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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 44

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 茉世まつよはココナッツミルクのような匂いを嗅ぎながら我に帰った。硬い肉感が薄い布地の奥にある。ゆらゆらと揺籠みたいに揺れて眠気を誘う。冷気のなかの温もりに頭を潜り込ませる。羨ましい猫団子に加わった気分だった。
「お母さん……」
 父親と認識するものより温かく、脂肪とは異質で硬く骨太だが、肉感があるのだった。
「違いますが」
 ぴしゃりと言われ、彼女の目が覚める。母親のはずはない。それは女性と見紛うことは難しい、がっちりと逞しい男体であった。作務衣を身に纏った鱗獣院りんじゅういんだんである。ぱんと張ってよく発達した驚異の胸囲を誇る衿元は、握り締めた皺が寄り、盛り上がっていた。
「おはよう、赤ちゃん」
 小馬鹿にするように鱗獣院炎が言った。茉世は辺りを見回して、そこに永世もいることが分かると、分厚過ぎる胸板を突っ撥ねて、正座する。2人は大事な話をしていたようだった。空気が妙に堅い。
「ご、ごめんなさい……大事なお話の途中に………」
 茉世は頭を下げて、腰を上げた。
「いいえ。炎さん。委細承知いたしました。ぜひ、引き受けさせてください」
 襖へ近寄った彼女は、永世のどこか硬質な音吐おんとが気にかかり、振り返る。
「ありがとう。すまんな」
 不遜な鱗獣院炎の態度もどこかしおらしい。
 だが茉世には、三途賽川さんずさいかわの女には関係のない話だ。彼女は自室へ戻った。人肌に包まれ、被庇護欲に満たされていた豊かな気持ちが徐々に冷め、日常生活に頭が冴えていく。幼さに甘えていたい心地が薄らいでいく。童女ではいられない。嫁いだのだ。そして男を受け入れる儀式を行なった……
 一人になると、彼女の身体は疼きはじめた。自室の襖を閉めると屈み込む。胸の二点が痒みに似た灼熱感を持つ。車内で散々弄くり回されたせいだろう。胸元を抱え、甘い刺激を期待する身体をいさめた。血が沸き立つような悪寒をやり過ごす。痒みとはいえない掻痒感に焦れる。燻る胸の先端を触る想像が先走り、腰が揺れた。そして眼球の遥か遠く、奥のほうから、緑のなかに佇む横顔が現れてくる。だがその姿が一瞬にして切り替わった。ベッドの上で腕立て伏せをするかのような状態を、視点は下から見上げている。苦悩に満ちた眉間に色香が漂い、驕慢なくらいに純潔無垢な姿体を魅せた白百合は、今度は白梅のごとく奥ゆかしく匂い立つ。それは茉世のみた現実か、妄想か。
「だ………め…………」
 口で禁じても行動を制することはできなかった。彼女は義弟から借りている服の下に手を入れ、己の乳房を揉んだ。その先にあるみのりがさらに期待を膨らませる。
「んん………っ」
 胸を揉むまでだ。それ以上はいけない。はしたない。不埒だ。淫蕩だ。
 しかし固く勃ち上がり、触られ、嬲られ、弾けるのを待ち構えている。身体は茉世をたばかった。じんわりとした甘い痺れを彼女に送り込み、考える場所を鈍らせる。ただ思いのまま乳頭を虐げ、快楽に身を任せよ、と勧誘している。反対しきれなかった。抗っているのは茉世だけである。
「あ……っ、ん」
 彼女は屈した。熟れた左右の小果実を摘む。二本の指で挟み、浅く撚った。光線が脳髄を射ち貫くような快感が起こる。
「あ………あん」
 そしてひとつの指で、まだ硬い突起を往復して轢いていった。継続的な快楽が送られていく。思考がぼやけた。口は閉じることをやめ、嚥下を忘れ、唇が潤む。
 立っていられない。崩れ落ちるように膝が畳を叩く。藺草いぐさの網目に雫が落ちる。
「ぅん………んあ………」
 乳頭を甚振るのが止められない。目を開きながら半分寝ていたのかもしれなかった。視覚も聴覚も機能しているようで、半分休んでいた。
 ただ思いのまま、視界も思考も空にして胸の実粒を捏ね擂り潰していたところに、ふとモンシロチョウのごとく肖像が舞い込む。
「だ……め、だめ…………」
