94 / 119
蜜花イけ贄(18話~) 不定期更新/和風/蛇姦/ケモ耳男/男喘ぎ/その他未定につき地雷注意
蜜花イけ贄 24
しおりを挟む雨の音が聞こえる。勢いは変わらない。まだ帰れそうにない強さだった。
桔梗は布団の中で目を覚ました。身体が痛む。腹の奥におかしな余熱がある。それでいて、そこは最初は何かしらで埋まっていたような空虚感もあれば擦り切れたような痛みもある。
外は暗い。身体を起こすと、襖が開いた。ちょうど、葵が湯呑2つを盆に乗せて入ってきた。彼女は睨むような眼差しを送ってしまった。だが何を勘違いしたのだろう。彼は赤面して目を逸らす。文机に盆を置いた。
「今日は帰れません」
「そのようですね」
冷淡な返事だった。だが葵は目を伏せ、何を話そうか考えあぐねているようだった。
「桔梗様は、私と会った日のことを覚えてはいらっしゃいませんか」
「覚えていません」
思い出そうともせずに彼女は答えた。
「躑躅殿にご紹介していただくより前に、私は桔梗様を存じておりました。いいえ……そこで貴方様を知って、躑躅殿にお願いしたのです」
「紹介されたことも忘れました」
彼女は雑なことを言った。男の言葉をひたすらに打ち払いたいだけの意地の悪い女になった。同時に、甘えていた。この男は色情に狂えども、その辺をぶらつく男と違って、乱暴を働いたりはしないということをよく承知していた。
「貴方は意地の悪い方です」
「そうです。今更お気付きでしたか。わたしは意地が悪いのです。肝によく銘じておいてくださいな」
「……私に好かれるのはご迷惑ですか」
「はい」
葵は青白い顔をして、ただ睫毛を長さ、濃さを誇示するみたいに目蓋を落とす。
「意中の人が、いますものね」
「はい」
「夫君がありながら」
「そうです」
すべて事実であり、弁解するところもない。
「努力しましょう。貴方を想わないように」
「そうしてください」
桔梗はもう一度、布団に横になった。
「片付けしてくださったんですね。着付けまで……ありがとうございます」
葵のほうには背を向け、雨音のする暗い窓を見ながら彼女は言った。そして目を瞑る。
「素気無い貴方でさえも、愛しいんです」
「損切りの下手な方ですね。誰しもが望んだ相手と結ばれるわけではないのですよ。それが分からない御人ではないでしょう。能力さえあれば相応しい相手を娶れる商家ではないのです」
「命のない方をお慕い続けたところで……」
その物言いが、あまり彼らしくなかった。そうとう思い込まれていると見える。こうも潔さに欠けた人物であっただろうか。
「あの人についてわたしの弔いの気持ちが済んだとて、ですよ」
あとは雨音のみであった。それが妙に眠れぬ彼女を焦らす。何故、この男の想いに応えられないのか。見目は悪くない。勤め先も悪くない。気配りのできる、律儀な男だ。それの一体何が不満なのか、分からないことが自身に対する戸惑いを生む。非の打ち所がない相手に大きな慕情を向けられたなら、多少はそれに報いたいという情が湧いてもおかしくないはずだった。それが作用しない。他の何者かが、唯一設けられる座に居座っているから。しかし故人だ。
理屈で、理性でいえば、今後これほどに評判も中身も揃えた男とは巡り会うことはないだろう。そしてその相手から求愛されている。人外の夫のことなど放っておいて、或いは投げ捨てて、この男を選ぶべきなのだ。恋しい者は死んでいる。
人として、葵という人間はそこまで忌み嫌う対象ではなかった。彼にも彼の、恨まれがちな仕事というものがある。叔父との脱走について密告した件についても、個人的な憎たらしさは否めない。だが彼は宮仕えであり、茉莉の忠烈な臣下であり、また主からも寵臣として可愛がられている身なのだ。いやいや、彼女はその点についてはもう考えていなかった。人としては憎み、恨み、忌み嫌ってはいないのだ。だが恋慕の相手としては見ていなかった。肉体は彼で感じ、忘我してしまうというのに。彼女は我が身が恐ろしくなった。意地悪のひとつでもふたつで、いくつでも、返してやりたくなる。
「もし薬師さまのお気持ちに応えたら、わたしはどうなるのでしょう。薬師さまは、どうなさりたいのでしょう?」
「威鳴狐狗狸とは離縁させます。茉莉様にお願いし、祓屋に頼んで……そののちに、妻にしたく思います」
「叔父上に、報告ができますか」
「一部始終、報告します」
口では何とでも言えるのだ。しかし葵という男の不思議なところは、実際にやり遂げそうなところなのである。異様な説得力があるのだ。それはどこか自暴自棄な雰囲気にも似ていた。
「薬師さまがわたしの夫になったら……茉莉様とはより強固な結びつきになってしまいます。わたしが何故、叔父と企みを起こしたのか、そして同じことが繰り返されると、お考えにはなりませんか。薬師さまの最もアイシテいる御方は茉莉様です。そんな方の元には嫁げません」
とはいえ、茉莉に逆らえる相手がどれほどいられるのだろう?茉莉が妻を、姪を、娘を差し出せと仰せになられたとき、断りきれる人間が、どれほどいるというのだろう?
