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叢雲に消ゆ(14話~) ロボットヘテ恋/独自世界観/暴力・流血描写/未定につき地雷注意
叢雲に消ゆ 22
しおりを挟むカミヅケミヤマは、前任者と似ているのかも知れない。同じ場所に、同じようにいる。多目的棟の屋上で、煙を吹かしているところは違ったけれど。
「コーヒーとか飲みません?」
背後に立つまで彼は気付かなかったらしい。驚いた様子だった。彼は右手に摘んだものを、灰皿に入れようとした。
「いいですよ、消さなくて。禁煙条例ってやりづらいですよね」
だがアサギリの言葉に構わず、相手の右手に包まれた紙筒は潰されてしまった。
「私はコーヒーは飲めません」
声に活気がなかった。だが発した側にはあるつもりでいたようだ。
「残念」
ベンチに腰掛けると、彼は不機嫌な面のか、それが素なのか分からない一瞥をくれた。
「何か用ですか」
「いいえ、別に」
彼女もまたコーヒーを飲む気分ではなかった。小さなペットボトルを逆さにしたり転がしたり弄ぶ。思ったより元気そうであった。いくらかばつが悪くなった。同時に、嫌になってしまった。自身に呆れてしまった。あとは暮れていくのみの複雑な色味をした空を見上げていた。雲が薄らと伸びて斑模様である。
「申し訳ありませんでした」
視界の端で動いたものを捉えれば、カミヅケミヤマが頭を下げている。彼女はぎょっとした。
「な、なんですか。いいですよ、コーヒーくらい。好き嫌いありますし……」
恍けてみせた。
「結局、矢面に立つのは貴方だ」
床と顔を水平にしたままだった。アサギリは謝られに来たのではない。
「現状、基地には何の執行力もない」
「頭上げてください。上司が部下に、簡単に頭下げないでくださいよ」
石頭は動作まで石らしかった。
「だがあまりにも、パイロットである貴方の負担が大きすぎる」
ニュースはパイロットに批判的であった。ソーシャルメディアでもそうだろう。傍観に徹した機体は、野次馬ですらある。
「謝ってほしくてここに来たみたいじゃないですか。違います」
フォーティタウゼント指揮官が、マスコミの対応に追われている。それがまた彼を重苦しくさせているのだろう。
「よく食べて、よく寝ることですよ。胃に穴を空けたくなかったらね」
「気を遣わせたようですな。忝い」
アサギリは蟻か何かを追ってでもいるのか、下ばかり見つめているカミヅケミヤマから目を逸らした。この男も不器用である。肩が凝ってきた。
「別に……わたしは言われたことをするだけの身ですから。言われたこともやらないときはありますけれど……」
「ミナカミさんはやってくれる、と前任者からは聞いております」
彼女は急に顔が熱くなった。汗が滲む。
「都合の良いことしか覚えていらっしゃらなかったんでしょう」
腹の中がむず痒く、かっかとむかついてきた。
「やはりコーヒー、いただいてもいいですか」
「気を遣わせましたね。どうぞ、もらってください。基地勤めの人がコーヒーを飲まず、一体何を飲むんです?コーヒー牛乳ですか?あれはジュースらしいですからね」
「たまにはこういうのもいいと思いまして。いただきます」
カミヅケミヤマに小さなペットボトルはあまり似合わなかった。キャップを捻り、一口呷る。
「私は水か茶です」
「覚えておきます。じゃ」
ふと見遣った新しい上司は自嘲的であった。こういうことはもう無いようにするべきなのだろう。
「ありがとう」
立ち去ろうとしたところで背中に低い声を受けた。
「わたしが一人になりたくなかっただけですね」
アサギリは吐き捨てるように言って立ち去った。
◇
アサギリは体調を崩していた。マスクをして、襟巻きをして、ニット帽を被っていた。カミヅケミヤマとフォーティタウゼント指揮官が2人揃って会議室へとやって来た。
「風邪?」
フォーティタウゼント指揮官が訊ねた。
「はい。熱は下がったんですが」
テーブルにはティッシュの箱とゴミ袋が置かれていた。鼻を擤むとビニール袋ががさごそいう。
「お大事に……とは気安く言える立場じゃないけれど、お大事に」
「ありがとうございます。養生します」
