38 / 119
ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 32
しおりを挟む
青山藍に耳を噛まれる。耳朶を食い千切るつもりらしかった。
「あ………ああ、」
「ゴム中出しさせろよ」
茉世がドア越しに誰かと喋っていたことなど構いもしない。故障していないようで、勝手に点いたり消えたり音量が上がり下がりする暴走しがちなテレビはまったく役に立たなかった。
「は?」
彼女の押さえていたドアが開かれてしまう。青山藍は、腰のものを納めた女体を引き寄せて後退る。避妊具の肉詰めを引き抜くつもりはないらしかった。
ドアの狭間から蓮が擦り抜けてやってくる。そして交尾中の獣を見た途端に艶やかな黒髪を逆立てた。怒り狂った黒猫のような有様だった。
「先輩……?」
茉世は冷たく硬い銀塊をしゃぶらされていた。弁解の言葉も出てこない。青山藍はやはりアイドルなのかもしれない。ファンではない相手にも、観客ならば惜しみなくサービスするつもりらしかった。腰を鈍器にして、柔らかな尻を打つ。一撃ずつ。受け取り手がこれをどう捉えたかは不明だ。
「はぁ?何、マツヨ……浮気してんの?」
口を塞いだまま、喉笛に添えた手で茉世を引き、囁いた。
「その人を放せ」
蓮は眉を吊り上げ、拳を握り締めていた。
「嫉妬おっつ~。間男はアナタ。カレシはワタシ。知らナイケド」
青山藍は怯みもしない。逃げ場もなく打たれる茉世の内側を抉るのはやめなかったが、両手は離した。それどころか、つながったまま前へと歩かせた。交尾相手を新しく現れた外敵であるはずの蓮に受け止めさせる。
「先輩……」
神経質で気難しそうな眉に狼狽が滲む。
「ごめ……なさ、」
茉世は蓮に縋るしかなかった。身体を支える術が他にない。優雅で平和、穏やかな日常を思わせる洗剤と乾いた汗の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
「どうしてなんだ………」
「アナタ、どこかのモデル?何してる人?一般人?アイドルはナイでしょ。アナタみたいな顔整い過ぎてるアイドル、今どき、売れない」
青山藍は平然と喋っていた。それでいて女体に食い込ませた栓はぎちぎちに硬く膨らんでいる。
「……絆の兄で、その人の、義弟だ」
「ふぅん、絆の?」
「それより、その人を放せ」
「ヤダね」
見せびらかすように青山藍は腰を入れる。
「アンタも混ざらない?マツヨぉ……あれだけイケメンなら文句ないでしょ?」
茉世は首を振った。グリルズで輝く歯が、ねっとりと耳殻を喰む。
「見………ないで、見な………で、」
終わってしまった。すべて、終わりだ。あらゆることが露見して、明日には夜空を天井に、コンクリートを枕にして寝るのだろう。茉世は役に立つような資格もなければ職歴もなかった。ただ三途賽川に嫁ぐためだけに引き取られ、養育された。その他の道に行くことなど有り得なかった。だが有り得てしまった。
彼女はこれから先のことを考えたくなかった。
「オイオイ、ワタシとラブラブセックスしてるときに考えごと?赦せない」
青山藍はラストスパートをかけた。蓮も蓮で吹っ切れたらしい。茉世の上体を力強く抱き締める。掌も胸元も湿っていた。妖艶な汗の匂いがする。胸板が硬い。黒いシャツによって胴回りがさらに引き締まって見える体格に、胸が高鳴っていた。強い牡の匂いがした。首が仰け反る。陶酔に目を眇めた。視線の先に蓮の双眸があった。懐いてきな野良猫が送ってくる粘こく潤んだ眼差しが搗ち合ったまま離せない。目瞬きがコマ送りのようだった。頬に大きな掌が添い、目元を撫でていく。わずかに汗ばんだ堅い肌理の男の手だった。
「ふ、あっあ………」
誰に犯されているのかもう分からなかった。全身に快楽を送り込まれ、詰め込まれるのを阻むように力強い緊縮を起こしていた。それが勢いのある抽送を促してしまう。
「先輩」
絆創膏の巻かれた耳朶を遊ばれている。振り子に悪戯をする子供みたいに。
「だ…………め、だめ、こわ…………っ、もう………」
混乱していた。一体誰に犯されている?蓮なのか。だが蓮は前方にいる。物理的に不可能である。夫であるのが自然である。しかし夫の肉体を知らない。
脳味噌が爆ぜたと思った。内部か湧き起こる揺れに、逞しい腕が絡みつく。
「もうだめ、だめぇえッ!」
叫びながら、彼女は果てた。快感を逃すためにそこは犇めく。同時に、射精を乞うていた。膣壁は濁流を受けるはずであった。衝撃が広がる感覚はなかったが、一ヶ所で力強い脈動が起こっている。
呼応するように、腰が前へ前へ進もうとする。脳裏の浜辺に打ち寄せた白浪はなかなか引かない。茉世は頭を抱かれ、後頭部に心地良いリズムを刻まれていた。肺いっぱいに蓮の香りを吸い込んでいる。
「オネエサンのイきまん、やっぱり最高だ……」
大きな肉塊であった。抜かれると喪失感を覚えるのである。青山藍はでっぷりと精液を孕んだ避妊具を結んだ。蓮はこの隙を見逃さなかった。手早く茉世を引き寄せる。床にピンク色の卵が落ちた。蜜煮にされたように、粘液を携えていた。卵でありながら死骸になっていた。ぴくりとも動かなくなっている。充電が切れたのである。
「で?何だっけ。オタクさん、なんだって?」
青山藍は蜜煮にされた鮮やかすぎる卵を手に取った。しげしげと眺め、ぬるつきで遊んでいる。
「この人には二度と近付くな」
立てなくなっている茉世に体勢を合わせ、蓮は彼女を後ろへやった。
「コレ、本気汁?」
青山藍はローターに絡まった液体を調べている。指を当てては、糸を引かせている。
「辱めるな」
「がっつりオネエサンのイき顔観ておいて何言ってんだこの人。アタマおかしいんですか、アナタ。ズリネタにするつもりですか」
色塗りされた指が形のない糸を弄ぶ。
「こんないいオトコだとオナニーとかしなくて済むんでしょうね。なんで野郎のオナニー事情なんか考えなきゃならんの。オネエサン、こっち来てよ」
「着替えて来て」
蓮は茉世を腕に閉じ込めたまま耳元で囁いた。彼女は羞悪に顔を熱らせていた。生々しさを受け入れられない。現実ではない。こここそが忌み地ではなかろうか。何も肯定できはしない。
「あ?待てよ、オネエサン。風呂入るなよ。激臭まんこ舐めさせるんだろ?」
ひとりならば耐えられたかもしれない。だが今、ここには蓮がいる。聞かれている。彼はある種の身内と言えた。簡単に切り離せる疣や瘤ではない。
頭上で舌打ちが聞こえた。わずかに蓮の身体が離れ、ふわ、と匂いがした。
「汗臭くてすまない」
見遣った蓮は上半身を裸にしていた。そして彼女の視界は真っ暗く覆われる。寝間着の上から被せられた黒いシャツはミニスカートのようだった。
「帰ってくれ」
「ココ、ワタシの家。帰れって?上の階に行けばヨロシイ?」
「どこでもいい。彼女の目の前から失せてくれないか」
蓮は今すぐにでも、青山藍を殴りそうであった。だがその外で、茉世は金属を引き摺るような音を聞いた。
「オタク、絆のオニイサンなんでしょ?お姉さんとか妹とかはイナイの?」
「……いるかもな」
蓮は目を側めた。茉世はふわついた思考が一瞬だけ、冴えるような感じがした。
「出すもの出してくれればヤメてやるよ」
青山藍も本気で聞いたわけではないらしかった。ぼそぼそ喋る声など届いていない。
「でも貧乳っぽそうだし、未成年じゃあな……」
青山藍の声の裏側で、近付いてくる足音がある。
からら……からから………
その響きを知っている。夢で耳にした。農具ではなかったか。木製の柄の先に金具の伸びた器具ではなかったか。息子たちの頭を搗ち割り、胴体を打ち据えたものでは……
…………ギィ
エントランス側の管理人室の扉が開く。
「シネエエエエ!」
絶叫が起こった。刃物か鈍器か、器物が振り上げられている。何者かが管理人室へ飛び込んできた。
「ちょ、マジか」
青山藍の足元間近に、鈍色のものが振り下ろされる。指と同じ色のペディキュアを塗られた足は咄嗟に避けた。ただでさえ無惨に荒れ果てた畳に、横に一筋溝が掘られる。固いものに叩きつけられ、きしし……と器物も反動を受ける。
「シネ!シネ!シネエエエ!」
白い毛の多く混じった長い髪が、簾のようになって、靡くたびに青白い顔が見え隠れした。青山藍の足を切り落とせなかった器物は蓮のほうにめがけて薙ぎ払われた。茉世は腹の捩じ切れるような勢いで蓮に後ろへ引っ張られた。彼女は壁に背中を叩きつけた。
「オオオオ!」
金切り声を上げて、鍬を振り回した。易々と長い得物を扱う不審者は、茉世の姑だった。視界に入り次第、鍬を振りかぶった。
「返セエエエ!」
聞くものの喉も引き裂くような嗄れた声であった。鼓膜に粗い目の鑢をかけるようである。姑の奇行に茉世は言葉を失った。
「何を!」
青山藍は、集中的に狙われていた。肩を上げ下げしながら、ミンチにされるまでの時間を稼いでいるようだった。だがそのうち、避けきれず、その白刃は布を裂き、肉を挽くのだろう。
「オカシイって!警察、呼んで、よ!」
青山藍もまた、頭のおかしい人間であった。刃物を持った人間に対抗するならば、一撃で返り討ちにしなければならない。そうでなければ逆上し、さらなる暴走を招きかねない。だが青山藍は、乱入者が体躯に見合わない長いものを振り回しているのをいいことに、避けながら距離を縮めると、ネグリジェの裾から伸びるその棒切れのような足首を蹴り払ってしまった。そして逃げもせず、茉世のほうへミサイルよろしくやって来るのである。どうやら蓮の庇護下に入りたいらしかった。平然と彼を盾にして、茉世にしがみつく。
茉世の姑、蓮の母親は転倒した。この間に逃げてしまえばよかった。だが3人同時には逃げ出せそうになかった。何より、茉世は足首を痛めたらしい義母を放っておけなかった。
「お義母さま……」
「バカ!バカ!やめとけ、逃~げるンだヨぉ!」
青山藍が動こうとしない茉世の肩を揺さぶった。
「え……?」
蓮もそこに立ち竦んでしまった。唸っている恐ろしい老婆を見詰めている。
「お義母さまです。わたしのお姑さんで蓮さんのお母さん……」
しかしその横顔に合点の色はない。
「死んだと、思っていた……」
歳の割りに彼女は老けていた。痩せ細った腕が鍬を手に取る。
「オオオオ!」
息子なりの動揺があったのだろう。蓮は初動が遅れた。
「ちょ、ボケっとしてんなよ、イケメン!」
青山藍にも人の情というものがあるらしい。指に嵌った銀色の石ころを外し、鬼婆へと擲った。凶器となり得る物を持った闖入者は標的を変えたようだった。
茉世は打算的な女である。咄嗟に計算してしまったのである。このシャンソン荘で怪我人を出せば、居場所を失ってしまう。管理人として、管理できていない。蓮は無事に帰さなければ、ここであったことを隠し通せなくなる。青山藍然り。隠蔽しなければならないのだ。誰も怪我させてはならない。すべて無かったことにし、隠蔽しなければ。隠蔽できなければ今度こそ、居場所はない。逞しく外で生きたいけるとは思われない。身を売って生きていけるのだろうか。働く口は、見つかるだろうか……具体的な解決策はないが、彼女の身体は急いていた。何としても、表沙汰にしてはならない。鍬が振り下ろされるのを唖然として待っている青山藍の前へ飛び出した。
「お義母さん……」
振り返る直前には、平たい鋒がその背中めがけて振り下ろされていた。
女と女の子が正座をしていた。女のほうは、両手で顔を覆い、肩を震わせている。笑っているのだろうか。泣いているのだろうか。その横で、黒い髪の女の子は凛と座っていた。茉世は彼女の顔を知っていた。澄んだ目は真っ直ぐ前を見て、堂々としている。この女の子の弟にあたる霖の眼差しによく似ていた。
『ナプキンを』
嗄れた男の声である。女の子の隣の女が泣き崩れる。
『泣かないで、お母さん。あんなのはただの出血でしょう。女は常に手首を切っているようなものなんだから』
女の子の隣の女は母親であるらしい。身体を折り畳むように泣いている。
『こんなのは、あんまりにも……尽ちゃんが可哀想で……』
『あんなもの塗られなきゃならない、絆のほうが、カワイソウでしょう』
顔は見えなかった。ただ、茉世が視界を借りている人物は、女の子とその母親を見ていた。だが遮蔽物がやってくる。人の身体であった。そして額を小突かれるような感覚もあった。何か塗られているらしい。
『尽ちゃん、怪我したの?』
茉世は何か言った覚えはない。しかしこの肉体が訊ねた。
『女というのは怪我をせずとも血を流すの生き物なのだ』
『大丈夫なの?死んじゃわないの?』
茉世にその意思はなかった。しかし両目の貸主は、立ち上がって女の子のもとへ行こうとする。
『来ないで!来ないでちょうだい……』
女の子の母親が叫んだ。女の子に茉世は見上げられてしまう。
『汚ったないところから出た汚ったないものつけて、あんた何してんの?』
茉世はそれを夢だと理解していた。女の子と間の床に地割れが起こり、遠く引き離されていく様をみるまで、しかしそれを現実にあったことだと思い込みそうになっていた。だがあの地割れは現実ではなかろう。引き裂かれた後、不思議な引力が働いていたのだ。まさに非現実的な、夢か現か疑うべくもない夢であった。
茉世は何時間も寝ていたつもりだが、ほんのわずかな時間であったらしい。膝から崩れ落ちたらしい姑の姿が見える。
「お義母さま」
「オオ………オオオオ…………」
グレーにも見える髪は荒れ果てた畳を掃いているようだった。
「先輩……先輩…………救急車を、」
視界には靄がかかっていた。水蒸気の蔓延した浴室のようであった。茉世は手探りで蓮に触れた。どこを掴んでいるかは分からなかった。
「大丈夫……大丈夫ですから………落ち着いてください」
茉世は冬場の布団から出るような欲求を覚えたが、一気に起き上がった。
「お義母さん……お部屋に戻りましょう」
痩せ細った腕をとった。鑢をかけ、塗装してある把手といえども、素手では皮膚が傷んでいた。
「先輩、動かないほうが……」
「お義母さんをお部屋に連れていきたいんです」
腕を引けば、姑はゆったりとした足取りでついてくる。
「オネエサン、ショーキ?」
「わたしの夫のお母さんです。青山さんに関係ないですから、放っておいてください。帰って!」
青山藍は青く染まった筆みたいな髪を掻き乱した。
「帰りマース」
「ここでは何もなかったことに、しておいてください。お願いですから」
「分かった。明日マタ来る」
茉世は返事もせず、姑を連れて部屋へ向かった。何も履いていなかった。まだ住人たちは帰ってこないはずだ。虐げられ、早くに老けてしまった人は、あとは死を待つのみなのであろうか。茉世は義母を布団に座らせた。
「お義母さま……」
鍬を握っていた掌を見る。照明は薄暗く、色の悪い肌をさらに青白くし、日の当たらない皮膚は血管を透かしている。そこには肉刺になる前の擦れた痕が見てとれた。
「助けようとしてくださったのでしょう?ありがとうございます。けれど、鍬を振り回しては危ないです、お義母さま」
姑の油気のない髪を手櫛で整えると、泣き濡れた顔が露わになる。茉世のみたものは、所詮夢である。曖昧模糊な想像である。しかし現実でなくとも、仮想であろうとも、茉世という女は感情を揺さぶられてしまう不合理な性質を持っているのだった。
「オオ………オオオ………」
姑は嫁に抱擁を求めた。彼女はそれに応えた。骨張って硬くなったような背中を撫で摩る。脳内から分泌される錯覚汁も、そろそろ切れてくるところだった。焼けるような痛みを背中に覚える。だが夢の中の有り得ない、有り得べからざる、悍ましい出来事に現実味を感じ、そこにいる姑と、ここにもいない義妹へ哀れみを投影してしまった。
姑が落ち着くまで茉世はそこにいた。アイドル連中は帰ってきてしまうかもしれなかった。茉世は何も穿いていなかった。蓮のシャツを着て、背中は無事なのであろうな。蓮もまた上半身裸であろう。傷を見ることができないというのは、幸いであった。痛みはあるが、想像できないだけ、傷の規模に相当する痛みを受け取ることもせずに済む。布は無事で肌に蚯蚓腫れが起こっている程度であろう。
管理人室に戻ると、どこかで見たことのあるような彫刻が置かれていた。ところがそれはブロンズ製ではなかったし、肉感があった。色白で、髪は黒く、上半身は素肌を晒しているが、カーキー色のカーゴパンツを穿いて、妙に俗っぽい。目が動く。生き物であった。
「先輩……」
「ご迷惑をおかけしました。このことは、誰にも言わないでください。お願いします……」
考えている人物の所作を模したブロンズ像と見紛う生身の人間は、やはり彫刻なのか返事をしなかった。
「蓮さん。お願いします……」
見返りでも要求するつもりであろうか。彼女は語気を荒らげて呼んだ。しかし弱気になった。本当に、見返りを要求されるのではないか。
「分かった。先輩がそれでいいのなら」
微かな安堵に溜息をつく。あとはこの男を帰すだけである。そのためには黒いシャツが必要であった。流れ作業のように裾を握った。だが脱げない。脱げることはできた。けれども脱いだらどうなるのか、何を曝すことになるのか分かってしまった。
「洗って返したいのですが、着替えは持っていらっしゃいませんもんね……?」
「車にある。それより背中の傷を見せてくれ」
「その前に……着替えてきます」
蓮はしかつめらしい顔を強張らせ、浅い頷きを数度繰り返す。彼女は俯いたまま私室へ入った。脱いだシャツは汚れてはいなかった。だが繊維は傷んでいた。擦れた跡もある。それを畳んだ。そしてわざわざ、彼女はブラジャーを身に付けた。シャツを抱き、管理人室へ出る。間が悪い。いつでも彼女は間が悪かった。そこには絆が突っ立っている。上半身裸の次兄から、長兄の嫁へと視線を移すところであった。
絆の立場になって考えてみれば、一体どういうことになるのだろう。長兄の嫁は、次兄との不貞行為によって、まるで謹慎処分や蟄居のごとく、このシャンソン荘にやって来た。そしてそのシャンソン荘で、その次兄が上半身裸でいるのだった。兄嫁もまたブラジャーを着けてはいるが、同様の姿をしている。今からヨガやエアロビクスをする雰囲気ではなかった。
「なんで……?」
蓮は押し黙っていた。弟に一瞥くれて、茉世のほうへやって来る。
「何、なんで………?」
絆は明らかな困惑をみせていた。
「ごめんなさい、絆さん………」
「なんでだヨ!なんでだヨ!なんで!」
彼は蓮に掴みかかった。だが掴むところがなかった。行き場を失った手が兄の頬を打った。しかし蓮は弟の拳を受け止めてしまった。誰も見もせず知らぬところで前髪の奥の双眸がわずかに瞠られた。反射的な行動であったらしかった。
「蓮!」
弟が怒鳴った。次の拳を、蓮は受け入れることにしたらしい。風圧は香水を纏って管理人室に撹拌されていく。肉越しの骨を叩く厭な音が茉世の耳にも届いた。
「絆。女の前で暴力は感心しないな」
「ふざけ、んなヨ!」
兄弟喧嘩というには一方的であった。
「やめて、絆さん………やめて!」
茉世は絆の腕を掴まなければならなかった。絆は紙屑みたいに眉根を皺くちゃにしていた。彼は、次兄が長兄の嫁を強姦したものと思っているらしい。
「クズ野郎!サイテーだヨ、アンタ!お母さんから何も学ばなかったのかヨ!レイプ野郎!処刑されろヨ!」
目を潤ませ、絆は激する。
「なんでだヨ!エロビデオ観て一人でシコってろヨ!最悪だヨ、なんなんだヨ。なんで女に生まれたってだけでみんなこんな目に遭わなきゃなんないんだヨ。カスみたいに育ったんだからお母さんに謝れヨ!お母さんと茉世義姉ちゃんに謝れヨ!土下座して謝れ!」
茉世が押さえておかなければ、絆はまた兄を殴るつもりらしかった。喚き、暴れる。
「お母さんに謝れヨ……」
絆はぽろぽろと涙を流しはじめた。
「お母さんと姉ちゃんに謝れヨ、恥知らず……うっうっ……」
「絆さん、誤解なんです。絆さん……蓮さんはわたしに、」
「いい―絆。俺は謝らない。三途賽川に生まれるとはそういうことだ。女は道具。女は家畜。女は手段だ。どう生きるかは自由だが、お前もその家訓の上に存在している。忘れるなとは言わないが、自分は違うだなんて思わないことだ。アイドルなら尚更」
絆は唖然としていた。茉世もまた、それを口にしなければならない三途賽川というものに慄然とした。
「自分は違うなんて思ったことナイ……オレのせいで、お母さん、逃げられなかったんだヨ……?オレのせいでお母さんも姉ちゃんも………うっ、ぐ、ぐぐ………」
彼は泣き出してしまった。
「オレの身体ンなか巡ってる血は、女の人傷付けるんだヨ……う、うう………」
管理人室で兄弟喧嘩をやっているうちに、住人たちが帰ってきた。
「あ………ああ、」
「ゴム中出しさせろよ」
茉世がドア越しに誰かと喋っていたことなど構いもしない。故障していないようで、勝手に点いたり消えたり音量が上がり下がりする暴走しがちなテレビはまったく役に立たなかった。
「は?」
彼女の押さえていたドアが開かれてしまう。青山藍は、腰のものを納めた女体を引き寄せて後退る。避妊具の肉詰めを引き抜くつもりはないらしかった。
ドアの狭間から蓮が擦り抜けてやってくる。そして交尾中の獣を見た途端に艶やかな黒髪を逆立てた。怒り狂った黒猫のような有様だった。
「先輩……?」
茉世は冷たく硬い銀塊をしゃぶらされていた。弁解の言葉も出てこない。青山藍はやはりアイドルなのかもしれない。ファンではない相手にも、観客ならば惜しみなくサービスするつもりらしかった。腰を鈍器にして、柔らかな尻を打つ。一撃ずつ。受け取り手がこれをどう捉えたかは不明だ。
「はぁ?何、マツヨ……浮気してんの?」
口を塞いだまま、喉笛に添えた手で茉世を引き、囁いた。
「その人を放せ」
蓮は眉を吊り上げ、拳を握り締めていた。
「嫉妬おっつ~。間男はアナタ。カレシはワタシ。知らナイケド」
青山藍は怯みもしない。逃げ場もなく打たれる茉世の内側を抉るのはやめなかったが、両手は離した。それどころか、つながったまま前へと歩かせた。交尾相手を新しく現れた外敵であるはずの蓮に受け止めさせる。
「先輩……」
神経質で気難しそうな眉に狼狽が滲む。
「ごめ……なさ、」
茉世は蓮に縋るしかなかった。身体を支える術が他にない。優雅で平和、穏やかな日常を思わせる洗剤と乾いた汗の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
「どうしてなんだ………」
「アナタ、どこかのモデル?何してる人?一般人?アイドルはナイでしょ。アナタみたいな顔整い過ぎてるアイドル、今どき、売れない」
青山藍は平然と喋っていた。それでいて女体に食い込ませた栓はぎちぎちに硬く膨らんでいる。
「……絆の兄で、その人の、義弟だ」
「ふぅん、絆の?」
「それより、その人を放せ」
「ヤダね」
見せびらかすように青山藍は腰を入れる。
「アンタも混ざらない?マツヨぉ……あれだけイケメンなら文句ないでしょ?」
茉世は首を振った。グリルズで輝く歯が、ねっとりと耳殻を喰む。
「見………ないで、見な………で、」
終わってしまった。すべて、終わりだ。あらゆることが露見して、明日には夜空を天井に、コンクリートを枕にして寝るのだろう。茉世は役に立つような資格もなければ職歴もなかった。ただ三途賽川に嫁ぐためだけに引き取られ、養育された。その他の道に行くことなど有り得なかった。だが有り得てしまった。
彼女はこれから先のことを考えたくなかった。
「オイオイ、ワタシとラブラブセックスしてるときに考えごと?赦せない」
青山藍はラストスパートをかけた。蓮も蓮で吹っ切れたらしい。茉世の上体を力強く抱き締める。掌も胸元も湿っていた。妖艶な汗の匂いがする。胸板が硬い。黒いシャツによって胴回りがさらに引き締まって見える体格に、胸が高鳴っていた。強い牡の匂いがした。首が仰け反る。陶酔に目を眇めた。視線の先に蓮の双眸があった。懐いてきな野良猫が送ってくる粘こく潤んだ眼差しが搗ち合ったまま離せない。目瞬きがコマ送りのようだった。頬に大きな掌が添い、目元を撫でていく。わずかに汗ばんだ堅い肌理の男の手だった。
「ふ、あっあ………」
誰に犯されているのかもう分からなかった。全身に快楽を送り込まれ、詰め込まれるのを阻むように力強い緊縮を起こしていた。それが勢いのある抽送を促してしまう。
「先輩」
絆創膏の巻かれた耳朶を遊ばれている。振り子に悪戯をする子供みたいに。
「だ…………め、だめ、こわ…………っ、もう………」
混乱していた。一体誰に犯されている?蓮なのか。だが蓮は前方にいる。物理的に不可能である。夫であるのが自然である。しかし夫の肉体を知らない。
脳味噌が爆ぜたと思った。内部か湧き起こる揺れに、逞しい腕が絡みつく。
「もうだめ、だめぇえッ!」
叫びながら、彼女は果てた。快感を逃すためにそこは犇めく。同時に、射精を乞うていた。膣壁は濁流を受けるはずであった。衝撃が広がる感覚はなかったが、一ヶ所で力強い脈動が起こっている。
呼応するように、腰が前へ前へ進もうとする。脳裏の浜辺に打ち寄せた白浪はなかなか引かない。茉世は頭を抱かれ、後頭部に心地良いリズムを刻まれていた。肺いっぱいに蓮の香りを吸い込んでいる。
「オネエサンのイきまん、やっぱり最高だ……」
大きな肉塊であった。抜かれると喪失感を覚えるのである。青山藍はでっぷりと精液を孕んだ避妊具を結んだ。蓮はこの隙を見逃さなかった。手早く茉世を引き寄せる。床にピンク色の卵が落ちた。蜜煮にされたように、粘液を携えていた。卵でありながら死骸になっていた。ぴくりとも動かなくなっている。充電が切れたのである。
「で?何だっけ。オタクさん、なんだって?」
青山藍は蜜煮にされた鮮やかすぎる卵を手に取った。しげしげと眺め、ぬるつきで遊んでいる。
「この人には二度と近付くな」
立てなくなっている茉世に体勢を合わせ、蓮は彼女を後ろへやった。
「コレ、本気汁?」
青山藍はローターに絡まった液体を調べている。指を当てては、糸を引かせている。
「辱めるな」
「がっつりオネエサンのイき顔観ておいて何言ってんだこの人。アタマおかしいんですか、アナタ。ズリネタにするつもりですか」
色塗りされた指が形のない糸を弄ぶ。
「こんないいオトコだとオナニーとかしなくて済むんでしょうね。なんで野郎のオナニー事情なんか考えなきゃならんの。オネエサン、こっち来てよ」
「着替えて来て」
蓮は茉世を腕に閉じ込めたまま耳元で囁いた。彼女は羞悪に顔を熱らせていた。生々しさを受け入れられない。現実ではない。こここそが忌み地ではなかろうか。何も肯定できはしない。
「あ?待てよ、オネエサン。風呂入るなよ。激臭まんこ舐めさせるんだろ?」
ひとりならば耐えられたかもしれない。だが今、ここには蓮がいる。聞かれている。彼はある種の身内と言えた。簡単に切り離せる疣や瘤ではない。
頭上で舌打ちが聞こえた。わずかに蓮の身体が離れ、ふわ、と匂いがした。
「汗臭くてすまない」
見遣った蓮は上半身を裸にしていた。そして彼女の視界は真っ暗く覆われる。寝間着の上から被せられた黒いシャツはミニスカートのようだった。
「帰ってくれ」
「ココ、ワタシの家。帰れって?上の階に行けばヨロシイ?」
「どこでもいい。彼女の目の前から失せてくれないか」
蓮は今すぐにでも、青山藍を殴りそうであった。だがその外で、茉世は金属を引き摺るような音を聞いた。
「オタク、絆のオニイサンなんでしょ?お姉さんとか妹とかはイナイの?」
「……いるかもな」
蓮は目を側めた。茉世はふわついた思考が一瞬だけ、冴えるような感じがした。
「出すもの出してくれればヤメてやるよ」
青山藍も本気で聞いたわけではないらしかった。ぼそぼそ喋る声など届いていない。
「でも貧乳っぽそうだし、未成年じゃあな……」
青山藍の声の裏側で、近付いてくる足音がある。
からら……からから………
その響きを知っている。夢で耳にした。農具ではなかったか。木製の柄の先に金具の伸びた器具ではなかったか。息子たちの頭を搗ち割り、胴体を打ち据えたものでは……
…………ギィ
エントランス側の管理人室の扉が開く。
「シネエエエエ!」
絶叫が起こった。刃物か鈍器か、器物が振り上げられている。何者かが管理人室へ飛び込んできた。
「ちょ、マジか」
青山藍の足元間近に、鈍色のものが振り下ろされる。指と同じ色のペディキュアを塗られた足は咄嗟に避けた。ただでさえ無惨に荒れ果てた畳に、横に一筋溝が掘られる。固いものに叩きつけられ、きしし……と器物も反動を受ける。
「シネ!シネ!シネエエエ!」
白い毛の多く混じった長い髪が、簾のようになって、靡くたびに青白い顔が見え隠れした。青山藍の足を切り落とせなかった器物は蓮のほうにめがけて薙ぎ払われた。茉世は腹の捩じ切れるような勢いで蓮に後ろへ引っ張られた。彼女は壁に背中を叩きつけた。
「オオオオ!」
金切り声を上げて、鍬を振り回した。易々と長い得物を扱う不審者は、茉世の姑だった。視界に入り次第、鍬を振りかぶった。
「返セエエエ!」
聞くものの喉も引き裂くような嗄れた声であった。鼓膜に粗い目の鑢をかけるようである。姑の奇行に茉世は言葉を失った。
「何を!」
青山藍は、集中的に狙われていた。肩を上げ下げしながら、ミンチにされるまでの時間を稼いでいるようだった。だがそのうち、避けきれず、その白刃は布を裂き、肉を挽くのだろう。
「オカシイって!警察、呼んで、よ!」
青山藍もまた、頭のおかしい人間であった。刃物を持った人間に対抗するならば、一撃で返り討ちにしなければならない。そうでなければ逆上し、さらなる暴走を招きかねない。だが青山藍は、乱入者が体躯に見合わない長いものを振り回しているのをいいことに、避けながら距離を縮めると、ネグリジェの裾から伸びるその棒切れのような足首を蹴り払ってしまった。そして逃げもせず、茉世のほうへミサイルよろしくやって来るのである。どうやら蓮の庇護下に入りたいらしかった。平然と彼を盾にして、茉世にしがみつく。
茉世の姑、蓮の母親は転倒した。この間に逃げてしまえばよかった。だが3人同時には逃げ出せそうになかった。何より、茉世は足首を痛めたらしい義母を放っておけなかった。
「お義母さま……」
「バカ!バカ!やめとけ、逃~げるンだヨぉ!」
青山藍が動こうとしない茉世の肩を揺さぶった。
「え……?」
蓮もそこに立ち竦んでしまった。唸っている恐ろしい老婆を見詰めている。
「お義母さまです。わたしのお姑さんで蓮さんのお母さん……」
しかしその横顔に合点の色はない。
「死んだと、思っていた……」
歳の割りに彼女は老けていた。痩せ細った腕が鍬を手に取る。
「オオオオ!」
息子なりの動揺があったのだろう。蓮は初動が遅れた。
「ちょ、ボケっとしてんなよ、イケメン!」
青山藍にも人の情というものがあるらしい。指に嵌った銀色の石ころを外し、鬼婆へと擲った。凶器となり得る物を持った闖入者は標的を変えたようだった。
