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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 33

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 管理人室の呼び鈴が鳴る。ばんは半裸に等しい茉世まつよを見遣って、目元を拭った。化粧していたらしい。つるりとしていた頬に生々しい質感が現れた。
「うん」
 絆は小窓を開けた。
「あれ?俺のプリンセスは?」
 甘ったるい声を甘ったるいままにして訊ねたのは"あきらくん"だ。
「ん、今ちょっとお薬飲んで寝てるトコ……」
「そう。じゃあこれ、お見舞い……絆、泣いてるの?」
「花粉症」
「薔薇の?」
「なんだろ、秋が近付いてるナ」
 茉世は小窓から薔薇の花が一輪伸ばされるのを見ていた。
「じゃあ、プリンセスによろしく」
「オレの兄嫁だから明くんのプリンセスじゃないヨ……」
「恋に夫の有無は関係ないよ」
「あるんだケド……」
「よろしく頼むよ、絆。プリンセスに、それを」
 絆は薔薇の花を一輪持って戻ってきた。
「これ、明くんカラ、茉世義姉ちゃんにって」 
 渋々といった様子である。
「ありがとうございます……」
 渋いつらをしていたのは絆だけではなかった。蓮も、眉根を寄せてそれを見ている。
「棘は取ってあるのか」
「はい」
 茉世は茎を撫でてみた。棘はない。
「茉世義姉さんは風邪ひいてるからサ、蓮。今日のところはもう帰ってヨ」
「……分かった。ただ、茉世さんは"ちょっとした不注意で"怪我をしている。それを診たら帰る」
 蓮に促され、茉世は背中を見せた。絆も覗き込んだ。
「義姉ちゃん、どうしたノ?」
「ちょっと……その……」
「寝ているときに背中から落ちた。下に何か置いてあったんだろう?固いものが」
「そ、そうなんです。ご心配をおかけして、ごめんなさい」
 薔薇の花を一輪だけ持った女の背中を2人の男が眺めているのは異様な光景であった。
「蓮、処置できるン?」
「あるのか、救急箱」
「持ってくるヨ。でも、」
 彼は茉世を一瞥した。その挙動の意味を、蓮のほうではよく理解していたようだ。
「怪我した女を襲うシュミはない」
 絆の目は、兄を見ることもなく茉世の答えを待っていた。
「お願いします」
 すると、すぐに管理人室を出ていった。
「いいのか、先輩……これで」
「すみません。悪役になってくださってありがとうございます」
「それは別に構わない。もとは俺のせいだ。ただ……ただ、腹が立つ」
 汚れ役を一手に引き受けさせたのだ。腹が立つのも無理はない。
「……ごめんなさい」
 だが彼女はやはり、自分の身が可愛かった。このシャンソン荘に居られる可能性があるのなら、そこに賭けたかった。居場所がない。実の親も血を分けた家族もなければ、養家に戻れそうもない。嫁ぎ先からは追放されている。今回は赦されたも同然の処置を下したが、二度目の不義理を赦しはしないだろう。
「先輩に対してじゃない。何も知らずにいた自分に一番腹が立つ。すまなかった……本当に、すまなかった」
 茉世は彼に吐き捨てた言葉を忘れたらしい。首を振った。
「傷、大きいんですか。見えていない分、あまり痛くはないのですが」
「少し血が滲んでいるな。傷自体はあまり大きくない。けれど……無茶をしないでくれ」
 三途賽川は、成人し、将来有望の次男を簡単には手放さなかろう。生活ひとつとっても、彼には運転免許も車もある。本家が義絶を提案しても、引き取ろうとする婚約者もいる。自ら排されるのが好きかのような立ち位置に身を置くけれども、それもあくまで周りの条件が揃っているからだ。
「無茶しないと、わたしにはもう帰る場所がありませんから」
 彼女は嫌な女だった。根性の捻じ曲がり、ひねくれた、底意地の悪い女だった。いつの日か、六道月路ろくどうがつじが帰る場所の候補にあるかのような言い方を蓮はしていた。だが三途賽川に嫁がせたところで用は済ませたのだ。戻ることは勘定に入っていない。
「六道月路にも、戻れませんし……」