「職を辞しても構いません。田舎の朗らかな暮らしがお望みなら、そこで俺と暮らしませんか」
だがそれは、脚を悪くさせられた囹圄の叔父について度外視している。葵の言葉は、説得力があるようで、しかし物分かり良すぎて軽くもある。
「山菜採りをして。俺が教えますから。薬草を採る傍ら……山奥で、ひっそりと」
「そうは言っても、簡単に辞められるはずもないでしょう」
彼女は布団を被って小さくなった。葵は宮仕えでありながら、その忠勤ぶりを茉莉は高く評価していたことを知っている。叔父があまり葵に対して好い顔をしなかったことも、彼と近付くだけそれが濃くなっていることも桔梗は薄々察していた。つまり宮殿の裏の事情について知りすぎていた。仕事を選ばなかったし、選べもしなかった男である。そういう男を、勤先が無事に、何の咎めもなく解き放つはずがないのである。形式上、事故で死んだはずの者たちが、自害したはずの者たちが、辻斬りに遭ったり忽如として行方を晦ました者たちが、実は宮からの命により殺害されていたと露見する可能性もある。葵という男は鳥籠の中にいる。その鳥籠の中の立派で素敵な雄鳥に求愛されたところで、飼主に弄ばれるのは目に見えているのである。さらにその飼主は、残忍な性格と相俟って、逃げようとする愛鳥に仕置きをするはずだ。雄鳥だけで済むだろうか。雄鳥の甚振り方は、雄鳥のみを痛めつけるだけではない。
「……―そう、ですね。少しだけ夢を見ていました」
「そうです、夢なのです。ですから、世迷い言をおっしゃるのはおよしになって」
「苦しいのです」
「また仕事に戻れば忘れます。薬師さまはきっと、閑居していてはならない御人なのでしょう」
葵の静かな語り口と雨音がまた、ふ……と眠気を誘う。
「女でも掻き抱いて寝ますか。今日だけです。今日だけ……お付き合いいただきましたから。こんなふうでしか、わたしには……」
だが繕うところはもうないのだ。堕ちるところまで堕ちた気になっている。卑屈になっているのか、それが傲慢であるのだか、彼女にも分からなかった。この男の欲望と自尊心、どちらに寄り添うべきか、寄り添うべきか否か、また、寄り添うとはどういうことなのか、まるきり理解できていなかった。ただ求められたような気がして、それにそのまま応じることのみを、一時の、その場限りの、安易な救済と見做したのだ。
返事はない。しかし彼は徐ろに布団へと近付いてきた。小さな物音と衣擦れがあった。そして背中が寒くなったのは、籠っていた体温が逃げたからだった。後ろに人の気配が迫っている。
「薬師さ……」
その方向に寝返りをうったのは誤りであった。眼前に、青白い感じのする美貌がある。
「寝ます、俺も。一緒に」
彼には不釣り合いな図々しさがある。
「薬師さま……」
「お嫌だったなら、安い同情なんてなさらないことです。こうして付け入る不埒の輩だっているのですからね」
布団の中で腕が動く。
「傷に障ります」
「この機会を逃すくらいなら、些末なことです」
伸ばされた腕は、彼女の腰に回った。引き寄せられる。
「こうして眠る夢もあったのでしょう。毎晩、こうして、好いた人を抱いて眠る……」
「薬師さまは、寝辛いのでは」
「いいえ。とても心地が良いです」
彼の声に、うとうととした眠気が混じりはじめた。反対に、桔梗は身体中が熱くなって、眠気などどこかに消えてしまった。
「桔梗様も、あの方と、このようにして眠りたかったのではないですか。まだ……俺は黙ります。ですから、癪ですけれど……」
「そんなおつもりなら誤解です。わたしはあの人をこの腕で抱いて差し上げたかったのです。こうではありません」
「では、今、貴方を抱いているのは俺ですね」
塩をかけられたナメクジみたいに、桔梗は小さく、丸くなっていった。温まった布団の中で葵の匂いが濃くなっていく。そこに傷薬の草のような匂いと薄荷の匂いも混ざっている。