茉世は打算的な女である。咄嗟に計算してしまったのである。このシャンソン荘で怪我人を出せば、居場所を失ってしまう。管理人として、管理できていない。蓮は無事に帰さなければ、ここであったことを隠し通せなくなる。青山藍然り。隠蔽しなければならないのだ。誰も怪我させてはならない。すべて無かったことにし、隠蔽しなければ。隠蔽できなければ今度こそ、居場所はない。逞しく外で生きたいけるとは思われない。身を売って生きていけるのだろうか。働く口は、見つかるだろうか……具体的な解決策はないが、彼女の身体は急いていた。何としても、表沙汰にしてはならない。鍬が振り下ろされるのを唖然として待っている青山藍の前へ飛び出した。
「お義母さん……」
振り返る直前には、平たい鋒がその背中めがけて振り下ろされていた。
女と女の子が正座をしていた。女のほうは、両手で顔を覆い、肩を震わせている。笑っているのだろうか。泣いているのだろうか。その横で、黒い髪の女の子は凛と座っていた。茉世は彼女の顔を知っていた。澄んだ目は真っ直ぐ前を見て、堂々としている。この女の子の弟にあたる霖の眼差しによく似ていた。
『ナプキンを』
嗄れた男の声である。女の子の隣の女が泣き崩れる。
『泣かないで、お母さん。あんなのはただの出血でしょう。女は常に手首を切っているようなものなんだから』
女の子の隣の女は母親であるらしい。身体を折り畳むように泣いている。
『こんなのは、あんまりにも……尽ちゃんが可哀想で……』
『あんなもの塗られなきゃならない、絆のほうが、カワイソウでしょう』
顔は見えなかった。ただ、茉世が視界を借りている人物は、女の子とその母親を見ていた。だが遮蔽物がやってくる。人の身体であった。そして額を小突かれるような感覚もあった。何か塗られているらしい。
『尽ちゃん、怪我したの?』
茉世は何か言った覚えはない。しかしこの肉体が訊ねた。
『女というのは怪我をせずとも血を流すの生き物なのだ』
『大丈夫なの?死んじゃわないの?』
茉世にその意思はなかった。しかし両目の貸主は、立ち上がって女の子のもとへ行こうとする。
『来ないで!来ないでちょうだい……』
女の子の母親が叫んだ。女の子に茉世は見上げられてしまう。
『汚ったないところから出た汚ったないものつけて、あんた何してんの?』
茉世はそれを夢だと理解していた。女の子と間の床に地割れが起こり、遠く引き離されていく様をみるまで、しかしそれを現実にあったことだと思い込みそうになっていた。だがあの地割れは現実ではなかろう。引き裂かれた後、不思議な引力が働いていたのだ。まさに非現実的な、夢か現か疑うべくもない夢であった。
茉世は何時間も寝ていたつもりだが、ほんのわずかな時間であったらしい。膝から崩れ落ちたらしい姑の姿が見える。
「お義母さま」
「オオ………オオオオ…………」
グレーにも見える髪は荒れ果てた畳を掃いているようだった。
「先輩……先輩…………救急車を、」
視界には靄がかかっていた。水蒸気の蔓延した浴室のようであった。茉世は手探りで蓮に触れた。どこを掴んでいるかは分からなかった。
「大丈夫……大丈夫ですから………落ち着いてください」
茉世は冬場の布団から出るような欲求を覚えたが、一気に起き上がった。
「お義母さん……お部屋に戻りましょう」
痩せ細った腕をとった。鑢をかけ、塗装してある把手といえども、素手では皮膚が傷んでいた。
「先輩、動かないほうが……」
「お義母さんをお部屋に連れていきたいんです」
腕を引けば、姑はゆったりとした足取りでついてくる。
「オネエサン、ショーキ?」
「わたしの夫のお母さんです。青山さんに関係ないですから、放っておいてください。帰って!」
青山藍は青く染まった筆みたいな髪を掻き乱した。
「帰りマース」
「ここでは何もなかったことに、しておいてください。お願いですから」
「分かった。明日マタ来る」
茉世は返事もせず、姑を連れて部屋へ向かった。何も履いていなかった。まだ住人たちは帰ってこないはずだ。虐げられ、早くに老けてしまった人は、あとは死を待つのみなのであろうか。茉世は義母を布団に座らせた。
「お義母さま……」
鍬を握っていた掌を見る。照明は薄暗く、色の悪い肌をさらに青白くし、日の当たらない皮膚は血管を透かしている。そこには肉刺になる前の擦れた痕が見てとれた。
「助けようとしてくださったのでしょう?ありがとうございます。けれど、鍬を振り回しては危ないです、お義母さま」
姑の油気のない髪を手櫛で整えると、泣き濡れた顔が露わになる。茉世のみたものは、所詮夢である。曖昧模糊な想像である。しかし現実でなくとも、仮想であろうとも、茉世という女は感情を揺さぶられてしまう不合理な性質を持っているのだった。
「オオ………オオオ………」
姑は嫁に抱擁を求めた。彼女はそれに応えた。骨張って硬くなったような背中を撫で摩る。脳内から分泌される錯覚汁も、そろそろ切れてくるところだった。焼けるような痛みを背中に覚える。だが夢の中の有り得ない、有り得べからざる、悍ましい出来事に現実味を感じ、そこにいる姑と、ここにもいない義妹へ哀れみを投影してしまった。
姑が落ち着くまで茉世はそこにいた。アイドル連中は帰ってきてしまうかもしれなかった。茉世は何も穿いていなかった。蓮のシャツを着て、背中は無事なのであろうな。蓮もまた上半身裸であろう。傷を見ることができないというのは、幸いであった。痛みはあるが、想像できないだけ、傷の規模に相当する痛みを受け取ることもせずに済む。布は無事で肌に蚯蚓腫れが起こっている程度であろう。