 彼女は根に持っていたのだ。ここで嫌味を返しても、相手がそれを嫌味と受け取らなければ一人相撲である。ただ嫌味を吐いた己が残るだけである。蓮が自身で放った嫌味を覚えているとは思わなかった。彼にとっては些細な会話であろう。だが決着したかった。嫌なことを嫌なときに言われてしまった記憶と。否、無理解を突きつけられたくなかった。そこに期待を見出してしまいたくなかった。
「兄と、離婚してくれるか」
 茉世は振り返って、蓮の顔を見遣った。彼の真意が分からない。
「兄とは別れて、俺と結婚して欲しい」
 彼は学生である。年下だ。対して茉世は何の職業も持たない、三途賽川の種を遺すためだけに生かされ、養育された女である。蓮はそれが分からない男ではないはずだ。
 茉世の疑心が深まる。蓮は禅と結託しているのではあるまいか。部外者に汚された女を三途賽川から切り離したいだけなのではないか。
 ねっとりとした静寂であった。晩夏だとしてもまだ暑いはずだ。初秋だとしても暑さはたっぷり残っている。だというのに寒いのは、日当たりの悪い部屋で素肌を晒しているせいか。
 冷気が膨らんで、胸元喉元を圧迫しているようだった。苦しさは寒さのせいではないというのに。おそらくは沈黙のせいだった。彼女は視界から外した、そこにはまたあのブロンズ像があるに違いない。
「あ、あの、怪我のことは、蓮さんのせいじゃないって、前に言ったじゃないですか。気にしなくて大丈夫です。そもそも、ここにきずがあるからって、そんな不自由ないですし……」
 緊張のあまり、どもった。気が急いた。どうにかこの場をやり過ごし、誤魔化す言葉を吐くのに、口が追いつかない。
「野暮だ、茉世さん。理由がなければ近付けない。理由がなければ貴方は納得しない。けれどその理由も、もう使い物にならない。そのまま好きだと言って、信じてくれるのか。それなら言わせてくれ―」
 管理人室の扉が開く。茉世はそちらに気を取られた。
「―好きだ」
 入ってきた絆が硬直していた。蓮は何も言っていないかのようなつらをして外方を向いた。茉世は酷い辱めを受けた気分になった。陥穽かんせいに突き落とされた心地がした。絆を見ることができない。いかにしてこの長弟の信用を削ぐのかを画策しているとしか、彼女には思えなかった。
「何しに来たんだヨ、蓮。帰ってくれヨ……」
 木箱に入った三段重ねの救急箱が落ちた。セットされた髪をくしゃくしゃにして、絆は頭を掻き乱す。尋常ではなかった。平生へいぜいの態度を健全な精神の表出だと思い込むならば、それは不健康な精神状態に感じられた。
「絆さん……?」
「…………帰って。頼むヨ。茉世義姉ちゃんの手当てしたら、すぐに帰って……」
 彼はまた静かに涙を流した。
「オカアサンヲイジメナイデ……」
 屈み込み、顔を覆って泣きはじめる。彼はあどけないところがあるが、心身ともに著しく幼い人間ではなかった。関わり合いのなかで不安を覚えるような稚拙さはなかった。しかし今、異変を見せている。
「絆さん……?」
「だいじょぶ……ゴメン」
 涙を拭き、彼は救急箱を拾った。蓮が手当てをする。
 個包装の消毒綿が沁みた。兄嫁が手当てされる様を、絆はぼんやり眺めていたが、そのうち部屋の隅である物を拾った。
「誰か、来たノ……?」
「いいえ……」
「これ、青山くんの、リング……」
 銀色の塊を掌で転がし、チョコ菓子でも摘むかのようにして調べている。
「でも、誰も、来てないんだよネ……?」
「誰も来なかったが」
 おそらく絆は茉世に訊ねた。だが蓮は、一部始終を知っているかのように否定した。すなわち、茉世がこの部屋で1人になるタイミングなど皆無であったと表明しているようなものだった。
「……そう」
 手当てが済み、茉世はやっとシャツを着ることができた。絆はそれを見ていた
「服、持ってくるよ。LLでいい?」
「いいや、必要ない」
 蓮は茉世に貸したシャツを着て帰っていった。絆が溜息を吐く。改めて見ると、管理人室は酷い有様だった。猟奇的な趣味を持った強盗にでもあったかのようだった。壁や床は傷だらけであった。
「あの鍬、出しっぱなしだっタ?ごめんネ」
 嘘を吐き、隠し事をしている。それがそう思わせるのか、絆は何故鍬がここにあるのか勘付いているような気がした。青山藍か蓮が壁に立て掛けておいたらしい。彼女は隠蔽に対する認識が甘い。
「茉世義姉ちゃんは寝ててヨ。あとは、片付けておくし……」
「でも、……」
「寝てて、だいじょーぶ。悪化しちゃうカラ」
 浮腫んだ目元が痛々しかった。そして癇癪持ちの子供みたいな挙措が、茉世は怖くなった。
「はい……すみません。荒らしてしまって……」
 彼は義姉が寝床に入るまで見張っていた。
「茉世義姉ちゃん。オレはネ、」
 淡々とした、口振りで彼は悔恨を語った。辜のない悪事を語った。そして茉世は知っていた。すでに知っているドラマや映画のあらすじを語られている心地だった。一体誰から、彼の生い立ち、境遇を聞いたのだろう。
「息子の運動会、お母さんなら観たいものジャン。なのに、蓮、お母さん見つけた途端に怒ってサ……お母さん、可哀想だっタし、恥ずかしかっタ。オレはお母さんにも、観ててほしかったヨ……家政婦さんのお弁当、美味しかったケド……お母さんの、食べてみたかった。それニ、お母さんの日にネ、絵、描いたノ。でもネ……感謝する必要ないっテ、蓮に取り上げられちゃったんダ。ジジイに怒られて……ツケアガルから、やめろっテ、言われたの。オレは女の子なんじゃないかって、言われてサ、男の子が女の味方するの、オカシイんだって」
 茉世は能面みたいなつらをしている絆を見上げた。
「オレがアイドルしてるコト、言ってたのカナ……」
 急に、冷えた声がした。蓮と違い、平生から抑揚の多い、上擦った高めの声で喋りがちな絆は、蘭と同様に、秘められた低音を隠し持っている。
「オレがアイドルしてるの、女の人たちを食い物にしてるっテ、言いたかったのカナ」
 視界のなかに茉世は入っていただろう。しかし焦点はどこにも絞られていなかった。
「蓮には言われたくなかったナ。オレも結局は、三途賽川のバカ息子か……」
「けれどアイドルだって、お仕事でしょう?趣味だけでは、やっていけないはずです、きっと……」
「うん……楽しいケド、お仕事だカラ……ファンクラブもライブもCDもさ、お値段に見合うお仕事は、してたつもりなんだケド……ん、ごめん、お義姉ちゃん。おやすみ」


 

 風邪で熱があるというのに、彼女はろくに休めていなかった。激しい運動を繰り返したり、クローゼットに閉じこもったり、風邪薬を飲み忘れ、飯も食い損ねていた。無理矢理座薬を捩じ込まれていたけれど、一時的なものであった。
 病状は悪化している。彼女は枕元にティッシュの山を作っていた。鼻が詰まっていた。頭に熱の籠っている感じがした。
 管理人室から扉をノックされる。ノックがあるということは、絆であろう。青山藍対策に鍵を掛けているため、そのまま入ってくれというわけにはいかなかった。少し動くのが息苦しい。
「絆です。入ってだいじょーぶカナ?」
「鍵を掛けているので今開けます」
 何故鍵を掛けているのか訊かれたら……
 彼女はその質問に備えたが、絆は気に留めていないようだった。
「茉世義姉ちゃん」
 絆は妙な態度をとった。昨日、涙を見せたのが恥ずかしかったとみえる。
「今日もオレいないからさ……他の人に看病頼んだノ」
 永世であろう。蓮や青山藍のわけはあるまい。永世ならば、気を遣わないわけではなかったが、御せない本能によって四六時中、防御に徹しようとせず済みそうであった。
「お気遣いなく……ですが、ありがとうございます。ご心配おかけしてすみません」
 マスクのなかで彼女はこほりとひとつ咳をした。喋っていると喉が痒くなる。急降下していくような感覚もあれば、浮揚ふよう感もある。蹣跚まんさんとした足取りでベッドに戻る。
「茉世お義姉ちゃん」
 絆が、いつもとは違ってみえた。鏡のような双眸にはカラーコンタクトレンズが入っているのだろうか。だが入ってはいないようだった。化粧はしていなかったし、髪もブラシを入れただけのようである。彼の視線につられ、部屋に入ってくるはずの永世を見遣った。しかし入ってきたのは予想した人物ではなかった。六道月路ろくどうがつじかえでである。
「おじさま……」
 兄妹といっても差し支えのない程度にしか歳の離れていない養父である。歳の割りに若く、嫋やかな美しさと、雄々しい直角を帯びた痩身長躯が印象を相殺し、絶妙な均衡を保っている。
「茉世。久しぶりだね」
 毎日会っていた。それがぱたりと会わなくなった。ゆえに、その挨拶で合っているのかもしれない。実際はそう長らく会っていないわけではなかったはずだというのに、違和感もなかった。否、違和感云々ではなく、余程の理由が無ければ、たとえば由々しき事態になって、総会議ということでもなければ、もう会うことはなく、会ったとて他人のふりをしていなければならないと思っていたのが、予想外の時機に意外な態度で向こうからやって来た。
「おじさま……」
 咳が出た。二度、三度。美しい養父の薄平らな掌が背に触れた。
「すみません……でも、どうして………」
「茉世の体調が好くなるまで、うちで預かろうと思って」
 六道月路には帰りたかった。けれどそれがまったく予期しないところで叶うとなった途端、恐ろしくなってしまった。茉世は絆を見遣った。彼は視線に気付いたらしい。わずかに時差を持って彼女のほうを向いた。明るく無邪気な印象が上塗りされてしまうような、虚ろで、精神的な蝕みを見出さずにいられない眼をしていた。何年も外に放置した水面のような反射をしているのだった。絆は、正常な精神の持主ではないかもしれない……
「平気です、おじさま。寝ていれば治まりますから……」
「けれど絆くんの話では、3日4日寝込んでいるというじゃないか。もう茉世の部屋を掃除してしまったよ。動くのが厄介なのかい?」
 茉世は首を振った。
「そのままで平気だよ。行こう」
 帰巣本能は、まだ三途賽川にもシャンソン荘にも根付いていなかった。"家"に帰れるのだった。血の繋がらない家族たちとは上手く溶け込めはしなかったが、それでも家が恋しかった。御しきれないところが、育った家を求めている。
「おじさま―……」
 寂しさに似た幸福感があった。帰りたい。熱によるものもあるのだろう。涙が溢れそうだった。
「―馴れ馴れしいな」
 だが彼女は目瞬きしたことを後悔した。目蓋が開いたのだった。今まで、目を閉じていたらしかった。冷淡なつらをした六道月路楓がいる。逆光していてもそれが分かる。
「君はもう六道月路の人間ではないよ。君は三途賽川の人間だ。認識が甘い」
 優しかった養父の顔は凍てついている。知らない表情ではなかった。何度も想像し、予想した。だが、穏やかな夢をみていただけに、茉世の心には、棍棒が振り下ろされたようなものだった。
「三途賽川の嫁として、慎みを持ってくれないと」
「六道月路さん。あんまり……その、茉世義姉ちゃんモ、その辺りはよく分かってますカラ……」
 もうひとつ、視界に逆光した頭が入ってくる。
「……そう。茉世。そうなのかい。ごめんね」
 冷たい手が、茉世の髪を撫で上げた。厳しい語調が途端に柔らかくなる。だが茉世にはもう、何も信じられない。どこからが夢で、どこからが現実なのか、境界が分からなくなっていた。六道月路楓の手が怖かった。身を縮めてしまう。心地良いと思った体温が、今はただ冷たいだけである。
「茉世義姉ちゃん、荷物、どうする?」
 眩暈がしたが、彼女はベッドから降りた。ふらついたのを、六道月路楓が支えた。
「大丈夫かい」
 六道月路楓という人が、もう茉世には分からなかった。六道月路には、やはり帰れない。三途賽川でやっていくしかないのだ。
「自分で、やります……」
 故郷が失くなってしまった。存在はしているが、故郷と思い続けるわけにはいかないのだろう。
「自分で、やりますから……自分で、できますから、大丈夫です。六道月路さんのところには、帰りません」
 茉世はそこで蹲った。強い悲しみに襲われた。不用意な嫌味を言った罰だと思った。あのときの自身について、茉世はまだ期待を抱えていたのだと知った。だがいざ目の前にした養父が恐ろしくなってしまった。知ったまま、嫁いだ日、綺麗に別れた養父の像であってほしい。
「茉世、けれど……」
「茉世義姉ちゃん。じゃあ、永ちゃんのところなら、いい?」
 彼女は絆について考えていなかった。義姉が家で寝ているのが気になるのであろう。そして感染を恐れているのであろう。不規則な仕事であったし、主に喉を使う職種である。
「はい……永世さんのところでお世話になります………いいですか」
「うん。じゃあ、辜礫築つみいしづくさんに電話するネ」
 絆は仮面みたいなつらをしていた。粘土で作られているみたいだった。
「どうしたの、茉世。うちにおいでよ」
 六道月路楓が首を傾げる。
「来てくださってありがとうございます。でも、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「ボクの言ったことを気にしているのかい。すまなかったね。実家が心地いいのは残酷かと思って」
「い、いいえ……目が覚めました。わたしは三途賽川の人間です。ありがとうございます。獅子は我が子を千尋せんじんの谷に落とすといいますから……」
 彼女は養父と目が見られなかった。六道月路楓がどういう顔をしているのか分からない。彼はそういう、捉えどころのない人物であった。
「絆くん。茉世はボクが看るよ。辜礫築さんも忙しいでしょうし、永世くんも遠いでしょう。茉世、いいね」
「はい……」
 そう言われては、強く断る理由はない。永世もまた、暇な人物というわけではなかった。
 茉世は鈍く痛み、ぼんやりしてしまう頭で荷物を纏めた。六道月路楓に連れられ、部屋を出る前に彼女はベッドを整えた。床に縦長の紙がいくつか舞い落ちる。絆も養父もそれを捉えた。茉世も然り。
「何か落ちたよ」
 まったく身に覚えのない紙幣であった。全部で8枚。すべて5桁の金額が記されている。
「きちんとしまっておかないとだめじゃないか」
 茉世は、それが何を意味する金なのか理解しなければならなかった。青山藍が置いていったに違いない。奴は、ここを性風俗店と勘違いしている。
「や、家賃!今月分の……とりあえずの額払っておこうと思って、オレがテキトーに置いちゃったノ……」
 思わず、絆を見遣ってしまった。この金に、何故彼が嘘を吐く必要があるのか。シャンソン荘は直接集金制ではない。
「ちょっと色々あって、引き落とし、できないカモだから……」
 互いの手を弄び、その目はきょろついて、不審であった。だが幸い、六道月路楓は絆を見てはいなかった。
「そう。失くしたら大変だよ」
「ごめんネ、茉世義姉ちゃん」
 何故、彼は六道月路楓と共に疑問を投げかけないのだろうか。彼は知っている。おそらく。もう誤魔化せないのであろう。青山藍の指輪を拾ってはいなかったか。
 茉世は絆から手渡された札束を、青山藍専用の貯金箱にした小箱へ片付けた。紙製で、バレンタインデーにもらいそうな、可愛らしい外見をしていた。
「茉世、耳はどうしたんだい」
 耳に行きかけた手がどうにか止まった。彼女は己の打算的なところを、また改めて知らなければならなかった。
 養父の問いは疑問か詰問か。皆、すべて知っているような気がしてしまう。結局は絆も三途賽川の人間で、穢れた嫁を監視しているのではないか。六道月路と結託して……
 だが、そう考えるのは後ろ暗いところがあるからに違いなかった。
「ヘアアイロンで、挟んでしまって……」
「ヘアアイロン?大変じゃないか。みせてみなさい。保湿をしないと。保湿クリームとワセリンはあるかい」
 嘘は吐くべきではない。また嘘を塗り固めることになる。
「もう治りかけですから、大丈夫です……ちょっと、髪がちくちくするので、貼っただけで……」
 絆創膏を剥がしてしまえば、そこに火傷の痕がないことが知れてしまう。彼女は正気だった。ここですぐ、ヘアアイロンで耳を挟み、焼くことができなかった。その発想もなかった。正常なヘアアイロンも、すぐに熱を持つわけではなかった。嘘は結局嘘で完結するのだ。
「そう。気を付けて、茉世」
 茉世は苦しい微笑を浮かべ、荷物を纏めはじめた。絆と六道月路楓は無言である。どこかしら家系図の上のほうで繋がっている親戚であるのだろうけれど遠いのだろう。10代と30代に差し掛かるのでは年齢にも差があった。性格的にも合うとは思えない。話すことなどありそうではなかった。
 沈黙に焦る。
 永世から借りた大きな鞄に、必要なものはほとんど揃っている。
「布団は用意してあるし、歯ブラシは途中で買うよ。薬も要るでしょうから」
 吸熱シートを額に貼られ、彼女は六道月路楓の車に乗り込んだ。四輪駆動のいかつい、軍用車両を思わせる外観で、車高が高く、マット塗装がどこかいやらしかった。
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