そして会議が始まった。エンブリオ・アクギを主人公にしたアニメの企画があるらしかったが、それが中止になったという話だった。だがそもそも、アニメの企画の話からアサギリは知らなかった。パイロットのヒロインの声優起用と監修の依頼があったらしいのだ。
「この前のことですよね。反感買いますもん。仕方ない」
喋ると咳が出た。
「医局には行きましたか」
カミヅケミヤマにとってはエンブリオ・アクギのアニメが中止になったことよりも、パイロットの体調不良のほうが重大な出来事であるらしかった。
「風邪くらいで大袈裟な」
「行っておくのが賢明ですな。連絡を入れておきましょう」
カミヅケミヤマは首から下げた開閉式の旧い携帯電話を手に廊下へ出ていった。
「広報部はどうしたんですか」
「あら……今日は、一般公募生の一次テストの日よ。そっちに駆り出されたの」
フォーティタウゼント指揮官は知らなかったのかとばかりに目を大きくした。
「そうなんですね。すみません。知りませんでした」
「いいえ……今日のテストはミナカミさんには関係のない話ですもの……ただ、聞いているものと思って」
レーゲン・ランドロックトが参加しているはずだった。
「整備士のマヤバシくんも参加しているものだから」
「えっ」
「今日は薬液摂取だけだけれど」
「薬液摂取って………その、」
振り返りたくもない、己の醜態を彼女は思い返す。摂取できないアサギリは精神の均衡を大きく持ち崩すが、使用したところで長く乗っていれば、精神に奇形を生じさせるのだった。ノワキ・シオザワフカザワがそうであった。
「操縦時にパイロットが摂取しているのとは別のものだから安心して」
「ああ、よかった。あれ、結構苦しいので」
マヤバシが志願したことに、アサギリは嫌な予感がした。媚びるような笑みを作る。
「マヤバシくんが志願したのって、わたしの所為……ですか?」
「ごめんなさいね。志願理由は秘密なの。けれど、そうだったら……嬉しい?」
「嬉しいというか、重いですね。マヤバシくんの所為じゃないですよってわざわざ言うのも変ですし」
「こう言って、ミナカミさんがどう考えるかは分からないけれど、パイロットの一般公募といったって、応募者全員採用というわけにはいかないわ。身体的な適合不適合もあるし、ある程度の知能や学力も必要だし、でもやっぱり、志望理由ってあるでしょう。興味でもいいし、憧れでもいいの。けれどひとつだけ、確実に落とす理由があるわ。"誰かのためになりたいから"よ。基地は慈善事業ではないの。誰かのためを想ってもどうにもならないこともある。どうにもならないどころではなく、自分の手で、守るべき誰かを傷付けることになるかもしれないのだし」
アサギリはそれ今言われた意味を考えかけたが、カミヅケミヤマがやって来る。ふと、焼け落ちていくクロマツモールで何十人も見殺しにしたことが思い起こされた。
「すぐに検査をするそうです。医局へ行ってください」
「ありがとうございます」
アサギリはティッシュ箱とゴミ袋を持って、医局へ向かった。
無断では風邪薬が飲めなかった。鼻炎止めも飲めないのである。医局に相談せねばならない。パイロットは不自由だ。選択の余地があるならば、そこに身を堕とす必要はない。
緊急時の避難場所にもなっている医局は広く作られ、部屋数も多かった。受付に行くと、すぐに案内され、アサギリは建物の奥へと入っていく。
「ミナカミ先生」
第三診察室から声が掛かった。レーゲン・ツキヨノ・ランドロックトである。覗くと、診察台に横たわっていた。唇が青く、顔色が悪い。肌には低温火傷のような薄らと毳立つ爛れが認められた。
「えっ!ランドロックトくん、大丈夫?」
アサギリは案内係の医局員を見遣った。
「一般公募の薬液投与で、副反応が起こっているんです」
レーゲンは血色の悪い顔をして、震えていた。アサギリは腰の辺りで撓屈っている毛布を掛け直す。
「頭が痛いの?」
「いいや。ミナカミ先生を見かけたから、呼んだだけだ」
無愛想でいて、妙に人懐こいところがある。額に浮かぶ汗を掌で拭った。
「熱がある?」
「主な副反応には、発熱、倦怠感、頭痛と、それから吐き気と寒気と爛れがあります」
「別に平気だ。なんともない」
彼は頑固である。労られるのが好きではないのだ。
「……そう。あまり動き回らないように。よく水を飲むこと。持ってきてあげよっか」
流行病のワクチン接種と半ば混同していた。季節のたびに優先的に受けてはアサギリも寝込んだものだった。
「自分でやれる。ミナカミ先生は、どうして。具合が悪いのか」
「ちょっと風邪。だからあんまり近寄れないの」
掛け直したばかりの毛布から、レーゲンはもぞりと動いて、診察台から降りようとする。
「何」
「大丈夫なのか」
「大丈夫だって。鼻水と咳が出るだけだもん。今のランドロックトくんに心配されたくないな。じゃ、お大事に」
近付こうとするだけ、アサギリは後ろにのめる。
「ん。ミナカミ先生も」
案内係の医局員は点滴をいじると、アサギリとともに診察室を出る。だが、また、レーゲンは彼女を呼び止めた。寝るのをやめ、胡座をかいている。
「整備士の彼も、一般公募の中にいたんだけど」
「うん。さっき聞いた」
「本人から?」
「指揮官から」
黄金の瞳がきょろりと動いた。わずかな逡巡が窺えた。
「多分、あの人も副反応出てしんどくなってるかも」
「そうなの?」
「受付番号が近かった。吐き気もあるみたいだった。もうそろそろ30分経つから、帰される頃だと思う」
「そう。分かった。教えてくれてありがとう」
早く出ていけとばかりに、レーゲンは手の甲でひょいひょいと追い払う仕草をした。それが霹靂神統治ノ地らしき所作であった。
アサギリの診察はあっさりしていた。熱は大してなかった。鼻奥の詰まりを吸引したのみだった。風邪薬と嗽薬が処方され、それを受け取ると、今日は他に何の予定もなかった。あとは寮へ帰るのみだ。
ファイルを抱えた医局員2人とすれ違う。自宅療養がどうの、副反応がどうの、帰宅途中が、車両の手配が、と話し合っているのが聞こえた。
彼女の足はエントランスを出る前に止まってしまった。病室を振り返る。
背後で医局の自動ドアが開いた。アサギリを抜いていく背中が見えた。ロングスカートに、明るい茶髪のボブヘア。事務局の新入社員で、フブキ・マヤバシと懇意だったはずだ。受付も通さず、通路を進んでいった。奥の部屋から、人影が出てくるところであった。まさにその者こそフブキ・マヤバシ本人である。事務局の新入社員と鉢合わせになった。
アサギリは俯いた。その口元には苦笑いが浮かぶ。彼女の足も動いた。第三診察室を覗いた。レーゲンが気怠げに寝そべり、ゴミ箱を手繰り寄せていた。
「よ、ランドロックトくん」
「ん………ミナカミ先生。どうした。整備工の彼氏のところには行ったのか?もう帰る頃なんじゃないか」
顔は青白く、唇は紫で、髪からも艶が消え失せていたが、その金色の双眸には活気がある。
「ううん。診察終わったところ。ランドロックトくんは大丈夫かな、って」
「見てのとおり、ぴんぴんしている」
見てのとおりを言うならば、彼は明らかに体調不良者であった。
「体調不良者同士、仲良くやりましょ」
「体調不良者同士、仲良くしてるのは拙くないか?」
「でもわたしのはほんの風邪だから。治りかけだし」
猫の目のような眼がアサギリを鋭く捉えた。
「風邪を甘く見るな」
「分かった。じゃあ元気勇気凛々のレーゲン・ランドロックトくんにお願いだニャ。風邪っぴきのわたしが倒れないように見張ってて」
半ばアサギリは自棄になっていた。戯けに戯けた。レーゲンは眉根を寄せ、唇を引き結ぶ。
「変だぞ、あんた。何かあったな」
「風邪のときってそうなんだよね。気持ちは元気なの。身体がちょっとしんどいだけ」
廊下が、わずかに賑やかになった。満月の二つ存在するような瞳がそのほうへ吸い寄せられる。彼は耳も良かったはずだ。アサギリは口の奥が苦くなったような心地がした。羽虫といわず節足動物の1つでも噛み潰していたかもしれない。彼女は声を出さず、また、レーゲンが喋らないことを望んだ。カーテンに隠れてしまいたかったが、そうするには診察台のほうへ身を寄せなければならなかった。
レーゲンは片眉を上げてアサギリを見遣った。そして指で輪を作ると、口に咥える。
ピューゥィッ
