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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 36

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 すぐ傍にある振動で茉世まつよは目を覚ました。重い目瞬きをしながら画面を見遣る。永世えいせいから電話がかかってきている。
「もしもし……」
 喉が枯れていた。自身の声も曇って聞こえる。
『もしもし、永世です。体調いかがですか』
「今、六道月路ろくどうがつじにいます。体調は、ちょっと良くなった気がします」
 彼が何の用があって電話をかけてきたのか茉世はおもんみる。どろどろと溶けて渦巻く蝋のような記憶から、思い当たる節がひとつだけ見つかる。
「そういえば……変な電話をかけてしまったみたいで……」
 通話履歴から消されていたが、青山藍がかけていた相手は、永世ではあるまいか。
『電話……?いつですか?ちょっと確認します』
 彼女は一瞬、硬直した。青山藍の罠に嵌っていた。しかし永世に怪電話が行かなかったのなら、それに越したことはない。
『履歴にはありませんが……』
「そうでしたか。じゃあ、すみません。もしかしたら、夢だったのかも。ちょっと混乱していたみたいで」
『いいえ、いいえ。熱のときはそうなりますから。おつらいときに電話をかけてしまったようですね。お大事になさってください』
 少し喋ると、喉の奥側が痒くなってきた。咳をする。
『まっちゃん、だいじょーぶ?』
 電話相手の声が変わった。御園生みそのう瑠璃だ。
「るりるり?」
『そ。久遠が楽しそーに喋ってるから、誰かと思った。まっちゃんか』
 彼女はまた咳をした。幼少期からの知り合いは、不思議な感慨を生み出す。
『お、風邪っぴきがいるな』
「クーラー点けたまま、お腹出して寝ちゃったの。るりるりは気を付けてね」
『ガキかよ。でも、風邪ひいてるが元気そうでよかった。久遠きゅんから近況は聞いてたけど、まぁまぁ心配してたんだぜ。とりあえず、お大事にな』
「うん。ありがとう、るりるり。色々と迷惑かけちゃって、ごめんね』
 御園生瑠璃は鼻を鳴らした。
『何の話か分かんねーな。ま、よく寝ろよ。ちゃんとパジャマは、ズボンにしまってな』
 無音が挟まった。それから小さな物音が聞こえた。
『電話代わりました。すみません。気分転換になるかと思って……』
「久々に話せてよかったです。ずっと寝ていたので、少し暇でしたし……」
 茉世は三途賽川さんずさいかわのことが訊きたくなった。しかし躊躇いもあった。ほんのわずか思案し、結局、訊かないことにした。
 彼女が通話を切るのとほぼ同時に、襖が開いた。入ってきた楓も電話をしていた。
「ああ、ごめんね。勝手に開けてしまって……」
 彼は通話に気を取られていたようだ。黒紫光りの板を耳から離し、顔を上げた。
ばんくんが戻ってきてくれって。けれど茉世も本調子ではなさそうだし、断ってしまったよ」
「絆さんが……?」
 胸騒ぎがした。だが体調不良のせいかもしれない。まさか青山藍について何か気付かれてしまったのではなかろうか。
 冷たい掌が茉世の頬に添わった。心地良い。離れたくなかった。茉世は自ら、その薄い手に頬を擦り寄せる。
「まだ少し火照っているね」
 だが罪悪感もあるのだった。いずれ治ってしまう。そのときに、この扱いは終わる。優しい養父に厳しさが戻るのだ。寂しさがあった。病熱に甘えている。騙してはいないけれど、騙しているようなつもりになる。
「どうしたの?」
「いいえ……ごめんなさい」
 さりげなく擦り寄ったが、相手には気付かれていたらしい。甘えているのが知られてはならない。知られたなら甘えられない。打算が働く。茉世は自身が嫌になった。
「茉世……可愛いね。もう少し甘えるかい?」
 楓の美貌が至近距離にやってくる。額に額がぶつかった。彼は冷たかった。熱い肌に好かった。茉世は目を閉じる。冷まされていくのを感じていた。そのまま、ありのままを素直にまるまると受け取ってしまいたかった。だがやはり、己の打算を理解した途端、後ろ暗さが彼女を怯ませる。
