18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-3

結局は俗物( ◠‿◠ )

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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 43

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 鱗獣院りんじゅういんだんは泊まっていくつもりらしかった。庭にあった車も帰ってしまった。
 茉世まつよは家事代行員の出したりんの服を借りていた。無断であろう。それを済まなく思った。
 彼女は縁側で囲碁をやっている鱗獣院炎と禅の傍にいた。鱗獣院炎がそうするよう命じたのだった。禅は顔中に絆創膏だの包帯だの、痣だの瘡蓋だのがあった。まだ、学内排他の件は解決していないのだろう。
 からからと扇風機が左見右見とみこうみしている。若い癖っ毛がふわっ、ふわっと踊り、脱色によって傷んだ金髪はずっしりと靡いてやる気配もない。
 彼女は視界に碁盤と碁打ち2人を入れているようで、焦点はその奥、菜園に合わさっていた。秋がはじまるというのに、瑞々しく生い茂る緑の中に、白百合が立っている。目を離せない。
 声変わりしているのかしていないのか分からない高い性質の癇癪にも靄がかかっていた。物陰が―人影が退いて、さらに白百合の人が見えるのだ。
 目の前を突っ切っていく姿も、目で捉えてはいたが、取るに足らないことだった。日に焼かれていく、すでに日に焼けてもいる狂い咲きの白い大花が、網膜に輪郭を灼きつけている。
「惚れたな」
 鱗獣院炎の声もまた届かなかった。茉世はぽぅ……と、白い袖と軍手の狭間にある日に焼けた腕を凝らしていた。細く思っていたが、やはり健康な男体。肘が動くたび、筋肉質の活気が窺える。あの腕に、抱かれたのだ。彼女はふいと顔を逸らした。
「茉世、碁は打てるか」
「……いいえ」
「将棋も?」
「はい……でも、源平碁リバーシなら……」
 鱗獣院炎は鼻で嗤った。
「チョコレート食いてぇって言ってるやつに、ミルクココア渡してくるようなもんだな」
「すみません……」
「オレ様が直々に教えてやろう。子供がいなくとも、オレ様の遊び相手になりゃ、ここにいる動機は十分にある。蓮ニーサマを……」
 彼は庭を見据えた。砂利を轢く音が聞こえてくる。漆黒の車がやってきた。
「蓮ニーサマをここに留め置いたのも、オレ様の遊び相手になってもらうためだったが……あの末弟クソガキも筋は悪かねーな。おい、辜礫築つみいしづくせがれ
 トマトやきゅうりが支柱を覆い、緑の壁、生垣のようになっているところから、永世が顔を覗かせる。茉世は咄嗟に顔を伏せた。どう接していたのか忘れてしまった。初めて知り合ったわけではないはずだというに、初対面よりも厄介な戸惑いに焦る。
「おかえりなさいませ、茉世さん」
「た………タだいマ、帰りまシた………」
 声が出なかった。喉を縊られたようである。掠れ、震え、消え入る。
「あんた、碁は?」
「囲碁は不得手ふえてです」
「ンなら、何ならできる?」
「将棋と麻雀でしょうか」
 鱗獣院炎はまた鼻で嗤った。
「蓮ニーサマが帰ってきてから、相手してもらぁよ」
 どっしりと座布団に尻を沈ませていた大男は軽く立ち上がって玄関のほうへ回っていった。茉世は焦った。永世はまだそこに立っている。いつまでも俯いてはいられない。
「あ……あの、この前は、どうも………お世話に、なりました………」
 どうにか、それらしい言葉を絞り出す。なんとか浮かんだ。だが穿ほじくり返していいことだったのであろうか。
「こちらこそ……」
 カラカラカラ……と扇風機が小さく軋る。風鈴がちりんと鳴った。玄関から出てきた鱗獣院炎が、車から降りてきた運転手に吠える。日はまだ明るいが、冬場なら視界不良なほど暗くなる時間帯だ。
「そろそろ、霖くんも帰ってきますから……」
「そう、ですね」
 霖が帰ってくるから、何だというのだろう。しかし霖が帰ってくるから、霖が帰ってくるために、霖が帰ってくることによって、ここを立ち去る重要な用事があるらしかった。永世は首に下げたタオルで額の辺りを拭い、瑞々しい世界に戻っていこうとした。
「永世さん」
 名前を呼ぶのがこわく感じられた。だが咄嗟であった。落ちたものを反射的に拾うように、離れていこうとするものを、呼び止めておかなければならない気がした。気がした―気がする間もなかった。発音もイントネーションも分からなくなる。どのような音吐おんとで彼を呼んでいたのか。
 振り向いた様も、初めてみるような気がした。
「はい……?」
「るりるりには、内緒にしておいてください」
 言いたかったことは、意外にもすんなりと喉を通っていった。御園生みそのう瑠璃とも、おかしな関係になりそうであった。彼がどう受け取り、どう解釈するか分からない。説明をするのも嫌だった。「三途賽川の産む機械」だと、昔馴染みで部外者の彼には知られたくない。永世に対して感じてしまっている異様な見えない電流付きの壁を、御園生との間には築きたくなかった。温かな思い出に帰れる御園生との間柄では。
「はい。ぼくもそのほうがいいと思いますから、ぼくからは言いません」
「ありがとうございます」
 すぱんっ、と茉世の後ろの襖が開いた。扇風機が微かに音を変えたように思える。
「おかえりなさいませ」
 永世は茉世の後ろに立つ者へうやうやしい態度をとった。本家、分家というだけで、年下の男にも腰が低い。頭を下げる様も、縁側に立つ女を見上げる様も、やはり白百合。茉世は間近に迫る足音に見向きもせず、下方を向いた小さな頭と、日に焼けた色褪せた焦茶色の髪を見ていた。
「先輩」
 忽如として身体が圧迫された。固着してしまった視線が、晩夏あるいは初秋に狂い咲いた百合の花から剥がされる。
「蓮さん……よして」
 そこには鱗獣院炎も、永世もいる。しかし蓮との浮気騒動は周知されたこと。すでに知られたことを秘する必要はなくなったのだろう。蓮は後ろから茉世を抱き締めた。
「オレ様なんか、蘭ニーサマのもの奪るなと噛みつかれたぜ」
 永世はこの間にまた小さく頭を下げて、夏野菜の待ち受ける園に踵を返した。茉世は蓮の腕に絡みつかれながら、その背中を追ってしまうのだった。白いシャツに隠されたしなやかな筋肉に爪を立てたかもしれない。縋りついてしまった。既婚の身であることも忘れて。覚えていなかったのだ。彼女は夫がいることを。身も世もなく、眼前の男体に縋りつくことしか知らなかったのだ。汗の匂いと体温と温気うんきまで生々しく甦る。覚えるまで繰り返してしまったのだ。そして身体の疼きも、そこに伴うようになってしまつまた。臍の少し下の辺りがじゅく……と膿む。
 けれどもあれは、互いに望まぬことだった。三途賽川の関係者で、家に翻弄されるほかない立場にあるために、仕方なく、不本意に行ったことである。思い出すなど不謹慎だ。そこに何か煌めいたものを見出すなど、永世に対する侮辱だ。
 降ってくる甘たるい声質が何を言っているのか彼女は聞いてはいなかった。一人の世界にいたし、蓮が発するのは彼女の閉じ籠った世界の言語ではなかった。
「指南されて、色惚けか。好きにすりゃいいが、この国の社会通念上、選べるのは一人。原始的にいえば、茉世。雌が選ぶもんだ」
「気安く呼ぶな」
 蓮の腕が、さらに強く茉世を抱き締める。鱗獣院炎の垂れ気味の大きな目が、真ん丸く剥かれて戯けてみせた。
「弟と同じこと言ってら。大分意味が違うようだがなぁ? オレ様に指図するたぁ、蓮ニーサマ、随分とお偉くおなりあそばしたもんで」
「俺はまだ三途賽川の人間か?」
「確かにな。あんたはオレの囲碁の遊び相手要員。いわばオレ様とあんたは"オトモダチ"だ。オレ様も所詮はサル山の大将、夜郎自大だと?」
「自省ができるならまだいい。"茉世さん"と呼べ」
 へら、と鱗獣院炎は悪戯っぽく口元に弧を描く。
「嫌だね。オレ様も"先輩"と呼ぶ。オレは現役高校生。"先輩"という単語が許される年だし、カワイイ。あんたみたいにムサくない。茉世先輩、オレ様が囲碁を教えてやる。対局しながらのほうが教えやすい」
「"茉世"は疲れている。くだらないことに付き合わせるな」
 鱗獣院炎は引き攣り上がった口角から白い歯を見せた。
「茉世せんぷぁいも今日から、オレ様のオトモダチ、だ」
「茉世。部屋に戻ったら。俺のプレハブに行くか。クーラーは好きに点けてくれ」
 ライオンみたいな面構えの大男はにたにたと頬を緩めて、いやらしげにその光景を見ていた。
「あんた、本当に蓮ニーサマ? 異界の魑魅すだまに乗っ取られてねーかぃ? 姿を現せよ」 
 鱗獣院炎は茉世から取り返したジャケットの内ポケットからマインティアとかいう清涼感のある錠剤状菓子の容器を取り出した。商品名の印刷されたシールは擦り切れ、年季が感じられる。中から、剥がれた爪とも、魚の鱗ともいえない透明で小さなものが取り出され、そして蓮へと投げられた。茉世は腕を巻き付けられていた。そのために蓮は立ち眩みを起こしたように後退ったのが分かった。
「蓮ニーサマは、正気ホンモノ
「なんですか……?」
 蓮の後退り方が、ただ眩暈を起こしただけの様子ではなかった。茉世は突き飛ばされ、蓮は膝から崩れ落ちた。額を押さえている。投げられた透明なフィルムのようなものが原因に違いない。
「"名医にも仙薬にも治せぬ病が2つあり。恋の病と気にしすぎ"。作詞作曲、オレ様。囲碁を打とう、茉世せんぷぁい」
 大きな熱い手が、茉世の腕を掴む。肩から関節が外れかねない勢いで引かれる。
「触るな」
「カレシヅラはよくない。オレのクラスの男子が、別のクラスのまぁまぁ顔の可愛い子にカレシヅラをして、女子たちからフルボッコ。女子を敵に回したら、まず、薔薇色スクールライフは絶望的と思っていい。蓮ニーサマができるのは、義弟ヅラだけだわな」
 座布団に尻を沈め、胡座の上に茉世を座らせる。蓮の柳眉が、ひくりと引き攣った。傷付いたとばかりの顔は、今にも泣きそうである。
「勝った雄が意中の雌を得られるのが自然のルール。三途賽川の一族郎党が求めた、一般的で社会的、原始的で世間的なルール……なわけはない。努力、勝利、気概が伴わない不合理な差別、それが人間界の恋愛。だがここは三途賽川。女は手段。女は道具。女は家畜。或いは女は優勝賞品。得られるのはサル山の大将から」
「俺はもう三途賽川ではないはずだ……」
 蓮は中腰で足を引き摺るように碁盤の前の座布団にやってきた。膝が痛むような素振りで座った。
「ンでも、オレ様と茉世せんぷぁいも、三途賽川の一族郎党。茉世せんぷぁいが欲しくば、三途賽川のルールにのっとるのが……正しい男の正しい在り方。座れ、蓮ニーサマ。三途賽川の堕ちる苦獄の2番目は暗黒の視界に紅蓮が咲くそうな。あんたが黒でいい。畜生回路に突き堕とされ、鱗を剥がれ皮を取られ、行先は煮え立つ鍋か……オレ様は白。良かろうな」
「ふざけるな。はすの花は大抵白。俺が白だ。お前が黒にしろ。ほのおが見境なく残していくのは黒い廃材だろうが」
 鱗獣院炎は眉間に皺を寄せた。
「茉世せんぷぁい。あの人酷いよ」
「白のほうがいいんですか」
「先手必勝という言葉が"正しい"のなら、先手は黒」
 見上げたところにいた鱗獣院炎が思っていたよりも至近距離で、彼女は慌てて正面を向いた。顎に接吻してしまうような距離であった。むっわぁ……とココナッツと汗の匂いが首の辺りで蒸れて薫る。
「近い」
「今のはせんぷぁいじゃん」
「離れてくれ」
「離れていたら、碁石の握り方も教えられなかろうが」
 鱗獣院炎は茉世の手を取った。手と手を重ね、指の間に指が入り込み、鉤型を作る。体温が高い。肌の感じは若かった。本当に高校生なのではあるまいか……?
「鱗獣院さんは……」
だんでいい」
「炎さんは、おいくつなんですか」
「今年18」
 18歳といえばばんと同い年だ。
「お、大人っぽいんですね……」
 手の甲側から手を握られている。力加減がどこかいやらしい。
「不用意に………触るな………」
 底冷えする声は、その砂糖をかけた焼き菓子みたいな質感によって険しさを欠く。
「いくつに見えた? もっと年上に見えたと?」
 20、25程度ではない。すでに30代に差し掛かっているように見えた。
「大人っぽかったので……」
「オレ様がセクシーだと? 高校生男子を捕まえて……人妻と高校生男子の禁断のラブロマンスがはじまる予感というわけだ」
「小僧が大人を舐めるな。お前が黒だ」
「分かったぜ、蓮オニイチュワン。オレ様が黒を担ってやる。ただし、容赦はせんぞ」
 茉世の手を操り、彼女に黒の碁石を握らせる。
「あ、あの……」
 先程、この大男に噛みついた威勢はどこへやら、おどおどと握らせれた手を戦慄させている。
「碁石にも差し方ってものがある。好きに持てばいいが、せっかくの長い指だ。爪の形も悪くない。しなやかで、優美な手だ」
 茉世はまた鱗獣院炎を見上げてしまった。どのような面構えで自画自賛しているのか気になってしまった。またココナッツミルクのような南国を思わせる匂いに汗の混ざった生々しい香りが嗅覚を包み込む。鼻先が、ぎゅむ……と詰まった胸板にぶつかる。
「くすぐってーよ」
「すみ……ません」
「謝らなくていい」
 蓮が容喙ようかいした。鱗獣院炎は鼻を鳴らす。
 沈黙のなかでぱち、ぱち……と心地良い音が鳴る。背中に、大男の鼓動が伝わるはずであった。だが茉世は自身の鼓動ばかり聞いていた。黒の碁石を置く手は2枚重ねであった。指先までじぃんと爛れ疼くほど熱されている。説明も講釈も頭に入らない。扇風機は尽力していた。だが晩夏の暑さだけではなかった。おそらくクーラーでも太刀打ちできなかったであろう。彼女は背中にびっしょりと汗をかいていた。
「わたしに教えながらでは、大変ではありませんか……」
「変わらん、別に。疲れたのか。寝ていいぞ」
 だが鱗獣院炎が、茉世を放す気配はない。
「そろそろ茉世を放せ」
「……うーん。具合が良く―」
 彼は指を鳴らした。
「―ねーな」
 シートベルトのごとく茉世の腹回りにあった腕が急に締まった。
「ひゃ……」
「ま、オレ様には勝利の女神がついてるからな」
 大きな掌が、彼女の視界を覆った。ふわ……と頭から湯気がたちのぼり、中身をすべて失っていくような浮遊感を覚えた。だが、身体が軽くなっていくような心地良さである。
 鱗獣院炎の掌が下がったとき、彼女の双眸はどんよりの濁っていた。掻き回された泥沼のような、アリジゴクの巣のような瞳が、虚空を見つめていた。
「茉世に触るな……」
 唸りながら、白い石が置かれる。
「触らないようにシマスヨ、蓮ニーサマ。でも、触られたら、その限りではない」
 彼は両手をあげて見せた。茉世はこてんと、あざとい子猫みたいに転ばせ、ぱんと張った分厚い胸板に凭れかかった。そして頬を擦り寄せ、頭を預ける。
「何をした」
「よくぞ訊いてくれた。人はオソロシイモノ憑かれるが、逆にオソロシイモノに憑いちまえばいい。この世で一番おっかないのは地震、雷、火事、津波、炊事と上司と人間様だからな」
 茉世はすりすりと鱗獣院炎に頬擦りし、目元を眇める。
「茉世で遊ぶな。不愉快だ」
「ヤキモチ蓮ニーサマ、気色悪きっしょ。人形みたいだっつってキモがられてた蓮ニーサマはどこいったの。でも日本人形ってブスだからな。似てねーし、お内裏様でもひでぇよ」
「やきもち? 何故? 妙な術を使ってまで俺が茉世に懐かれたいと思っているのなら心外だ。俺は単純に彼女の心が欲しい」
 鱗獣院炎は飯の最中に異物でも噛んだかのような妙な顔と静止を見せた。
「キモすぎてゲロ吐くかと思ったぜ。韓ドラでも今時言わねーことを。キモい! 純情はキモい!」
 荒ぶる胸元に、まだ茉世は頭を預け、撓垂しなだれる。
「いい女だと思う」
「耳が腐る」
「お前等は浮気だというが、一線は越えてない。触りはしたが、一線だけは。これ以上、嫌われたくない」
「ェエ゛~」
 大きな顎が開け放たれ、舌を出し、鱗獣院炎は大仰に嘔吐えづいてみせる。そして黒の石を打った。
「初めての感情で、どう処理したらいいか分からない」
 白い石を握り、挟んで滑らせる指が妙に艶かしい。
「変なもの食ったんけ」
 ぱちり、ぱちり、軽快な音に、扇風機の軋りが混ざる。暫くの間、両者は黙っていた。しかし茉世は、張りのある若く逞しい肌を吸っていた。
 爛々とした蓮の眼が、対局者の鎖骨の辺りに散りはじめた鬱血痕を凝らす。石を何度も節榑だった指が撫でる。
「先輩のことが好き……」
「ンなこた知ってる。いい噂になってるし、ゆかりちゃんは泣いてたぞ。フられた女の涙ってのにはオレ様も弱ぇんだわ。男はフられるんが常だから、野郎のフられ涙ほどショボいもんもねーが」
 黒の石が置かれる。蓮は石を撫で続ける。
「先輩の肌、柔らかかった……いい匂いがして……」
 ライオン面の眉間に皺が寄る。
「何言ってんだあんた」
「先輩からもらった下着、まだ持ってる……」
「はぁ?」
「無理矢理もらってよかった……」
 石を持っていないほうの手が、自身の口元を押さえる。
「あんた何言ってんの?」
「先輩のこと好き………」
 押さえてもまだ喋る口に、蓮は指を突き入れた。赤い筋が滴り落ちていく。
 鱗獣院炎は纏わりつく茉世を横にやると、腰を上げた。対局者のほうへ回り、眼前で手を打ち鳴らす。蓮は糸が切れたように意識を失った。碁盤に身体が落ちていく。
「いやはや、いやはや」
 大男は髪を掻く。ざり、ざりと鳴った。避けられた女はぽけりとして、訳が分かっていないようである。虚空を意味ありげに見つめ、そして大男を見つけ、擦り寄っていく。彼はまた、茉世の眼前で手を打ち鳴らす。だが、何も変わらない。彼女は相変わらず、円い泥沼を嵌めたような眼をしている。鱗獣院炎は菜園のほうへ目をやった。白い人影が蔓を巻いて縛っている。
「やる気の無い奴等が、増えたからな……」



 茉世は竹林の中にいた。だが見慣れた場所と違うのは、辺りを見回すと、長く伸びる石段があることだった。竹林もまた石段の上まで生えて、開けた空を見せる気は微塵もないらしい。雨天ではなかった。晴れを隠した曇天らしいのが、緑の天井の隙間から窺える。
「茉世さん」
 隣に永世が立った。忌み地に飛ばされたのではなく、これは夢なのかもしれない。冷たい手と手を繋いだ。
「あ……っ、そ、その………永世さん………」
だが夢のなかでも、どう対応していいのか分からない。心臓が左右に引っ張られるようだった。
「あの石段に、登ってみませんか」
「の、登りましょう……」
 永世に手を引かれる。だがそれは本物の彼ではないのかもしれなかった。そういう強引さや積極性がある人物には思えなかった。
 やはり夢だったのかもしれない。竹林と枯れ葉はみた。だが苔の生した石階段を登っていると、桜の花弁が落ちてくる。桜の小雨を浴びた。狂い咲きにしては、あまりにも時期を外している。晩夏、初秋に咲く品種があるのだろうか。
 永世は一段先を行く。茉世の手を取り、引き上げていく。顔が見られない。足元のことで精一杯のふりをして登っていく。この上に何があるのかは知らなかった。
「茉世さん」
 石段を仰ぐ彼の後姿を、まるで盗み見るような心地で茉世は見遣った。やはり夢。日に焼けていた顔が今は白い。
「ぼくの一番幸せだったことは多分、つまらない、些細なことに幸せを感じられたことだと思うんです」
 この人を、白百合だと思った。だがそこまで威風堂々とした佇まいではない。
「もし三途賽川の血筋ひとではなかったら―」
 茉世はこれが夢だと確信した。遠慮も脈絡もない発言だった。
「永世さんはそんなに、卑屈な人じゃなかったと思うんです」
 近くに踏切があるらしい。カンカンと警報器が鳴っている。竹林にこだましている。頭上に降り注ぐ薄紅の鱗は、小さな掌の形をした紅葉に変わる。
 永世は虚を衝かれた顔をした。そこは夢のなかといえども生々しい。
「本当の自分って何なのでしょうね」
「分かりません」
 茉世は俯いた。夢のなかなのだ。意味も意義も、脈絡も、道理も倫理も善徳もない。現実に作用しない。影響しない。人が平等に触れられる初歩的な狂気だ。
「でも、辿り着かなくても、近付きたいです。永世さんのこと、知りたい」
 顔を見られるようになりたい。目を合わせられるように戻りたい。胸の疼きをどうにかしてくれないか。
「知らないほうがいい」
 木枯らしが悲鳴のようだった。乾燥した風が肌をやすり掛けしていく。
 前に立つ女を、茉世は唖然として見ていた。
「知らないほうがいい。知らずにいるのが幸せなこともある」
 艶やかな黒髪は、風の質を問わず濡羽みたいに仄暗い煌めきを帯びて揺蕩う。
「蘭でも蓮でも絆でも、その他よく分からん有象無象のゴミ野良オスでもいい。永世のことは諦めてくれ」
 飄々としている顔しか見た覚えのない尽の表情に悲痛の影が走った。
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