滑らかな音が谺する。廊下を通りかかったフブキ・マヤバシと、事務局の新入社員が第三診察室を見た。副反応を示す患者のためにそこは開け放たれていたのだった。
「ミナカミさん」
フブキ・マヤバシは、緑色を帯びていた。睫毛が萎びて見える。長く病臥していたような頬の痩けが目立つ。
「こんにちは」
唇は顔の色と差がない。そのすぐ脇で、可憐な事務局の新入社員が控えめな挨拶の所作をとった。
「こ……にちは」
アサギリは畏まった態度をとった。サーキットの観覧席で気拙い別れ方をしたのを、彼女はまだ引き摺っていた。
「どなたか具合が悪いんですか?」
フブキ・マヤバシも、あたかも自身は元気だとばかりの口振りだった。レーゲンは死角から首を振っている。霹靂神統治ノ地の同年代と比べてみると、心身ともに大人びているが、こうしてみると意地っ張りな子供だ。
「わたしが、ちょっと……風邪気味で………」
「そうでしたか。お大事になさってください。こじらせては大変ですから」
「マヤバシくんも、ちょっと顔色が悪いみたいですね」
フブキ・マヤバシの顔色はかなり悪かった。時折歪む表情にも苦痛が見てとれる。
「おれも少し、風邪をひいたかもしれませんね。今日のところはすぐに帰って、よく休みます」
「それがいいです。マヤバシくんも、お大事に」
フブキ・マヤバシと小柄な新入社員は第三診察室を通り過ぎていった。レーゲンは後頭部に両手をやって診察台に寝そべっている。
「いいのか」
「いいのか、って?」
「あの整備士の彼の看病しなくて」
「わたしの身体はひとつ。ランドロックトくんの看病するって決めてるから」
レーゲン・ランドロックトは身を起こした。ふら、と座りながら立ち眩んだようだ。上体がふらついている。
「要らない」
「さっき思い出したんだけれど……わたし、ランドロックトくんに、看病しに行くって言ってたのよね。注射打って、副反応あったら。覚えてない?」
彼は不思議そうな顔をした。
「確かにそういう会話はあった。そこの給水機のところだろう」
「よろしい。"健康状態にある者は傷病者の監督をする必要がある"でしょ。誰の言葉?」
「俺。だがそれを今のミナカミ先生が言うのは間違っている。ミナカミ先生は今、健康状態にはない」
何ともないふうを装い、レーゲンは身を横たえた。
「ランドロックトくん」
「うん……」
ひょいとアサギリを見上げる眼差しが幼かった。無邪気であった。叱られるのを待つ犬のようであった。
「ここは平和ボケした国だから。大事なことは弱みを見せないことではなくて……自分の体調に気付いて、ちゃんと治すこと。助けてって言えないパイロットが、一番ダメなパイロット……多分。まぁ、基地の人たちも40℃出しながら出勤とかあるんだけど……」
「俺のは風邪ではなくて、副反応。一時的な現象だ。ミナカミ先生のほうが体調は悪いはず」
「残念でした、ランドロックトくん。ほぼ治りかけだから。一応診てもらっただけ」
彼はぷいと目を逸らす。そこに医局員がやって来た。副反応患者の様子をみて、一晩入院することを提案した。
「入院は必要ない」
診察台から脚を下ろし、頭を押さえる様はつらそうであった。
「肩貸してあげるから」
「一人で帰れる」
「ちょっと、嫌だぁ、ランドロックトくん。わたしを一人で帰らせる気?」
アサギリは今にも倒れそうな血色の悪さから目が離せなかった。ふらついたレーゲン少年をつれ、第三診察室を出る。医局のエントランスにある自動販売機でスポーツドリンクを買う。体調不良者にこの基地は広大らしかった。アサギリが先を歩いても、追い抜かれることはない。
「そこで休みましょう」
ベンチを指す。基地の連中も、この基地が広大であることはよく理解しているらしかった。喫煙所でもないというのにベンチを置き、花を植えて、手入れをしてある。この地域に基地を置くにあたって、緑化運動というのは些細なことのようで大きな約束らしかった。しかし時とともに基地の外にはソーラーパネル畑が乱立するようになっていったのだから皮肉なものである。
「別に……平気」
「わたしがちょっと疲れたの。付き合って。冷えた空気が、ちょっと息苦しくって」
血色は悪いまま、彼の顔色が変わった。
「大丈夫なのか?検査では何ともなかったんだろう?」
思っていたよりも、レーゲン少年は素直に物事を受け取ってしまうようである。アサギリはちくりとほのかに胸が痛んだ。
「うん。検査は何ともなかったから、あとは完治するのを待つだけだね。ちゃんと食べてちゃんと食べれば大丈夫」
「風邪はあっという間に体力も体重も持っていく」
「でもわたし、風邪のときも食欲落ちないタイプだから」
ベンチに辿り着き、レーゲンより先に腰を下ろした。彼も倒れるように隣に座る。気持ち悪そうに姿勢を崩している。彼は即座に断っていたが、入院を推すべきだったのかもしれない。すでに見栄を張れないほど、具合が悪いようだ。
「凭れかかったら」
「……潰れる」
「その辺の男の子よりは重いから平気、平気」
しかし意地と矜持が大切なこの少年が甘えることはないのだろう。愛想笑いが消えていく。パイロットになるよりも、この戦争のない土地で、戦争のないなりの彼の人生を見つめるのがいいことのはずだ。エンブリオは兵器ではない。だが人を殺せる。傷付けられる。条約の都合上、兵器と呼べないだけである。国さえ違えば、兵器である。換装次第では殺戮が用途にもなる。この国であっても武力であった。力であった。権威にも成り得る。
「やっぱり、あなたにはスクールに行って……」
生まれ育った土地は違えど、同年代の男女との関わりが、帰ることのできない郷土で染みついた彼の態度やこだわりを軟化させたのではないか。どういう地域だかは知らないが、どのような思い入れがあるかは知らないが、戦争や軍事体験がまだ子供であるはずのこの少年を大人にしてしまったに違いない。レーゲン・ランドロックト一個人の気質の問題なのだろうか。
「―ほしかった……」
彼女の言葉は消え入った。所詮は、戦争を経験したことのない女の独善的な意見である。俯いたとき、グレープフルーツの匂いが鼻腔を抜けていった。清涼感が混ざっている。肩には重みが加わった。引き締まっているが質量を感じる。彼は汗ばんでいた。発熱もあるのだろう。
「少しだけ」
「うん」
日が落ちていく。
この副反応の有様は、パイロットの不適合を意味するのではなかろうか。アサギリは内心、安堵した。同時にこの少年の落胆を思うと胸が痛んだ。とはいえその図は思い浮かばなかった。また別のことに向かって走り出すのかもしれない。なければ、そのときこそスクールに編入させる。
彼女は宙を見上げると、気拙そうにひとり笑った。そこまで他者の人生を具体的に思い遣ったことはなかった。弟のユウナギよりも身近な弟が爆誕したようなものである。三途ワタラセとも、もう会うことはないのだ。
風が冷たくなっている。ここから一気に暗くなる頃合いだった。
「そろそろ、動ける?」
「動ける。ありがとう、ミナカミ先生」
レーゲン少年は眉根を揉み拉きなが立ち上がった。
「ごはんは、食べられそう?」
「食べられる」
ところがそこには、食欲や意思に反して食事を摂る意味合いが含まれているらしかった。
「何か頼みましょう。ランドロックトくんのおうちに届くようにね」
「自分で買いに行ける……」
「今日はゆっくり休みなさい」
レーゲン少年は聞いているのかいないのかふらふらと歩き出し、植え込みの辺りで嘔吐いた。吐くには至らなかった。フブキ・マヤバシも同じ状況にあるのだろうか。
「ん」
吐き気が治まると、彼はアサギリの元へ戻ってくる。未開栓のスポーツドリンクを差し出す。
「要らない」
「そう」
彼は頑なであった。それを踏み壊そうとは思わなかった。アサギリもそう面倒見のいい気質ではなかった。
「ミナカミ先生の家、あっちだ」
金色の目が寄宿舎を差す。それで理解した。ここで見送り、別れる気なのだ。
「看病するって言ったのにね」
しかし言い合うのも、今の少年には負担であろう。
「大丈夫。ありがとう、ミナカミ先生。それとすまなかった。整備士の彼のこと」
何故、関係のないレーゲンが謝るのか、一瞬二瞬、アサギリは時間を止めて考えたが、結局分からなかった。
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