しーんとした雨音は遠く、すぐ近くで鼓動が聞こえる。生き物が間近にいる。不思議な感覚は羞恥にも似ていた。
「傷が悪くなります……」
「桔梗様はどうぞ、寝返りをうってください」
彼はすでに半分寝ているらしかった。
「そういう問題では……」
「赦してください」
桔梗は鼓動を聞いていることにとうとう耐えられなくなってしまった。寝返りをうって、葵に背を向ける。彼は彼女の腹へ腕を回し直す。
「都で……老婆が道を横断しようとしているにもかかわらず、馬車が轢きそうになったとき、貴方は老婆が渡り切るまで、道の真ん中に立っていた。俺は偽悪的な貴方が、少し心配になったものです」
半ば、本当に彼は寝ているのではないかも思うほど、温かみはあるがどこか呆けた話ぶりだった。
「覚えていません……」
腹に回った腕が少し締まった。背中に体温が当たる。彼女の腰が前に逃げようとする。
「俺が、少し性格のきつい女性が好みというのもあるのでしょう。意識してしまうからでしょうか。これという理由を見つけるとしたら、それくらいで……覚えていないんです、却って。忘れてしまったわけではないけれど、ひとつひとつが大きすぎて、上塗りされていくようで」
「わたしは、薬師さまから見てきついのですね」
「はい。とても……気になってしまって」
桔梗は頸に気配を感じた。くすぐったさと、緊張は下肢に奇妙な痺れともどかしさを呼ぶ。
「薬師さま……?なんだか………首を痛めます」
「桔梗様………好きです」
耳に吐息。首筋をなぞり上げていくのは喘ぐような声音。
「ん……っ、あ………」
彼女本人にも予期できなかった弛緩がやってきた。心地良い焔に灼かれることを知ってしまった。身体の力が抜けると葵の抱擁が狭く感じられる。
「は………ぁ………」
「首の少し後ろ側が弱いんですね」
男は新しい玩具を手に入れた。意のままにならないことこそが最大の楽しみであり、彼の苦悩の種である着せ替え人形を。彼はそこに甘い蜜があると知っている蝶だった。蜾蠃だった。蝶の羽搏きに掠ったような柔らかな息吹と、雀蜂が飛来してきたときのような緊張感が彼女をおかしくさせる。
「薬師さま……」
「俺は確かにしがない男ですけれど……桔梗様が、俺を好きになってくださればいいのに……」
「……っん、くすぐったい………」
首根っこを噛まれた猫よろしく、桔梗は身体に力が入らなかった。前へと逃げる。前へと逃げれば、葵の腕に止められる。身体を曲げて、尻を後ろの男へぶつけてしまう。
「ぅ、あ……桔梗様………」
男の下方に瘤があるのを彼女は腰とも臀ともいえないところで感じ取った。
「何か、ぶつかって……」
「すみません……動か、ないで………」
桔梗が尻を動かすのを、彼は抱き締めて止めた。社会的な動物としてヒトとヒトとの接触がそうさせるのか、はたまた、肉体のみに於いて番いの候補として判定しているらしきオスにそうされたから、桔梗の肌は蕃椒を擦り込んだように痺れるのだった。
「どうするんです……?」
「寝ます、このまま……」
「寝違えてしまいます」
「申し訳ありませんが、寝違えてください……あと少しでも動かれたら、汚します」
鼓動が大きく鳴っている。勢いの落ち着いた雨音が冷笑している。
「寝られますか、このまま」
「無理そうです」
「ではどうします」
「耐えます」
桔梗は悪寒に似たような全身の細やかな滾りによって眠気など微塵も湧きそうになかった。
「怖い話でもしますか」
「怖い話をされると、却って興奮してしまって……」
「薬師さまは異常者でいらっしゃるんですね」
う、と切羽詰まった呻めき声が聞こえる。尻に当たる瘤が蠢いた。
「ああ……嫌です……放してください。怖いです」
彼女は両手を顔に当てた。理解できない恐ろしい生き物が真後ろにいる。
「俺のことを知っていただけて嬉しいです」
「薬師さまがろくでもない方だということはよく分かりました。よく分かりましたから……」
「桔梗様……こちらを向いてくださいませんか。自涜で済ませます……」
葵にもあざとさがある。彼は誠実そうにみえて狡賢いところがあると認めざるを得ない。
「動かれては困るとおっしゃられたではありませんか……」
「すみません……このまま失礼してもいいですか」
抱き寄せる力が強まる。肩に鼻先が埋められる。
「向きます。ですから放してください。肩も痛いですし……」
桔梗は俯き、相手の顔を見られなかった。
「ありがとうございます」
彼女はこの後数分間、間近で発せられる艶かしい吐息と忙しない衣擦れを聞かなければならなかった。そして目のやり場に困っていた。俯けば、布団の下の暗闇、脚と脚の狭間で活塞するものが薄らと見えてしまう。
「ん……っ、桔梗様………桔梗さま………ッ、ききょうさま…………」
桔梗は固く瞑っていた目をわずかに開いた。葵を見上げると、悩ましげに眉が寄っている。布団の中から、むわと淫猥な匂いが仄かに漂う。
呼ばれている張本人は、耐え難くなってしまった。彼女は自涜に耽り、愛しそうに女を呼ぶ口を塞いでしまった。綺麗事か理想論、それが叶わなければ現実論に徹する極端な桜唇が開いた。洞穴から朱色のくちなわが現れて、白魚を攫っていく。
「いや……っ」
指が生温かい感触に包まれ、巻きつかれてしまった。桔梗はまたもや恐ろしい血潮の巡り方を全身で味わう。
却って不必要なほど埃や霜を絡め取ってしまうほど長く濃い睫毛が、月の昇っていくみたいに持ち上がった。夜の水溜りみたいな瞳がそこに現れた。
「ききょうさま……」
これはもう人間ではなかった。オスの獣だった。野獣だ。文明を捨ててしまった。教養を。文化を。ゆえに法も人倫も捨ててしまった。
それは強張っている女の上へ、鼬鼠の喧嘩みたいに圧しかかった。飢渇した豺が新鮮な生肉を捕らえたが如くの食いつきぶりだった。
「あ………ふぅ、」
捕食者は哀れな貂を食ってしまった。警戒していたはずで無防備な女の唇にむしゃぶりついた。
身体の緊張と、時折介入する胸騒ぎに似た接触と密着は、真上で起こる隙間風めいた淫声と相俟って不穏な感覚を生む。
大きく触れているところは舌くらいであった。けれど彼女は、頭の中で蜜煮が作られているような心地になっていた。先程まで眠気など微塵も湧くはずもなかった。だが、今は眠気に似た泥沼が水嵩を増して彼女の後頭部裏に迫っている。
「ん………く、ふぅぅ……」
ここは、無辜の想い人が刑という名の暴力に殺された街の、鄙びた雰囲気の宿である。そしてそこの、硬い布団の中だった。汀ではなかった。しかし彼女は溺れていく恐怖を覚えた。沈んでいく不安があった。野獣でも上にいるものにしがみついてしまう。
刀を振るう腕は、目では細く見えて、掌では筋肉が程良くついているのが分かる。
「あ……ん………あぁ……」
真上を陣取る舌の巧みな淫技によって、彼女は完全に弛緩した。縋りついていたはずの指も爪も、ただ添えられているだけだった。流し込まれてくる口水は、もう嚥下するほかなかった。
軈て、彼女の腕は滑り落ちた。百合の花が咲き終わった瞬間みたいに散り落ちていった。そして小さく身を引き攣らせた。舌と舌が今まで結ばれていたかのように解けていく。
「う、……」
口腔を蹂躙し、また舞い踊ってもいた舌は、その肉体の射精が完了するまで女の甘汁の中に浸かっていた。
桔梗はそのまま在りもしない白沼の奥底に水没していった。心地良い眠りだった。同時にそれが苦しくなった。息ができないわけでも、胸が痛いわけでもなかった。憩いの地、癒しの時には戻れないのだと思った。今は顔も思い浮かべられずにいる想った人とは結ばれないのだと確信できてしまった。肉体、肌理、湿潤を極めた粘膜が、この男と結ばれるべきだと告げていた。そして感情を度外視し、それで良いのだと妥協を強要していた。いやいや、妥協どころの相手ではない。何が不満なのか、むしろ自身が咎められることである。しかし慕情が湧かない。他の者、二度と逢うことの許されない相手がその座から降りない。
