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蜜花イけ贄(18話~) 不定期更新/和風/蛇姦/ケモ耳男/男喘ぎ/その他未定につき地雷注意
蜜花イけ贄 25
しおりを挟む事態は深刻らしかった。葵が刀を取りに部屋へ戻ってきて、刀を持ち飛び出していく。茶羽織を羽織っていったが浴衣姿のままだった。宮仕えに休みはない。
桔梗はぼんやりと上階から勤め人の忙しない陰を見つめていた。
どこかで処刑があるらしいことが街の中に喧伝されていく。
桔梗は冷えた貌をしてそれを聞いていた。身寄りのない土百姓が1人四肢を千切られ死んだところで、何を学べるというのだろう。
浅ましさが目の前にある。外の騒がしさを耳に入れまいとした。だが意識してしまうのも無理はない。好きだった男の肌の裏側、血肉、筋や繊維をまざまざと見せられた彼女にとって、それらを無いものとすることはできなかった。身体が樹木の洞になったみたいに軽くなる。立ち眩みながら歩く様は夢遊病と見紛う。気付けば宿を出ている。瞳は上手く働いていないらしく、日も出ていない灰白色の斑らな空が眩しく感じられた。口の中が渇く。冷めた茶を飲ませてくれればよかったのだ。律儀過ぎて気の利かなくなっている男への悪態が浮かぶ。
彼女の気は明らかに急いていた。意思ばかりが先行し、下肢がかろうじてついていっている有様は関節の悪戯のようで、いつ転倒してもおかしくなかった。
前例からみて、処刑場と思われるところまで駆けていった。そして途中で、突っ伏して倒れる葵を発見した。桔梗は肝を潰す。叫びそうになるのを堪えて、俯せになっている身体を揺すった。
「薬師さま……!」
彼には意識があったが、その目は飛んでもいないトンボを追っているような虚ろで危ういものだった。桔梗はこういったことに詳しくはなかったが、頭を強く打っていることは何となく察することができた。
「楽にしていてください。頭を動かしてはなりません」
彼女は葵の両脇に腕を突っ込んで、道の端まで彼を引き摺った。まだ開いていない店の軒の下、上体を柱に凭せ掛ける。
「宿へお戻りください……」
その間に正気を取り戻したようではあるが、眸子の動きは徘徊し、焦点を合わせられそうになかった。
「あなたこそ、ここを動かないことですね」
桔梗というのは真夏の天候みたいな気性の女だった。慈悲を見せたかと思うと冷たく突き放すのである。素気無く吐き捨てて彼女は葵の元を去った。
騒ぎの場所を突き止めるのに大して時間はかからなかった。人集りが目印になっていた。怒号も聞こえた。
今度は誰が血祭りに上げられるのだろう。桔梗のまったく知らない人物だった。地面に打ち付けられた杭に両手を括られ、片足ずつに縄が巻いてあった。そしてそれは藁を背負う牛の軛に繋がっている。空想だけの惨劇が生々しく彼女の目蓋の裏に描かれた。四肢を千切るのは始末が大変だと学んだのだろう。下肢のみを裂くことにしたというわけだ。
群衆は興奮していた。喜悦の怒声を上げているように思えた。人狼討伐隊への罵詈雑言、鳳仙会への誹謗が高らかに吠えられていく。これから股を裂かれる者の悲痛な叫びも耳を通して頭を搗ち割るようだった。
身寄りのない土百姓は、どのような惨めなことを口にしたのだろう。哭き叫び、赦しを乞うたのだろうか。
桔梗は視界がぼやけるのを感じた。心臓が石ころに変わってしまったみたいだった。喉も石塔みたいだった。手足に冷えを覚えて汗ばんだ。彼女も彼女が侮蔑し憤怒する輩と同じだった。そこに佇み、受刑者をただ眺めている。その場に割り込もうという考えが浮かばなかった。見ているもの、聞いているものを受け取るので精一杯だった。
彼等彼女等は辜を重ねるのがいいのだ。いいや、大した辜にはならなかろう。何十人、何百人の同意のもと1人が殺され、見殺されたところで、咎は分散されるのだ。それが死罪で、処刑というものなのだろう。
牛の背に積まれた藁に火が点けられた。人のものとは思えない叫喚はあまりにも痛々しかった。心理的に大きな作用を齎した。呼吸が荒くなり、唇が乾いていく。
牛は煙を厭うた。野太く鳴いて歩きはじめる。また人狼のために、無辜の人間が死ぬ。だが桔梗は己に言い聞かせた。今から四肢を千切られる者も、哀れな百姓の死刑の際には歓喜に震えていた側であったに決まっていると。そのようなものなのだ。ここで一人見殺したところで世は変わらず人も変わらない。一人見殺さなかったとしても。己の正当性に彼女は興味がなかった。つまりあの有罪の有象無象と一緒くたになることを良しとした。
真夏のセミみたいな悲鳴が聞こえた。暴言が飛び交い、これはある種の凪だった。だが突然、水面に石を放り投げたような一種異様な変化が起こる。桔梗はそれを耳よりも肌で感じた。
何をする!
群衆のうちに波紋が起きたらしい。背中を突き飛ばされたように桔梗は走り出した。それは発作的で、衝動的であった。人混みを掻き分けて、今に斬首される罪人のごとく、処刑現場へ顔を突き出した。牛は縄を解かれ、自由を得ていた。牛舎に戻るでもなく、人の塊へと向かっていく。背に負った煙が嫌らしかった。逃げれども逃げれども牛には煙が付き纏う。
桔梗は牛を解き放った人物を捉えた。片方の赤い瞳も彼女を認めた。左右の半分で、髪も眉も白く染まった異様な風采の持ち主で、しかし桔梗の知る忍び装束ではなかった。鳶尾である。視線が搗ち合った瞬間、彼女は顔を覆って叫びかけた。この場でそのような行いは愚かだった。詰り、誹り、罵りが沸騰させすぎた湯のように溢れ返った。こういう場合、集団は何の意図も思考も抱かず、無意識に連帯するものだ。だがその心理に呑まれず、この驚愕に溶け込むこともせず、ある種の理性、保っていた自我のもと放たれた一声によって、棍棒や鋤鍬の林が鳶尾を襲う。彼は気でも狂ったのだろうか。無防備に佇んでいる。
桔梗は湯気のような息を吐いた。胸を強く殴り込まれた気分だった。大好きだった哀れで惨めな百姓のことが頭を過った。迂愚で無邪気で危うげな人物だった。彼女は目蓋の裏に居座り、ふとしたことで思い出してしまう人の印象と己を重ね合わせた。あの者になりたかったわけではないけれど、しかしそうしてしまったのだ。
鳶尾の前へと割り込んだ。惨虐な最期を思い描いた。だがどこかそれを望んでもいた。あの無辜の罪人が辿った悲惨な末路について理解できるのなら……
「わたしが人狼の仲間です。わたしがこの前殺された人狼の妻です!」
彼女は叫んだ。場の空気は、火に油を注ぐが如く、さらにそこへ大鋸屑でも投入したかの如く、瞬く間に燃え上がった。
桔梗は叫んだ途端に泣き出した。もう涙などすべて涸れ果てたものだと思っていた。だがまた溢れ出るのだった。生きている限り、涸れることはないのだろう。また涙に暮れる日があるということなのだろう。生き続けるのならば。
「無茶を……」
後ろで鳶尾が呟いた。
「一緒に死んでくれる……?」
共に或る人の墓を掘った相手である。悪くなかった。
「莫迦をおっしゃるな」
鳶尾はすいと彼女を抱き上げ、地面を蹴った。それは群衆にとって、人ならざる魑魅魍魎の所業だったのかもしれない。屋根まで一跳びした。
あれが人狼夫婦だ!
殺せ!討ち殺せ!
討ち取った者には倍額出す!
屋根から屋根を跳び、鳶尾は桔梗を連れ去る。だが長くは続かなかった。そのうちに寝静まっていた鳳仙会が治安維持隊よりも先に現れた。彼等は街の結託を嫌った。そのために治安維持隊は手を出せないような個人間の諍いに介入することもあった。
この状況を鳳仙会は看過しなかった。しかし普段はこの破落戸、不成者、無頼漢どもの反社会的集団を恐れている街民たちも、人狼騒ぎとあっては従順に対応するわけにはいかないらしかった。さらには武装し、集団であるという状態も、各々の中に自信を生んだようだ。あちこちで制圧と鎮圧が起こる。
鳶尾は逃げた。彼の間合いに間違いはなかった。しかし桔梗は、すぐ傍で嫌な音を聞いた。粘着質で、いつまでも耳に残るような音だった。咄嗟にその出処を見つけてしまった。鳶尾の首だった。細い棒が生えている。彼女は落ちていった。それはほんのわずかな時間だっただろう。けれど落ちている者たちからすれば、瞬きの数度はできたつもりでいるかもしれない。
衝撃はなかった。すべて鳶尾が受け止めていた。彼は喉を逸らし、血を吹いて咳をした。それから桔梗を横に退け、覚束ない足取りで立ち上がる。
「鳶尾さん……」
しかし彼は呼びかけに応じなかった。蹌踉として歩き始める。どこへ向かうというのだろう。桔梗はその行先を見遣った。
「鬼児はここで葬ってやるのが、衆生のためなんさ」
大柄な男が弓を構え、矢を番えていた。椿の山茶である。嫌味たらしい笑みを浮かべ、彼は狩りを楽しんでいるようだった。桔梗は忘れていた。今では政務に移り、色恋沙汰で悪名高いが、彼は弓の名手だった。名家揃いのなかで、弓矢によって成り上がったのだった。
鳶尾は首に矢を生やしたまま何も語らなかった。ただ苦無を片手にしていた。
躊躇いもなく椿の山茶は矢を放った。そしてそれは、相手の動向を探るためでもあったらしい。瞬時に消えた標的を警戒し、また矢を番える。その体躯では小さく見える弓は空を向いていた。指が反る。
直後、椿の山茶の上に人が降ってきた。首や肩、脇腹に長い棒を生やしていた。しかしそんなことは些事とばかりに苦無の鋒へ体重をかけていた。
弓が短い刃物を弾いた。だが鳶尾は足の裏で地面をつかむと、踏み込んだ。攻防は5合ほど続いた。椿の山茶は防戦一方。矢を番える間もなかった。矢をそのまま突き出せば、素手で簡単にへし折られる。
「生まれながらの戦闘狂め!」
椿の山茶は劣勢かと思われた。しかし違った。鳶尾の視界から上手く外れた。すぐに矢を矧ぐ。3本が一度に射られたのだった。喉から肩から脇腹から胸や腿から棒切れを生やし、それは片輪の巨大な山荒みたいだった。
鳶尾は蹣跚としながら、まだ立っていた。いずれ前のめりに転倒するかのような頼りなさで、それでも椿の山茶へ吸い寄せられていく。苦無を捨て、内懐から引き抜いたのは短刀だった。
正気の挙措ではなかった。けれど彼は椿の山茶へと肉薄する。血が飛び散った。地面は雨を吸ったばかりだというのに、強欲に赤い飛沫までをも飲んでいった。
桔梗は鳶尾へと駆け寄る。椿の山茶は左腕を大きく切り裂かれていた。猟奇的で嫌悪感を催す肉襞が赤々と濡れていた。白いものも見えた。いやらしい繊維が入り組んでいるのも、赤い液体の捌けたところに見えた。桔梗は医学に明るくないが、その腕の有様を見た途端に、その肌の完治は難しいように思えた。傷痕もそうであろうが、機能として、深く損傷しているだろう。
椿の山茶は顔中を汗まみれにしてそれでも嗤っていた。
「忌まれ児の呪い傷ってか……末代までの語り草にしてやりまさぁ」
彼は額に張り付く前髪を掻き上げて立ち去っていった。桔梗などは眼中になかった。ただ異児を討ち取るのが目的だったらしい。鳶尾は宮に叛いた存在であった。討ち取る必要があったのだ。隠密部隊には隠密の部隊の掟があるのだろう。聞き齧ったことが彼女にはあった。だがその任を、椿の山茶が請け負っていたなどとは……
桔梗は椿の山茶が消えたほうを凝らしていたが、やがてすぐ傍に横たわる棒切れを生やした者に意識を留めた。彼をどう扱っていいか分からなかった。しかし彼女は結局、その上半身を膝の上に抱き上げた。その赤い瞳はすでに光の調節もできずに曇っていた。目の前に人がいるのも分からぬようだった。色の失せた唇はきつい口紅を以ってしても乾ききって鱗を作っている。
「鳶尾さん……」
彼は何か言った。だが声はなかった。首に突き刺さった矢が邪魔していた。彼は震える両手で矢を掴み、一気に引き抜いた。血が噴き出る。桔梗は急激な苦しみを覚えた。矢を握ったままの両手の上に手を重ねた。
「誰かに、看取られるとは―」
しかしそこからはもう空気を切る音だけが発せられていた。彼は涙を流していた。桔梗は赤い瞳の奥を見つめていた。やがて鏡のように澄んでいく。手の中に納めた両手が弛緩した。
砂利を踏む足音に彼女は振り返った。
「道端で寝そべる不審な男を見かけたが?」
黒い着流しに暗い赤色の帯、金塗りの算盤玉の首飾りをした男が立っていた。
「治安維持隊でしょう。あまり構わず、近くの宿に放り込んでおいたらどうですか」
男は桔梗の膝の上の遺骸に目をやった。そして溜息を吐いた。
「すまなかった」
それは誰に対する詫びであったか。
「丁重に弔う」
彼は項垂れた。
「一緒にお墓を作ってくれた人なんです」
しかし彼女の言葉の受け取り手はいなかった。
「詫び続けるしかない」
「何故、貴方が詫び続けるのです」
「鳳仙会に関わらせるべきじゃなかった。何人、俺たちの尻を拭えばいい……?」
この者の言葉についても、受け取り手はいなかった。
「山査子の木の下に……と思っていたんですけれど、"サンザ"シは嫌です。桜桃の木の下に埋めてあげたいのですけれど……」
「必ず」
棕櫚の後から担架を持った輩が現れた。矢を抜き、布を当て、異形の新人の死について彼等は悼んでいた。
桔梗はそのまま座っていた。黒い着流しも、そこに突っ立っていた。
「恨むか、俺を」
「はい、一生。一生、恨みます」
小さく深い呼吸が耳に届いた。
「貴女にも、一生かけて、詫び続けるしかない」
「いいです。要らないです。誰かに詫びられるほど、わたしも無辜のお人ではありませんから」
彼女は虚空をみていた。まだ膝に遺骸を乗せているみたいだった。
「お為倒しをするつもりはないが、貴方はこの街をさっさと出ていったほうがいい。人相書きもそのうち出回るだろう。鳳仙会で牽制しておく。今のうちに……」
「そうですね」
彼女は立ち上がった。そしてどこかあてもなく歩き出した。まだ街の中心部では打倒人狼夫妻に燃えていた。鳳仙会との軋轢や治安維持隊との衝突も起こっていた。そして新たに出現したという人狼に惑わされ、祭が行われているみたいだった。桔梗は部外者同然にその街を出ていった。
ぼんやり歩いていると、足は小さな村に向かっていた。着いたのは寂れた民家だった。住人を失い、干し柿の垂れ下がっていた窓には木板が張られている。
彼女は畳の上に横臥した。そして目を閉じる。死体みたいに眠った。飲まず食わずで一晩を過ごした。
朝になってしばらくすると、人の出入りがあった。目を開ける。だが寝たふりをしていた。来訪者は上着でも脱いだのか、繊維の擦れる音をたてた。そして畳の上で寝転がっている女を衣桁とでも見間違ったのか、衣を掛けた。ふわりと漂った匂いに持主が分かってしまった。遅れて、布に残った体温を感じる。
「桔梗様……」
囁きが静寂に沁みていく。そして次には歔欷。
「なんですか」
彼女は起きる気になった。葵は振り向き、涙ぐんだ目を晒した。長い睫毛に水気が絡んでいる。
「……桔梗様。私の部下が身罷りました」
白い手が目元を拭う。頭には当て布と共に包帯が巻かれていた。
「ええ。わたしがそのように仕向けたんです」
彼女の突然の告白は、彼に大打撃を与えたらしかった。目を赤くしていた塩水が一気に引っ込んだとみえる。
「は、い……?何を……」
「わたしがそうなるよう、誘導したといっても過言ではないと申し上げているんです」
平然とした顔で彼女は言った。葵は固まっていた。ただでさえ色の悪い顔がさらに青褪めていく。
「何故……」
「忌まれ児だからです。人狼の濡れ衣を着せるにはちょうどいいではありませんか」
「何故です!何故……!」
彼は悪女の衿に掴みかかった。
「孤児だからです。孤児では誰からも信用されない。人々は平気で生贄にする!そうやって社会は続いてきたではありませんか。今さら何を」
「嘘だ……作り話です。貴方はそんな御仁じゃない……!」
「けれど揺れ惑っているのでしょう?大体、薬師さまにわたしの何が分かるというのです。こうも筋違いだと、もはや人を見誤るのがお上手です」
彼女は愉快になった。顔面を蒼白にして狼狽える偉ぶった傲慢で怠惰な役人を甚振るのが、このうえない愉快なことのように思えた。
「独りで野垂れ死ぬのが宿命だったあの鬼児は看取られて逝ったんですから幸せなものですね。表では生きてゆかれない、だから隠密にしたんでしょう?朝日を浴びて生きてゆかれない人々は闇夜に生かせばいいんです。間引くのはもったいないですからね。片輪でなければ戦えます。けれど朝日を浴びて生きてゆける者の安心と安全を害さないように……」
葵はとうとう、力任せに彼女を押し倒した。後頭部を打ちつける。だが葵は構うこともなく叫んだ。
「どうしてそんなことばかりおっしゃる!悼んでくれとは申しません……!けれど貴方は死人を侮辱することを厭わないんですか」
「人狼だからです。わたしが。わたしが人狼だからです。人面獣心というわけです」
「貴方は人狼ではありません!貴方は人狼ではない……」
彼は叫び、そして女を見下ろし、乱れた衿と晒された首筋にたじろいだ。視線を外すこともせず、生唾を呑んだ。喉元の隆起の浮沈が生々しい。
「人狼ではないと信じたいだけでは?人は希望を見た途端に縋りつきたくなりますもの。人狼と枕を交わすのは屈辱で、恥ずべきことで、過ちですものね」
「貴方は人狼ではありません」
「けれど人狼の妻かも知れませんよ」
「それこそ貴方がそう思いたいだけだ!」
女を知っているくせ純朴さを失わない貞潔げな瞳は彼女の素肌から逃れては戻ってきて、逃れてはまた戻ってくる。
「私は貴方が人狼でも、その妻でも構いません……」
「妖怪女と結婚した人は、産まれた子の姿を見て逃げ出したというではありませんか」
それなりにこの地方で有名な昔話を持ち出すと、葵の表情が強張った。
「貴方はろくでもない極悪人なのに……」
「発情を理性で抑えつけてこその恋愛ですね。その点で言うとわたしはそれを見誤ったのです。見誤りすぎたのです!お嗤いくださいませ!わたしは見誤りすぎて、殺してしまった!殺してしまったのです」
冷たい手が、細い首に回った。左右から包まれていく。
「私は理性に生きます。貴方のことは忘れます。鳶尾を死に追いやったことを、どうして赦すことができるのでしょう?」
「わたしは薬師さまの幻影というわけですね。どうぞ、人狼の妻として曝し首にしてくださいませ。そして今以上に身を立ててくださいませ」
けれどもいつまで経っても、手に力は入らないのである。やがて彼は断罪を待っている女の唇にむしゃぶりついた。
「薬師さま」
桔梗の声音には非難の色が滲んでいた。
「貴方を人狼の妻として曝し首にするですって?威鳴狐狗狸の妻以外の、誰の妻だというんです。貴方は人狼の妻にはなれません!貴方にそんな自由はない!貴方は一生、檻の中で暮らすんです」
それは恐ろしい現実だった。惨めな最期を遂げた朗らかな百姓との間に壁を設けるような。彼女には虚勢を張り続ける意気地もなかった。素顔を見せてしまった。
「桔梗様」
葵は欲情したらしい。彼女を抱くことにしたようだった。だがそれは果たして肉欲だったのだろうか。偽悪に嘲笑を繰り返す女の化けの皮を剥げば、あまりにも弱々しく繊細であった。圧倒的な優越感、強者の恍惚、勝者の快楽を覚えたことだろう。葵もまた救いがたい俗人のひとりに過ぎなかった。女を組み敷いて悦ぶ煩悩の虜囚であった。
彼は清純げな顔をして、敗者を裸に剥いてしまった。そして杭を打ち込み、よく知る花を散らしにかかった。春先に飛び交う蝶であったし、夏場求愛に勤しむ蝉同然のしがみつきだった。木枯らしにあそばれる蓑虫の如き揺らめきでもあった。
間もなく虫は死ぬのだ。やがて朝露が爆け、樹液が迸る。不思議なことには杭を打ち込んだまま離れられぬそこで蛹や空蝉に退化するのだった。ふたたび成虫になろうというのか。しかし彼は獣になることを選んだ。畳を這って逃げようとした雌を捕まえる。この個体に種をつけ、子を産ませるつもりでいるらしかった。杭が打ち込まれることはあれど、抜かれることはなかった。引き抜き方を知らないでいるようだった。
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