「何かあったら言うんだよ。ボクは君の味方だからね」
 額を合わせていたのが、突然、楓は彼女を薄い胸元に引き寄せて閉じ込めてしまった。六道月路ろくどうがつじの懐かしい匂いがする。それは他人の家のものになっていた。否、最初から他人の家のものとして、皮膚に染み込むことはなかったのかもしれない。
 この養父は告白を待っているのではなかろうか。茉世からの弁解を。彼女は息苦しくなってしまった。三途賽川での醜態を、己の口から打ち明けるべきか。我が身ひとつ許されたいだけの告白で、楓も救われるのだろうか。
「ありがとうございます、おじさま」
 穿ほじくり返す必要はない。椿の口振りからして、楓はほとんどのことを知っているのだ。
「色々と、背負わせたのだからね」
 冷たい体温と硬い腕に包まれるなか、彼女は首を横に振った。
「そうは思いません。おじさまは身寄りのないわたしをここまで育ててくださいましたもの……」
「この家でさえなければ、君はもっと自由だった。どこへでも行けた。すまない」
 或いはそれは残酷な一言だったのかもしれない。この家でさえなければ。その可能性に、彼女は希望を見出してはいなかった。
「絆さんも永世さんも、好くしてくださいますから」
 言ってしまってから、彼女は失態に気付く。夫やその兄弟について言うべきであった。絆は三途賽川の人間に純粋に含められず、永世は食卓を分けられてしまう程度には部外者であった。本音を語るところではないのだ。いかにこの若い養父を納得させるか画策するところであった。
りんさんだって……この前、ヘアゴムをくださいました。レモンの……」
 柘植の櫛を終わる指が、彼女の髪を梳いた。
「夫も……」
 しかし裏切り、深く傷付けたに違いない夫について、何を言える立場にあるのか。
「……そうかい」
 茉世は母親を知らない。養父は長身痩躯でありながら、おごそかな嫋やかさも併せ持っていた。茉世には、彼のその一部分に、母親像を見出していた。楓は一人で父親だけでなく母親の任もこなそうとしている。だが所詮は世間の母親像と、理想の母親像、どう足掻こうが父親にしかなれない性別から搾り取った描像を総合したものだ。
 だがしかし、茉世はこの抱擁、この慰撫しか知らない。ほんの数歳しか変わらない父親に安らぎを求める。血は繋がらない。親しみはあるつもりで、それは畏れに似ていた。懐かしさを覚えるには、出会うまでに大きくなりすぎていた。
 いつまでも養父に甘たれてはいられなかった。忙しげな足音が近寄ってきた。養父と養女だが、はたからみればそこに在るのは血の繋がらない若い男女である。茉世は養父から離れた。襖が開く。やって来たのは椿であった。
「楓さん!鱗獣院りんじゅういんの若旦那様がお見えです」
 楓が弾かれたように立ち上がる。彼は血相を変えていた。
「随分と急な……ごめんね、茉世。寝ていなさい。ちゃんと布団を掛けるんだよ。椿さんも奥で待っていてください」
 小さな風を起こして彼は出ていった。遅れて養父の匂いがした。
「鱗獣院の若旦那様と、会ったことあは?」
「ありません……鱗獣院家の小さな子供なら、三途賽川で預かっているのですが……」
 げんとかいう可愛らしい男の子は、見た目に反して恐ろしい子供であった。
「若旦那様の甥御ですわね。何かされたんじゃありませんこと?」
 彼女は返事に窮した。鱗獣院家のまだ十にも満たない子供が色事に長けているなど、口外できない。だが周知のことなのであろうか。
「いいえ……別に。何もありませんでした」
 椿は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「いいのよ。子供に手を出されたなんて、口が裂けても言えませんもの。あの顔だけはかわいい坊やに何をされたのか、気になるところではありますけれど」
 椿によく似た薄く平たい手が、猫を扱うように茉世の顎を撫でていった。大きさと爪の形が違うばかりで、体温もよく似ていた。
「かわいいわ……」
 冷酷な眼差しが降り注ぐ。茉世は怖くなった。顔を背ける。
「おやすみなさい。よく休むこと。他の誰が来ても、開けてはいけません。いいですね。楓さんとわたくし以外……」
 椿は固く襖を閉めていった。
 茉世はベッドの上で少しの間、閉められていった襖を眺めていた。引き分け戸の竪框と竪框の合わせ目を凝らしていた。弱くかけられた冷房の空気が横切っていく。世界を切り離されたような静寂が訪れる。やがて眠気が現れ、彼女は横になった。爪先が冷たい。冷房はあまり効かせていないはずだが、手や足の先が寒く感じられた。タオルケットを掛け直して寝るつもりが、気を失ったように彼女は眠りに落ちた。あまりにも突然であった。それは病的ですらあった。思考を奪っていく。彼女の髪が一房、滑り落ちた。
 それは階段を踏み外し、後ろから真下へ急降下するような夢ではなかった。寝たまま、ゆったりと沈んでいくような感覚であった。具体的なことは分からない。ただ、雨水が壁を伝い滴る様に似ていた。
 何度も来たことのある不気味な竹林も、そろそろ慣れてくる頃合いだった。だが場所も分からず、地理も把握できなければ、不気味さに慣れるということはない。遥か彼方遠くで踏切の警告音が鳴り響いているように感じられたが、幻聴にも思えた。それほど微かな音だった。幻聴だと彼女が己の聴覚に判断を下したのは、その音の長さであった。遮断機は下りたままで、電車は通らないようである。
 茉世はそこに屈み込んだ。ここが樹海であると知っていた。竹海だ。竹の背は高く、空を覆っている。天気は曇りなのだろう。青くはなかった。葉の緑をよく透かしている。動くのは得策ではない。夢が覚めるのを待てば良いのだ。
 しかしそこに、足音が鳴らされた。存在を隠そうともしない。むしろ誇示している。
「あんたが三途賽川の嫁か?」
 茉世は息を殺していたが、相手はすぐに彼女のいる場所を突き止めてしまった。出るか否か、逡巡する。
「そう警戒するなよ。オレは鱗獣院りんじゅういんだん。甥っ子が世話になってる。無関係な人間じゃないってこった」
 気怠げに喋る者を覗き見る。大柄な男であった。肩幅の広く、胸板の厚い、浅黒い男であった。まだ若いのか金髪で、ライオンのたてがみを思わせる。俗界の人間らしく、この竹林の空気感にそぐわなかった。ともに異物である。途端に、この荘厳で神秘的、不気味な竹林の海原が、安っぽい舞台装置のように見えはじめた。
「三途賽川茉世です……」
 茉世の大柄な男の前に姿を晒した。小さく頭を下げる。
「体調不良のときに悪ぃな。でも、これでも旦那の上司なんだぜ。悪く思うな」
 言葉では謝っているが、その態度は横柄に感じられた。彫りの深い顔には、絶対的な自信がみなぎっている。
「夫が世話になっております……」
「曲がりなりにも妻というわけだ?次男と浮気してるって話じゃないか。夫は一人寂しく、若い身体を持て余してるなんてな。なかなか元気な子種だったぞ。排出頻度も量も悪くない。早く子供を産め。1人目は次男の子でも構わんが」
「申し訳ございません」
 鱗獣院炎の顔は笑っていたが、わずかに垂れがちな目はまったく笑ってはいなかった。
「指南役も務めを果たしていないそうだな。"永世"の名前を贈ったのは早かったか。来い。オレが直々に教える」
 大きな手が差し出される。彼の印象に反して、手相は薄く、細々こまごまとしていた。
「あの……」
「正しい子供は正しいセックスに宿る。クソ食らえ。行くぞ。とりあえず茉世は、子供を産め。長男がそんなに嫌ならまずは次男のたねでいい」
 茉世は差し出された手に応えることはできなかった。
「三途賽川の次男とは、確かに浮気をしましたが、そういう関係には……」 
 宙に置かれた腕が引っ込められ、彼は腕を組んだ。
「浮気はしたがセックスはしていないと?」
 彼女は頷いた。
「ほぉ?で、誰が信じるんだ?そんな屁理屈。したか、してないか、それはどうでもいい。処女ではないと見做されるだけだ。じゃあ訊く。茉世、あんたは処女か?」
 嘘を吐くしか、なかった。
「はい」
「オレ様が手解きしてやる。光栄に思え」
 ぱつん、ぱつん、と左右の指が鳴らされる。エレベーターで高層階に向かったときの浮遊感に襲われた。



 視界に広がる木目の天井に彼女は安堵した。忌み地などという場所ごと、夢だったのかもしれない。嫌なことを言う男だった。現実ならば絶対に会いたくない、関わり合いになりたくない、高圧的な人間が、夢の登場人物であることに安堵する。だがそれも束の間、廊下が騒がしかった。踏み締める足音は暴力的で威圧しているようであった。
「―2日も入浴できていない有様ですのよ」
「別にオレは構わんが」
「構わんが?事前の入浴は淑女の嗜みでは」
「オレ様が戯れのセックスをしに来たと?」
 破裂するような音を立てて襖が開いた。大柄な男が入ってくる。肩幅の広い、胸板の厚い長躯の男だった。金髪を後ろへ撫でつけ、さながらライオンのようである。浅黒い肌に、肉食獣のごとき屈強な顎をしていたが、その割りに耳朶は小さく、いぼと見紛うピアスが刺さっている。
「お帰りください。茉世は体調を崩しています!」
 椿と代わるように、楓が慌ただしく後を追ってきた。ベッドの前に立ち、両腕を開く。
「勘違いするな、六道月路。オレ様が女に困って、女旱おんなひでりで、ここで催したと?とんだ愚弄だな。三途賽川と辜礫築つみいしづく、お前等六道月路のケツを拭ってやるのは一体誰だ?わざわざ言わせるな」
 楓は背は高いが、線が細かった。大男と身長はそう変わらなかったが、体格には大きな差があった。カーテンを捲るように養父は退かされた。大男が逆光して、茉世の前に立つ。一見温和そうな垂れ目が冷ややかに見下ろしている。竹林で見た男だ。
「さっきぶり」
 間違いない。同一人物だ。大きな手の甲で頬を擦られていく。
「一部屋用意しろ」
「しません。茉世は体調不良です」
「それならここでやる。別にオレはどこでもいいぜ。好きにしてくれ」
 鱗獣院炎はベッドに腰を下ろした。茉世は腕を掴まれ、その分厚い胸元に引き寄せられる。ココナッツと汗の匂いがした。
「三途賽川の旦那様はご存知のことなんですか」
 椿が叫んだ。
「辜礫築のせがれがやらなかった分、オレがやる。オレ様が、直々に。別に了解なんて要らなかっただろ。もう済まされてるはずなんだから」
「それなら辜礫築の息子にさせましょう。改めて。鱗獣院さんの手を煩わせるまでもない」
「……分かった。ただし、公開だ。三途賽川でな。義絶した奴等も呼べ。最近別れたあの……よく分からんホストみたいな奴と、あのアイドルだろ、それからあと……」
 逞しい指がひとつ、ひとつ折られていく。茉世は目を見開いた。
「それは嫌がらせですわ」
 雷の落ちるような鋭い声だった。椿の冷たい手が茉世を大男から奪い返す。訳も分からず、赤い着物の中に収まる。椿を小さくなった養父と見紛った。
「そらわざわざ六道月路まで出向いて、やるべきことをやらない辜礫築の倅のケツを拭き取るってんだ。ペナルティくらい科させろ?」
 彼は膝を叩いた。
「ま、"義絶した奴等を呼べ"は、やり過ぎか。そう立て続けに召集はできんわな」
 軽薄な笑みを浮かべた。八重歯が剥き出しになる。
「それとも六道月路。あんたがやるか?」
「三途賽川の元次男に任せようかと」
 茉世は養父を見上げた。
「いいだろう。浮気相手と楽しく子作りを学んでくれや。次は、三途賽川の跡取りを取り上げるときに会おう」
 鱗獣院は鼻を鳴らす。
「来てやればとっとと帰されて、報われねぇぜ」
「誰からここに茉世がいると聞いたのです」
ばん
 立ち上がる瞬間にもベッドが軋んだ。
「じゃ、帰るわ。旦那、ちゃんと―頼みますぜ」
 垂れがちな目は楓を捉え、それから茉世を一瞥した。鱗獣院炎は帰っていく。椿が彼を見送るらしかったが、楓がそれを厭うた。楓が鱗獣院炎のあとを追う。椿は大きな背中を睨みつけていた。
「一昨日来てくださいまし」
 戻ってきた楓は一気に老け込んだように見えた。椿はどこからか塩を持ってくると、室内に振りかけていった。
「すまないね、茉世。余計に具合が悪くなってしまうね」
「いいえ……ご迷惑をおかけして、申し訳ないです」
「ううん。茉世は何も悪くない。でも、絆くんも一体どうしたんだろう?様子が変だとは思ったのだけれど」
 椿と楓は、顔立ちだけでなく、体温や包み方がよく似ていた。茉世はすっぽりと抱き竦められ、六道月路の匂いに燻される。
「おじさま……さっきのお話のことなのですが………」
「ああ、気にしなくていいよ。何も気にしなくていい」
 だが、六道月路と鱗獣院の折衝を目の当たりにしてしまった。鱗獣院家のほうが力が強いのだろう。この家には恩がある。
「わたしはもう、蘭さんを裏切りたくありません……だから蓮さんと何かすることは…………できません」
「うん。いいよ、それで」
 しかし実際、本当に何もしなければ、六道月路はふたたび鱗獣院家に小突かれるのだろう。養女の不始末によって。
「永世さんとなら…………永世さんとなら、………」
 ふと脳裏に、永世の顔がいくつも浮かんだ。様々な場面である。優しい男だ。清楚で可憐で、誠実な男だ。不安に思うことはない。茉世は口にするやいなや、震えていた。
「茉世」
「永世さん、とてもいい人ですから………」
 もし自ら、身の内を曝け出さねばならない相手がいるのだとしたら。それはやはり永世だった。夏野菜を収穫するときの顔が、目蓋の裏に映ったまま消えない。麦藁帽子によって、青い影を帯びた柔らかな目元が。
「すまない、茉世。ごめんね。ボクが不甲斐ないせいで……」
 しかしこの養父に何の落ち度がある。
「おじさまが謝ることはありません。もとはといえば、わたしが頼りないせいです」
「けれど……本当に、大丈夫なのかい。君は蓮さんを……蓮さんを愛しているんだろう?」
 茉世は鼻の辺りを真正面から殴られた心地だった。しかし浮気をしたと聞けば、そう思うのも不思議ではない。
「い、いいえ……もう―」
 終わったことである。だが六道月路には、すべて話してもいいのではないだろうか。何よりも茉世が、意地を張ることに疲れてしまったのだった。きつく結んだ縄が緩んでいた。楓に甘えてもいいのだろうか。
「あ、の……」
「うん……?」
「蓮さんとのことを、話してもいいですか」
 楓は椿を気にした。
「椿さんも……聞いてください。あの、わたし、その……色々と億劫になってしまって、浮気と処理されることを受け入れていたのですが……」
 蓮は三途賽川の次男として、嫁を指導しようとしたこと。その場を末男に撮られていたこと。蓮には高校時代から想いを寄せている女性がいること。そして蓮に、その女性と人違いされていること。弁解したが、まだ納得されてはいないこと。彼女は順序立てようとしたが、結局、時系列が入り混じってしまう。
「わたしが話せるのはこれだけです。蘭さんを裏切ったことに変わりはありません。ただ、おじさまと椿さんには、きちんと経過を話しておきたかったのです。だから……永世さんにお願いしたいのです」
 聞き終わると、楓は深く息を吐いた。
「分かった。じゃあ、そういうふうに計らうよ」
「わたしから連絡します。蘭さんにも……」
「本家にはボクから連絡しておこう。そのほうがいいだろう。とりあえず辜礫築さん本人にも、ボクから。それからのほうがいいね」
 楓はすぐに連絡を入れにいった。真実さえ話せれば、すべて不要な労力なのである。初めての性交というものを「ジュンケツ」などというのならば、すでに散らしている。散らされた。暴露してしまえばいい。すべて無駄なことなのだ。
 しかし、言う気になれなかった。言うべきなのかもしれない。だが身体が拒否している。喉は閉じきり、顎も舌も重い。嵌めておくべき言葉のパズルもピースが見つからない。
「くだらない一族でしょう?」
 椿は独言るように訊ねた。茉世は答えなかった。肯定であるからだ。


[指南のお話はもう聞きましたでしょうか。お手数ですが、どうぞよろしくお願いします」
 メールを打つ。打っては消し、文言を変えては戻していく。不毛だ。無駄である。
 永世から返信があった。ところがまだ送信ボタンを押していないのである。つまり別件であった。
[蘭さんが話したいそうなのですが、お電話をしてもいいですか]
 茉世は、携帯電話の表示を切った。数秒考えた。彼女から掛けることにした。固唾を呑んだ。
「もしもし、永世さん……」
『こんばんは、茉世さん』
 昼頃に電話したときと音吐おんとが違って聞こえる。
「今、メールを打とうと思っていたところで……ちょうど、その………よろしくお願いします」
『はい。こちらこそ……今、蘭さんに代わります』
 胃の辺りが重くなる。
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