管理人室に戻ると、どこかで見たことのあるような彫刻が置かれていた。ところがそれはブロンズ製ではなかったし、肉感があった。色白で、髪は黒く、上半身は素肌を晒しているが、カーキー色のカーゴパンツを穿いて、妙に俗っぽい。目が動く。生き物であった。
「先輩……」
「ご迷惑をおかけしました。このことは、誰にも言わないでください。お願いします……」
考えている人物の所作を模したブロンズ像と見紛う生身の人間は、やはり彫刻なのか返事をしなかった。
「蓮さん。お願いします……」
見返りでも要求するつもりであろうか。彼女は語気を荒らげて呼んだ。しかし弱気になった。本当に、見返りを要求されるのではないか。
「分かった。先輩がそれでいいのなら」
微かな安堵に溜息をつく。あとはこの男を帰すだけである。そのためには黒いシャツが必要であった。流れ作業のように裾を握った。だが脱げない。脱げることはできた。けれども脱いだらどうなるのか、何を曝すことになるのか分かってしまった。
「洗って返したいのですが、着替えは持っていらっしゃいませんもんね……?」
「車にある。それより背中の傷を見せてくれ」
「その前に……着替えてきます」
蓮はしかつめらしい顔を強張らせ、浅い頷きを数度繰り返す。彼女は俯いたまま私室へ入った。脱いだシャツは汚れてはいなかった。だが繊維は傷んでいた。擦れた跡もある。それを畳んだ。そしてわざわざ、彼女はブラジャーを身に付けた。シャツを抱き、管理人室へ出る。間が悪い。いつでも彼女は間が悪かった。そこには絆が突っ立っている。上半身裸の次兄から、長兄の嫁へと視線を移すところであった。
絆の立場になって考えてみれば、一体どういうことになるのだろう。長兄の嫁は、次兄との不貞行為によって、まるで謹慎処分や蟄居のごとく、このシャンソン荘にやって来た。そしてそのシャンソン荘で、その次兄が上半身裸でいるのだった。兄嫁もまたブラジャーを着けてはいるが、同様の姿をしている。今からヨガやエアロビクスをする雰囲気ではなかった。
「なんで……?」
蓮は押し黙っていた。弟に一瞥くれて、茉世のほうへやって来る。
「何、なんで………?」
絆は明らかな困惑をみせていた。
「ごめんなさい、絆さん………」
「なんでだヨ!なんでだヨ!なんで!」
彼は蓮に掴みかかった。だが掴むところがなかった。行き場を失った手が兄の頬を打った。しかし蓮は弟の拳を受け止めてしまった。誰も見もせず知らぬところで前髪の奥の双眸がわずかに瞠られた。反射的な行動であったらしかった。
「蓮!」
弟が怒鳴った。次の拳を、蓮は受け入れることにしたらしい。風圧は香水を纏って管理人室に撹拌されていく。肉越しの骨を叩く厭な音が茉世の耳にも届いた。
「絆。女の前で暴力は感心しないな」
「ふざけ、んなヨ!」
兄弟喧嘩というには一方的であった。
「やめて、絆さん………やめて!」
茉世は絆の腕を掴まなければならなかった。絆は紙屑みたいに眉根を皺くちゃにしていた。彼は、次兄が長兄の嫁を強姦したものと思っているらしい。
「クズ野郎!サイテーだヨ、アンタ!お母さんから何も学ばなかったのかヨ!レイプ野郎!処刑されろヨ!」
目を潤ませ、絆は激する。
「なんでだヨ!エロビデオ観て一人でシコってろヨ!最悪だヨ、なんなんだヨ。なんで女に生まれたってだけでみんなこんな目に遭わなきゃなんないんだヨ。カスみたいに育ったんだからお母さんに謝れヨ!お母さんと茉世義姉ちゃんに謝れヨ!土下座して謝れ!」
茉世が押さえておかなければ、絆はまた兄を殴るつもりらしかった。喚き、暴れる。
「お母さんに謝れヨ……」
絆はぽろぽろと涙を流しはじめた。
「お母さんと姉ちゃんに謝れヨ、恥知らず……うっうっ……」
「絆さん、誤解なんです。絆さん……蓮さんはわたしに、」
「いい―絆。俺は謝らない。三途賽川に生まれるとはそういうことだ。女は道具。女は家畜。女は手段だ。どう生きるかは自由だが、お前もその家訓の上に存在している。忘れるなとは言わないが、自分は違うだなんて思わないことだ。アイドルなら尚更」
絆は唖然としていた。茉世もまた、それを口にしなければならない三途賽川というものに慄然とした。
「自分は違うなんて思ったことナイ……オレのせいで、お母さん、逃げられなかったんだヨ……?オレのせいでお母さんも姉ちゃんも………うっ、ぐ、ぐぐ………」
彼は泣き出してしまった。
「オレの身体ンなか巡ってる血は、女の人傷付けるんだヨ……う、うう………」
管理人室で兄弟喧嘩をやっているうちに、住人たちが帰ってきた。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI


シチュボ(女性向け)
身喰らう白蛇
恋愛
自発さえしなければ好きに使用してください。
アドリブ、改変、なんでもOKです。
他人を害することだけはお止め下さい。
使用報告は無しで商用でも練習でもなんでもOKです。
Twitterやコメント欄等にリアクションあるとむせながら喜びます✌︎︎(´ °∀︎°`)✌︎︎ゲホゴホ

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる