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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 19
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◇
三途賽川の人々にとっては、嫁を襲撃する犯人も見つかることなく、荏苒として日々を過ごしていた。尼寺橋渡霑はあれ以来、現れなかったし、蘭からも禅に対するいじめについての続報もなかった。彼は弟のいじめ問題に関して嫁を巻き込むつもりはないらしかった。彼女からも聞きはしなかった。依然として末弟は家にいたし、どこかに出掛ける様子もなかった。勇気ある中学生女子の訪問は徒労に終わったのかもしれない。
また、三途賽川の家としても、蓮が母屋を出てプレハブ小屋に住み、幅を利かせた分家から諺を預かってきた以外に動きはなかった。一度は義絶を告げられたくせ、蓮の代わりに生家へ戻るよう告げられた絆は戻ってきていなかった。
諺は幼かった。幼かったが、生まれ育った家から引き離され、本家に預けられた。鱗獣院家の目論見はまったく的外れだった。この子供を近くに置いたからといって、茉世の本能に訴えかけてくるところはなかった。ただ夫はそうではなかった。この子供に感化されたわけではなく、この子供の処遇について考えるところはあったらしい。夫婦間の営みについて、彼は言及したけれど、相変わらず、諺は夫婦の寝室の、夫婦の寝床の真ん中を陣取っているのである。とてもとても、子作りに勤しむことのできる環境ではない。それだけでなく、諺は蘭の布団に入り込んで甘えた。歳の離れた弟のいる蘭もまた諺が可愛いのだろう。それを赦すのだった。つまり子供の深い眠りを横に、接触を図ることもできなかった。何よりも、茉世が積極性を持っていなかった。
彼女は諺の存在に救われてもいたのだった。蘭は悪人ではなかったけれど。情けなさは否めない。しかし優しさと思い遣りに欠けた人物ではない。ただ、肉体的に惹かれはしなかった。番いと認識できなかった。異性ではあるが、牡ではなかった。
セットされた目覚まし時計を枕元に据えて彼女は布団の中に横たわった。クーラーで冷えた空気に、布団は心地良い。喉を痛めてしまうため、マスクをしていた。それもまた心地が良かった。大して疲れたことはしていない。永世の小さな菜園の恵に水をくれただけだ。そして収穫したくらいだ。日焼け止めを塗りはしたが、日には当たった。それでも身体は疲れてしまうのだろうか。枕が頭によく馴染む夜だった。掛布団と合体するかのような。
「おやすみ、茉世ちゃん。諺くん」
照明を落とすのは蘭の仕事だった。彼女の応答は、元気な子供の声に紛れる。そこに不満はなかった。快眠は目と鼻の先だったのだ。実際彼女は、夫の寝息の漣に誘われ、ほろほろと酔うような意識の揺蕩いに身を任せていた。胸元の違和感に気付くまでは。
寝間着の中に蠢くものがある。あまり温かくはない。けれども氷や鉄、石の類いでもない。
「ママ……」
就寝用のインナーの下に子供の手が滑り込んでいる!
茉世の目蓋は極端な動きをした。薄らと持ち上がったかと思えば、眦が裂けんばかりに開いたのだった。
「諺くん……っ」
その力は強かった。それでいて乳房に触れるのは繊細な手つきであった。茉世は相手が子供であるために手加減をしたのだろうか。
「嫌よ、諺くん。やめて……」」
寝息と暗がりというものは不思議な効果を齎した。彼女は声を潜めていた。夫に言えばいいのだ。夫に知られて何が困るというのだろう。所詮、相手は子供である。牡ではない。男性ではあるがまだ男ではない。つまり今のところ夫の敵ではない。
「ママ……ママ………」
シャンプーの香りが布団の中、寝間着の中にこもっていた。さらついた髪が冷感素材の繊維に擦れる。
「諺くん……!やめて!」
小さな牡がいる。掌に収まる肩は押してもびくともしなかった。
「ママ………」
弱そうな唇は着実に茉世の胸に近付いていた。横暴な掌と指は牽制であったか。そして快眠にちょうどよい温気に晒された肌へ、無邪気そうに見えた子供のいやらしい、奸悪な口が吸い寄せられるのだった。
「諺く………っ」
鱗獣院諺は、世間に跋扈する健全な魂と高潔な意思を持った親どものもとで育った子供であっただろうか。三途賽川と同じ、家のための駒として生を受けた個体ではなかろうか。このような子供が何故、そのような意図を持って女体に触れたのか……
この子供は一種、道具として鱗獣院から預かったのではあるまいか。
口にする言葉は離れた母親を恋しがっているけれど、その唇と舌は、指遣いは、力加減は、母親を求めるものではなかった。牝を相手にするものだった。
「あ………」
胸の色付きは子供の瑞々しかった唇の中に隠されてしまった。そしてその中で、甚振られるのだ。
性別を判じるにはまだ難しい指は的確に胸の実粒を捉える。茉世のそこは勃起していた。だがそれは肌の外的違和感のためであって、求愛のため必死に踊る幼い雄鳥のためではなかった。
「ママ……」
とはいえ、咥えられたままそこで喋られると、人の肉体もまた業の深いものだった。羞悪はときに予期せぬ感覚を呼び起こす。それは自尊心を裏切るようなものでさえあった。
「ぁ……ん、」
この弱味、この淫らな隙を一気に突かれてしまう。この子供は自然の子供ではない。刺客に違いなかった。嫌な子供である。その指遣いには技巧が宿っていた。母乳を求め、また母乳を促すものではない所作は彼女の腹の中をちりちりと灼いていく。
「やめ……っ」
茉世は胸の奥から広がる不本意な快楽に小さく戦慄いた。踵が繊維を擦って熱を生む。だが彼女が熱さを感じたのはこのためなのだろうか。
子供の口技に小さな肩を押す手は力を失った。年端もいかない牡に危うい欲望を覚えそうだった。被虐的な欲望を……
「ママ」
媚びるような喋り方であった。歯が当たらないように考慮されている。この子畜生は夢を見ているのではない。わざとやっているのだった。一人前の男を気取り、本家の長男の嫁に、夜這いしているのだ。
瑞々しい唇が毒牙を甘く包み隠して実粒を圧す。手で弄ばれているほうもまた、同じ力加減であった。
「諺くん……っ!」
彼女は蒸れた息を漏らした。背筋が撓り、胸を前へと突き出してしまう。仕掛けた悪辣な子供も、柔らかな膨らみを押し付けられて焦ったらしかった。
「ぁ、っ」
「んぐ、」
「茉世ちゃん?」
幸いなことに、夫は目覚める兆しがあった。大きく翻った布団に音によって、彼女は声を殺すことができた。
「ん……諺くん?ほら、こっち………こなきゃ、……」
蘭は完全に目が覚めているわけではなかった。眠たげに喋り、邪悪な子供を回収しようとしている。
「蘭さん……ごめんなさい。起こしちゃったみたいで。諺くん、こっち来ちゃってて……」
茉世は平静を装った。彼女は己の咄嗟の演技にそれなりの自信はあったつもりである。しかし後ろめたさはそれを打ち砕こうともしている。
「だいじょぶ……ごめんね。諺くん、ほら、こっち………おいで。諺ちゃん、こっちで寝たら………」
彼はうつらうつらとしながら布団を扇いだ。
「蘭にいに……どこぉ?蘭にいに!」
茉世は寒々としていた。この子供は寝呆けていたのではない。だが寝呆けを装っていた。そしてそれは上手かった。蘭は騙されただろう。
「すみません……ちょっとお手洗いに……」
「うん、行っておいで。電気、点けとく?」
「消してしまってください」
茉世は部屋を出ていった。子供の汚らしい津液を落としたかった。刺激された乳頭はびんと勃ち、タンクトップを押し上げ、染みついてしまっただろう。彼女は風呂に入りたかった。しかし長い時間がかかれば夫に何と言い訳していいか分からなかった。否、夫はすでに二度寝に入っているだろう。
彼女は風呂場に向かった。夜間はコンセントに突き挿さったランプがぼんやり廊下を照らしていた。だがそれで十分だった。
風呂場へ行くには、右手に行けば茶の間や玄関へ繋がる曲がり角とぶつかる。そこには照明が置かれていなかった。夜間に点く玄関前の明かりが引戸によって滲んでいるのが見えるはずだった。
石材や木材とはまた違う硬さのものとぶつかる。ふわりと花のような香りがした。香水ではないだろう。柔軟剤のようにまろく薫る。
「悪い」
本人にそのつもりがなくとも甘ったるく聞こえる声が降ってくる。まるで鳴き笛のようだった。
「ごめんなさい」
幽霊かと思われた。だが実体がある。廊下の明かりに中に、ぬっ……と入ってきたのは蓮だ。透けてはいない。生者だった。
「眠れなかったのか」
しかし睡眠について心配されるべきはこの男だった。
「ちょっと目が覚めただけです……」
茉世は相手が誰だか分かった途端に焦りを覚えた。辺りを見回す。禅の目がどこにあるのか分からない。
「どうした……?何かあったのか」
「いいえ……何も。お風呂ですか」
この男は一匹狼を気取っているようだった。しかし、今、距離を詰めようとしているのだった。彼女の下がった分を埋める。
「それより、先輩だ」
伸びてきた指の背で目元を撫でられる。涙を拭き取るような所作だった。だが茉世は泣いていたわけではない。
「何もありません……」
暗がりから末義弟が見ているのではないかと、彼女は気が気ではなかった。後退る。壁に背中が当たる。
暗黒のなかでは幽霊のように青白く浮かんだ顔が、照明に照らされて肉感を持った。普段は昏い双眸は艶めいた明かりを揺らしていた。兄嫁の戸惑いに泳ぐ眼から、唇をなぞるように見下ろしていく。顎から、鎖骨へ。そして、左右の小振りな結実を認めたことだろう。
「旦那か?」
「え……?」
「いやらしい目をしていたから、どうしたのかと思った」
茉世は蓮の視線に吸われていた。そのために寝間着を越え、タンクトップに滑り込もうとしている手に気付かなかった。
「あ……」
「生殺しにされたのか」
凝ってしまった小さなところを長い指が捕まえた。腰に甘美な痺れが生まれた。
「んっ………」
「固くなってる」
身を震わせた。膝から力が抜け、茉世は座りそうになってしまう。彼女は夏も冬も関係ない腕に縋った。
「ぁ……あ、………蓮さん……」
蓮の眸子に流れ星が奔った。そして彼の視線は隕石を落とすかのように力強く、茉世を見詰めていた。
小さな箇所を摘まれて、捏ねられるだけで彼女は下腹部に疼きを覚えた。肉体は制御できなくなっていた。
「ぁ……んん、ぁ………っ、変に、なりますから………」
思考は胸から与えられる快楽に蒸かされていた。彼女の半開きになって溢水した口から紡がれる言葉に、おそらく意味も意思もなかった。
「なればいい」
茉世は壁から滑り落ちていく。自ら立とうとすることもなかった。元次男の手も彼女の胸についていく。その指遣いはラストスパートをかけていた。
「ぁ、ぁあ……っ」
緩やかにやってくる波は大きかった。呑まれた瞬間、目の前は真っ白く塗り潰される。彼女の下肢は2本の蛇と化して、虚空に座りかけていた尻は床に向かっていった。
「先輩」
しかし彼女の胸の先端を擂り潰していた男はそれを赦すことはなかった。腰を抱き寄せ、今度はショーツのほうへ手を入れた。
「だ…………め、…………」
やはりそこに、この行為への拒否はなかった。いいや、彼女は拒否しているではないか。けれどもおそらく、彼女が口にした拒否は、連続する快楽に対する怖れだったのだろう。肉体が、この男の与えるものをよく覚えていた。
色は白いが逞しい腕は、溶けて二つに折れてしまいそうな華奢な躯体を支えていた。
「かわいい……」
暗い中にぬちぬちと音が響いた。長い指の埋め込まれた箇所は、乳頭で法悦を迎え、牝蜜もしとどになっていた。
「あ………あっ、あっ………」
「イってくれ」
彼は、茉世の恐れている感覚の源をよく心得ていた。
「んゃ………、あっ、」
巧みな手淫の水音と嬌声が静かな夜を喧しくしている。
「先輩………旦那が最後までしてくれなくても、俺がイかせてやる」
ほんの一瞬、胸を過る靄を感じた。咄嗟に出た腕が、蓮を押し返そうとするが、縋りついているようだった。だが次々送られてくる肉の悦びが掻き消してしまった。
「も………ゃ…………おく、へんになる………っぁあっ」
兄嫁の限界を、元次男も悟ったらしい。彼の生白い割りにしっかりした拇指が敏感な肉粒を抉った。
「ああああ!」
茉世の躯体に電流が走った。蕩けた隘路が収斂する。激しく戦慄く彼女を、蓮は押さえつけてしまった。そして快楽の澎湃を解き放つ唇を塞いだ。
「ん………ふぅ………」
深い眠気に襲われた。けれども舌を弄ばれ、意識を失うことはできなかった。
やがて蓮は彼女の口腔漁りをやめた。繋がっていたところから透明な絹糸が伸びていた。
「先輩」
熱っぽい目が茉世を放さない。指に纏わりついた蜜液を舐め取り、彼は兄嫁の肩を掴んで壁際に立たせた。そして抱き締める。
「い、や……」
掠れた声にはまだ理性の活気が戻っていなかった。けれども快楽に溺れているなかでも、危険な牡は察知できたらしい。茉世は艶福家で漁色家らしい男を撥ね退けた。
「風呂、一緒に入るか」
蓮はまたもや兄嫁に触れようとした。
「入りません……」
本音とは違った。けれど元義弟と一緒に入るつもりはなかった。
「部屋まで送る」
「いいです……平気です」
離れたところで襖の開閉の気配があった。蓮は落胆したような素振りを見せ、暗い廊下へ吸われていった。
安堵も束の間、茉世はまた肝を冷やすはめになる。
「駆け落ちしないの。オレ別に、チクらないよ」
音もなく、禅は茉世の真後ろをとっていた。おそるおそる、彼女は振り返る。
「ち、違います………そんなんじゃ………」
この子供はどこまで知っているのだろう。どこから見ていたのか。襖の音が聞こえたときには、すでに蓮の腕からは解き放たれていたはずだ。
「いいよ、言い訳なんか。お互い好きな人同士の結婚じゃないんだし……」
茉世は口元に手を添えた。禅が、尼寺橋渡霑との双子である片鱗をみたのだ。目付きがそうだった。顔立ちでいえば、霖とそっくりそのままほぼほぼ同じだというのに、印象はまるで違った。顔立ちすら似ていないように思う。
この末義弟に返す言葉を持ち合わせていなかった。互いに真に愛し合い、惹かれ合ったがゆえの結婚ではない。
「ん~?茉世ちゃん、だいじょぶ?」
先程は茉世の肝を冷やした禅もまた、このときは驚きに目をかっ開いた。襖を開ける音もなかった。蘭である。暗がりに佇んだまま、眠たげの明瞭でない喋り口だった。なかなか帰ってこない妻を案じたのだろう。
風呂は空いていないのでは、出てきた用はない。
「大丈夫です。すみません……」
禅には小さく頭を下げ、その脇を通り抜けて夫の寝室へ戻る。心臓が痛いほど鼓動していた。末の義弟は長兄に嫁の不貞を報告するのであろうか。
「禅ちゃんも早く寝なね」
近くに寄ると暗いなかでも、蘭が目を擦っているのが見えた。
「蘭兄ちゃん」
茉世は吃逆を起こすように心臓が震えた。次の言葉を聞くまでが、異様に長く感じられた。
「ん~?」
「おやすみ」
「うん、おやすみね。あんま冷やしちゃダメだよ」
禅は暗闇へ戻っていく。茉世はすぐに見えなくなった姿を見送っていた。
「すみません。お手数をおかけして」
夫は眠たげだったが、妻が傍までやってくると、その腰に腕を回した。茉世は身構えた。蘭は人懐こい。だがそのように触れてくるとは思わなかった。
「いいよ。諺くんがごめんね。ちゃんと捕まえておけばよかった」
また、ざわめきが彼女の胸に到来する。夫はすべてを知っているのではなかろうか。
「いいえ……子供ですし………」
蘭の腕は巻きついたまま離れなかった。布団のほうまで誘導される。小さな明かりによって、室内は赤みを帯びて見えた。夫婦の間に掛かっていた橋のごとき布団は、いつの間にか撤去され、茉世とは反対の夫の隣に移動していた。
子供はすでに寝ていた。
「茉世ちゃん」
夫の畏まった態度に、彼女はたじろいだ。平生は爛漫で穏和な人柄を素直に出している顔を、今ばかりは見られなかった。
長兄という立場でありながら、元来は少年をやっていたかったような夫が、男の貌をして眼前に立っている。向き合っている。対峙していた。
夫の掌に、肩を通して、妻の緊張した息遣いが伝わっていることだろう。冷えた呼吸に唇が乾いていく。
「……やめておこうか。ごめんね」
目の前に佇む人物の纏う空気感が一気にがらりと変わった。友人や兄弟姉妹にやるかのような無邪気な抱擁が起こった。そして嗅ぎ慣れて、肌に染み込みはじめている三途賽川とありふれた洗剤が薫った。
「寝よ寝よ。明日早いもんね」
踵を返した蘭は、すぐさま布団に食われてしまった。茉世は苦しくなった。蘭もまた、家の傀儡である。
「蘭さん…………ごめんなさい………」
茉世は傀儡になりきれなかった。嫁という立場に徹することができなかった。夫から求められたのだ。そして気を遣われたのだ。歩み寄るべきだった。だが沸き起こる不安と羞悪を裏切れなかった。
「ううん………大変なのは、茉世ちゃんだもん。嫁に来てくれて、ありがとうね……必ず無理させることにはなるケド……できるだけ、無理させないようにするから………」
「ありがとうございます……」
「茉世ちゃん。おやすみなさい」
声の調子がわずかに変わって聞こえた。優しくなったように聞こえた。
霖の弁当を作り終え、彼のこの家のカラーであるらしい緑色のバンダナを結んだ。永世が今日も今日とて台所にやってきてあくびをしていた。
「コーヒー、飲みますか」
「いいえ。またすぐ戻りますから。お気遣いなく」
「見守ってくださっているんですよね。ありがとうございます」
元は色白らしい肌の日焼けした男は、きょとんとして茉世の目を覗き込む。その妙な間に、彼女は焦った。
「あの、違いました……?いや、あの………わたしの、勘違いかも……知れな、」
「い、いいえ、いいえ。みまもるだなんて、そんな……気にしないでください。朝早く起きるのも気持ちいいですし、なんだかこの雰囲気とか、家庭的でいいなって……玉子焼きの焼ける音とか、ウィンナーの焼ける音とか」
彼は微笑んだ。朝から嫌味のないその表情を見るのは悪くないものだ。その手にはスマートフォンが握られ、動画を見ているようだ。男性アイドルのライブ映像らしい。
「永世さんは、アイドルがお好きなんですか……すみません、勝手に覗いちゃって……」
テレビで、アイドルを応援することが最近の流行りであるらしいことをよく目にした。アイドルを応援することそのものよりも、そのためのグッズやコンテンツについてよく取り上げてられている。そういう文化があることは世情に疎い茉世も聞きかじっていた。この青年もそうなのだろうか。
「ああ、これ、絆さんです。公式チャンネルでまた動画が上がっていたので」
永世は画面を傾け、茉世にも見せた。銀色のスパンコールに覆われたジャケット風の衣装に、金色のメダルが付いたような襷を斜めに掛けている。6人か7人編成らしい。
「本当にアイドルなんですね。地元のアイドル的な意味だと思ってたんですが……」
「全国区ですよ。そのうち世界進出とかするんじゃないですかね。ぼくは楽しみにしています」
絆のような溌剌とした爽やかな快男児がいるかと思うと、他のメンバーとは変形した衣装を身に纏う素行不良児みたいなのもいた。
「推し……って、やつですか?」
「ぼくはこの子推してます」
農具の機械油の落ちきれなかった指が、画面を指す。笑顔の煌めいた男の子のソロパートだった。振り撒かれた汗が照り輝き、舞台装置のようだった。
「この子は?」
「禁ちゃんです。派生ユニットがあるんですけど、この人は本体のほうのリーダーなんです」
画面の横から絆がやってくる。茉世はそこに気を取られた。
「あ、絆くん?」
「そうです、そうです」
絆が屈むような低姿勢になるとカメラを掴み、画面が暗転した。ロゴが映し出され、動画が終わる。
「すみません、付き合わせちゃって」
永世は苦笑しながらスマートフォンの画面を消す。
「いいえ。面白そうですね」
だが永世がこの中で推しているという禁というメンバーのことなど、茉世は興味がないだけに覚えられはしなかった。
台所で解散し、茉世は自室に戻った。その途中で霖と鉢合わせる。
三途賽川の人々にとっては、嫁を襲撃する犯人も見つかることなく、荏苒として日々を過ごしていた。尼寺橋渡霑はあれ以来、現れなかったし、蘭からも禅に対するいじめについての続報もなかった。彼は弟のいじめ問題に関して嫁を巻き込むつもりはないらしかった。彼女からも聞きはしなかった。依然として末弟は家にいたし、どこかに出掛ける様子もなかった。勇気ある中学生女子の訪問は徒労に終わったのかもしれない。
また、三途賽川の家としても、蓮が母屋を出てプレハブ小屋に住み、幅を利かせた分家から諺を預かってきた以外に動きはなかった。一度は義絶を告げられたくせ、蓮の代わりに生家へ戻るよう告げられた絆は戻ってきていなかった。
諺は幼かった。幼かったが、生まれ育った家から引き離され、本家に預けられた。鱗獣院家の目論見はまったく的外れだった。この子供を近くに置いたからといって、茉世の本能に訴えかけてくるところはなかった。ただ夫はそうではなかった。この子供に感化されたわけではなく、この子供の処遇について考えるところはあったらしい。夫婦間の営みについて、彼は言及したけれど、相変わらず、諺は夫婦の寝室の、夫婦の寝床の真ん中を陣取っているのである。とてもとても、子作りに勤しむことのできる環境ではない。それだけでなく、諺は蘭の布団に入り込んで甘えた。歳の離れた弟のいる蘭もまた諺が可愛いのだろう。それを赦すのだった。つまり子供の深い眠りを横に、接触を図ることもできなかった。何よりも、茉世が積極性を持っていなかった。
彼女は諺の存在に救われてもいたのだった。蘭は悪人ではなかったけれど。情けなさは否めない。しかし優しさと思い遣りに欠けた人物ではない。ただ、肉体的に惹かれはしなかった。番いと認識できなかった。異性ではあるが、牡ではなかった。
セットされた目覚まし時計を枕元に据えて彼女は布団の中に横たわった。クーラーで冷えた空気に、布団は心地良い。喉を痛めてしまうため、マスクをしていた。それもまた心地が良かった。大して疲れたことはしていない。永世の小さな菜園の恵に水をくれただけだ。そして収穫したくらいだ。日焼け止めを塗りはしたが、日には当たった。それでも身体は疲れてしまうのだろうか。枕が頭によく馴染む夜だった。掛布団と合体するかのような。
「おやすみ、茉世ちゃん。諺くん」
照明を落とすのは蘭の仕事だった。彼女の応答は、元気な子供の声に紛れる。そこに不満はなかった。快眠は目と鼻の先だったのだ。実際彼女は、夫の寝息の漣に誘われ、ほろほろと酔うような意識の揺蕩いに身を任せていた。胸元の違和感に気付くまでは。
寝間着の中に蠢くものがある。あまり温かくはない。けれども氷や鉄、石の類いでもない。
「ママ……」
就寝用のインナーの下に子供の手が滑り込んでいる!
茉世の目蓋は極端な動きをした。薄らと持ち上がったかと思えば、眦が裂けんばかりに開いたのだった。
「諺くん……っ」
その力は強かった。それでいて乳房に触れるのは繊細な手つきであった。茉世は相手が子供であるために手加減をしたのだろうか。
「嫌よ、諺くん。やめて……」」
寝息と暗がりというものは不思議な効果を齎した。彼女は声を潜めていた。夫に言えばいいのだ。夫に知られて何が困るというのだろう。所詮、相手は子供である。牡ではない。男性ではあるがまだ男ではない。つまり今のところ夫の敵ではない。
「ママ……ママ………」
シャンプーの香りが布団の中、寝間着の中にこもっていた。さらついた髪が冷感素材の繊維に擦れる。
「諺くん……!やめて!」
小さな牡がいる。掌に収まる肩は押してもびくともしなかった。
「ママ………」
弱そうな唇は着実に茉世の胸に近付いていた。横暴な掌と指は牽制であったか。そして快眠にちょうどよい温気に晒された肌へ、無邪気そうに見えた子供のいやらしい、奸悪な口が吸い寄せられるのだった。
「諺く………っ」
鱗獣院諺は、世間に跋扈する健全な魂と高潔な意思を持った親どものもとで育った子供であっただろうか。三途賽川と同じ、家のための駒として生を受けた個体ではなかろうか。このような子供が何故、そのような意図を持って女体に触れたのか……
この子供は一種、道具として鱗獣院から預かったのではあるまいか。
口にする言葉は離れた母親を恋しがっているけれど、その唇と舌は、指遣いは、力加減は、母親を求めるものではなかった。牝を相手にするものだった。
「あ………」
胸の色付きは子供の瑞々しかった唇の中に隠されてしまった。そしてその中で、甚振られるのだ。
性別を判じるにはまだ難しい指は的確に胸の実粒を捉える。茉世のそこは勃起していた。だがそれは肌の外的違和感のためであって、求愛のため必死に踊る幼い雄鳥のためではなかった。
「ママ……」
とはいえ、咥えられたままそこで喋られると、人の肉体もまた業の深いものだった。羞悪はときに予期せぬ感覚を呼び起こす。それは自尊心を裏切るようなものでさえあった。
「ぁ……ん、」
この弱味、この淫らな隙を一気に突かれてしまう。この子供は自然の子供ではない。刺客に違いなかった。嫌な子供である。その指遣いには技巧が宿っていた。母乳を求め、また母乳を促すものではない所作は彼女の腹の中をちりちりと灼いていく。
「やめ……っ」
茉世は胸の奥から広がる不本意な快楽に小さく戦慄いた。踵が繊維を擦って熱を生む。だが彼女が熱さを感じたのはこのためなのだろうか。
子供の口技に小さな肩を押す手は力を失った。年端もいかない牡に危うい欲望を覚えそうだった。被虐的な欲望を……
「ママ」
媚びるような喋り方であった。歯が当たらないように考慮されている。この子畜生は夢を見ているのではない。わざとやっているのだった。一人前の男を気取り、本家の長男の嫁に、夜這いしているのだ。
瑞々しい唇が毒牙を甘く包み隠して実粒を圧す。手で弄ばれているほうもまた、同じ力加減であった。
「諺くん……っ!」
彼女は蒸れた息を漏らした。背筋が撓り、胸を前へと突き出してしまう。仕掛けた悪辣な子供も、柔らかな膨らみを押し付けられて焦ったらしかった。
「ぁ、っ」
「んぐ、」
「茉世ちゃん?」
幸いなことに、夫は目覚める兆しがあった。大きく翻った布団に音によって、彼女は声を殺すことができた。
「ん……諺くん?ほら、こっち………こなきゃ、……」
蘭は完全に目が覚めているわけではなかった。眠たげに喋り、邪悪な子供を回収しようとしている。
「蘭さん……ごめんなさい。起こしちゃったみたいで。諺くん、こっち来ちゃってて……」
茉世は平静を装った。彼女は己の咄嗟の演技にそれなりの自信はあったつもりである。しかし後ろめたさはそれを打ち砕こうともしている。
「だいじょぶ……ごめんね。諺くん、ほら、こっち………おいで。諺ちゃん、こっちで寝たら………」
彼はうつらうつらとしながら布団を扇いだ。
「蘭にいに……どこぉ?蘭にいに!」
茉世は寒々としていた。この子供は寝呆けていたのではない。だが寝呆けを装っていた。そしてそれは上手かった。蘭は騙されただろう。
「すみません……ちょっとお手洗いに……」
「うん、行っておいで。電気、点けとく?」
「消してしまってください」
茉世は部屋を出ていった。子供の汚らしい津液を落としたかった。刺激された乳頭はびんと勃ち、タンクトップを押し上げ、染みついてしまっただろう。彼女は風呂に入りたかった。しかし長い時間がかかれば夫に何と言い訳していいか分からなかった。否、夫はすでに二度寝に入っているだろう。
彼女は風呂場に向かった。夜間はコンセントに突き挿さったランプがぼんやり廊下を照らしていた。だがそれで十分だった。
風呂場へ行くには、右手に行けば茶の間や玄関へ繋がる曲がり角とぶつかる。そこには照明が置かれていなかった。夜間に点く玄関前の明かりが引戸によって滲んでいるのが見えるはずだった。
石材や木材とはまた違う硬さのものとぶつかる。ふわりと花のような香りがした。香水ではないだろう。柔軟剤のようにまろく薫る。
「悪い」
本人にそのつもりがなくとも甘ったるく聞こえる声が降ってくる。まるで鳴き笛のようだった。
「ごめんなさい」
幽霊かと思われた。だが実体がある。廊下の明かりに中に、ぬっ……と入ってきたのは蓮だ。透けてはいない。生者だった。
「眠れなかったのか」
しかし睡眠について心配されるべきはこの男だった。
「ちょっと目が覚めただけです……」
茉世は相手が誰だか分かった途端に焦りを覚えた。辺りを見回す。禅の目がどこにあるのか分からない。
「どうした……?何かあったのか」
「いいえ……何も。お風呂ですか」
この男は一匹狼を気取っているようだった。しかし、今、距離を詰めようとしているのだった。彼女の下がった分を埋める。
「それより、先輩だ」
伸びてきた指の背で目元を撫でられる。涙を拭き取るような所作だった。だが茉世は泣いていたわけではない。
「何もありません……」
暗がりから末義弟が見ているのではないかと、彼女は気が気ではなかった。後退る。壁に背中が当たる。
暗黒のなかでは幽霊のように青白く浮かんだ顔が、照明に照らされて肉感を持った。普段は昏い双眸は艶めいた明かりを揺らしていた。兄嫁の戸惑いに泳ぐ眼から、唇をなぞるように見下ろしていく。顎から、鎖骨へ。そして、左右の小振りな結実を認めたことだろう。
「旦那か?」
「え……?」
「いやらしい目をしていたから、どうしたのかと思った」
茉世は蓮の視線に吸われていた。そのために寝間着を越え、タンクトップに滑り込もうとしている手に気付かなかった。
「あ……」
「生殺しにされたのか」
凝ってしまった小さなところを長い指が捕まえた。腰に甘美な痺れが生まれた。
「んっ………」
「固くなってる」
身を震わせた。膝から力が抜け、茉世は座りそうになってしまう。彼女は夏も冬も関係ない腕に縋った。
「ぁ……あ、………蓮さん……」
蓮の眸子に流れ星が奔った。そして彼の視線は隕石を落とすかのように力強く、茉世を見詰めていた。
小さな箇所を摘まれて、捏ねられるだけで彼女は下腹部に疼きを覚えた。肉体は制御できなくなっていた。
「ぁ……んん、ぁ………っ、変に、なりますから………」
思考は胸から与えられる快楽に蒸かされていた。彼女の半開きになって溢水した口から紡がれる言葉に、おそらく意味も意思もなかった。
「なればいい」
茉世は壁から滑り落ちていく。自ら立とうとすることもなかった。元次男の手も彼女の胸についていく。その指遣いはラストスパートをかけていた。
「ぁ、ぁあ……っ」
緩やかにやってくる波は大きかった。呑まれた瞬間、目の前は真っ白く塗り潰される。彼女の下肢は2本の蛇と化して、虚空に座りかけていた尻は床に向かっていった。
「先輩」
しかし彼女の胸の先端を擂り潰していた男はそれを赦すことはなかった。腰を抱き寄せ、今度はショーツのほうへ手を入れた。
「だ…………め、…………」
やはりそこに、この行為への拒否はなかった。いいや、彼女は拒否しているではないか。けれどもおそらく、彼女が口にした拒否は、連続する快楽に対する怖れだったのだろう。肉体が、この男の与えるものをよく覚えていた。
色は白いが逞しい腕は、溶けて二つに折れてしまいそうな華奢な躯体を支えていた。
「かわいい……」
暗い中にぬちぬちと音が響いた。長い指の埋め込まれた箇所は、乳頭で法悦を迎え、牝蜜もしとどになっていた。
「あ………あっ、あっ………」
「イってくれ」
彼は、茉世の恐れている感覚の源をよく心得ていた。
「んゃ………、あっ、」
巧みな手淫の水音と嬌声が静かな夜を喧しくしている。
「先輩………旦那が最後までしてくれなくても、俺がイかせてやる」
ほんの一瞬、胸を過る靄を感じた。咄嗟に出た腕が、蓮を押し返そうとするが、縋りついているようだった。だが次々送られてくる肉の悦びが掻き消してしまった。
「も………ゃ…………おく、へんになる………っぁあっ」
兄嫁の限界を、元次男も悟ったらしい。彼の生白い割りにしっかりした拇指が敏感な肉粒を抉った。
「ああああ!」
茉世の躯体に電流が走った。蕩けた隘路が収斂する。激しく戦慄く彼女を、蓮は押さえつけてしまった。そして快楽の澎湃を解き放つ唇を塞いだ。
「ん………ふぅ………」
深い眠気に襲われた。けれども舌を弄ばれ、意識を失うことはできなかった。
やがて蓮は彼女の口腔漁りをやめた。繋がっていたところから透明な絹糸が伸びていた。
「先輩」
熱っぽい目が茉世を放さない。指に纏わりついた蜜液を舐め取り、彼は兄嫁の肩を掴んで壁際に立たせた。そして抱き締める。
「い、や……」
掠れた声にはまだ理性の活気が戻っていなかった。けれども快楽に溺れているなかでも、危険な牡は察知できたらしい。茉世は艶福家で漁色家らしい男を撥ね退けた。
「風呂、一緒に入るか」
蓮はまたもや兄嫁に触れようとした。
「入りません……」
本音とは違った。けれど元義弟と一緒に入るつもりはなかった。
「部屋まで送る」
「いいです……平気です」
離れたところで襖の開閉の気配があった。蓮は落胆したような素振りを見せ、暗い廊下へ吸われていった。
安堵も束の間、茉世はまた肝を冷やすはめになる。
「駆け落ちしないの。オレ別に、チクらないよ」
音もなく、禅は茉世の真後ろをとっていた。おそるおそる、彼女は振り返る。
「ち、違います………そんなんじゃ………」
この子供はどこまで知っているのだろう。どこから見ていたのか。襖の音が聞こえたときには、すでに蓮の腕からは解き放たれていたはずだ。
「いいよ、言い訳なんか。お互い好きな人同士の結婚じゃないんだし……」
茉世は口元に手を添えた。禅が、尼寺橋渡霑との双子である片鱗をみたのだ。目付きがそうだった。顔立ちでいえば、霖とそっくりそのままほぼほぼ同じだというのに、印象はまるで違った。顔立ちすら似ていないように思う。
この末義弟に返す言葉を持ち合わせていなかった。互いに真に愛し合い、惹かれ合ったがゆえの結婚ではない。
「ん~?茉世ちゃん、だいじょぶ?」
先程は茉世の肝を冷やした禅もまた、このときは驚きに目をかっ開いた。襖を開ける音もなかった。蘭である。暗がりに佇んだまま、眠たげの明瞭でない喋り口だった。なかなか帰ってこない妻を案じたのだろう。
風呂は空いていないのでは、出てきた用はない。
「大丈夫です。すみません……」
禅には小さく頭を下げ、その脇を通り抜けて夫の寝室へ戻る。心臓が痛いほど鼓動していた。末の義弟は長兄に嫁の不貞を報告するのであろうか。
「禅ちゃんも早く寝なね」
近くに寄ると暗いなかでも、蘭が目を擦っているのが見えた。
「蘭兄ちゃん」
茉世は吃逆を起こすように心臓が震えた。次の言葉を聞くまでが、異様に長く感じられた。
「ん~?」
「おやすみ」
「うん、おやすみね。あんま冷やしちゃダメだよ」
禅は暗闇へ戻っていく。茉世はすぐに見えなくなった姿を見送っていた。
「すみません。お手数をおかけして」
夫は眠たげだったが、妻が傍までやってくると、その腰に腕を回した。茉世は身構えた。蘭は人懐こい。だがそのように触れてくるとは思わなかった。
「いいよ。諺くんがごめんね。ちゃんと捕まえておけばよかった」
また、ざわめきが彼女の胸に到来する。夫はすべてを知っているのではなかろうか。
「いいえ……子供ですし………」
蘭の腕は巻きついたまま離れなかった。布団のほうまで誘導される。小さな明かりによって、室内は赤みを帯びて見えた。夫婦の間に掛かっていた橋のごとき布団は、いつの間にか撤去され、茉世とは反対の夫の隣に移動していた。
子供はすでに寝ていた。
「茉世ちゃん」
夫の畏まった態度に、彼女はたじろいだ。平生は爛漫で穏和な人柄を素直に出している顔を、今ばかりは見られなかった。
長兄という立場でありながら、元来は少年をやっていたかったような夫が、男の貌をして眼前に立っている。向き合っている。対峙していた。
夫の掌に、肩を通して、妻の緊張した息遣いが伝わっていることだろう。冷えた呼吸に唇が乾いていく。
「……やめておこうか。ごめんね」
目の前に佇む人物の纏う空気感が一気にがらりと変わった。友人や兄弟姉妹にやるかのような無邪気な抱擁が起こった。そして嗅ぎ慣れて、肌に染み込みはじめている三途賽川とありふれた洗剤が薫った。
「寝よ寝よ。明日早いもんね」
踵を返した蘭は、すぐさま布団に食われてしまった。茉世は苦しくなった。蘭もまた、家の傀儡である。
「蘭さん…………ごめんなさい………」
茉世は傀儡になりきれなかった。嫁という立場に徹することができなかった。夫から求められたのだ。そして気を遣われたのだ。歩み寄るべきだった。だが沸き起こる不安と羞悪を裏切れなかった。
「ううん………大変なのは、茉世ちゃんだもん。嫁に来てくれて、ありがとうね……必ず無理させることにはなるケド……できるだけ、無理させないようにするから………」
「ありがとうございます……」
「茉世ちゃん。おやすみなさい」
声の調子がわずかに変わって聞こえた。優しくなったように聞こえた。
霖の弁当を作り終え、彼のこの家のカラーであるらしい緑色のバンダナを結んだ。永世が今日も今日とて台所にやってきてあくびをしていた。
「コーヒー、飲みますか」
「いいえ。またすぐ戻りますから。お気遣いなく」
「見守ってくださっているんですよね。ありがとうございます」
元は色白らしい肌の日焼けした男は、きょとんとして茉世の目を覗き込む。その妙な間に、彼女は焦った。
「あの、違いました……?いや、あの………わたしの、勘違いかも……知れな、」
「い、いいえ、いいえ。みまもるだなんて、そんな……気にしないでください。朝早く起きるのも気持ちいいですし、なんだかこの雰囲気とか、家庭的でいいなって……玉子焼きの焼ける音とか、ウィンナーの焼ける音とか」
彼は微笑んだ。朝から嫌味のないその表情を見るのは悪くないものだ。その手にはスマートフォンが握られ、動画を見ているようだ。男性アイドルのライブ映像らしい。
「永世さんは、アイドルがお好きなんですか……すみません、勝手に覗いちゃって……」
テレビで、アイドルを応援することが最近の流行りであるらしいことをよく目にした。アイドルを応援することそのものよりも、そのためのグッズやコンテンツについてよく取り上げてられている。そういう文化があることは世情に疎い茉世も聞きかじっていた。この青年もそうなのだろうか。
「ああ、これ、絆さんです。公式チャンネルでまた動画が上がっていたので」
永世は画面を傾け、茉世にも見せた。銀色のスパンコールに覆われたジャケット風の衣装に、金色のメダルが付いたような襷を斜めに掛けている。6人か7人編成らしい。
「本当にアイドルなんですね。地元のアイドル的な意味だと思ってたんですが……」
「全国区ですよ。そのうち世界進出とかするんじゃないですかね。ぼくは楽しみにしています」
絆のような溌剌とした爽やかな快男児がいるかと思うと、他のメンバーとは変形した衣装を身に纏う素行不良児みたいなのもいた。
「推し……って、やつですか?」
「ぼくはこの子推してます」
農具の機械油の落ちきれなかった指が、画面を指す。笑顔の煌めいた男の子のソロパートだった。振り撒かれた汗が照り輝き、舞台装置のようだった。
「この子は?」
「禁ちゃんです。派生ユニットがあるんですけど、この人は本体のほうのリーダーなんです」
画面の横から絆がやってくる。茉世はそこに気を取られた。
「あ、絆くん?」
「そうです、そうです」
絆が屈むような低姿勢になるとカメラを掴み、画面が暗転した。ロゴが映し出され、動画が終わる。
「すみません、付き合わせちゃって」
永世は苦笑しながらスマートフォンの画面を消す。
「いいえ。面白そうですね」
だが永世がこの中で推しているという禁というメンバーのことなど、茉世は興味がないだけに覚えられはしなかった。
台所で解散し、茉世は自室に戻った。その途中で霖と鉢合わせる。
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