大恩ある叔父の顔面に泥を塗りたくり下肥まで上塗りし、火傷面の哀れな下僕を独り寒空に放り出して飢えさせ、不気味な死に損ないの白蛇を自己再生不可能なほどの千切りにしてまでも、桔梗は白痴みたいな貧しい田吾作と一緒になりたかった。これがそれなりに本音であった。だが様々な柵や、理屈や、自尊心、人倫が複雑に絡み合うのもまた現実であった。
非の打ち所がない、稼ぎありの甲斐性なしの腺病質げな剣客の恋慕に迎合するとするならば、少なくとも天涯孤独に不治の傷を負う異人の下僕についてはまだ切り捨てる労力を払わずに済むかも知れなかった。
彼女の意識は安眠を浚う。
腹にはきっと何か宿っている。そういう気がした。それらしき兆候があったわけではないけれど……
目を覚ましたとき、雨は止んでいたが、空は時間帯と相俟って、晴れているとはいえなかった。
桔梗はゆっくり身体を起こす。掛布団が徐ろに擦り落ちていく。隣を見ると、刀を抱いて葵が壁に背を凭せ掛け、座ったまま眠っている。布団に横たわっていては寝首でも掻かれると思っているのだろう。
彼女はまた窓の外を見ていた。繊維が微かな音を出す。目元が少しひりついたのは、涙の冷たさで眠りから覚めたからだ。
「おはようございます」
後ろから淑やかに声がした。
「布団でお休みになっても、別にわたしは首を掻っ切ったりしませんよ」
挨拶にも応じず、目交ぜもせずに、顔を見ようともしない。朝一番に出るのは掠れた嫌味である。
「ああ……いいえ、そういうつもりでは。布団で寝ると、有事の際にすぐ動けなくなってしまうので」
朝の彼はよりいっそう青白い顔をしていた。
「それは大変ですね」
「桔梗様と同衾したまま眠るというのも魅力的なお話でしたけれど」
いやに馴れ馴れしくなって、冗談まで言っている葵を、桔梗は無視した。彼女にとってそれは嘲笑であった。
彼女は布団から立ち上がる。
「お召物がまだ乾いていないようですから、それまでは動けません」
「苦痛です」
背中を向けたまま言った。それから文机の上の湯呑に手を伸ばす。
「身体を冷やします。淹れ直してまいります」
葵も立ち上がって、湯呑を2つ、掻っ攫っていった。茶が飲みたかったわけではなく、喉を潤したかった。いくら肌の地合いがぴたりと接しても、もっと内面でこの男とのわずかな溝が埋まらない。
桔梗は窓を開け放った。まだ朝早いというのに、外からぼわと湿度の高い空気が入り込む。
好きだった人が四肢を千切られ惨死するそのときまで吸っていた空気で肺をいっぱいにした。ほんのりと埃臭く土臭いのは雨の匂いだろう。
まだ街は静かな時間だった。恐ろしい夜から暗闇を奪えば、こういう表情があったのだとは到底思えない。この街には魔物が棲んでいる。そしてそれは人狼などではなく、1体だけではなく、人語を解し、人語を話、衣を身に纏い、商いに勤しみもする。
彼女は内心で謝った。手足を捥いだ牛4頭への執着は一晩を越えて冷めたけれど、それらを殉葬してやれないことも、街ひとつ、彼のために消炭にしてやれない。
高さの揃えられた街の向こうから人の咆哮が聞こえた。たとえばここが桔梗にとって、死臭の混じる場所でなかったら、曇天ではあるけれどなかなかに穏やかな雰囲気の、悪くない朝だった。だが壊される。悍ましくつらい夜の再来であった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ナイトプールで熱い夜
狭山雪菜
恋愛
萌香は、27歳のバリバリのキャリアウーマン。大学からの親友美波に誘われて、未成年者不可のナイトプールへと行くと、親友がナンパされていた。ナンパ男と居たもう1人の無口な男は、何故か私の側から離れなくて…?
この作品は、「小説家になろう」にも掲載しております。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる