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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 25

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 茉世まつよの手を取った異様な雰囲気の美男子は、ありがちな姫物語みたいに、彼女の手の甲へと接吻する。そして徐ろに伏せた目蓋を持ち上げた。
「俺の今夜のお姫様」
 桜色の唇がふんわりと弧を描く。
「あ……あの、わた……」
 彼女の唇に指が立てられる。
「俺たちに言葉は要らないよ、お姫様。行為カラダで語り合おう」
 指が引く。代わりに謎の美男子の唇がそこにやってきた。茉世はあまりに突然のことで、そして相手の不思議な雰囲気に呑まれて、夫以外に赦してはいけないはずの唇を塞がれてしまった。
 香水気取りボディソープの傲慢な匂いがした。触れるだけ触れて離れていく。だが鼻先同士がぶつかりそうなところにいた。
「わたし、」
「かわいいね」
 今度は親指が、彼女の下唇を捲るように置かれた。
「この柔らかい唇を開けて」
「あ……の、」
「無理矢理されるのが好き?」
 腰にまだ水滴の残る腕が回った。後退ることは赦されない。
「かわいいね」
 謎の美男子は茉世の唇をまた塞いでしまった。
「ふ、あ……」
 後ろへは退けないというのに茉世の足は踵から歩こうとした。
「危ないよ」
 床にゆったりと落ちていく。得体の知れない美男子の腕によって、それは降りていくような感覚だった。座らされたのは一瞬で、そのまま背中はよく磨かれたフローリングに引き寄せられていく。同時に押し倒されてもいた。
「ベッドじゃなくて、いいの?」
 視界が陰った。直後に身体が浮く。
「ま、待って、待って………!」
「待ってほしいならキスして」
 難題だ。茉世は絶句した。夫への裏切りを、ここでも重ねることになるらしかった。彼女はまだ十分に支度の整っていないベッドへ降ろされた。
「ぅん……っ」
 降ろされたのは彼女の身体だけではなかった。謎の美男子はまだ水気を帯びた身体を彼女に乗せた。唇を塞がれ、逃げ場を失う。
 シーツの上を這う手を握られるのと同時に、口腔にはぬるりとした舌が転がり込んできた。
「ふ………ぅ、う……」
 押さえつける手はそう強くはなかった。だが茉世のほうでも、脳髄を抱擁するような口付けに力が入らなかった。蓮にされたような、貪られ、希求をぶつけるような接吻ではなかった。捕食者としての余裕がある。
「んん……」
 絡められた舌が、一度ふんわりと、マシュマロでも間に挟んでいるかのような柔らかさで引き抜いた。
「かわいい」
 茉世から見て、この謎の美男子は年下であった。だがその言い種は、幼い子供に言い聞かせているようだった。そして細い腕を縫い止めていた手が、髪を梳く。
「待って、」
「待てないよ。君みたいな綺麗な子、目にしたら」
 彼は首を傾げた。ふわりと花の香りがする。茉世は喉元をきゅっと絞められるような感覚に襲われる。だが苦しさではなかった。大きく澄んだ瞳と瞳がち合う。
「あ……」
 開いた唇をまた塞がれる。冷たい手が髪を撫で、言葉を奪ってしまう。
 謎の美男子のもう片方の手は、彼女の豊満な胸へ向かっていた。布の上に掌を軽く乗せる。茉世は顔を背けた。
「触っちゃ、い………や、」
 湿った腕を掴む。瑞々しい皮膚は吸い付くようだった。
「触るよ」
 カップの上から柔らかな乳房を揉みしだく。
「だめ、」
「したい」
 キャミソールの裾から手が入る。蓮とのことが思い出された。初めて聞いた夫の怒声が甦る。
「待って………待って、わたし、夫がいるから……」
 程よく筋肉のついた、白い胸板を押し返す。だが謎の美男子は、蠱惑的に小首を捻るのみ。
「そういうコも、いるね」
 既婚者であることは、何のストッパーにもならないのである。
「夫のこと、裏切りたくなくて……」
 彼女は咄嗟に口にした。だが己の言葉にショックを受けた。どの口が言うのだろう。すでに裏切っているのである。だからここにいるのである。しかし、一度裏切ったからといって、さらに裏切り続けなければならないのだろうか。一度裏切った人間は、それを繕おうとしてはいけないのだろうか。
「泣かないで。慰めてあげる。気持ち良くするから……」
 謎の美男子はキャミソールの裾を捲り上げた。カップが裏返り、乳房を晒す。
「かわいい木苺があるね」
 彼は目を閉じた。そして綺麗にケアされた唇で胸の先端を食んだ。
「あ……ぁ、だめ…………なの………」
 視界が霞む。思考もしらむ。あらゆるものの輪郭を失うようだった。乳液に沈んでいくような恍惚がある。
「あ、ああ……」
「胸だけで、イける?」
 指が意地悪く動いた。甘い痺れが肉体の中で波紋を描くようだった。そして下腹部で、それは絡め取られて溜まっていく。
「ん、ぁ」
 彼女は身を捩った。
「ん……」
 謎の美男子は小さく喘いだ。恐ろしい男だった。胸を吸いながら漏らされた艶やかな声は、茉世の背筋を淫らに逆撫でしていくような効果をもたらした。
「あ、あ……!」
 目の前が、点滅するようであった。だが実際に、照明器具は点いたり消えたりしていた。彼女の内在的な錯覚ではなかった。接触不良であろうか。数回ほど、繰り返される。
 小さな溜息が胸元で起こった。
「ここ、事故物件なんだ。今日は"やめろ"の日だね」
 謎の美男子は身を剥がした。そしてテーブルのほうへ向かった。スティック状に並べられた飴玉を口に放り込んでいる。
「怖くなっちゃった?」
 接触不良は悪化しているらしかった。暗くなる間隔が短くなる。闇は深い。やがて長くなる。色の白い裸体も見えなくなる。

『穢らわしい嫁は、どうする?』
 老いによってしわがれた声が聞こえる。
『杭打ちをして、処します』
 応じたのは夫である。低い声は身内でない者と喋るときよりもさらに低い。
『ほっほっほ……』
『私がしましょう』
『ほっほっほ……』
 老翁の笑い声は、たとえばよく晴れた日の昼間、外で聞いたのならば心朗らかに思えただろう。だが茉世には不気味に響いた。陰湿で狷介けんかいに思えた。
『妹のようにかぇ?』
『妹のように』
 嫌な光景が彼女の目蓋の裏に閃いた。夢でやたらと見る竹林であった。小さな女の子の死骸である。胸に大きな杭を打たれ、枯葉に覆われた地面に留められている。グレーのカットソーの胸元が真っ赤に染まっている。赤いスカートに、また異なる赤色が濁って拘縮していた。白い靴下は汚れ、黄色の靴は少女が暴れた形跡を作っていた。
 茉世はその少女を知っているような気がした。恐ろしくなってしまった。転がるような頭に、黒絹のような長い髪が散らばっている。大の字を描きながらも、著しい発育を遂げる前の未完成な脚が投げ出され、腕は朽ちた花のようであった。


「怖くなっちゃったか」
 謎の美男子は口内で飴を鳴らしながら傍へやって来た。照明器具はなんとか発光状態を保っているが、薄暗くなっていた。
「大丈夫。俺が傍に居るから。それにここの幽霊、女の子には優しいよ」
 白い手は彼女の履いているものを脱がせていく。彼女はやっと、我に帰ったが、下着姿であることには気付かなかった。
「幽霊って、女の子?」
「うん。60歳くらいの、女の子」
 彼は首を伸ばして、呆然としている茉世にキスした。
「呪われるのは俺だから大丈夫だよ……?」
「呪われるって……?」
「変な夢をみるんだ。嫌な夢。あとは、排水口に髪が詰まるとか。でも女の子には優しいよ。そこの通りで死ぬのも、みんな男だから」
 謎の美男子は、腐った緑色を帯びたように見える照明器具を振り向いた。
「大丈夫だよ。別に無理矢理犯そうだなんて思ってないから」
 彼はこの物件に取り憑いた幽霊に語りかけているらしかった。茉世にとってはそれが一番、恐ろしかった。嫌な会話もおぞましい光景も幻聴、幻覚、澱んだインスピレーションに過ぎなかった。だが頭のおかしな男は目の前に居るのである。
「やめるにしても、このまま帰すのは悪いから、君だけでも気持ち良くなってくれる?」
 開かれた膝の間に、謎の美男子は頭を割り入れた。
「ここにも、木苺があるね」
 クロッチを横に退けられ、陰阜に置かれた糸屑が吐息に靡いた。
「しなくて、大丈夫です………から、」
