな考えも浮かばないのではありませんか。しかも、オンナナンカノタメニ……」
いくら穏やかに振る舞っていても、家のためならば母に恨まれ、妹をどうにかしたかもしれない人なのだ。
「あ゛~」
金獅子は唸った。傷が痛むのか。永世は家にいる。今からでも病院に行くべきではないか。
「男の美徳は沈黙だ。一番女々しいの、オレじゃねーか」
茉世は眉を顰めた。
「炎さんはまだ18歳の子供ではありませんか」
「ンでも男だ」
「男でも女でも、人は人です。性別が2つだから、生き方も2つしかないなんてことはないはずです」
垂れ目と視線を搗ち合わせる。動物的だった。それは恋人同士の目交ぜとは異質だった。睨み合いに似ていた。
「生意気な女だな」
「三途賽川には染まれませんでした」
「まだ分からんよ」
「けれど夫にはフられましたから」
太く長く大きな腕が茉世を抱き寄せる。ココナッツの匂いが鼻腔に充満し、顔に当たる分厚い胸板に気分が揉み解されていく。この少年とは表現できない年下の大男の胸筋に、彼女は弱くなってしまった。
「小生意気だがいい女だ。蓮ニーサマが惚れるのも分かっちまうな。傷付いてんの?」
「違います……」
ぱんッと張った胸元から離れがたかった。まだ温かなこの肌に張りついていたい。しかし相手は、到底そうは思われなくても未成年。子供である。
「人妻と高校生で、ラブロマンスするか」
彼女は話も聞かずに、胸の筋肉へ頬を擦り寄せる。さりげなく。相手が高校生であることも忘れていた。強靭な膨らみに甘えたくなる。だが異性として甘えたいのではなかった。庇護者と被庇護者としての関係のうえで、であった。
「ホント、オレのおっぱい好きなのな、あんた。デカ赤ちゃん」
鱗獣院炎は胸元に居ることを赦した。彼女も甘えていた。
「おっぱい吸うか?」
襟をずらし、岩壁に似た緊張感を纏う胸を晒す。浅黒い肌に、男には大した必要性のない部分が淡く突起している。
茉世は吸いたくなった。だが相手は未成年。しかし未成年とは認識しきれなかった。どう見ても30代に差し掛かっている威厳と落ち着きなのである。
「デカ赤ちゃん」
後頭部を撫でられる。茉世はどうでもよくなってしまった。欲求に従って、鱗獣院炎の胸を吸う。健康的な男性から、乳が出ることはなかった。だが彼女は嬰児のように胸を揉む。
「くすぐってぇよ、赤ちゃん」
尻から抱え上げられ、背中を叩かれる。
茉世は突起を吸った。滲み出てくるものはない。虚無であった。舌先で転がしてみてもやはり虚無。
「……、ヤバ、………感じる」
頭上で吐息が漏れる。茉世は鱗獣院炎を見上げた。目が合う。ココナッツミルクとは異なる妖しい匂いが鼻腔劈いていく。脳髄が震える。
「勃った」
茉世は強い酩酊感を覚えた。鱗獣院炎の腕をすり抜け、腰のほうへ潜っていく。彼女は自身が何をしているのか分かっていない。大きな膨らみへと惹き寄せられる。
そして図体に比例した巨物を取り出すと、落ちてくる髪を耳に掛けて、唇を寄せた。
「茉世」
大きな掌が頭の上に乗る。茉世はその大き過ぎるものを頬張った。だが口に入りきらない。先端部だけ口腔に納める。
「やめなさい」
口では禁じておきながら、鱗獣院炎は強く茉世を制するつもりはないらしかった。拙い口淫に顔を強張らせ、ぎこちない快感に酔い痴れているようにさえ見える。
茉世は乳を吸うように、その何倍もの大きさがあるプラムを吸った。胸板に生えていた殻とは違い、露を滲ませている。乳の味とは違うが、彼女はそれを啜った。唇で乳暈を刺激するように、プラムもまた揉み解す。
「茉世………」
鱗獣院炎は放っておかれている根元から先端部前にかけて、唾液が滴り落ちていく感覚に耐えなければならなかった。しかし耐える気はないのだろう。半分、自ら慰める。茉世は妖しく蕩けた目をしながら眉根を寄せた。口で捉えたものが膨らんでいく。露の量が増え、味が濃くなっていく。苦い。
「く……っ、」
メロンを埋め込んだ肩が、二度三度、繊細な戦慄き方をした。やがて弛緩する。
茉世は脈動に怯み、しかし頭を押さえられて口腔に濁流を受けた。こふ、と噎せる。下を向けば粘液がこぼれ落ちる。ぬとぉ……と糸を引いていく。若さゆえの強欲で強壮、濃厚な種汁だった。
「ん」
大きな指が彼女の口に入り、舌を拭う。粘性を帯びた腐った米の研ぎ汁と思しきものがぴしゃ、と飛び散った。飛び散った先の床の数歩先に裸の足が着く。
「抱いてやれ」
鱗獣院炎はそこにやって来た人物から顔を背けた。
「……え?」
「お前なら旦那も怒るまい。茉世も、な」
「そんなの、本人たちに訊いてみないと分かりませんよ」
永世は頭に巻いていた手拭いを取り去ると、呆けている茉世の口元の汚れをその端で拭いた。彼女には目の前にいる永世を認識していないようだった。
「お堅いやつめ」
「たとえ恋人でも配偶者でも、無理強いしていいはずはないんです」
「世間一般、司法の模範回答しか言えねーの?」
永世は答えなかった。主家の嫁の肩に、躊躇いながら触れた。メトロノームのごとくふらつく身体を抱える。ところが彼女は身体が浮く前に、永世へしがみついた。
「オレ様の残り香が消えないってか」
「茉世さん……」
茉世は永世の胸へ頭を潜り込ませる。もはや頭突きに近い。
「抱いてやれ……抱け」
「抱きません」
彼は吐き捨て、絡みつこうとする茉世を往なす。玄関の前を通りかかったとき、玄関戸がからから音を鳴らした。
「ただいま」
御園生瑠璃が帰ってきた。永世と茉世の姿を認めると、靴を蹴り飛ばして式台を越えた。
「まっちゃん! どしたん?」
「お酒に酔ったみたいで……」
茉世は永世へ匂いをつける。身体を擦り寄せる。永世は御園生のほうを見ることもない。
「じゃあ水持ってくわ。ってか旦那サマたちは?」
「禅さんが体調を崩したので、病院に……」
「そか。じゃ、水持ってく」
別れかけ、永世は御園生を呼び止める。
「分家のお偉い人が来ていますので……特に遠慮するところはないのですが」
「分かった」
茉世は自室へ連れて行かれる。永世は彼女を下ろした。
「今、御園生くんがお水を持ってきてくださいますから……」
虚ろな眼は鏡面と化して永世の姿を映し出す。一呼吸、二呼吸している間は静かに座り、清楚な顔立ちを見上げていたが、彼女は永世に縋りついた。
「茉世さ………ん」
相手は女である。油断したのだろう。さらに主家の嫁だ。手荒な真似はできない。彼は茉世によって畳へ敷かれてしまった。後ろ手で支え、起こしている上体に、茉世が這い上がっていく。
「ぼくは鱗獣院さんではありませんよ……」
宥めた手を彼女は奪った。頬擦りする。鼻を近付けた。石鹸の匂いをほのかに纏っている。
「茉世さん……目を、覚まして………」
だが茉世は、猫みたいに鼻を鳴らして永世の匂いを嗅ぐ。鼻先を突き出し、聞香する。首に籠った匂いを吸い、乾燥した唇に鼻を掠れさせ、それから耳元を嗅ぐ。彼女は耳殻を嗅ぎ回り、やがて小さな耳朶を口に入れた。飴玉を見つけたのだ。舌先で転がし、食む。
「ぁ……っ、茉世さ……ん」
乗り上げる茉世の身体を支えるか否か、宙に手が置かれる。彼は片腕ですべて支えなければならなくなった。
「いけない………茉世さん」
胸板に手をやって、彼女は永世の耳朶を舐め続ける。そこから授乳されてでもいるかのようだった。
ちゅぱ、と音をたてて彼女は耳朶から口を離す。
「茉世さん……」
茉世は舌先をちらつかせながらはくはくと微かに顎を動かした。今し方放した餅の弾力が舌先に留まり、口寂しい。
「落ち着い………っん、」
彼女は唇の寂しさを埋める手段を見つけた。接吻だ。薄皮の逆剥けた唇をもにもに食んだ。吸う。充血し、腫れていく。
「ま、つよ……さ………」
身動きを彼女は赦さなかった。奥に潜む桜色の軟体を引き摺り出そうと茉世は躍起になった。彼女は物に憑かれている。そういう技巧や勇ましさ、気力がこの女にあるとは思えない。
クーラーの唸り声に、水音が混ざる。
「ふ………ぅう」
茉世は桜色の餅を甘く噛んでいた。雨漏りしている。2人の間で雨漏りしている。ここ暫く晴天続きだったはずだが、畳には水溜りができている。粘こい雨漏りのためだった。しかし構わず、茉世は永世の口元で桜色の餅を食んでいた。
「ん、く…………まつ、よさ……」
茉世は離れようとすることを赦さなかった。作った距離をなくされ、口水を啜る。
『お~い、久遠きゅ~ん。まっちゃ~ん』
足音が近付いてきていた。永世は茉世を抱き締め、そのまま一息に身体を回転させた。上下が入れ替わる。ビーチ・フラッグスのごとく永世は茉世を部屋奥へ押しやると襖へ跳んだ。先手必勝。自ら先にやってきた御園生を迎える。
『まっちゃん、だいじょぶそ?』
『ええ。もう寝ています』
茉世は懲りずに突き飛ばされても襖を開けようとした。開かない。押さえつけられている。
『蓮クンが、嫌な予感がするって、まっちゃんと電話させろって言ってんだけど……』
『―お電話代わりました。茉世さんはすでに寝ていまして……はあ………特に変わったことはありません。ところで禅さんは……』
彼の反応からして、そう厳しい状態ではないようだ。
襖をがちゃがちゃやっていると、突然軽くなって引手が滑っていく。
「あっ!」
子機を片手にしている永世が振り返った。
「起きてんじゃん、まっちゃん」
御園生は水を差し出す。茉世はぼんやりと昔馴染みの顔を見詰めていた。
「お酒は程々にな」
水を渡すと御園生はすぐに出ていった。襖は開け放しで、子機を片手に次男とやり取りしている永世を一瞥し、労いの微苦笑を浮かべている。次男は彼にとっても腫れ物らしい。颯爽と去っていく後姿を茉世は見送っていた。ふと、その双眸に理性の輝きが戻った。
自分は何をしていたのか……
茉世は省みようとしたが、思い出せない。鱗獣院炎の腕の傷を手当てしていたときから途切れている。襖と襖の間では、永世が子機を耳から離したところだった。彼は部屋を覗いた。そして茉世に気付く。
「よかった……茉世さん」
疲弊した柔和な笑みがそこにある。彼女の目が泳ぐ。
"彼の手は石鹸の匂いがする"
恐ろしい天啓に身を打たれた。過ぎた夏に鳴り響いた雷のごとく、彼女の脳裏で稲光を起こす。
耳朶は小さく、韓国餅のよう。
「ごめんなさい……永世さん……」
おかしな妄想は隠すべきだ。だが彼女は謝ってしまった。後先考えず。内心でおもちゃにしてしまったのだ。
「お水、飲んでください」
永世は傍にやって来た。子機を持つ手も麗らかに見えた。―石鹸の匂いがする。
茉世はぶるると震えて水を飲んだ。畳に目を這わせる。彼の日に焼けた肌を見ると、肌でなくとも布越しの肉体を見ると、稲光に灼かれてしまう。
「鱗獣院さんのおうちは……その…………子を絶やさないように、不思議な力が宿っているんです」
「え?」
何故急に鱗獣院家の話が切り出されたのか彼女には分からなかった。
「だからその……茉世さんの気にすることではありません。きっと、それで、引き摺ってしまったんだと思います。茉世さんの人格がどうこうというお話ではなくて……」
「何か粗相をしてしまったのですね」
人格を疑われることをしでかしたらしい。そうでなければ、このような庇い方はされなかろう。けれども茉世は分からなかった。否、泥沼の微睡みの最中にみた淫蕩な夢は。薄らと炙り出された浅ましい視覚情報を読み取る。
唇が寂しい。何か噛んでいた。癖になる予感がある。歯が軋る快感とは違う。おそらく柔らかなものだった。満たされなかった唇と舌の孤独が欲を知ってしまっている。享受を当然としている。胸が苦しい。だが甘美だ。しかし毒の甘さ。
「ごめんなさい………」
水の半ばほど減ったグラスが手の厭な熱を奪っていく。
「あ、い……いいえ。お風呂が沸いていますから、どうぞお入りください」
どこか気拙げな永世とこのまま離れたくなかった。
「永世さん」
喉を雑巾絞りしたかのような声だった。
「……はい」
呼んだはいい。呼んで、相手が立ち止まったまではいい。しかし時間は止まらない。沈黙するだけ重苦しくなる。だが茉世は言葉を用意しておかなかった。ただ反射的に呼び止めてしまった。握ったグラスの水は、火照った身体によって煮え滾りそうだ。
静寂は針と棘と化し、毛穴を刺す。冷気は鑢だ。
「な、なんでもないです。すみません、お忙しいのに、こんな……」
「とんでもないことです。お疲れでしょう。布団を敷いておきますから、よくお休みください」
茉世は頷いた。顔が見られない。すれ違った瞬間に、爽やかな匂いがした。燃え上がり灰燼になれなかった埋み火が、また存在を露わにしはじめる。あの匂いを纏いながら、その手は石鹸の匂いがする。小さな耳朶は焼いたトックのようで、食むたびに身体が戦慄く。
彼女は風呂場に向かっていった。身体が熱い。微熱を持ったように疼く。けれども病熱ではない。
埋み火は爆炎に化けようとしている。意識の曖昧なときの記憶を掻き集め、清廉な男のあでやかな反応を茉世に聞かせようというのだ。彼女は二頭の狂犬を躾けなければならなくなった。だが言うことを聞きはしない。この狂犬は結局のところ、二つの頭を持ちながら一頭に違いなかった。埋み火によって生まれ、茉世に餌を乞う。
鱗獣院炎に点けられ、鱗獣院諺によって鎮火の機会を逃れた火は、あの石鹸の匂いによって勢いを増してしまった。見て見ぬふりをしていれば、明日には灰になっていたかもしれないというのに。
「あ………ああ………」
湯を浴び、冷たいタイルへ身を寄せ、彼女は大きな指に嬲られた胸の実粒を捏ねた。ここで燃え上がりたい! 肉欲はこの機ばかりはもう逃さないつもりらしかった。強烈な快感が谺する。
珠の雫を生らせた腿が擦り合わされる。彼女は唇を噛んだ。あの清楚な男を肴にしてしまう。微かな拒否感と強い誘惑。彼女は拒否を選んだ。しかし欲情は誘惑に乗った。乖離していく。
「ん………、んん………」
あの者はどのようにこの胸粒を甚振るのだろう。遠慮がちに触れて焦らすのか。マニュアルどおり導いていくのか。様子を見ながら試していくのだろうか。石鹸の匂いを思い出す。あえかな雰囲気の否めない性格にも顔には少々意外な無骨な形をしている。それでいて筋張り、所作に品がある。あの手が石鹸を転がし、泡立て、水に打たれていくのだ。この身にも触れた。この身に触れ、濡れた手が。
乳房を支え、下から勃起を掻いた。臥龍は目覚め、登りゆく。
「ふ、ぁ……ああああ!」
視界が爆ぜる。シャワーを跳ね返すような活力が彼女の肉体から発散されるようだった。
鱗獣院炎に散々煽られた乳頭による絶頂を叶え、茉世は息を切らした。今度は下腹部が甘く痺れて構うよう主張する。
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