 それをしてはおしまいだと彼女は思った。それはいけなかった。侮辱だ。汚涜だ。不敬だ。しかし禁じれば禁じるほど意識し、より強く耽溺たんできしてしまう。相手の気持ちも思い遣れない。彼女はそういう業も欲も深い俗人であった。
 茉世は自身の指でたわわに実った膨らみの色付きを虐めていたが、彼女の欲望に満ち満ちた内心では必ずしもそうではなかった。別の人物に左右の蕾を捏ねられている。指先で小突かれ、揉みしだかれている。
「あ………ん、あ……ぁッ」
 身悶えながら小さな勃起を撫でる。触れる快感、擦れる快感、また戻っていく快感、触られている快感。下腹部にも濡れた熱が高まっていく。腰が揺れて止まらない。
「永世………さん、…………」
 すぱん、といきなり襖が開く。足音もなかった。咄嗟に防衛本能へ切り替わる。
「いい匂いがする」
 子供が立っていた。児童が、じとりと子供らしからぬ爛々とした目を見下ろしている。鱗獣院りんじゅういんげんだ。この子供は年齢こそ幼いが、油断ならない人物だった。
「ひとりでいけないことしてるの? にいに呼んでくる」
 走って引き返す諺は、目の前からやって来た巨体に気付かず正面衝突する。小さな躯体は軽々と持ち上げられた。
「あんまり騒ぐんじゃねぇや」
 鱗獣院炎は肩に子供を担ぎ、開いたままの襖から茉世を一瞥する。彼女は正座し、まるで叱りつけられるかのように高い位置からの眼差しを受け入れた。
ガキが悪ぃね」
 その有様は親子のようだ。
「い、いいえ………」
「具合はどうなんだ」
「特にどこも悪くはないです……すみませんでした。わたしったら、いつのまにか寝ていたみたいで………」
 幼児みたいに、この年下の大男に抱擁され、安心しきって寝ていたのが恥ずかしい。
「乳が恋しいのか、デカ赤ちゃん」
 よく冷えた空気に、その大男の筋肉質な温もりとがっちりとした躯体は心地良かったのだ。
「揶揄わないでください」
 彼女は目をしょぼつかせる。鱗獣院炎は面白げに笑っている。
「で? 旦那サマでも呼んできてやろうか」
「蘭さんはお忙しいでしょうから……」
「愛しい女のためなら時間くらい割けるさ」
 恋愛ドラマの恋愛結婚をした男女ならそうかもしれない。
「お邪魔はできません」
 蓮との浮気を禅に糾弾されて以来、夫とは電話では話したが、顔を突き合わせてはいなかった。どういう態度をしていいのか分からない。
「呼んできてやる。旦那の最優先事項は跡継ぎを作ることだ。何のために何人も兄弟がいると思ってやがる」
 鱗獣院炎は肩に乗せた甥を鴨居にぶつけないよう屈みながら去っていった。
 茉世は夫が来るのだとばかり思っていたのだが、来たのは蓮である。思わず座りながら後退ってしまった。クーラーも扇風機も点けていないというのに全身が冷えていく。
「あ、あ……あの、蘭さんは………?」
 蓮はしっとりとした視線を窮鼠を彷彿とさせる茉世に注ぎ、沈黙していた。
 この男と2人きりで部屋に居たくない。また有る事無い事を言われてしまう。茉世は相手を刺激しないように気を遣いながら距離を作った。
「体調はどうだ」
 鱗獣院炎にも似たようなことを訊かれた。
「別に、何とも……」
「そうか。よかった。クーラーを点けたほうがいい。熱中症になる。水を持ってこようか」
 彼女は首を振った。蓮は傍へとやって来る。
「な、なんです………か………」
 壁へと押し付けられるのかと思った。鱗獣院炎ほど驚異の胸囲ではないが、黒い半袖シャツの下の胸板が迫るのだった。洗濯用洗剤のなかにわずかに汗の匂いが混ざり、茉世を壁との間に閉じ込める。蓮は何をするつもりなのか。
 彼は手を伸ばした。そしてピッと音を鳴らした。無機質な呻めきが聞こえはじめる。
「温度は高くしておくが、あまり身体を冷やすな」
 どろどろに溶けた熱いチョコレート汁を耳腔に注ぎ込まれているようだった。
 茉世の危懼は無駄であった。壁と胸板に挟まれということはなかった。蓮は柱に留められた皿にリモコンを返す。
 優れた牡の匂いと緊張感が、彼女の肉体を勘違いさせた。達することのできていない官能がまた疼きはじめている。妖しい光輝を秘めた双眸は眠そうでもあった。蓮を極力視界から外そうとする。
「鱗獣院からおかしなことはされなかったか」
「あ………あの、蘭さんは………」
 疑惑の深まってしまう焦り、そしてまた別の焦りを抱えていた。彼女はそのためにまったく違う応答をした。
「居間にいる」
 鱗獣院炎の蘭を呼んでくるとは何だったのか。茉世は空気の重さに四肢を縛られている心地がした。蓮と何を話せというのだ。クーラーを点けて引き返す様子もない。
「先輩」
 媚びるような目が下からやって来る。彼はわざわざ目線を下げてよこした。飼主の機嫌を窺う愛犬みたいな面構えが厚かましい。
「あの男とはどうなった……?」
「え……?」
「青山藍……」
 蓮もとりあえずは芸能人を知っているのだろう。
「別に、どうも………」
 鼻先がぶつかりそうなほど近付き、茉世の言葉は消え入った。
「蓮さん……」
「なんだ」
 吐息がかかる。背後には壁。もう後ろへは退けない。
「近い、です……」
「俺じゃダメか……?」
 あまりにも近い人の気配に、生毛が逆立つようだった。
「誰にも触らせないでほしい。先輩を誰にも触られたくない」
 顔を横にやった。横面を晒す。
「で、でも蓮さん………」
「離婚してもらえるよう、兄に頼んでもいいか。兄と別れて、俺と結婚してほしい」
 いくら外貌に秀で、その美貌のみで艶福家になろうとも恋愛事には疎いのだろう。交際期間も設けず、互いにどのような人物か知りもしないで、一時の感情で先走る。全力疾走だ。全力前進で脇目も振らない。
「わたしには結婚資金もないし……それに、三途賽川から離れたら、身寄りもないんですよ。蓮さんはまだ学生で若いから、結婚というものに理想を抱くのも分かりますけれど……」
 だがそうであろうか。この三途賽川の為体ていたらくで結婚などに理想など抱けるのであろうか。茉世は幼少期の頃ならば、花嫁だのウェディングドレスだの結婚式だのいうものに夢と理想と期待を膨らませていたものだったが。しかし実際は違ったではないか。女性差別と産む役目がそこにあるだけだった。
「金のことは気にしなくていい。家のことも……もう少しだけ待ってくれ。今はただ、約束がしたい。俺の要求ばかりですまないが……一緒に暮らしていくのなら茉世さんのことしか考えられない」
「気に……します。そうでないなら多分、またこういう結婚になるだけですから。社会に出たら、素敵な女性はたくさんいます。聞かなかったことにします……いつかきっと恥ずかしくなりますし」
 彼女なりに気を遣ったつもりであったが、所詮彼女も男心を知らぬ女であった。
「先輩がいい」
 横面のほうへ合わせて、彼は唇を寄せた。
「蓮さ………ん。よして」
 静電気が走るようだった。触られたくない。以前ならば、その優秀な牡性に身を差し出していたかもしれない。だが居座る白百合の影が静電気を起こすのだ。白梅のごとく薫る奥ゆかしさが。
「よして!」
 彼女は叫んでいた。
 蓮は眉尻を下げる。まるで拒絶と共に張り手でも喰らわされたかのような態度であった。そして罵詈雑言を投げられ、踏んだり蹴ったり殴られたりしたかのような消沈ぶりである。
「悪かった」
 だが抱き寄せることはやめなかった。
「この歳になって初めての感覚だから、どうしていいのかよく分からない。行く先は結婚しか見当たらない。世間知らずの自覚はある。でも、赦してくれ」
 異常な家に生まれ育ったのだ。自由恋愛は禁じられ、異性間恋愛を前提にされておきながらその異性、つまり女は差別の対象なのである。いつ、どのように世間一般の恋愛と関わり合いになるのか。
「貴女に嫌われたら、俺はとてもとても生きてゆかれない」
 それは嘘だ。脅迫だ。あまりにも大袈裟で、白々しい。茉世に、嫌悪を抱いた途端、その人の心臓を止める力はない。器物を持って殺そうとしても返り討ちに遭うだろう。寝込みを襲ったとて、一撃で仕留める器用さも腕力もない。
「先輩……」
「わた、しも……三途賽川に捨てられたら、もう行き場もなくて、でも一度裏切ってしまって、一度ならず二度までも……お願いですから蓮さん。放っておいてください。蘭さんを裏切れません。もう後がないんです。シャンソン荘でも……」
 売春の疑いがかかってしまった。疑いとは、事実か否か定かでないということだ。青山藍は性交の後に金を置いていった。それは拾い上げられ、缶に纏められている。受け取ってしまっているのだ。それを疑惑というのか。事実というのではあるまいか。青山藍を相手に、売春していたのだ。
「何かあったのか」
「蓮さん、わたしを憎からず思っていてくださることには感謝しています。ここに来たときと比べると、随分優しくしてくださって、気持ちとしてはありがたいのも本当のところです。でも……、迷惑なんです。迷惑、なんです……こんなところ、また誰かに見られたら……」
 襖が軽く叩かれる。
『公認だから好き放題してくれていいぜ』
 鱗獣院炎の声が曇って聞こえた。
「え……?」
「先輩の身体を慰めに来た。誰にも触ってほしくない」
 茉世はまだ、襖越しに聞こえた言葉の意味を理解していなかった。聞き間違いか。幻聴に決まっている。
「こんなのは、不倫です! 浮気です!」
「そうだな」
『蘭ニーサマ公認だ。閨房指南の後なら別に構いやしねぇとよ。特に三途賽川本家の血筋なら』
 つまり禅の糾弾は、蓮との不適切な接触が理由ではない。永世と関係を結ぶ前であったために糾弾されたのだ。
『惚れた相手のことは忘れろ』
 蓮は目の色を変えた。青褪めて見えた。恐ろしさに顔を背けた。
「夫を呼んでください。夫を呼んで……」
 すでに不倫をしてもいい状態である、などということはないはずだ。三途賽川のやり方は理解できない。一度糾弾する立場にいながら、今ならば不倫をしても構わないと言い出す精神状態に切り替われるものなのか。
『分かった』
 茉世はおそるおそる、視界を少し上に滑らせる。白い素足がふたつ並ぶ。
「他に好きな人がいるのか」
「……わたしは蘭さんの妻です」
「気持ちは伴っているのか」
 白々しい虚言を吐くつもりはなかった。だが否定したときにまた戻ってくる問いがどのようであろうとも、上手く返す自信はない。沈黙は便利であった。
「貴女のことは俺が幸せにする……!」
 腕を掬い取られる。狙ってか否か、左手である。肉が拉げ、骨が軋むほど容赦のない握力は、決して暴力や脅迫の意図を帯びているわけではないようだった。子供が意地を張り、我儘を言う調子で蓮が迫り、茉世はたじろぐ。
「他に好きな人がいるのなら諦めて、俺と一緒に来て」
 左手を人質に取られていた。胸に抱かれてしまっている。黒いシャツは汗ばんでいた。これが三途賽川の次男の務めを失った男の為体ていたらく
「そんな勝手な……」
 三途賽川蓮の剥き出しの我欲。戸惑い。遅れてやって来る、三途賽川の重圧と抑圧。固く厳格に築かれた家の殻に籠りきった結果、まったく幼稚なまま肉体だけが育ったのだろう。
「俺を選んで……」
 他家に生まれ直し、出会い直せたとしたら。或いはこの男に慕情を覚える道もあったのかもしれない。だが冷酷な目を知っている。浴びせられた厳しい言葉をまだそらんじられる。記憶から拭い去ることのできないおぞましい家訓に慄いている。茉世は艶福家ではなかった。このような言い寄られ方をしたときの往なし方をしらない。どう対応するのが最適なのか思いつかない。
 そうこうしているうちに襖の奥で足音がした。
『茉世ちゃん、開けるよ』
「どうぞ……」
 家長の登場である。だが蓮は胸に抱いた腕を放さない。それどころか、襖が開くと同時に兄嫁を引き寄せる。物を取り上げられることを恐れた子供にも似ていた。
「茉世さんを俺にください」
 着流し姿の蘭と鱗獣院炎が並んで立っている。蘭は小柄で華奢な男ではなかったが、大男と並ぶことで、頭頂部に生えた三角形の耳を入れても非常に小柄で華奢な男に見えた。
「人にものを頼む態度じゃぁねぇわな」
 蘭は茉世を一瞥した。目が合ったと認めた途端な逸らされる。
「いいよ」
 あまりにも簡素な返事だった。
 人に頼んでおきながら、それを承諾されることは期待していなかったのか。蓮は眉を顰めた。
「蘭ニーサマ?」
 鱗獣院炎も渋い面を見せた。
「でも離婚は無理だな。離婚は無理。だから世間的には不倫ってことになるけど、蓮くんが茉世ちゃんのこと好きで、茉世ちゃんも蓮くんのことが好きなら、おでが口を出す権利は放棄するよ」
 何本も生えた大根みたいや毛尨けむくの尻尾がひらひら動いている。
「何言ってんだ、あんた」
 鱗獣院炎は侮蔑の目を隣に寄越している。
「離婚はおでの一存で決められないよ。それとも炎くんも口添えしてくれるの」
「バカか、あんた。嫁を弟に奪られようとしてんだ。男として何も言うことねーのかよ。三途賽川一族郎党お得意のクソみてぇな男気は?」
「オトコギ……」
 蘭の口元が陰険に弧を描く。
「兄にまさる弟におんなを譲るのは、当然なのが男気だな」
 鱗獣院炎は鼻を鳴らした。
「兄ってだけで優ってんのが三途賽川のルールだろうがよ。いいか、キツネ野郎。本家がこのザマでどうする」
「おでは、蓮くんのために茉世ちゃんを選んだんだよ。結婚させてあげられないのは残念だけど……それでも傍に居られる」
 茉世はただ呆然としていた。蓮くんのために茉世ちゃんを選んだんだよ。蓮くんのために茉世ちゃんを選んだんだよ。蓮くんのために―……
「別に嫁を好こうが好くまいがどうでもいい。自由恋愛なんざできねーんだ、三途賽川一族オレたちは。オレがキレてぇのはそこじゃない。それでも候補ンなかから選んだ女だぞ。弟に奪られようとしてるなら怒れ。あかの他人ならとにかく、血を分けた弟が厚顔無恥もいいことに、いけしゃあしゃあと"女をくれ"と言い、貴様は"はいやります"だと? 喧嘩しろや。オレ様は仲裁する気でいたのになんだこの腐れっぷりは。男の腐ったのは。三途賽川を出ていった腑抜けのヌかすことだ、女を寄越せと恥ずかしげもなく兄に泣きつくのはこの際どうでもいい。でも貴様は三途賽川本家の家長だろうがよ。女を寄越せと言われたら、まずは抗え。戦争だってそうだろが。バカか。こんなこと言わすなや」
 鱗獣院炎は、妻を寝取られた男の襟首を掴んでいた。だが蘭の目に怯えはない。
「好きな子に嫌われることも厭わず、蓮くんはよくやってくれたよ。不倫は犯罪じゃない。それにおでも承認してる。傍に居られるのが幸せだと思って、茉世ちゃんをお嫁さんに選んだおでは意地の悪い兄だったかもしれないな。でもこうなったなら……家のために離婚はできない。でも2人よろしくやればいいよ」
 大男は本家の家長を投げ捨てるように放した。
女卑じょひれるほど尊い男は、この一族いえにはいねぇやな」
「ごめんね、茉世ちゃん」
 女は道具である。女に人格はないのだ。妻は弟への褒賞である。
 夫の身体が薙ぎ倒された。岩石を彷彿とさせる拳が、その尨毛耳の生えた頭を打ったのだった。
 茉世は蓮を突き撥ねた。だが彼は放そうとしない。その胸を肘で打つ。蓮の腕が開く。彼女は畳に横たわり、上体を起こした夫へ駆け寄る。恋愛感情は介入しない。居場所が欲しいだけだ。彼女は寄る辺が必要なだけだ。だが夫は夫。
「蘭さん……」
 肩に触れた手に夫は応えた。応えたと思われた。ところが握り返された彼女の手は、丁寧に彼女の元へ戻される。
「家長がこれで、"キボク"になる辜礫築の倅が気の毒だ」
 立っているときでさえ上空にあった大男の垂れがちな目は、座していると天空にあるようだった。
「弟たちには幸せになってほしい。弟には」
 蘭は鼻血を拭う。弟には。裏を返せば弟でなければ、搾取しても構わないということか。
「そのためなら、炎くんや茉世ちゃんを、おでは不幸の谷底に突き落とす。諺ちゃんも、久遠くんも……」
「オレ様の不幸なんざ高が知れてる。ンでも自分テメェの嫁はどうする。不幸にすると宣言して本当に不幸にしちまうほど惨めで情けない男はねぇぞ。この家は男尊女卑。何故だ? この家に生まれたからには男は幸せになんてなれん。幸せなんぞ望むな、女々しい。お前も兄から与えられた幸せに満足するな。それも兄の嫁を掻っ攫うなどと。内心の自由にも程がある。三途賽川を出ていこうが、手前はどこの家の胤で血肉を与えられて、誰の女の産道を通ったのか、思い出せ。捨て駒になり死ね。それが"キボク"になった奴等への礼儀だ。ぞんざいにされた女たちへのな。手前等の母親と妹への。それも赦されない身になったのなら、働きアリとして尽くせ」
 茉世は大きな手に腕を引かれていった。
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