「せっかく来てもらったのに、俺の気が済まないよ」
 朱実に生温かく濡れたものが掠った。薪木に火花を撒き散らすようなもどかしさがある。
「あ……ん」
 夫と見知らぬ老翁の会話を忘れたわけではなかった。だが彼女も俗人である。目先の快楽に鼻をつけてしまっては、溺れるほかなかった。
 謎の美男子は献身的に陰花を舐めた。駆け引きもなく、ただ一直線に女を咲かせる技巧を施す。
「あ………ああ、……っ」
 腿で小さな頭を挟んだ。滑らかな肌に、半乾きの髪が当たる。冷えた毛並みが微かにくすぐったい。
 全体的に愛撫していた舌先が、鐘肉を掬い上げた。そして質感の少ない裏側で、しかかる。
「ああんっ」
 茉世は脳髄まだ駆け上る鋭い快感が怖くなった。身を捩り、股ぐらにある頭を押しやった。綺麗な毛束に指が埋まる。手の甲に、まだ湿気を帯びて針金のように伸びて固まった髪が乗った。
「ん、」
 一際深く、彼は頭ごと脚の間に潜っていった。甘く噛まれた。張り詰めた肉芽の弾力を知らされる。震えるような快感が身体の芯を通って脳天で突き抜けた。
「あ……!ゃあああんっ」
 茉世は果てた。間近で花壺の収縮を見られていた。それがまた羞恥を曲解してしまっている彼女の官能を煽るのだった。
「イけたね。上手にイけて偉いね」
 股ぐらに埋まっていた端正な顔が持ち上がる。そして下から的確に茉世の双眸を捉え、瞳孔の奥まで覗き込んだ。ぎゅん、と茉世は胸の辺りに不穏ながらに快い痺れを覚える。伸ばされた指が、耳の横に手櫛を入れる。一瞬で消えそうなその痺れが、また起こるのである。
「また来てね。そのときは最後までしよう」
 色白の裸体が立ち上がった。不意に、男体で発生する顕著な変貌が視界に入りかける。だがその途端、とうとう照明が落ちた。明滅もしない。
「ありがとう、お姫様。かわいくて美味しかった」
 暗闇に彼は動じることもなかった。カタカタカタカタカタ、と地震が起きても、彼は動じない。これは全国的な地揺れではないのだろう。ベッドに接している身体が、それを読み取っていた。この建物だけが揺れている。家具が軋んだ。
 ドアも軋んだ。だがそれはこのポルターガイストによるものではなかった。光芒が塵を浮かしていた。
「義姉ちゃん!」
 部屋にばんが飛び込んでくる。
「"義姉ちゃん"?」
 霊障にもまったく動揺を示さなかった美男子の声に、やっと困惑の色が滲んだ。
「んなっ」
 絆は声を頼りにベッド周辺を照らしてしまった。そこには服を乱した義姉がいるのだから、彼の驚きも無理はない。そしてその傍らには全裸の男が立っている。
あきらくん!」
 絆は、謎の美男子に食ってかかった。
「絆の女だった?ごめんね。でも最後までしてないから」
 明と呼ばれた人物は絆と話すときも首を傾げた。
「最悪だヨ、明くん。だからブレーカー落ちたんダ!」
 絆はばつの悪そうに茉世を見遣る。
「ごめんネ、義姉ちゃん。明くんは出てって!」
「俺の部屋、シャワー使えないんだけど。髪がぎっしり詰まってて」
「ゴメン、義姉ちゃん。今日はオレの部屋来て。ホント、ごめん」
 絆の焦燥した表情が居た堪れなかった。茉世は平静を装って、着ているものを整えた。本家の嫁を預かっている身として、永世えいせいに合わせる顔がないのだろう。そしてまさか、来たその日に、ここでも不貞行為に走るとは……
 やっと、照明が点いた。誰かがブレーカーを上げたらしい。
「はええ~、絆くん、"お姉さん"大丈夫?」
 色彩と輪郭を取り戻した室内に、また人が一人増えた。茉世はその者に見覚えがあった。小さな画面の中で見たことがある。アイドルだ。永世が話していた、「禁ちゃん」である。フード付きスウェットに、洗いざらしの油気のない茶髪であり。人の好さそうな面構えは、特別端正というわけではなく、市街地で見かけそうな作りであったけれども、凡人にはない愛嬌があった。肌の感じからしても、同年代の一般的な男性にはあまり見られない、若さによるものともまた異質の清潔感がある。背も、目立って高くはない。
「あ、絆くんのお姉さんですか?初めまして。林二はやしじいのりといいます」
 彼は動画と大差ない愛想の振り撒き方であった。わずかに媚びた感じがするのは否めないが、嫌な感じはしなかった。この者の登場が、妙な空気を吹き飛ばしてしまう。明と呼ばれた人物はタオルを拾い、また浴室へ引っ込んでいった。湯冷めしたのだろう。
「初めまして……三途賽川さんずさいかわ茉世です」
 "禁ちゃん"は、そこにいた3人が苦々しく渋い顔をしていたことにも気付かないようであった。
「よろしくお願いします、三途賽川さん。―身内の人なら安心だね」
 無邪気に彼は絆を見た。
「う、うん。そうだネ」
 絆の顔は引き攣っていた。
「じゃあ、義姉ちゃん、行こうか。ありがと、禱くん。ブレーカー……」
「ううん。じゃあね、また明日」
 絆は義姉の肩に腕を回した。そしてエレベーターで最上階の4階へ上がった。端から2番目の部屋であったが、茉世は隣の端の部屋の異様さに立ち止まらずにいられなかった。玄関扉が黒かった。そして疎らにしろかった。この建物の部屋の扉はそういう色味で統一されていたのか。否、扉はオフホワイトであった。だが絆の隣室の扉はそうではなかった。その黒いものは、糸状のものが幾重にもなっていた。巻き付いている。ドアノブにも余すことなく、黒い髪が生えている。
「あそこは……マミィの部屋。会ったことあるデショ」
 立ち尽くす茉世に義弟はそう説明した。事故物件とは、これのことではあるまいか。
「ここの建物、オレが買ったの。マミィの住む場所、要るデショ?」
 絆は義姉の背中を押して玄関へ促した。
「絆さん……」
「ここに住むの、嫌になっちゃっタ?」
「そうではなくて……ごめんなさい」
 卑怯な手段をとった自覚が彼女にはあった。何について謝っているのか、明かしもせずに赦しを乞うている。
「どうして義姉ちゃんが謝るの」
_ 困惑気味な笑みである。それは当てつけの嫌味ではなく、彼なりにどういう顔をしていいのか分からないようだった。誤魔化そうにも、躊躇っている。中途半端な笑みである。
「ちゃんと、抵抗するべきでした……」
「女の人が、性欲剥き出した男に勝てるわけないヨ。殺されちゃうヨ」
 発作めいた乾いた笑みは、空咳にも似ていた。
「オレより下の弟って多分、家庭内暴力で生まれてるの、オレ知ってるもんナ……なんとなくだケド、そうなんじゃないカナって……もしかしたらオレもそうだヨ。あ~嫌だナ。……茉世義姉ちゃんのほうが嫌だヨネ。右隣の部屋空いてる……って言いたいところだケド、分かんないカラ、ここ住む?オレが下で住むカラ……」
 絆の顔色は青褪めていた。茉世は首を振る。
「大丈夫です。ごめんなさい、心配をかけて」
「謝らないデ。明くんが女誑おんなたらしでシャワー借りに来てるってコト、言い忘れてたのオレだし…………ホント、ごめん」
 ビーズカーテンをくぐり向かった絆の部屋は、毛足の長い純白のファー素材のものが多かった。埃が溜まりそうである。
隣室のある壁際にテレビが置かれ、床に接地するタイプの2人掛けソファーが対面に置かれている。その奥に、PCを置いた机とベッドがある。そしてベッドサイドでは加湿器が焚かれていた。
「ちゃんと掃除しておけばよかった」
 だがそれは謙遜であろう。片付けるところは見つからない。
「オレが布団持って、義姉ちゃんのところで寝るヨ。ここじゃ狭いし。明くんにはちゃんと言っておくネ。怖い思いさせて、ゴメンなさい」
 茉世は首を振った。この義弟の落ち度には思えなかった。彼女は自身が嫌になった。己の身に降りかかった不倫問題について、今になって、回避できたことのように思えた。蓮を強く拒絶するべきだった。そして先程の男についても、抵抗する余地はあったように思えた。今ならば。
「隣に、お義母様がいらっしゃるんですか」
「うん」
「会えるんですか。ご挨拶、しておきたくて」
 絆は鍵をじゃらつかせた。
「分かった」
 彼はテレビ台の脇にあるペン立てからハサミを取った。そしてビニール袋を持って部屋を出る。
 近くで見ると、髪に巻き付かれている扉というのは心理的な衛生観念に訴えかけるものがあった。黒い糸屑と紛うこともない、人毛である。だが、油気のない、光を吸いとってしまう、キューティクルの萎びた毛であった。
 絆は些細な白刃をそこに入れて、断髪していく。毛はビニール袋に張り付いていく。数分かかった。ドアから毛が生えているような恐ろしくも滑稽な様相を呈する。
 義弟の手によって扉が開かれた。蝶番ちょうつがいにまだ髪が絡まっているらしく、全開することはなかった。挟まれるように、茉世は室内へと入る。電気が通っていないのかと思うほど暗かった。
「マミィ、マミィ、お嫁さんが来てくれたヨ」
 絆はいくらか甘たるい音吐であった。明かりが点けられたが、明かりは点かないほうがよかった。壁には水墨画めいた黒ずみがべったりと浮かび上がっていた。玄関の先の下駄箱の上の花瓶にはしがなくさもしいドライフラワーが挿してある。盛り塩は溶けてアリジゴクの巣のようになり、写真立ては喫煙者とそうとう長く居たみたいにやにに覆われて黄ばんでいる。人の住んでいる気配はなかった。
 間取りは絆の部屋とは違っていた。
「マミィ」
 絆の案内によって行き着いた先に布団が敷いてあった。だが彼の案内は要らなかった。扉に巻き付いた長い髪が、行き先を示していた。黒い毛はこの部屋の主のものかと思われた。しかし違った。布団に座る老婆が持つ人形であった。茉世は顔面を殴られた心地になる。人形はよくあるソフトビニール製の着せ替え人形だった。灰色の服に、赤いスカートを身に纏い、白い靴下と黄色の靴を履いている。玄関先まで伸びる長く黒い髪が重そうである。
「マミィ、お嫁さんだよ」
 背筋を曲げた老婆の側に屈み、絆は背中を撫で摩る。祖母や曾祖母と言っても不思議はない歳の差に見えた。
「う………うう………」
 茉世も、姑の側に膝をついた。人形を握る骨と皮だけの手に触れた。ごわついた質感であった。
「尽ちゃん………」
 痰の絡んだような、喉の閉じたような、嗄声させいであった。
「違うよ、マミィ。蘭のお嫁さん」
 だん!と音がした。別室からであった。大きな家具の倒れる轟音であった。
「マミィ……」
「お義母様。茉世です。お会いするのは二度目です」
「うう………」
 茉世は姑の枝切れのごとき腕を撫で摩った。
「さっきは、ありがとうございました。守ろうとしてくださったんですね」
 事故物件と云われる所以は、この姑らしかった。ブレーカーが落ちたのも、ポルターガイストも、おそらくこの姑が引き起こしたに違いない。
 茉世は姑の痩せ衰えた腕を摩り続けた。夫を裏切ったことについて、どう切り出していいか分からなかった。
「お義母様……」
 だが夫の母親には知らせる義務があるような気がした。顔を合わせたなら、尚更だった。その夫の母親が、どういう状態にあろうとも。
「うう…………」
「わたしは蘭さんを裏切りました」
「う、ううう……」
「蓮さんと、許されない関係を持ってしまったのです」
 そして口にはできなかった。尼寺橋渡にじのはしわたりてんも関係していることを。さらには奇妙奇天烈な男にも、肉体の自由を踏み躙られたことを。
 姑は、己の腕を摩る嫁の手に手を重ねた。
「うう………」
 だがそれだけだった。何も言いはしない。何も伝わらない。嫁の手を拒んだようにも見えた。
「また来ます、お義母様」
「え?」
 絆は意外そうな顔をした。
「お義母様はわたしを守ろうとしてくださいましたから」
 脳裏に閃いた光景の少女の死骸は、姑の握る人形とほぼ同じ外見をしていた。そしてそれは尽であった。義妹であった。それが急に悲しくなった。この母親は娘を探している。茉世は尽にあったけれど、母親は娘の存在に気が付いていない。
「今日は帰ります」
 彼女は姑の手を握った。そして部屋を出て行った。別の部屋で、テーブルが倒れていた。絆とともに、それを起こす。
「マミィには、姉ちゃんが見えてないんダ」
 ぼそりと小声で、絆が言った。
「忌み地に連れて行かれて、殺されちゃったんだと思う」
 また茉世の脳裏に、殺害現場が映し出された。胸を人の丈もあろうかという杭で貫かれている。
「だから姉ちゃんは、この世にいないんダ。異界を通さないと、会えないんの」
 絆は潸然として、乱雑に目元を拭った。
「マミィが可哀想でさ。何がしてあげたいのに、多分それは、残酷なコトだヨ」
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